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ジレンマ・パラドックス  作者: 北の宮
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四話

四話


 跳ね起きて、健在の右脚がベッドの上に投げ出されているのを見た時、安堵と脱力で眠気の残りが雲散した。

 目覚ましが鳴っている。止める気も起きず、しばらく横になっていた。


 生々しい夢だった。二日連続だ。

 この夢が予知夢のような気がしてならなかった。

 誰か親族が亡くなり、陸上大会で怪我をする……だが、俺には陸上部へ入る意志がない。予知夢など見るはずがないんだ。


 リビングへ下りるとじいじが花子に手品を披露しているところだった。

 花子は季節を先取りしたノンスリーブとハーフジーンズ姿だ。

 じいじにとって花子は最高の観客だったろう。

 そのリアクションっぷりは美弥も顔負けで、ハンカチの色が目まぐるしく変化した時は目を見開いたままひっくり返るほどだった。

 花子が驚くとみんな笑った。


「いつ来たんだ?」


 俺はひっくり返ったままの花子に尋ねた。


「今朝早くです! じいじは魔法使いだったんですね!」


 そういうことにしておこう。

 ダイニングでは親父とお袋が飯を食っている。親父は俺を見つけるなり大声で笑いかけた。


「清太郎の友達か? ああいう子ならどんどん遊びに連れてきていいんだぞ。笑いは最高のつまみになる」


 たいそうご機嫌だな……つーか何で受け入れてんだよ。


「あんな幼い子が朝から家を出入りしてるのに何とも思わないの?」


「別にいいじゃない。楽しいし」


 楽観的なのか、それともアホなのか。俺も真智も、こんな親の手でよくここまで育ったもんだ。

 飯を食べ終わり、部屋へ戻ろうと思いきや真智とすれ違った。

 真智は和室へと入っていった。

 ふすまが開けっ放しになっている。中が見える。

 真智の後ろ姿と、立ち昇る線香の煙、そして……仏壇が……。


「清太郎!」


 花子の大声と共にふすまは閉ざされた。見ると花子が足元に立って俺を睨み上げている。


「いきなりなんつう声出すんだよ!」


「何か見ました?」


「は?」


「和室で何か見ました?」


「見てねえよ。急にでっけえ声出すからそれどころじゃねえっての」


「ならいいんです。失礼しました」


 もちろん嘘だ。仏壇が見えた。

 真智に隠れて遺影までは見えなかったが、確かにあれは仏壇だった。

 花子の慌てようも尋常ではない。

 唄乃が監視役として花子を送ってよこしたのは、俺が和室へ踏み込むのを阻止するためか?

 なぜ俺にだけそんな措置をとる? 


 二日前の帰宅直後、俺は線香の匂いで気分が悪くなった。

 真智の背後に佇むふすまを見つめながら、決して開けてはいけないと自分に言い聞かせた。

 それが何を意味しているかは分からない。知りたいとも……思わない。




「じゃ行ってくるぞ、じいじ」

「おう、気張ってこい」


 いつもの挨拶。いつものやり取り。いつもの『じいじ体操第二』。

 俺は真智といつものように家を出た。


「真智……なんでもない」


 昨日と同様、花子がキャリアに座ってこっちを見ている。こいつがいる前では聞けない。

 真智は一体誰に向かって線香をあげていたんだろうか? 

 位牌いはいには誰の名が刻まれているんだろうか?

 知りたいような、知りたくないような、歯がゆい気分だった。


「兄貴……顔色悪いよ?」


 真智が覗き込んでくる。俺は笑って誤魔化す。


「寝不足なんだよ。借りたゲームが超面白くってさ、二時間しか寝てねえんだ」


「無理しないでね」


 ……いつもの真智じゃない。

 普段なら一瞥もくれずつっけんどんに突き放すんだが……。

 そういえば唄乃は、俺を助けるために「プロジェクトが動き出してる」と言っていた。

 真智もプロジェクト・メリーの一員だ。手を組んで何か画策しているに違いない。


 それに花子だ。

 さっきから一言も口を利かずに俺を睨んでいる。和室を覗いたあの時からずっとだ。

 恐らく『監視』の本当の意味を思い出したか理解できたかしたんだろう。

 こうなると色々厄介だ。


 やはりタナトスか? 俺の命を奪いにすぐそこまで来てるのか?

 花子に化け、真智をそそのかして俺を陥れるつもりなんじゃ……。


 美弥と会っても心は沈んだままだった。

 意識が警戒と緊張とに分かれてどっちつかずになっている。

 車が脇を走り抜けるたび身がすくんだ。

 土手は道路より少し高い位置にあるが、時速五十キロで往来する鉄塊から身を守れるほど頼もしい高さに作られてはいない。

 自転車の保護などないに等しい。

 トラックが体当たりしてくれば、俺は美弥を助ける間もなくペシャンコにされるだろう。




 教室に唄乃の姿はなかった。花子に居場所を聞いても「分からない」という。

 俺は花子と連れ立って四階女子トイレへ向かった。

 そこにいたのは唄乃ではなく、マックスだった。


「唄乃? 今日はまだ見てないね」


 マックスはリクライニングチェアで少女漫画を読みながら答える。まるで人間だ。


「急用か? それとも相談事? 話してみたまえ。知識だけなら豊富に備えてある」


 マックスは割れた頭部から顔を覗かせる脳みそのレプリカを指差し、自虐的にほほ笑んだ。


「タナトスについて教えてくれ。このへんをうろついてる」


 タナトス? マックスは嘲った。


「ギリシャ神話に登場するタナトス?」


「ああ……神話?」


「死を司る神だ。伝承では死神の一人として名が挙がる。しかし、実はそれほど力のある神格でもないのだよ。言ってしまえば落ちこぼれだ」


「〝死神〟なんていかにもカッコイイ響きだが、未浄化の魂の悪霊化を防ぐ、言わば霊魂の運び屋さ。当然、そうなると向き不向きが付きものだ。タナトスはどちらかと言えば、うだつの上がらないタイプだった」


「でも、死神であることに変わりはねえんだろ? 唄乃が儀式で呼び出したって、そう言ったんだ」


「儀式って?」


「確か……悪魔と話がしたくて色々試した結果、死神が出てきたとかなんとか……」


「それから?」


「死神が夢に出てきて、蛇になって、家に目印の旗を刺しながら標的の名を叫んだらしい。死神はずる賢いとも言ってたな。あいつらは正面切って戦うようなことはしないって。で、最後にこう言った。タナトスは罠を張る、アダムとイヴを欺いた蛇のようにね」


 マックスは腕を組んで考え込み、やがて答えた。


「話がめちゃくちゃで筋が通っていない。そもそも、アダムとイヴをそそのかしてリンゴを食べさせたのは蛇の姿を借りた悪魔だよ。死神はずる賢いとは違うし、その点でも悪魔と混同させている。もしかして君、からかわれたんじゃないか?」


「でも……俺をおちょくろうなんて雰囲気じゃなかった」


 あの時だけじゃない。唄乃はいつだって本気だ。


「じゃあ、嘘をつかなきゃいけなかった。即席の与太話で辻褄が合わなくなったのだろう。もしや、相手が君だからどうせ分かりっこないと、高を括ったのかもね」


「最初から死神なんかいなかったってことか?」


「死神などそう簡単に呼び出せるものではない。それは悪魔も同じだ」


「思念体だったら?」


「唄乃が創り出したと? 神を? それはもう冒涜の域だ。人が神を創るのでなく、神が人を創るのだ。人が思念を具現化できるのは神の力あってこそなのだ。にも関わらず、人が神を創り出すなどおかしいではないか。矛盾している」


 こちらの何気ない発言でマックスが熱く語り出したのは意外だった。

 生前は熱心な宗教家だったのかもしれない。


「私が気になっているのは、唄乃が〝タナトス〟という名を口にしたことだ。これは恐らく、話にリアリティを出すため何となく挙げてみた名前に過ぎないのだよ」


 マックスの憶測がすべて正しかったとしたら……唄乃が俺に近づいた目的が分からなくなる。

 あいつは俺のそばにいる口実として死神を選んだ。嘘をついてまでそうしなければならなかった。

 その理由が〝プロジェクト・メリー〟にあるとすれば……。


「俺に何か隠してるだろ?」


 俺は黙り込んだままの花子を見下ろす。花子は明け透けに目を泳がせた。


「言えません! 隠してるってことは内緒なんです!」


「隠せてねえよ!」


「絶対に喋らないって、誓いを立てたんです! だから言えません!」


 こいつの持つ唄乃への信頼と忠誠は本物だ。

 花子から探るのは無理として、残るは……真智だけか。




 昼になっても唄乃は現れなかった。

 いつもはパンで埋め尽くされていた机の上が妙に寒々しくて、弁当もどこか味気ない。

 視界の一部が唄乃の形にくり抜かれ、空虚を模したモノクロのシルエットとなった。


 霊的現象の数々が他人事じゃなくなった今、唄乃の不在は消しゴム無しで挑む期末テストのようなものだった。

 身を守るものがないのだ。それは知識しかり、選択を誤った時の軌道修正しかり。


 俺は、タナトスの存在を唄乃による作り話だと決め込もうとしている。安堵したいがためにそれを選択しようとしている。

 唄乃は言った。

 肝心なのは信じるか信じないかだと。


 あいつはもしかすると、『信じない』ことも選択の一つだと言いたかったんじゃないだろうか?


 本質を見失わせないため、俺にその二択を委ね、唄乃自身は俺の選んだ道をサポートする。

 俺は幽霊を『信じる』と言った……だから唄乃は俺のそばに居続けることを選んだんだ。

 そうでなければ、俺たちはアーケードをくぐる前に別れていたはずだった。


 だが分からない……不明瞭なことが余りにも多すぎる。

 唄乃の目的。プロジェクト・メリーの目的。心臓の行方。花子のこと。和室のこと。夢のこと。タナトスのこと。

 挙げればキリがない。頭はバースト寸前だった。


「デートに誘わないの?」


 パンを食べ終えた美弥が手洗いに立つと、朝生がやぶから棒に尋ねた。

 俺は度肝を抜かれた。

 朝生の眼差しは真剣で、とても茶化しているようには見えない。

 つい十秒前までお気に入りの演歌歌手とその将来性に関して熱弁していた奴とは明らかに別人だ。


「デートって、美弥とか? 昨日遊んだばっかだろ」


「二人でだよ。食事にでも誘ったら? 僕が仲介しようか?」


 おいおい。筋金入りの世話焼きか?


「応援してくれるのはありがたいが俺の中にも順序ってのがあ……」


「もたもたしてると手遅れになっちゃうだろ」


 何だこいつ。こええ顔しやがって。


「なんでお前が焦るんだよ」


「……今日だ。約束してくれ。今日必ず食事に誘うと。頼む、八重清太郎」


「……ああ」


 気圧されて、つい頷いちまった。また面倒なことになった。




 結局、唄乃は登校しなかった。

 帰り際、俺は朝生による激励の言葉と共に送り出された。

 「君は不完全なんだ」とか「だからこそ希望がある」とか訳の分からんことを言ってたが、要するに「彼女は君の欠点を好いてくれる」ということを伝えたかったらしく、俺を見送る朝生の顔は〝発破をかけてやった〟とばかり誇らしかった。


「唄乃、どないしたんやろな」


 俺と朝生のやり取りなど露知らず、美弥は淡々とチャリを漕ぐ。

 さあ? 俺は曖昧に答えながらペダルの回転と脈拍のリズムを合わせようとする。

 鼓動が危なっかしく加速している。

 お陰でひどく落ち着かず、世間話さえままならない。

 心臓にブレーキをかけなければならなかった。止まらない程度に。ゆっくりと、少しずつ。


「今日はあの子、おらへんみたいやな」


 橋に佇立する例の女の子のことを言ってるらしかった。確かに、橋には誰もいない。今朝も姿を見かけなかった。いれば気付いたはずだ。

 横断歩道を渡り終えると、美弥は橋のたもとで立ち止まってしまった。


「どうかした?」

「清太郎……行ってみいひん? 川のあっち側」


 いやだった。

 ふすまを開けてはいけないと、本能で感じ取ったあの時の拒否反応に似ていた。

 ただ、それをどう説明したらいいか分からない。軽く混乱してきた。

 こういう状態で発せられる言葉は説得力に欠ける。

 美弥がなぜ川の向こう側へ行きたいのか、俺はなぜそれがいやなのか、何一つ理解できなくて、美弥の横顔と淡く光る川面を交互に見つめることしかできなかった。


「うちな、自由なりたいねん。勉強も習い事も……親の言いつけも全部ほかして、あっち側の景色を見てみたいんよ。それしかないっちゅう確信があんねんな。せやから……ごめん、何か熱くなってもうたわ。悪い癖や」


 美弥は言って、笑った。いや、表情筋の微細な動きがそう見せただけかもしれない。

 美弥の笑みはたまに、その明朗な性格にそぐわないほど儚いものになる。


「あっち側で自由を見つけたら、もう戻ってこないのか?」


「戻る理由がないやん」


 俺たちは横に並んで土手を走り始める。美弥はもう川の方を見ない。


「俺は……美弥には、川を越えてほしくない」


 やばい。


「ずっと、こっちにいてほしい」


 なんで……


「俺がそばにいる」


 何言ってる?


「力になる」


 落ち着け。


「だから……」


 だから……?


「……夕飯でも食わないか? 今日、俺ン家で」


 ブレーキ音と共に美弥の姿が消えた。

 振り向くと視界の隅に、口半開きで立ち尽くす美弥の姿があった。そして次にはもう、笑い出していた。

 ハンドルにすがって、呼吸の許す限り笑いまくっている。

 終いにはヒーヒー言って、目尻を拭いながら近づいてきた。


「力抜けたわ……どんなカッコエエ言葉で締めるんかと思たら、食事のお誘いかい。好きやで、清太郎のそういうとこ」


 その笑顔が嬉しくて、俺も笑っていた。心底ほっとした。


「……で、どうする?」


「そんなん、行くに決まっとるやろ」




 俺は家に帰るとまず、ソファで昼寝中のお袋を起こし、美弥が夕飯を食べに来る旨を伝えた。

 あら大変とばかり飛び起き、買い物へ行こうとするお袋。待ったをかける。


「俺が行くよ。お袋は部屋の掃除を頼む」


「いつも綺麗でしょ」


「念入りにね」


「お父さんにも言っておかなきゃ。酒臭い中年親父を立ち会わせるわけにはいかない」


「親父にはケーキ買ってくるように言ってよ。喜んでそうするから」


「わしも何かしようか?」


 庭で雑草をむしっていたじいじがやって来て話に加わった。


「じいじは余興の手品だね、とっておきのやつ!」


「よしゃ、今宵は〝じいじスペシャル〟だな!」


 面白くなってきた。

 俺はお袋から買い物リストを受け取ると、再度チャリにまたがった。

 しばらく行くと下校途中の真智と鉢合わせた。かいつまんで事情を説明する。


「肉買ってきて、肉」


 お祝い事があると真智はいつも『肉』を要求する。


「肉って言っても色々あるんだぞ?」


「なんでもいい。肉は命の象徴だから」


 どうせプロジェクト・メリーの受け売りだろう。

 俺はペダルを回しながら、そういえばとスピードを緩めた。真智から唄乃や花子の〝隠し事〟を聞き損ねてしまった。




 十分足らずで近所のスーパーに辿り着いた。

 そこでもう一度リストを確認してみる。紙切れには銘々の好物と材料が記されている。

 酒のつまみ、これは親父(つまみって好物とは違わないか?)。

 山形産の十割蕎麦、じいじだ。

 すき焼き、俺。

 オムライス・デミグラスソース仕立て、真智。

 カツオのタタキ(用心深く〝新鮮なやつ〟と書き添えてある)、お袋。


 他にはサラダのドレッシングや飲み物が書かれているが、肝心の美弥に関する情報が皆無だった。

 出されたものは何でも食いそうだが……一応聞いてみるか。


 俺はスーパーの出入り口に立ち、ケータイにメモしておいた江崎宅の番号へコールしてみる。

 この時間、両親はいないはずだ。そうは分かっていてもやはり緊張する。電話は苦手だ。

 外出してるんだろうか? 電話には誰も出なかった。

 何度もかけ直したが変わらず、コール音が内耳をくすぐるだけ。仕方なく買い物かごを満たしていく。

 五分置きに電話する。四度目でやっと繋がった。


「もしもし……?」


 暗い声が聞こえてきた。


「あっ、もしも~し? 俺、八重だけど」


 緊張で変に上ずった声が出た。


「今近所のスーパーにいるんだけどさ……もしもし?」


「…………。……誰ですか?」


 なるほど、俺は番号を間違えたらしい。


「すみません、間違えました。失礼します」


 ということは、俺はさっきから違う家の番号へかけまくっていたことになる。

 どうりで出ないわけだ。もう一度、しっかり番号入力してコールしてみる。が……


「もしもし……?」


 同じ暗い声。恐らく女性の声だが、美弥とは似ても似つかない。


「何度もすみません。また間違えてしまって……」


「……嫌がらせですか?」


 焦った。声には不機嫌な響きがあった。


「いえ、友人に聞いた番号を書き間違えたらしいのですが……」


「……信じない」


 は?


「誰? もしも、もし悪ふざけだったら……絶対に許さないから」


 度を越えたネガティブ思考がある種の恐怖をもたらすことを初めて知った。

 冷たい声だった。

 相手の目つきや憎悪といったものが鮮明なビジョンとして浮かび上がり、俺は肌寒い鮮魚コーナーの一角でカツオに見つめられたまま呆然と突っ立つ他なかった。


「何か言ってみなさいよ、何か……何か……言ったらもう本当に許さないから、許さない」


 どもり始めた。切った方がいいのだろうか? 声の感じだとかなり若い。小学生か中学生だろう。


「何か悩んでるの?」


 つい聞いちまった。お節介って点では朝生に負けず劣らずだな。


「話してみてよ。楽になるから」


「あんたに何が分かるのよ」


「分からないから知りたいんだ」


 少女は黙ってしまった。鼻のすする音が聞こえる。


「笑うんだ……笑って笑って、不気味になる。キモイって、それが私だってこと知ってるもん。私のせいじゃない……私の……」


「どういうこと?」


「見えるんだ」


 声が急にはっきり聞こえて、ゾッとした。寒さも相まって鳥肌が立った。

 スピーカーからでなく、耳元で直にその声を聞いたようだった。


「何が見えるの……?」


 少女は答えなかった。通話が切れたのかと思うほど長い沈黙だった。


「幽霊」


 おぼろげで、しかし輪郭のしっかりした声だった。

 それを聞いた途端、合点した。この子は幽霊なんだと。

 番号は間違っていなかった。ただ、何かの弾みであの世と繋がっちまったんだ。

 このタイミングで幽霊が見える奴と電話の繋がる可能性はゼロに等しい。むしろ幽霊が見える幽霊ってことにしちまえば筋は通る……たぶん。


「信じてないでしょ……幽霊なんか見えるはずないって……」


「そんなことないよ。幽霊はみんないい奴らさ」


「テキトーなこと言わないで」


「幽霊が怖いの?」


「全然……話しかけてくるけど、無視してる」


「話しかけられるんだ?」


「ボーっとしてる奴の方が多い。悪いこと企んでるとすぐ分かる」


「どういう風に?」


「学校の机の中で手首掴まれたり、消しゴム拾おうとして女の髪の毛に触ったり……トイレの個室って下から向こうが覗けるでしょ? ドアのすぐ外で子供がずっと立ってた時があった。裸足でこっち向いて、それ以上は何もしてこなかったけど、あれが一番気持ち悪かった。そうやって驚かせたりイタズラする幽霊も中にはいるんだ」


 話がリアル過ぎて気持ち悪くなってきた。この子本当に幽霊か?


「幽霊は嫌い?」


「別に……私が嫌いなのは人間だけ」


 まるで唄乃みたいなことを言う。少女は黙ってしまった。だが切る様子もない。


「どう? 少しは楽になった?」


 聞くと、柔らかな嘆息が返ってきた。


「……何も解決してない」


 そりゃそうだ。


「他に相談できる人はいないの? 家族や友達は?」


 俺は分かりきったことを聞いた。少女は答えず、やがて口を開く。


「もういいよ……話したところで何も変わりっこない」


「自分が変わらなきゃ」


「……どうやって?」


「発想の転換さ。君にしかできないことがある」


「もっと……具体的に言ってよ……」


「友達になればいい」


 唄乃ならそう答えただろう。


「幽霊と……友達になるってこと?」


「幽霊が君を必要とした時、どう応える? それを考えるのが友達だ。ラフでいいんだよ。耳を傾けて、彼らの話を聞けば何かが面白くなる。応えれば応え返す。……試してみないか? 君がそれを望むなら」


 言いながら、この子は確かに幽霊だなと思った。

 マックスはこう言った。『我々は意思を掲げながらそれに気付ける者を待っている。これを幽霊と呼ぶのなら人もまた幽霊ではないか』と。


 この少女は誰の心にも響かない声を持っている。

 相談できず、抱え込んで独り彷徨っている。

 苦しかっただろうか。叫びたかっただろうか。想像することしかできない。

 俺は顔も知らない少女を思いながら、パック詰めされたカツオのタタキを穏やかな手つきでカゴへ入れた。


「……ありがとう」


 やがて少女は言い、通話が切られた。




 美弥を迎えに行って、帰ってきたのが二十時頃だった。

 リビングの座卓は並べ切れないほどの御馳走で彩られている。

 美弥は丁寧な標準語で一人ひとりに挨拶する傍ら、お袋を「お若いですね、奥様」と誉めそやして上機嫌にさせる気立ての良さまで披露した。


 美弥が最後に挨拶したのは花子で、俺は彼女の口から「花子ちゃん、こんばんは」という言葉が出てくるまでその存在に気付かなかった。


 花子は赤いチャイナ服姿で律儀に会釈し、「よくぞ参った」とか言いながら美弥をリビングまでエスコートする。

 美弥は豪勢な食卓を目の当たりにするや早口の大阪弁で感嘆を漏らし、親父の隣へ座って積極的にビールを注いだ。


 親父はシラフのくせに顔が真っ赤で、「どーもどーも、ありがとおーきに」とでたらめな大阪弁でゲラゲラ笑った。

 こんな楽しそうな親父を見るのは久し振りだ。


「真智って呼んでええ?」


 美弥はもう真智に絡んでいた。


「さっき清太郎から聞いてん。賢い子やって、きっとおとんに似たんやね。見てくれはおかんやな、目がそっくりやもん」


「兄貴と仲良いの? 学校の友達?」


 人見知りの真智がなついてる。初対面の相手にこうも話しかける妹を俺は見たことがない。

 少なくとも、犬と花子以外では初めてのことだった。


「友達やで。うちらバスで知り合ってん。バス友やな」


 バスで知り合った? 何のことだ?


「美弥、俺たち……」


 聞けなかった。お袋の持ってきたすき焼き鍋が視界を遮り、じいじと花子が手を取り合って騒々しい歓声を上げた。

 各々グラスを掲げ、乾杯した後、食事が始まった。


 飯はうまかった。みんなで囲う飯はうまい。好きな子となら尚更うまい。

 二人きりでは緊張で味覚も鈍っただろう。

 親父のだみ声やお袋の自慢話や真智の嫌味やじいじのセクハラ発言や花子の笑い声を聞きながら食う飯は、美弥という甘酸っぱい香辛料も加わって俺を幸せな気分にさせた。

 幸せは別腹だ。いくら食べても膨れない。


 十分も経つと美弥は輪の中心だった。

 よく喋った。ビールを注いだり御飯のお代わりを貰ったりしながら、両親を誇りに思うとか、大学へ行った優しい兄が俺に似てるとか、自分の家族を引き合いに出してとにかく喋りまくった。

 家族に対して家族の話題を振ることで、美弥なりに調和を取ろうとしていたんだと思う。


「おかんはめちゃ厳しいねん。でも大好きやで」


 吹っ切れた表情でそう結ぶ美弥の姿が、屋上で初めて会った時の彼女と重なった。

 神様からの『贈り物』で自殺を踏み止まった美弥、教育ママを『大好き』と言った美弥……俺には、どっちの美弥も強がってるようにしか見えない。


 本物の美弥はどれだろうか。

 じいじの手品を見物しながら考える。

 お札を貫通する先端の外れるペンや、体の至る所から現れるスポンジ製の鳩を見ていると、本物の美弥なんてどこにもいないんだろうな、という気になってくる。

 すべてが本物と言ってしまえばその通りだが、それは「タネも仕掛けもございません」を謳うマジシャンの体裁とさして変わりがない。


 人には裏がある。だから表で繕って、小綺麗な人間関係が成立する。

 美弥の笑顔は作り物だろうか?

 紛い物の笑みで人の心を虜にできるだろうか?

 俺はあの笑顔が好きだ。表情をくしゃっと丸めて、声を上げて笑う美弥が好きだ。

 それなのに……美弥を遠くに感じる。彼女が笑うたび、俺は悲しくなる。




「清太郎、二人で散歩行かへん?」


 デザートのケーキを食べ終わると美弥が提案した。俺はテンパった挙句遠い異国語の発音で返事をし、親父とお袋がニタニタ笑いながら見つめる中を外へ出ていった。

 外は肌寒く、部屋着のパーカーでは心許なかった。


「ええ家族やね。羨ましいわ」


 街灯に照らされる美弥の横顔は、今まで見た中で最も寂しげで弱々しい一面を孕んでいた。


「うちには帰る家があらへん。あそこは監獄や。おるんは看守と気取りのエセ教師だけ」


「……お兄さんもいるだろ?」


「おらへん。うち置いてどっか行ってもうた……もう何年も会うてへんよ」


 おかしい……昨日と話が違う。


「家出なのか?」


「さあ……こっち越してくる少し前に消えてもうたわ。大学いうんも嘘やったんよ、堪忍ね」


 そんな声で謝らないでほしかった。

 美弥は悪くない。悪いのは大人だ。

 奴らは俺たちに主張させる場を与えず、『大人の都合』という凶器で打ちのめしてくる。

 手段を絶たれた子供は泣き寝入りするしかない。


「最近、幽霊が見えるようになってん」


 美弥は不意にそんなことを言って、歩調を速めた。まさかと思い、次の言葉を待った。


「驚かんかったよ。電柱で首吊ってる人がおっても、背中にナイフ刺さったまま歩いとる人見ても、トイレで小人見た時も……こうやってうずくまっとるリーマン見ても」


 美弥は言って、道端で膝を抱える背広姿の男へ近づいていった。

 俺にもそれが霊体だと分かった。

 街灯に照らされた体は不自然に暗い。頭を前後に揺すり、低く呻いている。


「清太郎にも見えとるんやろ? 小人は見えとったもんね」


 俺が見えるようになったのは九死に一生を得たからだと思っていた。

 だが……美弥は違う。美弥はあのバスに乗っていない。


「なんや、初めから受け入れる準備できとったわ。一昨日の朝、部屋で目覚ました時からヘンな気配があったんよ」


「ヘン?」


「いつもとちゃうな、ってフインキや。説明難しいな……寝相悪うて、目覚ましたらいつもと違うアングルで部屋見てた時の感覚や。それで、死ななアカンと思た。ありえへんやろ? 朝起きていきなり死にたくなるわけあらへん。やけどずっと衝動に駆られててん……」


「気付いたらうち屋上行ってたんや。あそこ寒かったやろ。覚えとる? 屋上に吹く風、冷たかったやん。あの屋上で、うちな、嗚呼、帰ってきたんやな、って気なってん。ただいま、って感じやな」


「懐かしいとか、そういうことか?」


「そや。もちろん、初めて行った屋上やで?」


 美弥の言葉に偽りはない。偽る理由もないし、屋上に吹く風は確かに冷たかった。


 俺たちはやがて辿り着いた公園のベンチに座って夜空を見上げた。

 漆黒の空だった。月どころか星さえも瞬かない。

 それは闇ではなく、〝無〟だった。


 ずっと見てると呑み込まれそうになる。

 あの空に落ちたらどうなるだろうとか、地獄はあんな感じだろうかとか、そういうことをリアルにイメージできるようになって、段々怖くなってきた。

 美弥の方を見る。彼女も空を……空らしきものを見ている。ほっとした。

 俺は一人じゃない。美弥も、独りじゃない。


「……今もまだ、死にたくなる?」


 聞くと、美弥は首を傾いだ。


「自由んなることが死ぬて意味なら、うちはそうしたいのかもしれへん」


 静かだった。この世界には俺と美弥しかいないのだと思った。

 犬の遠吠えも自動車が走り去る音も虫の羽音も聞こえない。

 視界には街灯に縁取られた遊具のおぼろな輪郭線が浮かび上がっている。


 あの人工物がこの世の象徴だと言えるだろうか。

 美弥の悲哀な横顔が今を生きる若者の象徴だと言えるだろうか。

 もう、分からなくなってしまった。


「……行こうか。寒いし、美弥もそろそろ帰らないと……」


「帰りたくあらへん……」


 声が濡れていた。


「あんなとこ……もういやや」


「美弥……」


 エンジン音が聞こえた。

 公園と公道を隔てる灌木の向こうに黒い乗用車が見える。嫌な予感がした。

 運転席から細いシルエットが降りてきて、街灯の逆光を浴びながらこっちへ近づいてくる。

 俺は咄嗟に立ち上がり、美弥を背後にかくまった。


「おかんや……」


 呟く美弥。やっぱり……迎えにきたんだ。


「八重さん?」


 シルエットが女の声で言った。俺は答えなかった。街灯が遠いせいで顔がよく見えない。


「迎えにきたの。うちの娘、返してくださる?」


 冷たい声だった。

 いやだ、とは言えない。

 だが何とかしたかった。大人という壁に抗ってみたかった。


「初めまして、八重清太郎です。今夜はいい天気ですね」


 俺は世間話の常とう文句で切り出した。女の虚ろな目が鈍く光った。


「江崎さんとは同じクラスで、仲良くさせてもらっています。とても明るくて、元気があって、みんないつも励まされてます」


「それで?」


「一つ伝えておきたいことがあるんです」


「何?」


「彼女の意志を尊重してあげてください」


「は?」


「彼女には彼女なりの生き方がある。知りたいことがあるし、行きたい場所がある。付き合いたい友達がいる。背伸びしたくない自分を知ってて、何かにすがっていたい弱さがある」


「何が言いたいの?」


「あなたは理不尽だ」


 闇を透かして女の顔が歪むのを見た。まずいと思ったが、もう止まらなかった。


「俺たち子供は自分がどういう立場なのかをよくわきまえてて、だから滅多なことで大人に歯向かったりしない。偉い人たちが築いたルールの中で従順に生きている。期待に応えたいと思ってる。だけど、ルールは俺たちから自由まで奪ったりしないはずだ。誰にも……あなたにも、その権限はない」


「言いたいことはそれだけ?」


「あなたは自分が思ってるほど偉くない」


「…………」


「美弥はあなたのおもちゃじゃない」


 乾いた叩打音が夜のしじまを破った。

 眩暈と衝撃で何が起こったか分からず、気付くと俺は無抵抗のまま片膝をついていた。

 皮肉にも、ひれ伏すような卑屈の姿勢だった。


「誰よ、あんた」


 冷酷な声が聞こえた。頬の痛みが意識に追いつく。


「下品な世間知らずね。親子揃って教養がないのかしら。帰るよ、美弥」


 言葉が出てこなかった。

 俺は膝をついたまま、美弥が遠ざかっていく足音を聞いていた。

 離れ際、美弥の幽かな声が鼓膜に触れた。


「ありがとう」


 悔しくて、視界が霞んだ。




 重い足取りで帰宅した。みんなリビングにいて、テレビを観ていた。


「美弥ちゃんは?」


 お袋が聞く。


「さっきお母さんがいらしてね、ひどく不機嫌だったけど……清太郎?」


 俺は当てつけがましく両親を睨んだきり、黙って自分の部屋へ向かった。

 ドアを開けるなりベッドで飛び跳ねる花子が視界に入ってうんざりした。仕方なく椅子に座る。


「お帰りなさーい……美弥は?」


「帰ったよ。母親に連れてかれた」


「世知辛いですねえ」


 まったくだ。


「何もしてやれなかった。俺が子供で、力がないからか?」


「じいじが説教したって無駄ですよ。さっき家に来た美弥ママを拝見したんですけど、あれはもうダメです。自分の世界に固執して周りが見えてないタイプですね」


 美弥……今頃どうしてるだろうか?

 昨日サボったピアノのことも咎められるだろう。俺みたいな下品で世間知らずなバカ者を友達と呼んでいたことも。

 このままだと美弥には味方がいなくなってしまう。せめてお兄さんがいてくれれば……。


「なあ……トイレネットワーク、今使えるか?」


「『HANAKO』ですか? ええ、トイレさえあればいつでも」


「魂の居場所を調べられるって言ってたよな。それって生死関係なく特定可能か?」


「余裕っす」


「じゃあ、江崎正則って人の居場所を探してみてくれ。どれくらいかかる?」


「五分くらいですかね。人物像がはっきりしてるならもっと速いですよ。同姓同名の場合もありますからね」


「大阪出身だよ。歳は……恐らく十代。あとはよく分からん」


「では、ここ二十年分の出生記録を基に探ってみましょう!」


 花子は小走りで部屋を出て行き、二階のトイレに籠ると、五分足らずで戻ってきた。

 途中で水を流す音が聞こえたが、どうやらそういう仕様らしい。


「どうだった?」


 花子の鬱屈な顔に向かって俺は聞いた。


「大阪生まれの『江崎正則』、該当者一名。三年前に十五歳で死んでます」


「……嘘だろ」


「念のため日本全国の花子さんに探ってもらいましたが、やはり該当者はこの一名だけでした」


 美弥がこっちに越してきたのも三年前だった。美弥は兄が行方不明だと言っていたが……どういうことだ?


「死因は?」


「自殺です。自宅の風呂場で手首を切ってます」


 美弥がこの事実を知らないはずがない。


「美弥は兄の行方を分かっていなかった。あれは嘘じゃなく、本当に知らないで話してる感じだった。さっきだって、兄は俺に似てるとか言ってたろ? 自殺した肉親を普通そんな風に紹介するか?」


「…………」


「良かれと思ってやったのに……結局裏目に出ちまったな」




 その晩、夢を見た。

 俺はまばらな残雪を踏みしめ、駅前にあるバス停留所を目指していた。

 今日の風は冷たい。冬と春の境目を縫う、思わずマフラーをきつく巻いて身を強張らせてしまうような、そんな風だった。

 冬が終わろうとしていた。


 駅前は平日の朝だけに人通りが多い。

 俺は背広姿のリーマンや香水くさいOLが行き交う中を黙々と歩いた。

 四月、俺はまた一歩この大人たちへ近づく。

 地元、桜ケ丘高校への進学が決まっていた。入学式を三週間後に控えている。


 やがてバスが来た。

 ラッシュの兼ね合いでほぼ満席だった。

 見渡すと、後方に二人掛けのシートが一つ空いているのが見えた。窓際に女の子が座っている。


「隣いい?」


 聞くと、女の子は顔を上げ、俺を見てこう言った。


「ええよ」




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