第32話 こいつ、策士だな
一瞬だけ時が止まったかのようだった。
少しでもアッパーカットの軌道が読めないかとロナウの視線を探ったが、ロナウは俺を見てはいなかった。拳を握ったまま、その視線は俺の後方を捉えていた。
突然ロナウが飛び跳ねて、姿が見え無くなったと思うと、その場所に上から何かが降ってきた。子猫ぐらいの大きさもある紫と緑の毒々しいイモムシだった。
「それ、気を付けて下さい。毒があります!」
「あ、ありがとう。あっ! 逃げて!」
俺を心配してくれる優しい女の子に、非情にも魔獣役の鋭い爪が襲いかかろうとしていた。何処に行ったか見失ったロナウは、森の中に姿を消して大回りしてきたようで、女の子の背後から現れた。
女の子は、持っていた木の棒を振り回しながら逃げようとしていたが、すぐに棒を捕まれて3、4歩進んだ所で肩を掴まれていた。
「捕まえたぞ。そのまま、動くなよ」
「はい」
「名前は?」
「ジャオ=リィテンです」
「よし。奴隷紋は少しのメッセージなら奴隷と主との間だけで伝える事が出来る。今、貴方を捕まえた事は報告済みだ。ここに残っても評価は変わらないので、すみやかに校舎前に移動して、それから――おい! お前!」
お、俺の事か? なんか急に口調が厳しくなったな。
「ボケっとしてて、いいのか? すぐに捕まえるぞ?」
えっ? いいのか逃げても? 勝負中に邪魔が入った感じなんですが、俺はそのまま逃げ始めてもいいの?
いや、なんか空気を読め! って感じだな。口調変わってたし。
本来は試験中だから、問答無用で捕まえなきゃいけないはず。勝負を続けたいから、この場を去れって感じなのかな? ロナウは試験官だからな。他の新入生の前では、ちゃんとしないといけないんだろうな。
まっ。そういう事なら、この場は離れさせてもらうぜ!
「うわぁ。やばいなぁ。にげなきゃ」
よし! 名演技だ! とりあえず、あの女の子から見えなくなるまでは離れないといけないな。
しっかし、今のは危なかったなぁ~。あの女の子が出てこなかったら、絶対に殴られたと思う。ついでに木から毒虫も降ってきたから距離もとれたし、凄くラッキーだったなぁ~。
さすがに、次は無いだろうな。3度目の正直ともいうし、そもそも2度もラッキーが続くなんて、俺には珍しい事だ。
もし、次に狙われたら自力でなんとかしないと……。
なんか、少し明るくなってきたか?
お、おぉう? これはマズイかも。いや、ラッキーなのか?
ちょっと、申し訳なくて、ゆっくり進んできたつもりだったけど、森の端が見えてきてしまった。このまま突き進めば、殴られずにすみそうだが……。
ちょっと、足を止めて考える。コレって行っちゃうべきか?
「うーん。困ったなぁ」
「どうした?」
背後から声がしたので振り向くと、やっぱりロナウだった。少し肩で息をしている感じで、かなり急いで追いかけてきたのが分かる。
「申し訳なくてね」
「はっ。笑えるな。やはり兄さんはそういう人間なんだな。慌てたのが無駄になってしまったぜ! 本当なら気配を消しながら近づきたかったんだがな」
「いいよ。今から、隠れなよ」
「いや、それは無理だな」
ロナウはゆっくりと弧を描くように回り込んで、俺の正面の位置で止まった。ちょうど俺を森の端へと行かさないような立ち位置だ。
「この距離なら、時間をかけると逃げられてしまうからな。あまり気乗りしないが真向から狙わせてもらう。カムロ程では無いが俺も、それなりに殴り合いは出来るからな? 油断しないでくれよ」
なんだと? 殴り合いだと? やっぱり逃げときゃよかった。
でも、やりやすくなったぞ。ロナウは姿や気配を消さずに攻めてくる。それならば、かわしながら逃げるのも出来るだろう。
「どうした? 俺のすぐ後ろはゴールだぜ?」
「ちょっと考えてるんだ。抜き方をな」
「なら、俺からいくぞ!」
ロナウが走って突っ込んできた。2足歩行なのに、かなり低い姿勢だ。
一瞬だけ斜め左に姿勢を向けて逃げる準備をする。ロナウが反応して、左に膨れた所を、すぐに斜め右へと修正して走り出す。
くそっ。すぐに修正してきた。このままでは、正面衝突してしまう。しかたがない、ここは迎え撃つか? あの低い姿勢は、おそらく再度アッパーカット狙いだろう。茂みに拳の出所を隠して軌道を読みづらくするつもりか。
1メートル以内の距離まで詰ってきてロナウが首を上げた。俺は足を止めて右足を後方に開いて、ボクシングのスウェーバックの要領でアッパーカットを避けるすもりだった。が、驚いた! 頭上高くに振り上げられた拳が見えたからだ。
なんて奴だ。低い姿勢を維持したまま、首と肩でフェイントをかけつつ、右腕は別軌道で振り下ろしを狙っていたのだ。
「くっ。当たるかよぉぉおお」
なんとかして振り下ろしの軌道から逃れようと、顎を引いて更に身体を仰け反らす。ロナウの拳が俺の顔面を追尾してくるが、ギリギリ避ける事が出来た。
だが、重心を後ろに下げ過ぎてしまい、尻餅をつく事になった。
「もらったぜ」
ロナウは俺の上に仁王立ちになり、外した右で襟を捕まえ、左腕を構えた。これはマウント取られている状態だ。マズイ!
振り下ろされる左拳を受け止めてられたが、この状況ではいずれ捉えられてしまう。足を使って巴投げのように投げとばす。
「ぐっ。やるな。兄さん」
上手いぐあいに、西側方向に投げる事が出来た。今なら東へ一直線に走って逃げ切れる。なんとかなりそうだ。
すぐに起き上がって、全力疾走する。この距離なら残り体力は気にしない。獣人のトップスピードも早いだろうが、きっと大丈夫だ。
首だけで一瞬、後ろを振り返ると、四足疾走で追いかけてくるのが見えた。しかも、もうすぐ後ろまで追いついてきている。
正面を見ると、あと7、8メートルぐらいで森の外だった。
「いっ――!!」
右脇腹に激痛が走った。ロナウは飛び掛かって腕を伸ばし、右拳を俺の身体にめり込ませていた。かなり痛いが、振り返って拳を返す。実はこの1か月間ノアと痛みに耐える訓練をしてきた。この程度なら反撃出来る。
俺の拳はロナウの腹部に突き刺さったが、それほどのダメージにはなっていないようで、飛び退いて距離をとったものの、すぐに俺の周りを走りだした。
一方で俺は、体力の残りが無いうえに、拳をもらったのが、脇腹だったのもあって、絶望的に動けない。手で殴られた脇腹を抑えて、大きく肩で息をして、立っているのが、やっとなのだが、今の一撃はクリーンヒットには入って無いようだ。
「はぁ。顔面殴らなきゃ終わらないって。はぁ。怒ってんじゃね?」
ロナウは木や茂みに隠れながら、俺の周囲を動きまくっている。右側で音がして草が揺れているのを目で捉えると、左側で同じ事が起きて、すぐに確認するが、今度は背後で音がする。
疲労で頭の回転も遅くなっている。今の状態ではロナウのスピードについていく事は出来ない。背後から攻撃されたら終わりだろう。
周囲を警戒しながら、ゆっくりと移動する。とりあえず一番近くにあった木の側まで移動して、その木を背にする。これで少しは背後を守れる。
獣人、恐ろしい体力だ。まだ、あんなに動けるのか。周囲で草木が揺れる度に振り向き構える。そして何も無く別の箇所で音がして、また構える。
緊張の高まりと緩和を繰り返し、じわじわ精神を削られるようで、長期戦になればなるほど俺の方が不利なのは間違いないのだが、しばらく休まないと動く事が出来ない。
参った。最初で、ちゃんと断ればよかった。
んっ?
ロナウの動きが止まった。突然の静けさに、今まで以上に緊張感が増す。
まさか戦法を変えるとは。周囲を見渡すが、どこに潜んでいるのか分からない。
急に空気が冷たくなった気がした。何か嫌な風が吹いているというか、背筋が凍る感覚というか、殺気というものだろうか? 俺はいつから、そんな物騒なもんを感じ取れるようになったのだろう?
左前方1メートルぐらいの場所から、何かが飛び出してきた。やはり殺気を感じられるようになったらしい。
おそらく走っても逃げ切れない。攻撃を避ける事も出来ないだろう。だから! 相打ち狙いで、俺も顔面に叩き込む。
まさか相打ちは想定してないはず。驚いて体勢を崩せばラッキーだ。カウンターパンチのようにこっちだけ決まれば超ラッキーだ。そして、今日の俺はラッキーが続いている!
タイミングを合わせて踏み込んだが、茂みから飛び出したのは狐のような小動物だった。シルエット的には少し似ているが、サイズが全然違う。殺気に当てられて飛び出しただけ、だったのだろう。
なら、ロナウはどこだ?
踏み込んだ右足の力が逃げていくのを感じて、目を見開いた。そこには大きな1枚の葉が落ちていて、その下はぬかるんでいたのだ。
よくアニメでみるバナナの皮を踏んで滑るごとく、俺は天を仰いだ。
木々の隙間から光が射している。木の枝に小動物がいたり、小鳥が飛んでるのが見える。一番近くの木には拳を構えた猛獣も見える。
「こいつ、策士だな」
ロナウはこれまで下から攻めてきた。四足歩行で忍び寄ったり、低い姿勢で突っ込んできたり、飛び掛かるにしても目線よりも下の位置だった。
そして、最後に木の上から飛び降り攻撃か。まさか、この最後の狙いの為に今までが布石だったんじゃないのか? なんて奴だ。
そういや、殴り合いをするって話だったのに、結局気配を消して木の上に隠れていたんだな。
バナナ滑りのおかげで手も足も伸びきった俺はどうする事も出来ずに、ロナウの拳を顔面で受け止める。ビックリするほどのクリーンヒットを貰い、後頭部から地面に墜落した。
そして、目の前が真っ暗になった。




