三話
三話
鈍い目覚めだった。
眠ってる間、うなされていた気がする。少し汗をかいている。
身を起こした反動で頭が冴え、心身が少しずつリラックスしていった。
それからすぐ、昨日この身にふりかかったあらゆる出来事はすべて夢だったんだ、という気がしてきて、気持ちが楽になった。
悪夢から目覚めて、夢で良かったと安堵する時の状態に近かった。
夢の向こうでみんなが泣いていた気がするが、起きてしまえばもう関係ない。
カーテンの向こうは抜けるような青空だった。今日もいい天気だ。
トイレのドアを開けると便座に女の子が座っていて、満面に笑みを浮かべながら俺を見ていた。
俺は一旦ドアを閉め、これが夢の続きであることを確信するため五感からの情報をすべてシャットアウトし、心を無にする過程の最中さっさと目を覚ませと自分に言い聞かせた。
次に目を開けた時、俺は布団にくるまりながら天井を見上げているはずだった。
「でっけえなあ、参った参った!」
目を開けるとそこはトイレの前だ。
ドアの隙間から花子が顔を突き出し、俺を見上げながら金切り声で参った参ったとほざいている。
俺は花子の体を担ぎ上げ、部屋へ放り込んだ。
「何でここにいる」
問い詰めながら花子を見下ろす。まだ笑ってる。
今日は青いチェックのワンピースだ。
「監視です。唄乃さんに頼まれました」
あいつ……どういうつもりだ?
「来るとこ間違えてないか? 監視が必要なのは江崎さんの方だろ」
「間違ってません! 彼女には別の者が張り付いてます!」
「声でけえよ!」
「大丈夫です。あなたにしか聞こえてないし、見えてません」
「何で言い切れる?」
「そうしようと思えば相手を選べるんです」
ああそうかい。
俺は花子を椅子に座らせ、自分はベッドに腰掛けてしばし見つめ合った。
花子は落ち着きなく脚を前後に振り、二秒おきに変顔をシャッフルし、椅子の材質を調べ、机の引き出しを開けたり閉めたりするのに余念がなかった。
「どうやって家に入り込んだ?」
俺は素朴で、その上どうでもいいことを聞いた。
そういう手っ取り早いものから整理していく必要があると踏んだ。
「トイレネットワーク『HANAKO』で御魂の住所を調べた後、下水を通って侵入しました」
こいつ何言ってんだ?
「トイレ……?」
「トイレネットワーク『HANAKO』です」
エイチ、エー、エヌ、エー、ケー、オー。花子は言って、ニッと笑った。
「唄乃さんがゼロからシステムを作ったんです。全国の〝花子さん〟を利用すればトイレ通信網ができるんじゃないかと考えたんですね。あの人は天才です」
「インターネットみたいなもんか?」
「少し違います。インターネットと『HANAKO』では開示される情報が異なるんです。すごくかいつまんで言うと、インターネットはこの世の情報を、『HANAKO』はあの世の情報を得ることができます。いつ誰が生まれたとか死んだとか、魂の行方だとか、その他いろいろ」
「お前らは思念体だって聞いたぞ。あの世のことなんか分かるのか?」
「霊的な存在、ですからね。魂がない分、あの世とこの世に介在しやすい、それは霊感の強い人間も同じことなんだって、唄乃さんは言ってました。実際、私のような思念体は数多くいるらしいです。良い奴も悪い奴も、イメージがエネルギーを帯びて具現化すれば、それが思念体ってわけです」
「へえ……お前は良い奴? 悪い奴?」
「それはあなたが決めることです」
うまく返されちゃったよ。
とりあえず用を足し、飯を食いに下りることにした。部屋を覗くと花子の姿が消えていた。
花子はダイニングの俺の席に座ってテレビを観ていた。
もちろん、誰も気付いていない。
ダイニングには他にお袋と真智とじいじがいて、各々朝食を食べている。
俺は仕方なく親父の席に座る。
「あらお父さんが二人いる」
お袋はノリでよくこういうことを言う。本物の親父はトイレで漫画でも読んでるんだろう。
「今日は親父の気分なんだ。母さん、飯くれ」
「いやよ」
いつものお袋だ。
「清太郎、学校行く前にオセロやらんか? 昨夜はさっさと寝ちまっただろ」
「いいね。俺が勝ったら小遣いだっけ?」
「千円やる」
じいじの笑みは自信と勝機を含んでいた。真智が俺を見ている。
「兄貴、表のチャリどうしたの?」
しまった……忘れてた。
「借りたというか、押し付けられたというか……」
「誰から? ずいぶん保護されてるね」
「保護って?」
なぜかお袋が食いつく。
「トラックにぶっ飛ばされても無傷でいられるくらいの保護。あのまじないは人間業じゃない」
花子がテレビを観ながら大爆笑している。
番組では花見客のマナーの悪さについて特集を組んでおり、資料映像としてベロベロに酔っ払ったおっさんたちの謎の舞いが映し出されている。
花子にはそれがツボらしい。
「可愛い子ね」
束の間、お袋が何を言ったのか理解できなかった。
「迷子かしら?」
「座敷童子だ。目を見りゃ分かる」
「花子ちゃんだよ」
真智が結論を出した。
驚きのあまり呆けるしかなかった。
「一度会ったことある。和服だったけどね。この子とそっくりだった」
「花子ちゃん、ご飯食べる?」
お袋が笑いかける。
「お気遣いなく! お腹減らないので!」
「あらま礼儀正しい。見習いなさい清太郎、今すぐ」
「腹減らんとは便利だな」
「エコって言うんだよ、こういうの」
要するに、この三人には最初から花子の姿が見えていたってことだ。
その上で平然と飯を食い続ける傍ら、言うに事欠いて礼儀がどうしたエコがどうしたと戯言を抜かし合っている。
前々からうちの家系は変人が多いと思っていたが、この件で俺は確信に至った。
「うっわ!」
トイレから出てきた親父が食卓を見て叫んだ。
「俺がもう一人いる!」
こいつら本物だ。
オセロは俺の勝ちだった。
じいじは「待った」を十二回使ったが俺には敵わなかった。
花子とじいじが二回戦目に興じてる間、俺は身支度を整え、真智による靴下チェックを済ませた。黒い靴下は問題なしのようだった。
「昨日の靴下どうしたの? 赤いやつ」
戦況を見守りながら真智が尋ねた。盤面はじいじが優勢だ。
「洗濯に出したよ」
「捨てた方がいい」
「今穿いてるその靴下捨てろって言われたらお前は捨てるのか?」
「いいから。おねがい」
「……ああ」
たかが靴下でなんつう声出すんだよ。真智のこんな声色は初めて聞く。
「じいじはつええなあ!」
盤面は展開が早く、じいじ優勢のまま終局を迎えていた。
花子はルールを知らないか、あるいはじいじに花を持たせてやったとばかりの負けっぷりだ。
それでも嬉しそうで、笑い声が絶えず、リビングは朝からずいぶんと賑やかだった。
「じゃ行ってくるぞ、じいじ」
「おう、気張ってこい」
俺は真智と一緒に家を出て、前庭で体操中のじいじと花子にいつもの挨拶を交わす。
チャリはしばらく押して歩くことにした。
真智はじっとチャリを観察していた。
「誰の?」
しつこい。
「昨日知り合った同じクラスの奴がさ、バスで登下校するなって釘刺すんだよ。そいつ自転車マニアらしくて、十台持ってる内の一台を貸してくれた。せっかく定期券買ったのに」
「その人、自分のこと〝メリー〟って名乗らなかった?」
「さあ? シャムエルとかいう天使らしいけど」
待てよ……そういえばこいつ……。
「お前昨日、占いコーナーに真理を提供する超人の名前は〝メリー〟だって言ってたよな?」
「確証はないけど」
唄乃は『くいだおれストラップ』が俺のラッキーアイテムだと知っていた。
そして確か、合わせ鏡をセットするために唄乃が電話した時、花子はこう言った。
「プロジェクト・メリー……」
その一言で真智が顔を上げた。
「メリーと知り合いなの?」
「そのメリーって何なんだ? 高屋敷唄乃のことか?」
「本名はそんな名前だった気がする……」
「唄乃さんはメリーとは違いますよ」
声に驚いて振り向くとキャリアに花子が座っていた。全く気付かなかった。
「お前……いたのか」
「監視です」
「さっきじいじと体操してたろ」
「楽しい人ですね、じいじ」
お前もな。
「兄貴が連れてきたの?」
真智が好奇の目で花子を見ている。花子はわけもなく笑っている。
「家宅侵入だよ。ネズミみたいに下水を通ってきたんだと」
「ネズミと一緒にしないでください!」
「つーか、お前なんで家族みんなに見られてるんだよ。声や姿は消せるんじゃなかったのか? 一般家庭なら警察に引き取られてるぞ」
「うっかりしてました。でも、みんないい人たちで良かったあ」
「ありゃ変人集団だ。真智もさ、もっと驚いていいんじゃね?」
「……でも可愛いし。寝起きブスの兄貴の方がびっくりだよ」
真智は言いながら花子のおかっぱを撫でた。
「今更だけど、お前なんでオセロなんかできるんだ? こっち側のものに触れるのか?」
「唄乃さん曰く、これはエネルギーっていうらしいですね。万物がどうこうって言ってました」
確かにそんなこと言ってたな、殴りながら。
「ある程度の質量なら互いに干渉できるみたいです。今朝私を担いだ時みたいに、エネルギー量は質量に比例すると考えていいかもしれません。干渉できるといっても自分の体重くらいが限界らしいんですけどね」
「だから合わせ鏡を用意できたし、ほら、こうやって座ったり歩いたりすることだって触ることと同じじゃないですか。唄乃さんは重力というエネルギーがある以上、地球上で触れないものはないって言ってましたけど、重力を理解できない私にはちんぷんかんぷんでしたね」
『ちんぷんかんぷん』のアクセントの入れ方が花子独特で、俺はつい笑ってしまった。
「体重って、お前何キロだよ?」
「女の子にそんなこと聞かないでください!」
「花子ちゃんはメリーの正体知ってるの?」
真智の声は普段より大きくて、通りによく響いた。興奮しているのが分かった。
「プロジェクト・メリーの創設者が唄乃さんなのは確かです。が、メリーの正体は見当がつきません。メンバーの中には唄乃さんをメリーと考える者も多いですが、唄乃さんがそれを否定してますし、私にも詳しくは分からないんです。ただ……」
ただ?
「男、みたいですね。唄乃さんが一度、私との会話の中で〝彼〟と呼んだことがあって、直後に『しまった、口が滑った』って顔をしたんです。あの様子だとメリーに関する情報は非公開のようですし、知り得るのは難しいと思いますよ」
「なあ」
俺はタイミングを見計らって口を挟んだ。
「そのプロジェクト・メリーって何?」
真智と花子は顔を見合わせ、同時に答えた。
「幽霊と友達になるプロジェクト」
二人の話によると、どうやらネット上で発足したプロジェクトらしい。
霊感を持て余す奴らが唄乃の作ったホームページに集まって、それぞれ匿名で活動しているようだ。
メンバーは二十人ほど。しかもその内の一人が真智だというのだ。
で、プロジェクトリーダーが誰あろう高屋敷唄乃であり、幽霊友達第一号が花子さんってわけだ。
「プロジェクトは『HANAKO』が稼働する以前にもう動き始めていたみたいですね。〝メリー〟の由来は都市伝説『メリーさんの電話』が関係しているみたいですが、詳しいことは謎に包まれたままです。メリーさんと友達になろうとか、そういうことじゃないですかね」
「今は何やってんだ? そのプロジェクト」
「メリーさんの電話番号考察」と、真智。
「それに、降霊儀式。みんな失敗したけど唄乃さんだけが成功したみたい。しかも出てきたのが死神だったらしくて、処理にずいぶん手こずったって言ってた」
その死神がたまたま俺の命を狙ったってのか?
朝生が同じクラスだった件といい、話ができすぎだ。
唄乃の奴、マジで何か隠してやがるな。
あいつが俺に近づいた本当の理由は何だ?
真智と別れた後、花子を乗っけたままチャリを漕ぎ、江崎さんとの待ち合わせ場所に向かった。
わくわくした。彼女に会えるのが嬉しくて、軽快にペダルを踏み込んだ。
「そういや、江崎さんについてる監視って誰なんだ?」
「分かりません。江崎さんにも内緒みたいですよ」
「お前だって内緒のはずじゃなかったのか? 少なくとも俺以外の人間には」
「物事ってうまくいかないもんです」
いっちょ前に達観してら。
「待った?」
待ち合わせ場所には既に江崎さんの姿があって、チャリに跨ったまま川の方を眺めていた。
「今来たとこ……その子どうしたの?」
やっぱ見えるらしい。
「話すと長いんだ。とりあえず行こっか」
土手を走るそれからの三十分は他愛のない会話で満たされた。
よく聴く歌手とか、苦手な科目とか、好きなアニメとか、本当にくだらない話題だった。
俺が笑うと彼女も笑った。
その連鎖が幸せで、ずっとこうしていたいと感じた。
そして、傍から見たら恋人に見えるのかなとか考えるたび、背後の小娘が歌う陽気な即興ソングで現実に引き戻された。
「あれ……?」
橋のたもとで信号待ちしていると見覚えのある女の子が目にとまって、俺は思わず声を上げた。
江崎さんにどうしたの、と声を掛けられた。俺は橋の方へ目配せした。
「あの子、橋から河川敷を見下ろしてる子、昨日もここで見た気がして……」
言いながら気付いて、とっさに目を背けた。
あれは地縛霊だ。
やっちまった。俺は江崎さんにまだ幽霊が見えることを話していない。
彼女には橋に立つ女の子の霊が見えないはずだ。が……
「そうだっけ? 八重くんって記憶力いいね」
あれ?
「見えてる? あの子?」
「うん。制服着てる女の子」
なんだ……人間かよ。紛らわしい。
江崎さんにも幽霊が見えてるって線は否めないが、この話はもうよそう。
見えるようになって分かったが、はっきり言って幽霊のことを話題にするのは気味が悪い。
目が合えば何をされるか分からない。特に唄乃がそばにいない時は注意が必要だ。
昨日出くわした怨霊のように、唄乃の手に負えない輩だってたくさんいる。
視認できるといっても俺が非力であることに変わりはないんだ。
学校へ着くと唄乃が玄関ホールで走り回っていた。
虫取り網を手に持ち、床を駆ける何かを捕まえようとしている。
関わりたくないが無視すると良心が痛む。花子もいることだし、仲介させるか。
「唄乃さん、何してるんですかあ? 私も混ぜてくださいよ!」
肩で息をしながら振り向く唄乃。俺たちに気付くとふらふら歩み寄ってきた。
「三人とも、四階女子トイレに集合よ。花子ちゃん、案内してあげて。私もすぐ行くから」
この女子トイレに正規の入口から入るのは初めてだった。
トイレは『立入禁止』になっている。
ドア窓にお粗末な紙が貼られ、ひしゃげた字でそう記されている。花子の字に違いない。
禁止だろうが何だろうが、女子トイレに入るのはやはり気が引けた。
花子が俺たちを先導する。
「ささ、こちらです」
料亭の女将みたいな立ち振る舞いで便所に案内するのはやめてほしかった。
周囲を気にしつつも中へ踏み込む。
幸い、廊下は閑散としており、ひと気はない。
割れた手洗い台の鏡はそのまま、床に散らばった破片や姿見はすっかり片付いている。
一日経った新鮮なメンタルで窺うトイレは、昨日とまた違った様相を孕んで見えた。
トイレ特有の湿りや臭気はなく、代わりに憂いにも似たうら淋しさを醸している。
少し寒い。壁や窓がすすけている。
閉鎖から大分経つらしく、トイレ全体が干からびて忘れ去られた廃墟のようだった。
「ここに何かあるの?」
江崎さんの声は静寂のトイレによく響いた。花子がワンピースを翻しながら躍り出る。
「私が住んでます」
言って、個室の前に立ち、ドアをスライドさせた。
中は二畳一間の洋室だった。
白の壁紙。ベージュのカーペット。少女漫画いっぱいの本棚。壁際のカウンターには小型テレビ、電気ポット、湯呑、デジタル置き時計。
中は意外に広い。
壁が取っ払われて両サイドの個室と繋がってるせいだ。
右の個室は部屋というよりクローゼットに近い。色とりどりのワンピースや洋服がかけられている。
ブランド志向はなく、むしろ安っぽい。
左の部屋には小さなベッド……それを言うなら花子サイズのベッドが詰め込まれている。
枕元のブサイクなテディベアが俺を見上げて笑っている。
便座に取って代わるのは革張りのリクライニングチェアだ。
この異様な空間にすっかり馴染むようにして〝人体模型〟がくつろいでいる。
保健室で見かけた、四肢の揃った立派な分解モデルだ。
虚ろな眼球がどこともつかぬ虚空を見上げている。
剥き出しの内臓と脳みそ。色分けされ、複雑に絡み合う動脈と静脈。
筋線維から成る骨格筋の滑らかな曲線美。
「なんだこれ……?」
『女子トイレ』という現実に『二畳一間の人体模型』という非現実が重なると脳みそはパニックを起こすらしい。
俺は使い慣れた言語が声と一緒に欠損していく脱力感を生まれて初めて味わった。
部屋を埋め尽くす調度品の数々や、人体模型がどういった物なのかは理解できている。
名前だってすぐ浮かぶし使い方だって把握している。
しかし、なぜそれらがこのトイレに存在しているのかと考えた時、個々を形成する概念は俺の中で意味を失った。
さながら酢豚のパイナップル、メロンの上のハムだった。
いやそれより酷い。
「お待たせ」
背後でドアの開く音がして、唄乃が疲弊面で現れた。声が掠れている。
「全員揃ってるわね」
唄乃はまず俺を、次いで江崎さんを見てから花子に視線を下ろし、最後に俺たちの背後を見上げた。
振り向くと視界を塞ぐようにして人体模型が立っていた。
「初めまして、私はマックス。以後お見知り置きを」
深みのある男の渋い声が名乗った瞬間……
「なんでやねん!!」
江崎さんの裏拳が人体模型の胸筋に炸裂し、露出した肺の片割れを吹っ飛ばした。
キレのあるツッコミだった。
腰を落とし、軸足で踏み込む。痛快な打撃音が周囲に轟いた。
その余韻をかき消すように放たれる「なんでやねん」。
迷いのない、完璧な軌道でツッコミは成立した。
すっきりしたのか、一皮剥けたのか、江崎さんの表情はどこか清々しく見えた。
あの高屋敷唄乃含め、全員が面食らっていた。
「アカン」
肺を拾いながら江崎さんは言う。
「やってもうた」
こてこての大阪弁だった。関西人が江崎さんの声を借りて喋ってるみたいだった。
「せやかて、普通はびっくりするやろ? 個室開けたら〝トイレ喫茶〟で、ほんで人体模型がくつろいでるんやで? 常識ハズレにも程があるっちゅーねん。しまいにゃこのあんちゃん、立ち上がって『初めまして、私はマックス。以後お尻をどーのこーの』て、んなボケられたら本気でツッコミたくもなるやろ。生きとんのかい! しかも喋れんのかい! って。うちな、昨日から色んなとこにツッコミたくてウズウズしてたんや。大阪にいた頃はめちゃ大人しい女の子で評判やったんやで。べっぴんさんやね~アメちゃんあげたろとかようチヤホヤされとったんやけど、なんやあんたらとおると猫かぶってられなくなるいうか、そないな自分でおるんがアホくさくなってきて、ついツッコんでもうたわ。あんたらを悪く言うてるわけやないで? むしろ褒めとるんや。環境に恵まれなかったから、あんたらとこのおかっぱちゃん、ほんで人体模型……マックスさんやったっけ? と出会えて感謝しとるんよ。屋上で初めて会うた時はなんやけったいなやっちゃな、関わらんどこ、とか思うとったけど、今はそないなことあらへんで。ちゅうわけで、改めまして、うちの名前は江崎美弥や。よろしゅうな」
『よろしゅうな』で小気味よく肺を元あった場所へ戻す江崎さん。
日本語を喋る人体模型より大阪弁を喋る江崎さんの方がよほど衝撃的だった。
江崎さんはそれきり、言いたいことは言い切ったとばかり喋らなくなった。
俺たちのリアクションを確かめるような視線を投げかけてくる。
決して、大阪人にありがちなお喋り好きの血が騒いだわけじゃないんだと、俺はすぐさま察した。
頬が紅い。笑顔が強張っている。早口でまくし立てたのは緊張を誤魔化すためだろう。
それが本当の自分を披露するということだ。
そういうことに対して俺たちは、『嫌われるんじゃないか』『受け入れてもらえないんじゃないか』と身構えて臆病になりがちだ。
江崎さんは改めて自分の名を明かした。本当の自分でいるためにそれを選択したんだと、俺たちにはちゃんと分かっていた。
「俺は八重清太郎、よろしくな」
俺は言って、努めて明るく笑いかけた。
「方言喋る幽霊ってのも悪くないわね。今度探してみようかしら」
唄乃は流暢な大阪弁をお気に召したようだった。
江崎さんは小さく破顔して、ほっとしたように細めた眼で俺たちを見た。
「うちな、ほんまはこないにお喋りやないねん。せやから疲れてもーたわ……」
「なんで隠してたんだ? 大阪弁のこと」
「こっち越してから親が禁止してん。方言を嫌っとるわけやのーて、標準語こそ日本人の喋る言語やと勘違いしてんねんな。参るやろ? こういう親なんや」
……俺たちが手出し可能な世界なんてこんなもんか。
親がいなけりゃ生きていけない。歯向かえば罰が待っている。
それは当然のことだが、俺たちが納得できないものをしっかり説明できる大人は多くないんじゃないか、と俺は思う。
俺たち子供が楯突くのは何かが腑に落ちないからで、校則にしろ親の言い分にしろ、従う方の感性はいつだって大人より敏感だ。
〝ダメなものはダメ〟では伝わらない。
こういう環境では求めているものの多くが手の届かない場所にあり、俺たちは成す術もなくあがくしかない。
そのあがきが、あるいは死の衝動を招くことだってあるかもしれない……江崎美弥がそうだったように。
「江崎さん……」
「美弥でええよ、清太郎」
清太郎……それが自分の名前だと気付くのに時間がかかった。
下の名で呼ばれたことが意外だったからだ。
俺を見る彼女は力なく笑っていた。
「何かできることがあったら言ってくれ。俺が美弥の力になる」
美弥の顔から笑みが消え、狼狽色に染まった。
ちょっとクサかったかな?
花子がキャーキャー、イヤンイヤン言いながら顔を手で隠す傍ら、俺は一抹の不安に駆られていた。
杞憂だった。
美弥はもう一度俺の名を呼んで、明朗な語調でこう続けた。
「おおきに」
〝ありがとう〟……脳内で変換された言葉が細胞の一つひとつに染み込むのを感じた。
そうして初めて、俺は美弥に恋する自分自身と向き合うことができた。
俺は美弥と屋上で出会う前から、ずっと彼女のことが好きだった。そのことを忘れてしまっていた。
理由は分からない。どこで会ったのかも思い出せない。
一つ確かなのは、何かの拍子で置き去りにされた恋心がやっと〝今〟に追いついたってことだけだ。
「さて」
唄乃が仕切り直した。
「そろそろ本題に入るわよ。その前に、美弥」
唄乃は昨日アーケードで起こったこと、そこで朝生を拾ったこと、花子のこと、自分に霊感があることを大雑把に説明した。
聞き上手の美弥はここぞというタイミングで合いの手を入れ続けた。
そして、質問ある? という問い掛けに対し、一つだけこう尋ねた。
「川の向こうには何があるん?」
俺にしたのと同じ質問だった。
あの時はヘンなことを聞くもんだと軽く流したが、唄乃はそうじゃなかった。
大真面目な顔でこう答える。
「自由があるよ」
言って、神妙な声色でこう結んだ。
「苦しみの果てにね」
代価が付きものだといいたいらしいが、それ以上のことは分からなかった。
美弥も美弥だ。
これだけ摩訶不思議な話を聞かされて知りたいことはそれだけか?
愚直に受け入れたか、あるいは信じてないかのどっちかだろう。
唄乃が人体模型の方へ向き直った。
「彼はマックス。れっきとした幽霊よ」
人体模型はこの数分、然るべき役割を思い出したように突っ立ったまま、事の成り行きを物言わず見守っていた。
無論、こいつの役割は「初めまして、マックスです」と清々しくボケることではない。
「挨拶してくれたのに無視して悪かったな、マックス」
……いや、あのツッコミはむしろ最高のリアクションか。
「気にしないでくれ。立つことには慣れてるんだ」
マックスは人形らしからぬ滑らかな身振りでそう言った。
言ったというより、音を発したとか、振動させたという方が近いかもしれない。
何しろ唇が上下くっついたまま開かず、声の出所も声帯ではない気がした。
よく腹から声を出すというが、マックスの場合、本当に腹の奥から声が聞こえるようだった。
動作も実にスマートだ。
指の動きなど人間と見紛うばかりで、露出した筋肉と関節の連携がほぼ完璧に構築されているのが分かった。
こうなると内臓フルオープンのグロテスク人形になりがちだが、材質がプラスチックではチープな見てくれに取って代わるのがオチだった。
「日本語喋るのにどうして名前はマックスなんだ?」
「この憑依体はドイツ製なんだよ。足の裏に名前と製造番号が記されていて、そこにマックスと書いてあったのを唄乃が見つけたんだ」
幽霊の足裏を見たがる奴は唄乃くらいだろうな。
そのうち尻の穴だって覗きかねない。
「幽霊なんて名ばかりだと私は思うよ」
なにか語り出した。
「唄乃のような存在が我々にもたらすものは貴重なコミュニケーション手段に他ならない。彼女の前では霊体も人間もさほど変わりなく、隔てるものは偏見という魂よりも透けて儚いものに相違ない」
「我々は生きている。意思を掲げながらそれに気付ける者を待っている。これを幽霊と呼ぶのなら人もまた幽霊ではないか。心からの叫びが誰の御魂にも響かない時、人は孤独という闇を羽織って死ぬのだ。そして、霊体になって生き返るのだよ」
まるで哲学だ。
「教室でボーッとすることが心肺停止に繋がるわけじゃない。人を孤独に追いやるのは環境だ。誰かが手を差し出せばそいつは笑う」
俺は率直な意見を述べた。
「その〝誰か〟が、我々には少なすぎるのだよ」
虚ろな声。
その言い方が俺を嘲るようにも自身を悲観するようにも取れるのは、マックスの面相が終始無表情だったからだ。
マックスは俺の方を向いてはいるが、向いてるだけで見てはいない気がした。
関心が俺の体をすり抜けてしまっている。故意ではなく、まがい物の眼球が見せる不幸な演出だ。
事実、マックスは他の幽霊と比べてポジティブ過ぎるくらいだ。そのへんの幽霊は自分たちを『生きている』とは言わないだろう。
「で、うちらをここに集めて何するん?」
美弥の流暢な大阪弁で思わず振り向いてしまった。
「マックスの心臓捜し」
唄乃はずっと手に持っていた虫取りカゴを掲げた。
中で小人が暴れている。ふんどし姿ではない。
ボロ切れをまとった汚い身なりで、見た目はかなり若い。
子供だろうか? カゴの網目を噛み切ろうと歯を立てている。
「何なん、それ?」
「小人よ」
「へえ、かぁええなあ」
美弥がつんつんすると小人は大人しくなった……って、あれ? 美弥にも小人が見えてる?
「この子は小人の中でもかなり知能が高い。嘘をつくし、狡猾で口がうまい」
小人は甲声で悪態を吐き連ね、唄乃の鼻に蹴りを見舞おうと暴れまくっている。
「この子何かしたん?」
「昨日の朝から昼にかけて、マックスの心臓が盗まれたの。この子はその目撃者」
「何も見てねえよ! バーカ! ブース!」
キーキー喚く小人。
「たくさんの小人があなたの名を挙げたわよ。心臓泥棒の目撃談を自慢気に触れ回ったらしいわね」
小人は暴れるのをやめた。
「……誰だよ、チクった奴」
「話しなさい。泥棒は誰?」
「解放しろ! 話はそれからだ!」
唄乃は言われるまま放してやった。小人は逃げるかと思いきや、美弥の頭にちょんと乗った。
「これ飼ってもええ?」
美弥に頭を撫でられる小人は満更でもなさそうだった。
「さあ、話してちょうだい」
「……話したら仕返しされるかもしれねえ」
「姿を見られたってこと? だったらその場で消されてるわよ」
一理あるがビビらせてどうする。
「犯人を見たのか? いつ、どこで?」
俺は穏便に問う。尋問のセオリー通り〝飴と鞭〟ってわけだ。
「保健室さ。昼頃だったかな。窓が開いてたから忍び込んだんだ」
「マックスは何してたん?」
「昨日は昼まで寝ていた」
マックスの思わぬ返答に美弥が声を上げて笑った。
「おばけも寝るんやな! おもろいわあ!」
「幽霊といっても私たちと大差ないのよ。考えるし、喋るし、歩けるの。違いはそれを表現する肉体の有無だけ」
「そこで何を見たんだ?」
俺が先を促す。小人は白状しようか決めあぐねてる様子で、しかし唄乃に睨まれながらも淡々と喋り出した。
「男子さ。ここの生徒だろ。制服着てたし」
あの時間に保健室のベッドで寝てた男子……朝生じゃねえか!
「そいつベッドで寝てたけど不意に起き上がって、ふらふら歩いてそこの巨人とぶつかったんだ。二人は一緒に倒れて、内臓が飛び散った」
「……それ盗まれたんじゃなくて、まだ保健室に転がってんじゃねえのか?」
「見つからなかったのだ」
マックスの声は飽くまでも冷徹だった。
「誰もいなくなってから探したが、心臓だけは見つからなかった。これは私だけでは見つけようがないと思い、このトイレへ来た。唄乃なら力になってくれると考えた。私たちは春休みの間にずいぶん親交を深めたのだ」
故に、唄乃は朝から虫取り網を振り回していたと。
「朝生がその生徒だとして、心臓を盗んだとは思えない。メリットがない」
俺の見解に唄乃も頷く。
「マックス、眠った時間と、最後に心臓を確認したのはいつ?」
「眠ったのは陽が昇ってからだ。夜はほら、気分が高揚するだろう? 暗い廊下を歩いたりしたかったのだよ。私にとっては散歩みたいなものなのだ。その時確かに心臓はあった。保健室に戻ってからもあった」
「朝寝て、藤原くんがぶつかるまでの間になくなったってことね」
唄乃は眉根を寄せた。
「私たちが彼を保健室へ運び込んだ時、心臓はまだあったのかしら?」
「……思い出せん」
「だいたい、お前にとっての心臓って何なんだ? そんな大事なもんなのか?」
小人がマックスを見上げながら問う。
改めて見ると確かに、マックスの体には心臓らしきものが見当たらない。
動脈と静脈が肺に挟まれたまま当てどなくぶら下がっている。
「どうだろうか……心臓と言ってもただのプラスチックだからね」
それを言っちゃおしまいだ。
「ダメ、ちゃんと見つけ出さないと」
聞き捨てならぬとばかり唄乃が声を上げる。
「抽象的なものに霊力が宿るのは珍しいことじゃない。心臓があなたにとって大事な役割を担っていた可能性は大きい」
大事な役割て? 美弥が聞くと、答えたのはマックスだった。
「心臓とは森羅万象の中枢なのだ。バランスを司る。欠ければ崩壊する。私は知らず知らずの内に、魂の一部を心臓という器に宿していたかもしれない。これは憶測に過ぎないけどね」
「だが君たちだって、自分の魂が体のどこにしまってあって、そこでどんな姿形をしているかなど分からないだろう? ただ、心臓というのは大切な器官だからね。第二の脳と呼ばれるくらいだ。そういうものに魂が宿るのは自然なことだと、唄乃は言いたいのだよ」
「けど、マックスはここにこうして立ってるじゃないですかあ」
花子がマックスを仰ぐ。魂が心臓と一緒に失われたなら、このように喋ったり立ったりできるはずがない、と言いたいらしい。
「私にとって心臓はもっと別の役割だったのかもしれない。なんだか、心臓がなくなってから落ち着かないのだ。例えば君たちが家に何か忘れたとする。財布、時計、携帯電話、外で肌身離さず持ってるものだ」
「すると、ほら、どうにも落ち着かないだろう? 別に死ぬわけではないのに、焦燥感で何も手に着かなくなってしまう。これが自分にとってバランスを欠くということなら、まったくもってその通りだと思わないか? 今の私はそれに近い状態なのだよ」
話を聞いてると、マックスの生前がありありと思い浮かぶようだった。気さくで話し上手、嫌われるより好かれるタイプの人間だろう。人柄を表すように表情筋が笑みを象っている。
「こういう探し物って霊力でなんとかならないのか?」
唄乃に聞いてみる。顔をしかめたまま、反応はかんばしくない。
「世間ではそれを『占い』と呼ぶわね。私は真理を探るのは好きだけど、占いなんかやらないし、千里眼やら透視やらで探し物なんて甚だ専門外よ。超能力者じゃあるまいし」
俺にとっちゃ霊能力も超能力も大して変わらないんだが、唄乃はどうもそのへんを線引きしておきたいらしい。
プライド故のこだわりってやつだ。
予鈴のチャイムが鳴った。時間切れだ。
俺たち三人は花子、マックスと別れ、一旦その場をあとにした。
「朝生、保健室で人体模型ぶっ倒しただろ?」
昼休み。
一緒に飯を食いながら俺は尋ねた。朝生は箸を止め、俺を見て笑みを漏らした。
「参ったなあ」って感じの笑い方だ。
「どうして知ってるの? もしかして心臓なくしたこともバレちゃったかな?」
「心臓なら見つかったよ」
「そうなんだ。よかったあ」
もちろんまだ見つかってない。反応を見るためにカマをかけてみたが、この様子だとやはり朝生は白だ。
「起きたら誰もいなくて、枕元に書き置きがあったんだ。八重くんの名前が書いてあったよ。立ち上がったら眩暈がして、何かにつかまろうと人体模型に手伸ばしたらそのまま倒れちゃった。焦ったよ。内臓が全部飛び出して、先生が戻ってくるまでに戻さなきゃならなかった。でも心臓だけ見つからなくてさ……」
先生……そうか、保健室にいたのは朝生だけじゃない。
折しも唄乃と美弥が購買から帰ってきて、両手に抱えた大量のパンを机上に撒き散らした。
「おい唄乃。先生だ。俺たちが朝生を寝かせてから先生が出入りしてる。心臓のことを知ってるかもしれない」
「それはない」
唄乃は俺を見向きもせず一蹴した。わけが分からない。
「なんで言い切れる?」
「……今朝、先生にそう聞いたから」
誤魔化すの下手だな。視線といい喋り方といい、俺に隠し事する時のサインが出まくりだ。
こういう状態の唄乃に詰問は無駄だろう。
それに、唄乃が違うと言うからには違うはずだ。今こいつを疑う理由はない。
「弁当ウマそやな。おかんに作ってもろてるん?」
俺と朝生の弁当を交互に覗き込む美弥。
俺たちは同時に「そうだよ」と答える。同時に互いを見る。同時に瞬きする。
「あんたらそっくりやな」
同時に弁当を食べ始める。俺はしばらく思い耽った。
「朝生、お前さ、誰かに似てるって言われたことないか?」
「今、江崎さんに……」
「それ以外で」
さあ? 朝生は首をひねった。
「飼ってる猫が僕に似てるよ。あくびの仕方がそっくりなんだ」
知るか。
「どっかで見たことあんだけど、思い出せねえんだよな。お前見るたびモヤモヤするよ」
「なんだか悪いね。この卵焼きあげるよ、きっと元気になる」
「ええなあ。うちにもミニトマト食べさせてや」
「はいどうぞ。大阪弁記念だよ」
「なんだそりゃ」
「おっ、ええツッコミやね。勢いあったら尚良かったで、清太郎」
みんなが笑っていた。唄乃を除いて。
分かっていた。
唄乃に友達がいないってこと。少なくとも、俺を『大切な友達』と呼ぶまではそうだったはずだ。
幽霊が遊び相手だったこいつには一線を越えた付き合い方が分からないのだろう。
唄乃にだって感情はある。怒るし、喜ぶし、手品を見せれば目を輝かせることだってできる。
俺がそれを知ってるのは、唄乃が俺に心を開いたからだ。
唄乃が心を開いたのは、そうすることで得られるものがあると気付けたからだ。
もったいない……分かち合えるものをたくさん持ってるのに……俺たちならそれを受け止めてやれるのに。
もったいないじゃないか。
「今日、遊びに行かないか?」
提案してみる。
「この四人で」
放課後。俺たちは繁華街にあるカラオケ店目指して歩いていた。
のんびりと交流を深めるため、チャリは置いていくことにした。
俺が提案した時、朝生は二つ返事で承諾し、美弥は思い切ってピアノのレッスンを蹴った。
唄乃はマックスの心臓捜しを理由にずっと断り続けていたが、遂に折れた。
手掛かりが一向に掴めなかったからだ。
目的地までは徒歩で三十分。二人ずつ横に並んで移動する。
唄乃にはまず美弥と並んでもらう。美弥なら相手が誰だろうと話題が尽きまい。
俺は朝生と歩く。
「で、どっちなの?」
前を歩く女子二人を眺めながら朝生が問う。
街の雑踏にかき消されそうなほどの小声だった。
「何が?」
俺はとぼけた。
「気があるからこうやって誘ったんでしょ? どっちかな、と思って」
こいつ、何も考えてないように見えて意外と鋭い。
いるよな、こういうことに突出した奴。
「どっちも好きだよ」
「ずるいよ、そんなの」
ニヤニヤしてんじゃねえよ、ったく。
「誘ったのは唄乃のためだ。なんか……寂しそうだったから」
「じゃあ本命は江崎さんか」
「ああ、好きだよ」
隠さなかった。むしろ清々しかった。
朝生は決してはやしたりせず、なぜか嬉しそうに俺を見ていた。
「応援するよ。忘れないで、僕は君の味方だ」
「……おう」
何か企んでるんだろうか? 掴み所のない奴だ。
女子の方を見ると美弥が一人で喋っていた。
唄乃はうつむいたり、空を見上げたり、行き交う車を目で追ったりしている。
幽霊を探してるんだな、と思った。
自分にふさわしい友は隣にいるようなかしましい女じゃなく、もっと大人しくて、波長のシンクロする霊的な存在だけなんだとその背中は語っている。
俺は唄乃を呼び、美弥の話し相手として朝生を送り込んだ。
柔軟な朝生ならのらりくらりとやり過ごせるだろう。
唄乃は俺の隣に着くや、肩が触れるほど密着した。
美弥のマシンガントークがよほど怖かったに違いない。
「何話してたんだ?」
「さあ? 聞いてなかった」
ひでえ奴だ。
美弥は相手が朝生でもお構いなしだった。弾むような大阪弁がこっちまで聞こえてくる。
「お前には俺なんかより、美弥の方がお似合いだと思うけどなあ」
「どうして?」
「美弥には引っ張る力がある。俺は引っ張らない。差し伸べてやるだけだ」
「それでもいい」
「……だろうな」
何とかしてやりたいが……こればっかりはどうしようもない。
唄乃は美弥を嫌ってるわけじゃなく、ただ肌に合わないだけだ。
人付き合いってのは常にそういうことの繰り返しだ。
友情の育み方なんて個人の自由だし、それをこいつに強要することはできない。こいつのテリトリーに踏み込んじゃいけない。
「プロジェクト・メリーの方は順調か?」
食いつきそうな話題を振ってみる。唄乃は怪訝な眼差しで俺を見た。
「誰から聞いたの?」
「今朝、妹と花子から」
「……そう」
ん? あんまり乗り気じゃない。
「何かあったのか?」
「……プロジェクトが動き出してる」
「はあ……え?」
「みんながあなたを助けようとしてる」
いきなり何言ってんだ?
「タナトスのことか?」
「……早く帰って来て」
「おい」
「……八重くんを失いたくない」
「唄乃……どうした?」
我に返ったように顔を上げる唄乃。俺を見つめる瞳が少し濡れている。
「なんでもない……ちょっと怖くなっただけ」
様子がおかしい。密着していた肩を剥がし、少し距離を置く。
そうすることで普段の自分を取り戻そうとしているように見えた。
「私にとって、プロジェクト・メリーは逃げ場だった」
おもむろに語り出した。
「最初に幽霊を見たのは幼稚園の通園バスの中だった。蒼白い半裸のおじさんが紛れ込んでて、そのおじさんが私以外の誰にも見えないんだって気付いた時、他の子とは違う自分を悟った」
「見えないものが見える私を、周りは不気味に思ってた。一緒にいると祟られるとか、不幸に遭うとか、噂が一人歩きし始めた。誰にも相談できなかった」
「家族は? 親は?」
「話すと叱られた。漫画の読みすぎ、テレビの見すぎ。私を見る両親の目は疑念に満ちていて、その目を見るたびに罪悪感で涙が溢れた。私は悪い子なんだ、嘘つきなんだ、そう思うようになって、孤立していった」
「だから自分と同じ境遇の奴らを募ったのか」
「ネット上の集まりなんて幽霊みたいなもんでしょ。ひやかしもあったけど、すごく充実してた。そこが私の居場所だった」
美弥とうまく喋れないわけだ。
「でもさ、こうして俺と会話できるってことは、まだ望みはあるんじゃないか? 幽霊とだけじゃなく、俺たちだって……」
「人間なんて面倒なだけだよ。傲慢で、自分勝手で、裏では汚いことばかりやってる」
「それが人間らしいってことだろ」
「戦争も終わらない。飢餓も止まらない。綺麗事ばかり並べて、結局は誰も救われない。人間なんて……」
「お前だって人間だ」
唄乃はもう何も言わなかった。
「人間が人間を貶めるなんて滑稽じゃねえか。俺が話し相手になる。愚痴でも何でも聞いてやる。だから……死ぬ理由がないなら生きてくれ」
「…………」
そっぽを向いてしまう唄乃。
ショーウィンドウ越しに窺えるその顔が、少し笑ってるように見えた。
カラオケは盛り上がった。性格が露呈するというか、こういう空間は個性が研ぎ澄まされることを改めて認識した。
朝生は十八番の演歌を熱唱しつつ、曲と曲の合間を見計らってはジュースが無限に出続けるドリンクバーに夢中になった。
しかもトマトジュースばかり飲むので美弥にヴァンパイアかとツッコまれる始末だ。
美弥は流行りの曲に疎く、十年くらい前のJ-POPを大阪弁にアレンジして場を盛り上げた。
あまり上手くないが、音痴はノリと勢いで誤魔化せるものだと体を張って証明してくれたのは美弥が初めてだった。
唄乃は歌がうまかった。意外だった。
あの下手くそな鼻歌が嘘のようだ。マイクを握ったことにも驚きだが、歌唱力は四人の中でダントツだ。
怒鳴り散らすだけあって声量もある。
曲目もまさに十代女性が歌うレパートリーだし、唄乃は思ったより女子力があるのかもしれない。
家でクッキーでも焼いてんのかな、とか想像してみる……エプロン姿も案外似合うんじゃないだろうか。
ちなみに俺は〝普通〟だ。
場を白けさせない無難な選曲センス、不快にさせない歌唱力、どれをとっても普通の一級品だ。
美弥は本当に元気だった。
周囲の歌い疲れを察するやハイな曲を一発ねじ込み、強引にマイクを握らせると、前へ出て一緒に歌わせようとする。
そのちぐはぐな感じがどうにも面白くて、俺はずっと笑いっぱなしだった。
帰り道、あたりはすっかり暗くなっていた。
唄乃は別人のようにご機嫌で、美弥と腕を組んで歌いながら帰路を辿った。
朝生は俺の横でずっと笑顔だった。
ニヤニヤしたいやらしい笑い方ではなく、今この瞬間が楽しくてしょうがないという笑みの浮かべ方だった。
この三人を見てると俺も笑顔になる。誘って本当に良かった。
朝生とは途中で別れた。学校へ戻ると二十時を過ぎていた。
「私はマックスの様子を見に行くから。二人は先に帰ってて」
唄乃の声がいつもより弾んで聞こえた。
「え~……待っとるよ?」
「いいから。じゃあね、また明日」
俺と美弥は渋々とチャリにまたがり、暗い家路に着いた。
「ピアノ、大丈夫なのか? 母ちゃん怒るんじゃね?」
「ええんよ。サボるの初めてやないし」
「今日は楽しかったな」
「あんな騒いだん初めてやわ」
「初めてであのノリはすげえな」
「せやろ。ごっつ燃え尽きてん」
家まで送ることになった。駅前だから遠回りになるが、そんなことは全く問題にならない。
「ケータイの番号交換しないか?」
思い切って聞いてみた。グリップと汗を同時に握っていた。
女の子に……それも意中の相手に番号を聞くのは初めてだった。
断られる理由などないと思ったが、割とあっさり断られた。
「うちケータイ持ってへん」
それもそうだ……勉強第一の親が子供にケータイなど買い与えるわけがない。
今は緊急用に持たせる親も多いが、やっぱりこの手の親の教育方針は『過保護』や『箱入り』の類とは完全に別物らしい。
「家の番号でええ? 知らないよりマシやろ?」
「ああ」
俺は赤信号で止まってる間に番号をケータイにメモした。メモしながら、親が出たら気まずいだろうなと
か、どう自己紹介しようとか、そんなことばかり考えていた。
美弥の家は駅前の高級住宅街にあり、予想通りなかなかの佇まいだった。
前庭は手入れの行き届いた庭園になっており、見上げるほどの松が下々を覗き込むようにふんぞり返っている。
家に明かりはなく、闇に溶け込んでいる。
「誰もいないの?」
「この時間は誰もおらへん。親は遅くまで帰って来ぃへんし」
「お兄さんは?」
「……学校やろ」
言葉には「これ以上聞くな」というニュアンスがあった。
美弥も意図していなかったのだろう。ハッとした様子で俺に笑いかけた。
「今日はほんまに楽しかったで」
「俺もだよ」
「……ほな、さいなら」
美弥が言うと寂しい言葉に聞こえた。明るい美弥にはふさわしくない。
去っていく背中が夜を背負って、段々と小さくなっていった。
その晩、夢を見た。
俺は秋晴れの下、競技場のトラックを眺めていた。
今、スタートラインに立っている。
視界いっぱいに、俺を起点に地平へと伸びる百メートルトラックが横たわっている。
ここからゴールラインは見えない。それは緊張と不安とを結ぶ俺にとっての消失点だった。
両隣にはユニフォーム姿の走者がいて、目に闘志をたぎらせている。
こいつらはライバルだ。どこまでも食らいついてくる。
俺はそれを振り払うまでだ。
〝On your mark〟
位置に着く。
神経が研ぎ澄まされていく。雑音の一切が消える。骨を伝う心音のリズムを感じ取る。
緊張がピークに達した瞬間、撃ち鳴らされた空砲の余韻が、スターティングブロックから射出されるライバルたちの足音と重なる。
俺はどの走者より前へ出て、その音を後方に聞いていた。足がもつれ、転倒するまでずっと……。
気付くと俺は仰向けに倒れていて、それを取り囲むように救護班が集まっていた。
赤い救護服がひどく目障りだった。
目を閉じると声が拡声される。骨がどうの外傷がどうのと騒いでいる。やかましい奴らだ……。
目を開けるとそこは病院で、俺はギブスに覆われた右足首の憐れな残骸を眺めていた。
医者が何か喋っているがまるで頭に入ってこない。
隣にお袋がいる。
「夢なんだろ?」
俺は呟く。
「早く目を覚ましてくれ」