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ジレンマ・パラドックス  作者: 北の宮
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最終話

最終話


 やがてバスが来た。

 ラッシュの兼ね合いでほぼ満席だった。

 見渡すと、後方に二人掛けのシートが一つ空いているのが見えた。窓際に女の子が座っている。


「隣いい?」


 聞くと、女の子は顔を上げ、俺を見てこう言った。


「ええよ」


 大阪弁だ。

 直に聞くのは初めてかもしれない。

 テレビで耳にするお笑い芸人の大阪弁とは一味違う印象を受けた。

 「ええよ」の一言がとても迫力ある言葉に聞こえた。

 嘘っぽくないというか、映像を通して見る人間はリアリティがなくて平べったくなりがちだが、場所と時間を共有して直に触れ合える存在からは厚みのある情や言葉を肌で感じ取ることができる。


 人間関係を築くディテールの一つが大阪弁だとしたら、それは第一印象における強い武器になるだろうなと確信した。

 俺は、一目見た時からこの女の子がどうにも気になって仕方がなかった。

 俺を見上げる瞳はつぶらで、垂れ目で、とても可愛らしかった。ふっくらした唇の下にほくろがある。

 歳は同じくらいだろう。黒髪はセミロング、耳元のバレッタが桜の花弁だ。

 桜が好きなんだろうか? 毛編みの白いマフラーとダッフルコートという出で立ちで、それ以外の手荷物は見受けられない……って、観察しすぎか。


 無論、会話なんてない。

 お喋り好きな大阪人は相手構わず話しかけると聞いたことがある。

 ただし、ここは大阪ではない。俺は大阪人ではない。そんな事実不明瞭なコミュニケーションは成立しない。


 女の子はずっと外を眺めている。

 物憂げに頬杖をつき、音もなく嘆息を漏らす。

 その目には過ぎ去る景色など映っていないように思えた。

 俺は走るバスに身を任せて、この子を笑わせるにはどうしたらいいか考えていた。

 笑顔が見たかった。どんな声で笑うのか聞きたかった。


 試しに手品を披露してみる。

 じいじ仕込みの、手から一輪の造花を出す手品だ。

 気付いてくれるまでやり続けた。詰まるところ、俺は十分以上も造花を出し入れしていた。


 バスが赤信号で停車した時……女の子の視線がようやく俺の手元に添えられて、途端に胸が高鳴った。

 俺は調子に乗った挙句、立て続けにコイン十枚とスポンジ製の鳩を六羽出現させた。

 行き場を失った鳩は手からこぼれ落ち、俺と女の子の間で折り重なるやバスの発車に合わせてぷるぷる震えた。


「マジシャンなん?」


 女の子が聞いた。

 俺は趣味だよ、と気さくに答える。

 女の子は鳩を助け起こしながらも、片方の手は頬杖をついたまま、目を退屈そうに細めていた。


「もっと見せて」


 その一言が嬉しくて、俺は一人にやにやしながらハンカチを取り出し、一瞬で黄色に、一瞬で緑色に変えてみせた。


「ピンクがええなあ。ピンクにして」


 この手品はクレヨンも真っ青の全二十色対応となっている。

 俺はピンク色に変えたハンカチを女の子に手渡した。


「あげるよ」


「……おおきに」


 俺は今まで何度もお礼を言われてきたし、言われるようなことをしてきたが、この子の言う「おおきに」はかつて耳にした「ありがとう」とイコールではない気がした。

 「ありがとう」の多くは、言う側も言われる側も気持ちがいいものだ。

 これほどリラックスしてやり取りできる言葉を他に知らない。


 彼女の「おおきに」には儚さがあった。

 別れ際の「今までありがとう」に一脈通じる、感謝と喪失感の入り混じった複雑な響きを含んでいたように思う。

 俺なんかでは決して推し量れない悲しみや苦しみが、彼女にそんな声を出させるのだろう。


「ピンク好きなの?」


 俺は桜のバレッタを一瞥しながら問うた。明るい話題が必要だと思った。


「うち桜が好きやねん」


 彼女は言って、窓の向こうに連なる河川敷の桜並木に目をやった。

 桜は開花前だが、おぼろな桃色が視界を染めて実に鮮やかだ。

 綺麗な横顔だった。

 可憐な桜の風情も相まって、この時ばかりはその寂しげな瞳も輝いて見えた。


「兄ちゃんとよう遊んだ公園におっきい桜の木があってん。うち木登り得意やってんけど、座り心地良い太い枝があってな、そっから桜越しに見る街並みを気に入っとったんや」


「大阪?」


「そや。普通に眺めても小っ汚い街やで? やけどどんな荒んだ景色も桜が咲けばキレイんなるて信じとった……ここにも桜が咲くんやね。立派なもんや」


 自分の生まれ育った街を褒めてもらえるのは嬉しかったし、誇らしかった。

 俺は自慢がてら桜ケ丘の良い部分だけを挙げ連ね、最後に君はここに住んでるのかと尋ねた。


「三年前に越してきてんけど、この通りには滅多に来ぃひん。やからこないに桜が咲くて初めて知ったわ」


 人が滅多に来ない花見スポットがあるんだ、今度一緒に行かないか? とは言い出せず、しかし沈黙嫌いな俺は会話の糸口を見つけ出そうと頭をひねり続けた。


「これからどこ行くの?」


「兄ちゃんに会いにいく。すぐそこや。自分は?」


「じいじの墓参り」


 俺は今日、初めてじいじのお墓へ行く。今までのことを謝るために……そして、じいじの死を受け入れるために。


「手品もじいじに教わったんだ。いつも俺の味方で、楽しいことをいっぱい知ってた。スケベで悪巧みばっかしてたけど、みんながじいじを好いてたよ」


「うちには……」


 彼女は言う。


「味方なんかおらへん」


 お兄さんは? 聞こうとして、やめた。

 彼女の一際寂しそうな横顔に作用して、俺の中の空気を読む力がその一言を押し潰した。


「さっきのハンカチ、貸して」


 俺はピンクのハンカチを受け取り、彼女に手の平を差し出すよう促した。

 彼女は戸惑いながらも、期待の眼差しで手元を見ている。その手にそっとハンカチを落とし、すぐ拾い上げる。

 仕込んでおいた『くいだおれ人形のケータイストラップ』が彼女の手の中へ落ちた。

 彼女は目を見開き、ストラップをまじまじと眺めた。


「それもあげる。修学旅行のお土産。……君の味方だよ」


 その一言が照れくさくて、俺は前のシートに座るおっさんの白髪を数えながら彼女の反応を待った……やがて彼女は言った。


「おおきに!」


 顔からはみ出んばかりの笑みだった。

 そうやって笑う彼女に、俺はただただ目を奪われていた。

 恋を感じた。この笑顔を守らなければいけないと思った。

 じいじが巡り会わせてくれたに違いない……そんな気がして、気付くと俺は笑い返していた。

 

 そして次にはもう……俺たちは闇の中だった。




 痛みのない衝撃で目が覚めた。

 俺は仰向けになりながら、夕陽に染まる満開の桜を見上げていた。

 木々が風に揺れる。川のせせらぎが聞こえる。

 体を起こすと辺り一面、芝を覆う桜のカーペットだった。


 どうやらここは天国……ではなく河川敷らしい。

 遊歩道に美弥が立っている。柵にもたれて川を眺めている。見覚えのある憂いの横顔だった。


 俺たちの他に人影はない。

 ここは臨死世界だろうか? あれだけ崩壊が進んでいたはずなのに、ここは何事もなかったかのように平和だ。

 時間もおかしい。日暮れにはまだ早い。

 どうやら穴の仕業らしいが……唄乃の知識なしであれこれ考えるのは時間の浪費だろう。


 俺はおぼつかなげに立ち上がり、美弥の元へ近づいていった。

 一歩踏み出すたび、体が軽くなるのを感じた。

 風に吹かれてどこかへ飛んでいってしまいそうな気がした。


「夢、見ぃひんかった?」


 俺に気付くと、美弥は川を見据えたまま尋ねた。抑揚のない声だった。

 見たよ。西日に目を細めながら答える。


「……ぜんぶ思い出した。美弥に出会った時のこと」


「そっか……」


 歩かへん? 美弥は言って、口の端でそっと笑った。

 俺たちは横に並んで桜並木の遊歩道を歩き始めた。

 これが現実世界なら甘いシチュエーションだっただろう。

 だが今は……美弥の死を考えないようにするのが精一杯だった。

 もうじきすべてが終わる。

 この世界も、俺の美弥に対する未練も、そして……彼女の命も。

 

 無論、美弥をみすみす死なせるつもりはない。

 重傷を負った美弥の命をこの世界に繋ぎ止めたのは俺だ。

 そして俺もまた、美弥という未練がこの臨死世界に在るため意識を取り戻せないでいる。

 だったらすべきことは一つ……一緒に現実世界へ帰ること。

 なんとしてでもその方法を見つけ出す。


「清太郎は忘れとったみたいやけど、うちはなんとなく覚えててん、バスでのこと」


 暮れなずむオレンジの斜光を浴びて、美弥の横顔は笑ってるようにも見えたし、哀切に染まっても見えた。


「やけどな、死のうとしてた理由だけがどうしても思い出せへんかった。親とか勉強とか、それだけやのうて、もっと別の理由があったはずなんや……ほんで、さっき見た夢で思い出してん。死んだマサ兄のとこ行くつもりやったんや、って」


 それが美弥にとっての〝自由〟……しがらみから抜け出すための最後の手段だった。


「ここはあの世みたいなもんやろ? 他に幽霊が見えるようんなる理由思い当たらんし」


 俺はこの世界のことをかいつまんで説明し、現実世界で死に瀕していることを明かす際は言葉を濁した。

 それは配慮ではなく、ただの逃げだった。

 美弥はこういうところに敏感で、俺の弱さをあっさり見抜いてしまう。


「うち、死ぬん?」


 俺を見る美弥の目は暖かかった。

 同時に、俺の中にある僅かな〝愚直〟へ訴えかけるようでもあった。バカ正直になれ、と。


 何も言えなかった。

 あいにく、嘘をつく残酷さも、真実を告げる残酷さも持ち合わせていない。

 俺はただ、俺を見つめる美弥の瞳に向かって、見せかけだけの優しさを示すことしかできないでいた。

 それが一番残酷だと分かっていたはずなのに。


「清太郎、あんた優しすぎるわ」


 美弥は言って、力なく笑んだ。


「唄乃に同じこと言われたよ……」


 浅はかだった。

 唄乃にも美弥にも、電話の女の子にも、俺は自分なりの意思を押しつけて、それがどういう影響をもたらすかなど考えもしなかった。

 元気な言葉を贈れば元気になると思っていた。

 それが優しさだと勘違いしていた……エゴだった。


 俺は……俺はバカだ。


「清太郎」


 顔を上げると、眼前に『くいだおれ人形のケータイストラップ』があった。

 バスで美弥にあげたストラップ……穴に投げて行方知れずになっていたストラップだ。


「どうして……」


「神様からの『贈り物』や」


 言いながら、美弥はそれを胸に抱いた。


「屋上で、ヨシャ飛び降りたろ思た時、これが空から降ってきてん。神様に『ちょ待ち、飛んだらあかん』言われてる気して、踏み止まったんや。……清太郎やろ、これ届けてくれたの。さっきの夢で確信したわ」


 がむしゃらでいいんだ。そう思えて、少し元気になった。

 ただそうしてるだけで救える何かがある。与えられる勇気がある。

 俺と美弥がそうだったように……世界中の人間がそうであるように。


「帰ろう、美弥」


「……え?」


「一緒に帰ろう。みんなが待ってる、あっち側へ」


「せやけど……うち……」


「さあ……!」


 俺の手は美弥の腕をすり抜けて、虚空を握った。

 桜が舞う。夕陽を浴びて、一つひとつが美麗に輝いた。美弥の体を透かして、俺はその輝きを見ていた。


「死ななあかん」


 声が遠く霞んだ。俺の大好きな笑顔と一緒に。


「体中が痛むんよ。苦しくて、苦しくて……もう限界や」


 いやだ……


「俺がついてる……死なせない!」


 美弥は笑って、涙を拭った。


「アホ……」


 言葉には愛がこもっていた。


「清太郎とならこの先、生きる意味を見つけ出せた気するんよ。もっと早う出会っとったら……もっと早う笑えてたら……何かを変えれたかもしれへん。清太郎はうちにとって……神様なんやから」


 ……違う。


「俺は……誰の神様にもなれない……」


「うちだけの神様でおって」


 涙が溢れて、止まらなかった。止め方が分からない……知ってたら止めただろうか?

 美弥のために流す涙を止めようと思うだろうか?

 体中の水分が枯れるまで涙を流せたら……彼女を忘れることができるだろうか?


「いつか……」


 美弥の透き通った指先が俺の頬を伝う涙の筋をなぞった。


「かわええ嫁さん連れてきて。待っとるよ」


「俺は美弥が……美弥をずっと……」


 指が唇に触れ、俺から言葉を紡ぎ取った。


「しまっとき、別の誰かのために。うちがそれ聞いたら……成仏でけへん」


 一緒には帰れない……黄昏に溶けゆく美弥の笑顔を見つめながら察した。

 涙だけが煌めいていた。

 赤く燃えて、それが別れの合図だと知った。


「最期に……うちのわがまま、聞いてくれへん?」


「……何?」


「目、閉じて」


 闇の中で風を感じた。

 柔らかさと温もりがあった。

 顔に触れ、前髪を撫で、体を通り抜けていく。

 抱きとめようとして、思わず腕を伸ばしてしまった。舞い散る桜の花弁が指先に触れた。


 目を開けると美弥の姿が消えていた。足元に『くいだおれストラップ』が落ちている。

 拾い上げた拍子に涙が一滴こぼれ、それがストラップを濡らすと、俺の瞳は泣くことをやめた。


 桜並木を仰ぐ。

 風がそよぎ、囁く。

 川面が光の帯を揺らしている。


 すぐそばで……美弥が笑った気がした。




 俺はベッドに横たわり、白い天井を見上げていた。

 体が異常に重たかった。真智の泣きっ面が見える。

 俺に覆いかぶさって、声を上げて大泣きしている。

 目が霞む。音が遠い。五感が〝あるべき日常〟を取り戻そうとしている。


「おかえり」


 ベッド脇に唄乃が立っている。

 目に涙を浮かべながら、こっちを覗き込んでいる。俺はその疲弊面に向かって、小さく、何度も頷きかけた。


「ただいま」


 言葉は声にならず、喉の奥でくぐもった。

 隣のベッドで美弥が眠っている。安らかな寝顔だ。

 心電図モニターは微弱な波形を指している。じきに止まるだろう……その時、美弥はお兄さんに会えるだろうか?


 何か握り締めていることに気付いて、布団の中から腕を引っ張り出した。

 『くいだおれストラップ』が俺を見て笑っていた。




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