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ジレンマ・パラドックス  作者: 北の宮
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五話

五話


 もはや夢か現実か分からなかった。

 寝返りを打ちながら続きを思い出そうとした。そうできる自信があった。

 そのうち、あれは夢ではなく、睡眠という回路を経て復元されつつある記憶の断片に違いないと確信した。

 記憶は決して失われない、脳のどこにしまったか忘れているだけなんだとテレビで観たことがある。


 だが、俺が美弥との〝出会い〟を思い出せないのは単に物覚えが悪いからじゃない。

 記憶自体が壊れてるせいだ。

 修復には睡眠が必要だった。

 リビングで誰かの死を悼んだ夏、足を怪我した秋、美弥と出会った冬の終わり。

 順を追うことで核心に迫り、現実を追い抜こうとしている。


 唄乃に会う必要があると思った。唄乃に会い、夢のことを話さなければならない、と。

 詰まるところ、続きを思い出すことはできなかった。


 俺はリビングへ下り、晩飯の残りをたいらげ、制服に着換えてからやっと、家のどこにも花子がいないことに気付いた。

 真智に聞いても今朝は見てないと言う。


「急に帰った美弥と何か関係あるんじゃない?」


 真智は言って、あくびをした。ひどく眠そうだった。


「寝てないのか?」


「寝たけど、眠い」


 あくびの続きに励みながら和室へ入っていく真智。

 ふすまがぴしゃりと閉まり、俺は世界の端っこに追いやられた気分になる。


 このままじゃいけない、そう感じた。

 俺は気付かない内、学校へ行って唄乃に会うにはまずふすまを開けるしかない、という錯覚に取り憑かれていた。

 開けろと囁く自分と、開けるなと囁く自分との葛藤が続いた。

 長い間、俺はふすまを前に立っていた。何時間も過ぎたような気がした。


「清太郎」


 意識の外側から声が聞こえて、俺は反射的に振り向いた。じいじが立っていた。


「久しぶりに『じいじ体操』やらんか?」




 じいじの掛け声に合わせて体を動かす『じいじ体操』に基本動作はない。

 好きにステップを踏み、好きに飛び跳ね、好きに腰を振って楽しめばそれが『じいじ体操』だ。

 ステージは前庭になる。

 垣根で人目が避けられるため、勢い余って裸になるようなことがあっても安心だ。

 俺はじいじと違って服を脱ぎだすことはしなかったが、ガキの頃はよく頭から垣根にダイブして血を流したものだった。

 『じいじ体操』には人を元気にする力がある。


 俺はじいじの横に立ち、イチ、ニの掛け声と共に屈伸する。

 体が温まったところでゴリラの真似をし、唄乃のチャリに跨りながら童謡『チューリップ』をハミングする。

 逆立ちに失敗して背中からひっくり返ったところで真智が現れる。

 ジャブとアッパーを繰り出すじいじの背後でダンベル代わりの学校カバンを上げ下げしている。

 なるほど。

 俺はじいじを軽々と肩車し、同時にアキレス腱を伸ばす。お向かいさんへ手旗信号を送るじいじ。

 ゴミ出しに出てきたお袋が悲鳴を上げたところで『じいじ体操』は終焉を迎えた。

 こっぴどく叱られたが、俺はずっと笑顔だった。


「じゃ行ってくるぞ、じいじ」


「清太郎」


 振り向くと、じいじが顔中しわくちゃにした笑顔で俺を見ていた。


「気張ってこい」


「……任せろ」


 じいじは満足そうに『じいじ体操第二』を開始した。




「プロジェクト・メリーは俺に何を隠してる?」


 真智にずっと聞きたかったことを俺はようやく尋ねた。

 真智は眠そうな目でまっすぐ前を見たまま歩き続ける。


「唄乃も花子も、俺に何か隠してる様子だった。三日前から……お前の声で叩き起こされたあの朝から変なことばかり起きてる。お前たちは俺の知らない事実に気付いてるはずだ」


「悪いけど」


 真智の口調はいかにも面倒くさい奴をあしらう時のそれだった。


「知らない。本当に。何一つ」


「プロジェクトの方で何か動きはなかったか? 唄乃の奴、昨日学校に来なかったんだ」


「いつも通りだよ」


 唄乃の〝いつも〟は当てにならん。


「……兄貴」


 別れ際、真智が切ない表情で俺を呼び止めた。


「気を付けてね」


「おう……?」


「早く帰ってきて」


 言い残し、走って行ってしまった。勉強でも教えてほしいんだろうか。おかしな奴だ。




 唄乃は今日、学校に来るだろうか?

 考えながら土手沿いの静かな幹線道路を走る。

 しばらくすると異変に気付いた。道路に大きな亀裂が走っている。

 道路だけじゃない。

 建物の外壁は崩れ、窓が割れている。

 亀裂は何かに誘われるように右へ折れ、雑居ビルの谷間を這っていく。

 目で追った先に制服姿の女の子が立っていた。間違いない。橋の上から河川敷を見下ろしていたあの子だ。

 恐る恐る近づいてみる。

 周囲には俺たちしかいない。車が一台も走らないし、静まり返っている。

 段々薄暗くなってきた。この状況はアーケードと同じ……空間が壊れている。


「それ以上、近寄らない方がいい」


 女の子は廃ビルを見上げながら言った。

 ハスキーがかった威圧的な声だった。俺はビビッて足を止め、チャリにしがみついたまま女の子を見た。

 同い年か、年下だろう。

 背が高く、髪が短いせいか、顔がやたらと小さく見える。どうやらハーフの子らしい。

 アゴのシャープなラインが純粋な日本人のそれとは違う。

 端正な横顔で、鼻が少し高い。


「ここで何してる?」


 俺は大声で虚勢を張った。

 こいつがこの空間を壊した張本人……タナトスではないかという懸念があった。女の子は答えない。


「橋で何度か見かけた。君は誰だ?」


「……何も知らないんだっけ?」


 小馬鹿にするような言い草と含み笑いだった。

 初めて目が合う。仄明るいブラウンのショートボブが揺れ、広いおでこが俺に挨拶する。


「説明しろ。これをやったのは君か? 君は死神か?」


 笑いだした。甲高い声はビルに反響し、路地へ吸い込まれて消えた。


「あたしは時雨しぐれカンナ、人間だよ」


「俺の知ってる人間は宙に浮いたりしない」


 時雨は地上から一メートルほどの高さを浮遊していた。

 見えない足場が彼女を支えているようだった。


「屋上では焦ったよ。あんた、あたしのこと見たでしょ? 危うくバレるところだった」


 そういえば……あの時、俺はフェンスの向こうに人影を見ている。


「あたしは橋に立つ物憂げな少女役だからね。勝手にうろついちゃいけなかった」


「今俺の前でホバリングしてることも御法度なんじゃねえの?」


「もう関係ない。見ての通り、世界が壊れ始めてる」


 とんでもないこと言い出した。


「どういう意味だ? これは悪鬼の仕業だろ?」


「唄乃に会った方がいい」


「何?」


「あたしの口からは言えない……じゃあね、八重清太郎」


 時雨の姿がフェードアウトし、やがて視界から消えた。




 とにかくペダルを踏み込んだ。

 街から人がいなくなっている。

 寝静まった未明の静けさに似ているが、俺の精神はそういう神秘性とは無縁の境地にあった。

 ただただ不安で、怖かった。車も走らず、誰も歩かず、鳥もさえずらない。

 そして、美弥がいつもの待ち合わせ場所に現れることもない。


 無我夢中で漕ぎまくった。

 誰もいないはずなのに誰かから追いかけられている恐怖を覚えた。

 世界から大切な何かが切り取られていく気配で体が震えた。

 俺は熱い呼気を吐き続ける傍ら、これは幻覚で、夢の続きで、俺をハメようとする桜ケ丘市民の壮大なドッキリなんだと自分に言い聞かせた。

 そうすることで平静を保とうとした。


 体力の限界が近づいて、頭蓋の内側に思考を鈍らせる靄がかかってきた。

 カラッポの精神がカラッポの世界を創るのだと思った。

 ここにただ一人残されて、最後に見たのが宙を舞う女のスカした笑みだったんだなと振り返る時、俺は一体何を後悔するだろう。

 美弥に会えなかったこと? 美弥を救えなかったこと? 美弥に気持ちを伝えられなかったこと?


 学校へ辿り着いた。俺は車の見当たらない駐車場を突っ切り、チャリから降りるや勢いも殺さず玄関を走り抜け、土足のまま教室へ向かった。

 誰ともすれ違わなかった。ドアを開けると、高屋敷唄乃が窓を背にこっちを見ていた。

 安堵で泣きそうになった。

 その憎たらしい顔に満遍なくキスをお見舞いしてやりたかった。


「おはよう、八重くん」


 俺は壁際の席に崩れ落ち、強張った脚を放り投げ、天井を仰いだ。


「何がどうなってる?」


 息を整えながら問う。


「説明しろ。もう隠し事はたくさんだ」


「分かってる」


 唄乃の声色が変わった。深刻な表情でこっちへ近づいてくる。


「まずは……この世界について話しましょうか」


 言いながら隣の席に座る。俺たちは向かい合い、互いの目を覗き込んだ。


「ここは臨死世界、すなわち魂が訪れるあの世とこの世の狭間にある世界」


 美弥が聞いたらツッコミでこいつの頭を叩き割るに違いない。


「もっと、分かりやすく、言ってくれ」


 俺は歯切れ良く要求する。


「サルがつい日本語で〝なるほど〟と呟いちまうくらい簡潔にだぞ」


「八重くんは生死をさまよってる」


「俺の息がこんなに上がってるのは、この世界から俺とお前以外の人間が消えちまったからだ。別に死にかけてるわけじゃない」


「こっちではね。向こうではチューブに繋がれて横たわってる。意識不明のまま丸四日が経った」


 こいつ……何言ってる……?


「向こうって何だよ……」


「現実世界よ。言ったでしょ、こっちは臨死世界、死にかけの人間が訪れる場所」


「お前……めちゃくちゃだ。だって……ありえねえだろ……そんな話。俺は今こうして元気に生きてる。喋れるし、動けるし……五感だって冴えてる」


「魂に記憶された情報を出し入れしてるだけよ。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、痛覚、その他いろいろな記憶が今の八重くんを形成する細胞の一つひとつに取って代わってる」


「分かった分かった分かった。百歩譲ってここが臨死世界だとして、俺は何で死にかけてる?」


「バス事故よ」


「…………」


「現実世界の四日前、三月十七日、あなたの乗っていたバスに居眠り運転のトラックが衝突した」


「それってこの前の……」


「ええ。私は事故直後、プロジェクト・メリー経由で真智から連絡を受けた。瀕死の兄を救ってほしい、と。私はあなたを現実世界へ引き戻すためにここへ来た。私がバスを止めてなければあなたは今度こそ死んでたでしょうね」


「どういう意味だ?」


「この臨死世界には現実世界とリンクする言わば〝繋ぎ目〟が存在する。もちろん、抽象的なものだけど。例えば学校の屋上。風が冷たかったでしょ? あれは現実世界で吹いていた三月の風が〝繋ぎ目〟を介して入り込んできたせいよ。こっちは四月中旬だから、当然寒く感じるわよね」


「それと俺が死んでたかもしれないことと、どう関係ある?」


「あのバスそのものが〝繋ぎ目〟として存在していた。現実世界とリンクするっていうことはつまり、肉体を共有するってことなの。風やバスを共有するのも同じこと」


「つまり、〝繋ぎ目〟におけるダメージは直に肉体を傷つけることになるから、現実世界で死に直結しやすくなるってわけ。まあもともと死にかけてここにいるわけだし、当然と言えば当然よね」


 さらっと言うな。


「じゃあ、お前が事故を予見できたのはタナトスと無関係なんだな?」


「ええ。タナトスなんて初めからいないし、降霊儀式とか蛇とか旗とかあの話もぜんぶ嘘。ここが現実世界だと思わせるために仕方なく語った作り話よ」


「思わせるって、何のために?」


「この世界を守るために」


 声が大きくなった。


「ここは臨死世界だけど、馴染みのある光景ばかりでしょ? あなたの家だってあるし、河川敷だってあるし、学校だってある。なぜかというと、私の見てる夢をオープンにすることで八重くんの記憶と臨死世界を繋げたからなの。〝繋ぎ目〟はその時に生じたほころびみたいなものね」


「夢をオープンにして記憶と世界を繋げる……言ってる意味が全然分からんぞ」


「現実世界が嫌いな私にとって、夢の中は最高の遊び場だった。幽体離脱とか明晰夢みたいなもので、夢を見ながら意識を保つことができた。空だって飛べるし、食べることだって、街を創ることだって不可能じゃない。イメージが及ぶものなら何でも生み出すことができた」


「この臨死世界はね、私がそうやって築いてきた夢の世界と、八重くんの記憶によって創られた壮大なジオラマなのよ」


「俺の家族が出てきたのも記憶が反映されたからなのか?」


「うん」


「それと『この世界を守る』ことと何の関係がある?」


「早い段階でここが臨死世界だとバレるのはまずかった。一部はあなたの記憶によって創られた世界でもあるし、あなたがこの世界の真相に気付けばもちろん動揺、錯乱する。そうなると世界の均衡が崩れてすべてが瓦解してしまう。八重くんが思ってる以上に脆いのよ、この世界は」


「……こんな喋っちまって大丈夫なのか?」


「平気よ。手始めに幽霊が見えるようになって、花子ちゃんという思念体と会話して、物を食べることで魂が少しずつ慣れていった」


「まさか、幽霊や思念体が見えるようになったのはここが臨死世界だからか?」


「八重くんの精神はこの三日間、ずっとジェットコースターに乗り続けてる状態に等しかったのよ。霊障に触れやすくなったのはそのせいだった。念のため、幽霊を見やすくするために私の霊力を注ぎ込んでおいたよ。握手した時にね」


 ……聞けば聞くほど辻褄が合ってくる。


「なあ、お前が今ここにいるのは夢を見てるからだろ? 現実世界では眠ってるってことか?」


「まあね。だから不都合なことが多かった。八重くんをバスから助け損ねるところだったし、常駐できない分、花子ちゃんにあなたを見張らせる必要があった。夢の中で動き回るにもスタミナが必要で、疲労が溜まっていく一方だった。穴で過ごした四十三時間が大きく響いたのも確かね。昨日はとうとうバテちゃって、夢をオープンにできなかった」


「姿を見せなかったのはそのせいか」


「色々と工夫はしてたんだけどね。例えばこの教室、クラスメートはたった四人しかいなかった。私たちと美弥、そして藤原くん」


「いやいや、大勢いたから」


 あれ……いたよな?


「それはそう錯覚させてただけ。クラスメートなんかいちいち集めてらんないから、私がわざと〝繋ぎ目〟を施して、現実世界で実際に活動する御魂をうまく利用してたのよ」


「時間もね、特定の間だけ向こうとリンクさせて、あとはずっと閉じた状態だった。疲れるし、私はより長い時間この世界にいることができる。だから八重くんには授業の記憶がない。担任が誰かも分かってない」


 言われてみれば……俺は授業を受けた覚えがない。先生どころか、他のクラスメートがどんな奴らかも知らない。


「この臨死世界もね、実はそんなに広くないの。四人で行ったカラオケが限界ラインってところね。それ以上は見せかけの張りぼてでしかない。でもまあ、八重くんを騙すための即席ジオラマにしてはなかなかうまくできてるでしょ?」


「ああ……大したもんだ」


 いや、マジで。


「パンをガツ食いしてたのはエネルギー補給のつもりか?」


「ええ。実際にお腹が膨れるわけじゃないけど……要は暗示みたいなものよ」


「臨死世界と現実世界をリンクさせるなんて簡単にできることなのか?」


「コツがいるよ。膜の薄い部分とか、ここは〝繋ぎ目〟にできそうだな、って所は近づけば分かる。だからこの教室を選んだんだし」


「車や通行人はどうやったんだ?」


「思念体だよ。私が創ったんじゃないけど。さすがにそこまでタフじゃない」


「……時雨カンナか?」


 唄乃の眉間にしわが寄った。


「どうして知ってるの?」


「会ったんだ、ここに来る途中。空間が壊されてて、そこで出くわした。空飛んでたよ」


「そう……あんまり飛ぶなって言ってるんだけどね、屋上では八重くんに見られてるし。カンナも霊力を持て余してるクチだから仕方ないけど、さすがに橋の見張り役ってのは可哀想だったわね」


「カンナって何者なんだ?」


「プロジェクト・メリーのメンバーだよ。変わった子でね、ネットでメンバーを募集してるの知ってわざわざ会いに来たの、夢の中に。『あたしもメンバーに入れてくれ』って頭下げられちゃった。鬱陶しいからさっさと承諾して追い払ったけど」


「人の夢に入り込めるのか?」


「夢と言っても霊界だからね。共有はできるけど、そこでコンタクトを取ろうなんて考える人はカンナくらいよ」


「そういえばあいつ、『世界が壊れ始めてる』とか言ってたがどういうことなんだ? 俺たち以外の人間や車やその他もろもろが消えちまったことと関係してるのか?」


「昨日、私の不在を狙って悪鬼が動き出した。私が夢をオープンにできかったためカンナも臨死世界に入り込めず、対応が遅れてしまった。霊魂は逃げ出したけど思念体は……たぶん喰われたんだと思う。全部じゃないだろうけど」


 思念体を……喰った?


「ちょっと待て……タナトスの話は嘘なんだろ? じゃあアーケードを壊して思念体を喰った悪鬼って何者だ?」


 唄乃は肩をすくめた。


「夢喰い、かしらね」


 ゆめくい……?


「バクみたいなもんか?」


「分からない。夢を壊してるから勝手にそう呼んでるだけ」


 今朝家族が無事だったのは俺の生み出した記憶だったからか……。


「そいつは今どこにいるんだ?」


「さあ?」


「さあ、って……どうすんだよ」


「私たちは今すべきことをやる」


 唄乃は立ち上がり、こう言った。


「帰るわよ、あなたの家に」




 訳が分からないままチャリに跨る。

 唄乃がキャリアに乗ったのを確認すると、俺は再びペダルを回した。

 不思議な感覚だった。

 今この体は健康そのものなのに、世界の裏側で俺はチューブに繋がれている。

 そして、それを強くイメージすることができるのは、紛れもなく、毎晩見続けたあの〝夢〟のせいだった。


「夢を見たんだ」


 俺は無人の世界をひた走りながら言う。


「毎晩続いた。一日目は誰かの葬儀のあと、リビングでテレビを観てる夢。二日目は陸上大会で怪我をした夢。昨夜は美弥とバスで出会う夢を見た」


「現在に近づいてるんでしょ?」


「ああ……よく分かったな」


「次は事故に遭う夢かしらね」


「…………」


「前に、夢を見てる人間はみんなあの世に行ってるんだって言ったでしょ? 八重くんはその逆で、現実世界の過去を巡ることで記憶を呼び起こそうとしてるんじゃないかしら」


「どうして記憶は損なわれたんだ? 今も夢で見た内容しか思い出せない」


「損なわれたわけじゃない。都合のいいように書き換えられたのよ。八重くんの描く理想を具現化するために。だってここは臨死世界であり、夢の界隈でもあるんだもの。そう考えた方が腑に落ちるでしょ?」


 確かにそうだが、俺には美弥との『出会い』を書き換える理由がない。

 屋上では初めて会った気がしなかった。

 それだけ思いが強かったはずなのに……俺はどうしてバスでの出来事を忘れてしまったんだろう?




 家にはじいじしかいなかった。じいじはリビングでオセロをたしなんでいた。


「どうした、こんな早くに?」


 じいじの見開かれた眼が俺と唄乃を交互に眺めた。


「ちょっとね……お袋は?」


「さあなあ、しばらく見てねえぞ」


「出かけたのかな? 車はあったけど」


「消えたのよ」


 唄乃が突然言い放った。


「八重くんが真実を知ったことで均衡が崩れたみたいね。何も影響はないと思ったんだけど……この程度で済んで良かったわね」


「みんな消えちまったってことか? でも……じいじはそこにいるじゃねえか」


「あれは思念体よ」


 思わぬ一言で面食らった。


「……冗談だろ?」


「あなたが創り出した」


「だってお前……さっき言ったじゃねえか、この世界は俺の記憶でもあるって。何でじいじだけ……」


 じいじが俺を見ている。憂いの表情だった。

 どうしてそんな顔で俺を見るのか……分からなかった。


「その答えはここにある」


 唄乃は言いながら、ふすまの前に立った。俺は思わず後ずさりした。


「逃げないで」


 ふすまを睨んだまま唄乃は言う。俺は完全に弱腰だった。


「何する気だ?」


「開けるのよ。真相を知るために」


「んなもん、必要ない」


「ある」


「ねえよ……」


「あるんだ! 来い! 清太郎!」


 根負けした。ふすまの向こうより唄乃の方が怖かった。

 俺は唄乃の横に並ぶ形でふすまの前に立った。

 動悸が激しい。魂だけになっても鼓動は早まるんだなとかどうでもいいことを考えていた。

 そうすることで気を紛らわそうとした。


「開けて」


 唄乃が柔和に促す。俺はもう退かなかった。

 ふすまを開けると目の前に和室が広がった。

 線香の匂いがする。奥に仏壇がある。遺影が二つ並んでいる。

 ばあばと、そして……じいじの遺影だった。


 リビングからじいじの姿が消えていた。

 やりかけのオセロ盤が哀愁をまとったまま取り残され、じいじの次の一手を待っている。


「真智から聞いた話と食い違ってたからおかしいと思ったのよ。八重くん、アーケードで手品を見せてくれた時にこう言ったよね。『じいじは最近、手品よりオセロに夢中』だって。あたかもおじいさんが生きてるような口ぶりだった。彼は去年の夏に亡くなってる。真智の話だと、あなたは一度もお線香をあげなかったみたいだけどね」


「よく……覚えてない」


 その細く情けない声が体のどこから出てくるのか見当もつかなかった。


「真智は毎日毎日、線香をあげていた。じいじが死んでるのを知ってて、ここで、あいつはいつも通り一緒に飯を食ったりオセロをやったりしてた……」


「それはね、この和室が〝繋ぎ目〟だったからよ。現実世界のあなたはおじいさんの死を受け入れることができなかった。だから仏壇のある和室を避け続けたし、それはこの臨死世界においても変わらなかった。真智はあなたとは真逆で、現実世界でも線香をあげることを日課にしてた。この和室にいる時だけ、おじいさんの真実を思い出し、死に触れることができた」


「この和室がたまたま〝繋ぎ目〟になったっていうのか?」


「強い想念がエネルギーとなって空間を曲げるのよ。万事は歪曲し、世界が重なる」


 エネルギー……便利な言葉だな。未知の力を表現するのにピッタリだ。


「じいじはもういない……お前はあの仏壇を俺に見せて、一体何がしたかったんだ?」


 言葉が乱暴になっていく。悲しみよりも苛立ちの方が大きかった。じいじを二度亡くしたからだろうか。

 それとも俺はまだ、じいじの死を受け入れていないんだろうか。


「現実世界の八重くんは意識を取り戻せる状態にある」


 唄乃は言った。


「にも関わらず目を覚まさないのは、この世界に未練があるからなのよ。その一つがおじいさんの死を受け入れることだった。普通じゃこんなことはありえないんだけどね……私の創った夢をベースにしたことでそれが起きてしまっている」


「未練を断ち切れば意識を取り戻すって確証はあるのか?」


「ない。でも、私がここにいるのは八重くんを助けるためよ。このまま臨死世界にい続けたら、八重くん、あなた本当に死ぬわよ」


「んなこと言われたって……どうしたらいいか分かんねえんだよ。目を覚ませ意識よ戻れって、手合わせて祈り続けてりゃいいのか?」


「未練は他にもある」


「他って?」


「江崎美弥よ」


 美弥……なぜここで彼女の名が出る?


「美弥も俺の記憶が生み出した登場人物の一人なんだろ?」


「違う……」


 俯く唄乃。

 続きを聞きたくなかった。全身を巡るあらゆる神経がそれを拒否していた。


「美弥はね……あなたと同じ、バス事故の被害者なのよ」


「…………」


 あの夢……あの後俺たちは……事故に遭ったんだ……。


「美弥は今どうしてる……現実世界の美弥……」


「……あまり良くない」


「美弥……死ぬのか?」


 唄乃は俺を見ようとせず、しかし微かに頷いた。


「今生きてるのが不思議なくらい。あの子は窓際にいたから……バスが横転した際に投げ出されて……損傷が激しかった」


 立ってる感覚がなくなり、俺は意識だけの球体となった。

 ぼんやり浮かんで、唄乃の顔をただ眺めている。

 美弥が死ぬ……もう二度と会えなくなる。あの笑顔を、もう二度と……。


「お前は……」


 自分の声が遥か彼方から聞こえてくるようだった。


「お前は、何でこの世界へ俺たちを連れてきた? 助けられる自信があったんじゃないのか?」


「私の本意じゃない。一命を取り留めるためのあるきっかけが、あなたたちの魂を臨死世界に繋ぎ止めた」


「きっかけって?」


「真智があなたを呼んだ」


「……何?」


「あの子の想いが声に乗って八重くんの御魂に届いたのよ。死に行くあなたの耳元であの子はこう叫び続けた。『兄貴!』と」


 そうか……!


「三日前の朝、俺は真智の叫び声で目が覚めた……真智が……真智が俺を救ってくれたのか」


「ずっと八重くんのそばにいたんだよ。病院に搬送されてからあなたを呼び続けた。あの子がいなかったら八重くんは……この世界で目覚めなかったでしょうね」


「美弥は? 美弥のきっかけは?」


「あなたよ」


 ……俺?


「バスで一緒の席に座ってたはず。詳しくは分からないけど、あなたが美弥に未練めいたものを植え付けたのかもね。それがきっかけで美弥の魂が臨死世界に引っ掛かった」


 ダメだ……思い出せない。


「何で俺と美弥が一緒の席だと分かった?」


「バスへ乗り込んであなたを助け出した時に見えたのよ。覚えてる? バスの空席。満員の車内で誰も座ろうとしなかった空席」


「確かに……あった」


「八重くんと美弥が座ってたのよ。バスは事故当時の〝繋ぎ目〟だから、臨死世界に存在するあなた方と相殺して姿が見えなくなっていた」


「俺の起こした何かしらのアクションで美弥を臨死世界に留まらせた……その時〝死にたくない〟って思いが根差したんだとしたら、美弥はバスに乗り込むまでこの世に未練がなかった……つまり死ぬつもりだったってことにならないか?」


「ええ。だから美弥の行き先は……たぶん、死に場所だったんだと思う」


「でも矛盾してる。この世界に踏み止まったはずの美弥がなぜ屋上にいたんだ?」


「もしかしたら、あなたが美弥を忘れてしまったことと関係してるのかもね」


「どういうことだ?」


「美弥が書き換えたのよ、自分の記憶を」


 意味が分からなかった。


「……俺と出会った事実を忘れるために? 美弥がそれを選んだってのか?」


「あなたは優しすぎた……バスの中で、生きる希望を見出してしまった。けれど、美弥はどうしても死にたかった。死ぬ必要があった。それには八重くんという存在が弊害だった」


「美弥が死にたかったのは……お兄さんに会うため……?」


 唄乃が頷く。


「花子ちゃんが調べてくれたみたいね。お兄さんは三年前に亡くなってる。今の美弥と同じ歳で。引っ越しもそれが原因だと思う。死というプロセスを踏んでお兄さんと再会することが、美弥にとっての本望だったんじゃないかしら?」


「でも、美弥はお兄さんが『行方不明』だって……死んだ事実に気付いてないみたいだった」


「それも書き換えられた記憶の一部ね。『行方不明』という半端な筋書きになったのは、八重くんと違ってお兄さんの死を受け入れていた反面、もう一度会いたいという思いが強すぎたせいよ。死をもってお兄さんを探し出すつもりだったんなら当然の結果かもしれない……事実、美弥はここが臨死世界だと早くから気付いていた」


「……どうして?」


「自殺をほのめかしたり、川の向こう側に何があるのか知りたがっていた。死を強く覚悟していたあの子の目には見えていたんだと思う。張りぼてのあっち側……つまりあの世が」


「川が境界線になってたってことか?」


「いわゆる『三途の川』ね。見張り役として橋にカンナを立たせ、美弥がそれを渡ろうとする時は、手段を選ばず阻止する手はずになっていた」


「昨日は誰もいなかったぞ」


「さっき言った通り、私がグロッキー状態で夢をオープンにできなかったせいよ。いくらカンナでも、夢が閉じた状態では入ってこれない」


「俺と美弥を自転車で登下校させたのは、川を渡りかねない美弥をこっち側に繋ぎ止めるため……?」


「ええ。八重くんには川を越える理由がなかったけど、花子ちゃんを監視役として送り込む必要があった。あなたに和室へのふすまを開けさせないためにね。世界の均衡を保つには八重くんの中でおじいさんが健在でなければならなかった」


 花子が和室を覗き込もうとする俺を叱咤したのはそのせいか。


「それだけ用意周到だったのに、美弥が屋上にいたのはなぜなんだ? 神様からの『贈り物』がなかったら……美弥は飛び降りていたかもしれない」


「私がしくじって、夢に入り込むタイミングが遅れたからよ。そのせいで八重くんはバスに乗っちゃうし、危うく美弥を死なせるところだった。アーケードに閉じ込められた時は本当に焦った……あのタイミングで美弥を監視できるのは私だけだったから、どうしても遅刻するわけにはいかなかった。結局HRには間に合ったけど、それでも美弥を止めることができなかった……あの子の死に対する執念を舐めていた」


「プロジェクト・メリーの本当の目的は、俺と美弥を救うことにあったのか?」


「当面はね。動けるメンバーは限られていたけど、カンナくらいなら夢を出入りさせることができた。真智には現実世界で頑張ってもらってる。八重くんも少しは感じてたんじゃない? 真智の想い」


 確かに……真智の様子はおかしかった。

 眠そうだったり、不安げな声色を投げかけたり……それに、別れ際の「早く帰ってきて」って……そういう意味だったのか。


「美弥は今どこにいる?」


「自宅待機。花子ちゃんを付き添わせてる」


「……行こう」




 悲しみがペダルを踏み込む力を奪っていった。

 『美弥はどうしても死にたかった』……唄乃の言葉が反芻され、俺を弱気にさせていく。

 もし美弥を説得できたとしても……それが美弥の命を救うことになったとしても……現実世界で危篤の彼女に、俺は何をしてやれるだろう? どんな言葉をかけてやれるだろう?


 バランスを失って、転びそうになった。

 道路に亀裂が走っていた。

 植物は枯れ、家々は傾き、空が灰色に濁る。空だけじゃない。

 家並みから色彩と水分が抜き取られ、風化したモノクロの廃墟と化していく。

 空気が淀んでいる。風がやんだ。


「かんばしくないわね……急いだほうがいい」


 唄乃にせっつかれ、俺は亀裂を避けながら走り続けた。

 亀裂は俺たちを美弥の元へ導くナビだった。

 これが夢喰いの仕業だとしたら……美弥と花子が無事とは思えない。


 亀裂は江崎邸まで続いていた。

 厳かな邸宅は黒い霧に包まれている。チャリを前庭に停め、俺たちはゆっくりと前進していく。

 他の家とは明らかに違う……ここには得体の知れない邪悪な臭気が満ちている。


「八重くん」


 俺を呼ぶ唄乃の表情は固く、声には微細な震えがあった。こいつのこんな姿は初めて見る。


「私が何とかするから。身の危険を感じたら逃げて。あなただけでも」


 頷きながら、身も心もすくみ切った自分にうんざりする。

 仮の肉体が記憶という鎧をまとったところで、俺が無力であることに変わりはない。

 ドアノブに手をかける唄乃を見ながら、この恐怖はどこからやって来るのだろうかと考えていた。

 剥き出しの魂による拒絶反応か、あるいは死にかけの自分が余力を駆使して警告のシグナルを送りこんでいるのかもしれない。


 薄暗い玄関へ踏み込む。どこにも喰われた痕跡はないが、妙に肌寒かった。

 そしてこの悪臭……アーケードと同じだ。


 目を凝らすと闇の向こうにリビングが見えた。

 高い天井から切れかけの洒落た照明器具がぶら下がり、その広々とした一角をまばらに照らし出している。

 革張りのソファに二つの人影がある。

 部屋の中央に鎮座する大きな座卓を挟んで向かい合っている。


「清太郎!」

 

 一方は美弥だ。

 俺たちに気付き、声を上げるも、それ以上は成す術がないようだった。

 さながら凶器を突きつけられて身動きが取れなくなった人質だ。

 凶器は視線だった。正面に座る何者かが美弥を眼光で串刺しにしている。


「高屋敷唄乃」


 男の声が言った。


「待ちくたびれたよ」


 無機質な顔が明滅した。

 人体模型が俺たちを見つめていた。


「あんたが……?」


 思わず声が漏れた。

 マックスが夢喰い……アーケードを破壊し、街を闇に包み、思念体を喰い潰した悪鬼の正体。


「どういうこと?」


 唄乃の声は小さかった。


「あなたが夢喰いのはずがない」


「なぜ?」


「においよ。このにおい。近づけば分かったはず。あなたには何も……感じなかった」


「当然だ」


 冷笑が闇に映えた。


「私には心臓が二つあったのだから」


 呑み込めなかった。……が、唄乃は違った。顔をしかめている。


「喰ったのね、心臓」


「魂とも言えるね。心臓とは記号であり、本質ではない」


 マックスの心臓がなくなったのはこいつが喰ったからか……?


「マックスを演じてたってこと?」


 唄乃が臆さず問う。夢喰いは優雅にかぶりを振った。


「私はマックス本人だ。魂が彼に関するすべての情報を与えてくれた。私は記憶という外殻をまとって君たちを欺いていた。外殻はにおいを消しただろう。好都合だった」


「花子ちゃんはどこ? まさか……」


「安心したまえ。あの子は無事だ。あんまりうるさいから喰ってやろうかと思ったがね。このタイミングで君を怒らせると非常にやりづらい。トイレに閉じ込めておいたよ。彼女にお似合いだろ?」


「……目的は何?」


 唄乃が尋ねる。途端、低い哄笑が闇をつんざき、骨の芯を伝った。


「君が……それを聞くのは……あまりに滑稽ではないか」


 マックスは笑い続け、息つく合間に言葉をねじ込んだ。


「勘付いていたはずだ。夢喰いとは自分の生み出した恐怖心なのだ、と。私は私であり、マックスであり、高屋敷唄乃を形作るパーツの一つなのだよ。君たちはそれを思念体と呼ぶのだったかな?」


「思念体にそんな力は宿らない。夢を喰うなんてことできるはずがない」


「親が君なら話は別だ。大した霊力なのだろう? 君が生み出したものは思念を越えた恐怖という名の怪物だった。私に目的などない。ただ然るべきものとして存在するだけだ」


 淡々とした口調に揺るぎない気迫の念が満ちている。


「哲学なのだよ。誰にでも心臓はある。我々は信念と呼んだ。愛でてきた。欠けてはならなかった。一つひとつが自分という存在を形成していく。プライドや欲望が自我を生み、希望を求めると、それは夢になる」


「否定されたくない。否定したくない。挫折を味わって強くなる。信念だけではない。他人の存在が自分を支えてくれる。欠けてはならぬ。血管の一筋に意味があるように、銘々の臓器に名称があるように、それは我々を形成していく。世界はそのようにできあがっている。人が在るから世界が在る。人が世界と呼ぶから世界が在る。人がビッグバンと呼んだためにそれは起きたのだ。宇宙の起源は人なのだよ」


「イメージするのだ。私が君の一部なのか、君が私の一部なのか。私は高屋敷唄乃を象徴する恐怖を帯びて、勇気を示せぬ君への無慈悲となる。この世界を拠り所としていたのだろう? この世界が君の心臓なのだろう? だから喰うのだ。目的ではない。それこそが私の存在意義ではないか」


 こいつ……唄乃の恐怖心だけあって実にユニークでアクが強い。

 夢喰いの言葉は間違っちゃいない。

 恐怖に対して勇気を示せない者は、助けを待つか逃げ出すしかない。

 唄乃にとっての恐怖……それは紛れもなくこの世界の崩壊であり、孤独という名の現実だ。

 唄乃だけでは勝てない。

 この世界が恐怖に屈した証として存在し続ける限り。


「教えて」


 唄乃の声はそれと分かるほど冷静だった。


「どうやって潜り込んだの? 私の夢には魔除けの保護が張り巡らせてあった。あなたのような邪悪な者は思念体だろうとノミだろうと入ってこれなかったはず。もっと言えば、あなたは生まれてくることすらできなかった」


「ひずみだよ」


 夢喰いは穏やかに答えた。


「今回はアーケードに穴が開いたが、この様子ならどこからでも潜り込む隙はあった。とても僅かだが、夢全体がひずんでいた。君さえ気づけないほど小さなひずみだ」


「まさか……そんなはずない」


「血のにおいがした」


 虚ろな瞳が俺を見た。


「何かの拍子に紛れ込んだのだろう。ソレがひずみを引き起こしていた。血だよ。血で染まった靴下だ」


『その色、やめた方がいい』


 言葉がフラッシュバックする。


『バス事故よ』


 思わず叫びかけた。


『何かの拍子に紛れ込んだのだろう』


 あの赤い靴下……真智が散々いやがっていた……あれは……俺の血だったんだ。


「お陰でこの世界に入り込むことができた。しかし、私は私の創造者がいかに強大な霊力の持ち主であるかを知っていた。穴の周囲を喰ってからは用心していた。世界は見た目より狭く、アーケードを抜けるとほとんど一本道であった。道なりに進むと学校へ辿り着いた。入口のすぐ近くに意志の強い魂の気配があった。保健室の人体模型が私を見て笑っていた。そいつに成りすますため、心臓に忍ばせていた魂を喰らった」


 唄乃が現れたのは俺がバスに乗り込んでからだ。

 あのタイミングではにおいに気付けない。あの時既に、心臓は喰われた後だった。


「様子を探るため一日待ち、トイレへ移動した。マックスの記憶はとても役に立った。注意を逸らすため、君たちにありもしない心臓を探させた。そして、遂に昨日、高屋敷唄乃という壁が崩れた。世界を修復不可能なまでに喰ってやった。今日、花子の居場所を突き止め、ここで君を待った。必ず現れると分かっていた」


「どうして花子ちゃんの居場所がここだと分かったの?」


「トイレネットワークだ。トイレにいる間、彼女に使い方を教わっていた。それが功を奏した」


「……私と茶飲み話でもしようっての?」


「乗っ取るのだ。君と、この世界を」


「それがあなたの本能ってわけね」


「本能……いい言葉だ」


 夢喰いは恍惚めいた表情で何度も「本能」と呟く。


「自分が何者かを明確に表している。そうだな、私は君を形成する本能の一部だと言えよう」


「だったら……」


 唄乃が語気を強めた。


「夢ごと消し去ってやる」


「私は不滅だ」


 夢喰いは鼻で笑った。


「君が生き続ける限り、私もまた生き続ける。人間が人間である以上、恐怖を克服することなど在り得ないのだから」


「誰かがそばにいることはできる」


 つい言っちまった。なりふり構っていられなかった。


「何?」


 夢喰いの血走った目玉が半回転ひねりで俺をねめつけ、筋骨隆々の上腕二頭筋が膨れ上がった。


「喰ってやろうか、小僧?」


 既に体のどこかを喰われてるんだと思った。それほど強烈で、威圧的な視線だった。


「お前を否定してやる」


 俺はひるまなかった。


「お前なんか怖くない。唄乃はもう独りじゃないんだ」


「誰がいる?」


「俺がいる」


「うちもおるで」


 美弥が立ち上がった。勢いの余りソファがズレた。


「あたしもいるよ」


 時雨カンナが右手奥にある階段の手すりを滑り降りてきて、華麗に着地した。

 腕には気を失った花子が抱えられている。


 唄乃は何も言わず、しかしそっと目尻を拭った。

 らしくもない涙なんか流しやがって……人間らしいとこあるじゃないか。


「わらわらと」


 夢喰いは自分を取り囲む人間たちを見回し、嘲笑った。


「ゴキブリか?」


「大阪のゴキブリは数も大きさも桁外れやで」


 腕を振り上げる美弥。

 夢喰いがおもむろに立ち上がり、虚空をつまんだ。

 親指と人差し指で、壁に貼られたお気に入りのポスターを剥がす手つきで、空間を丁寧に引き下ろした。

 座卓の上に巨大な〝穴〟が出現した。


「……美弥!」


 駆け寄るも、遅かった。

 穴はどんどん口を広げ、美弥を呑み込むと、あっという間に閉じてしまった。

 穴の大きさに切り取られた座卓とソファが残された。人体模型が笑っている。


「奪ってやる」


 冷たくおぞましい声だった。


「高屋敷唄乃にまつわるすべてを」


「あたしが時間を稼ぐ!」


 唄乃に花子を託し、カンナが夢喰いの前に立ちはだかった。


「二人は退避して、早く!」


「でも、カンナ……」


「急いで!」


 俺たちは言われるまま背を向け、家を飛び出した。

 地面が揺れている。前庭は見る影もなく荒れ果てていた。

 松は倒れ、池は枯れ、石畳は砕けている。

 ひしゃげた自転車が転がっている。これでは使い物にならない。

 突如、背後で大きく軋む音が聞こえた。家が歪んでいた。その出来栄えたるや三才児の粘土細工だった。


「美弥を助けないと……」


 歪みを増す邸宅を見上げながら、気付くと俺は呟いていた。心を芯から突き動かす使命感で体中が震えた。


「どう助けるの?」


 公道へ出ると唄乃が問うた。意外だった。反対されるかと思っていた。


「アーケードだ……あそこにはまだ〝穴〟がある」


「穴に落ちた人間を人間が助け出すのはほとんど不可能よ。それが何を意味するのか、分かってる?」


「どうせ拾った命だ。それに、穴に入るのは初めてじゃない。必ず美弥を見つけて、あっち側へ連れ戻す」


 揺れが激しくなった。亀裂が亀裂を生み、地割れとなって道路を破壊していく。

 唄乃が毅然とした表情で俺を見上げた。


「私はここに残ってカンナを助ける。それが恐怖を克服するってことなら、やってみて損はないと思う。八重くんは……走って」




 走った。

 脚を振り上げ、地面を蹴った。

 あらゆる筋肉の躍動と昂ぶりを感じた。懐かしかった。

 秋の大会で怪我をしてから、俺は走ることをやめた。

 じいじの死からも、走ることからも逃げ出して、俺は俺を見失ったまま中学最後の冬を過ごした。

 冬は寒かった。俺は受験という最低限の歩みにかまけて、他のすべてを投げ打った。

 夢中になれるものが欲しかった……辛酸を忘れるために、そうする必要があると自分を騙し続けてきた。


 ペースを上げる。

 猛進する地割れとの競争が始まっていた。地割れは世界を呑み込んでいく。

 空に亀裂が走る。疾駆する稲光が目を焼いた。雷鳴と地鳴りが重なり、おどろおどろしい唸り声となった。

 アーケードが見えてきた。


「……美弥」


 もう美弥のことしか考えられなくなっていた。

 命綱なしで穴に飛び込むことの愚かさを承知で、それでも俺は美弥を助けたい一心だった。

 美弥を思えば美弥の元へ辿り着けると信じていた。根拠のない自信だけが力の源だった。


 アーケードへ踏み込むや地割れに追いつかれた。世界が傾き、視界が左右に割れる。

 衝撃で派手にすっ転んだ。

 顔を上げると、すぐそこに乗り捨てられた自転車があった……唄乃の自転車だ。

 すぐさま跨り、がむしゃらに漕ぎまくる。

 地割れに追いつき、追い越す。

 穴が見える。一気に加速する。

 そして……飛び込んだ。


 俺は静寂に抱擁されていた。

 寒くも暖かくもない。立っている感覚も横になっている感覚もない。

 闇は深く、目を開けているのか閉じているのかも分からない。

 これが無だろうか。無を感じるという矛盾だろうか。

 無に溺れて、恐怖さえ感じなかった。


「やあ」


 声が聞こえた。

 同時に眩しさで目を細める。

 数瞬、何が起こったか理解できず、手足をバタつかせることでそれに抵抗しようとした。

 しかし、すぐに光は無害だと分かった。敵意を感じなかった。


 光源は人の形をしていた。

 華奢な体から発せられ、周囲を照らし出してはいるが、俺の他に光を跳ね返すものはなく、闇とのエッジを少しずつ曖昧にしながら果てのない空間へ消えていった。

 目が慣れてきて、俺はようやく声と光の正体を悟った。

 朝生が、俺に満面の笑みを投げかけていた。


「何してんだ?」


 体のどこにも力がこもらず、声が雲散していく。

 俺は至って平静だった。

 どうして朝生がとか、いつどうやって入り込んだとか、そういう疑念を差し置いてまず気になったのが「こいつは体を光らせて何をしているのか」だった。

 不可思議なことに慣れてしまったせいか、俺の中で朝生を受け入れる気構えができあがっていた。


「君を待ってた。ここを通るだろうと思った」


 言ってる意味が分からない。


「お前は記憶による産物か? それとも幽霊? 思念体?」


「すべてさ」


「だから光ってんのか? まさか天使?」


 朝生は笑った。


「僕は僕さ……おいでよ。見せたいものがあるんだ」


 促され、右も左も分からないまま歩き始める。

 歩く、という体現が不適切なほど足取りが軽い。

 肉体を置き去りにして意識だけが行進していくようだった。


「見せたいものって?」


 背中に尋ねる。朝生は振り返り、輝く笑顔で「過去」と答えた。


「江崎さんは先に行ったよ」


「美弥に会ったのか!?」


「いいや」


 朝生はじれったく首を振って、やきもきする俺の気持ちをなだめるような眼差しを向けた。


「彼女は自分が歩むべき道を分かっていた。案内は必要なかった。でも八重くんは別だ。僕がいなかったら君はこの暗闇で迷子になっていた。だから僕が、道を照らす光になるんだ」


「何で朝生が……?」


「言ったろう、僕は君の味方だって」


「そうじゃなくて……」


「使命だったんだ。だからこの世界へ来た。君がピンチだと聞いてすぐ駆けつけたよ。この体に馴染んでなかったせいか、アーケードで倒れちゃったけどね」


 この余裕の笑みは何だろうか?

 俺は朝生の横顔を眺めながら、もしやこの空間は見る者の心を反映させるのではないかと思い至った。

 事実、美弥には案内が必要なかった。

 朝生の目には歩き慣れた通学路か、蝶々の舞うお花畑が投影されているのかもしれない。


「駆けつけたとか、体に馴染んでなかったとか、お前は一体何者なんだ?」


「君のよく知る人物さ」


 何か引っ掛かる物言いだった。物言いだけじゃない。

 その表情……学校にいる時、俺はいつも朝生の顔に誰かの〝面影〟を見ていて、結局その正体はうやむやのままになっていた。

 朝生は誰かに似ている……そう思ったのはこれが初めてじゃない。

 目元、鼻の形、耳の形、口角をくっと上げる笑い方……。


 暗闇に、朝生とは別の光が差し込んでいた。大きく切り取られて、目の高さに浮かんでいる。

 入ってきた穴と真逆だと思った。穴は淡い藍色に輝いている。


「お別れだ」


 穴を背に朝生は言った。哀愁の声色とは裏腹に、笑みは絶えなかった。


「お前も来るんだろ? ここで暮らすつもりか?」


 この先へは行けない。朝生はきっぱりと言った。


「ここへ君を導くことが最後の務めだった。もう役目は終わった。この穴の向こうで、君を待つ人がいる」


 ……美弥。


「君にしかできないこと、ぜんぶやってみてほしい」


「……え?」


「僕がついてる」


「ああ……やってみる」


「いつだって君の中にいる」


「朝生……?」


「忘れないでくれ……僕のこと」


 頬に一筋の涙がこぼれるのを見た。綺麗な涙。朝陽を浴びて輝く雫のようだった。

 俺は涙を拭う朝生に頷きかけた。


「住む世界が違うだけさ。忘れやしない。俺たちは友達だ」


 朝生は大きく頷き、一歩引くことで俺と穴とを対峙させた。


「さようなら、清太郎」


 朝生は俺の背中を強く押し出すと、こう言った。


「気張ってこい」




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