二話
二話
そこはトイレだった。
個室が整然と並んでいる。恐らく女子トイレだろう。
中は広い造りだがレストランやデパートにある華やかさはない。
学校……だろうか。慣れ親しんだ雰囲気がある。
もちろん、かくれんぼの舞台に女子トイレを選んでいたわけじゃない。
構造は男子トイレと大差ないのでここが学校だと肌で分かる。
足元のタイル床には鏡の破片が散らばっていた。
振り向くと傘を手に唄乃が立っている。対になった鏡を割った直後らしかった。
どこから調達してきたのか、それは姿見だった。
唄乃の顔はやつれて見えた。肌は土気色で、煌びやかだった黒髪がもつれ、絡み合っている。
しばらく会わない間……穴の中に入っている間に、何かあったんだろうか?
「手、怪我してない?」
「……ああ、平気だ。袖で覆ってたから」
自分の声じゃないみたいだった。
上ずって、変に緊張していた。
化物と追いかけっこし、穴へ飛び込み、そして……何か夢を見た気がするが、はっきりと覚えていない。
思い出そうとすればするほど実体が遠ざかっていく。もどかしさだけが残る。
何かが俺の脚をつついた。
見下ろすとおかっぱ頭の女の子が立っていた。七歳か八歳くらいだろうか。体操着とブルマを身に着けて、手には虫取り網を持っている。
つぶらな瞳で俺を見上げている。
「でかっ!」
電話越しに聞いた声だ。直後、俺の頭は虫取り網の中だった。
「唄乃さん、こいつでかいですね! 捕まえておきました!」
なぜ捕われの身なのか、なぜここに女の子がいるのか、俺は考えることを早々と放棄した。
今はアーケードから脱出できた事実をもっと喜び合う場面だ。が、疲弊してそれどころじゃない。
それは唄乃も同じらしかった。壁に寄り掛かったまま傘を杖代わりにしている。
「放してあげて。八重くんは大切な友達だから」
意外だった。
唄乃が俺のことを大切な友達だと言った。
その声は低く、表情は暗く、感情の読み取れない様相を呈してはいたものの、嘘や冗談でないことははっきり伝わった。
誰かに大切な友達だと言われるのは喜ばしいものだ。
それがどうにも気恥ずかしくて、俺は網から解放される直前までずっと目を伏せていた。
「唄乃、ここはどこなんだ?」
解放されるや俺はしれっと尋ねた。
「桜ケ丘高校。私たちが今日から通う学校よ。ここはその四階にある使用禁止の女子トイレ」
それを聞いてまず思ったのが、どうやら遅刻せずに済んだらしい、ということだった。
「今何時だ? HRには間に合いそうだが……」
唄乃は自分のケータイで時刻を確認したまま固まってしまった。
嫌な予感がした。
まさかと思って覗き込むと、唄乃のケータイは夜中の三時十分を示したところだった。
「ズレてるな……」
俺は見たままを呟いた。
当然、今は朝だ。小窓から陽が射し込んでいる。
自分のケータイを覗くと八時七分だった。おかしい……居酒屋前で時刻を確認してから五分と経ってない。
「花子ちゃん、今の正確な時刻は?」
おかっぱ少女の名はやはり花子らしい。唄乃に聞かれるとすぐにポケットからケータイを取り出し、時刻を確認した。
「八時四分です」
「私が最初に電話したのはいつ?」
「三分前ですね」
こんがらがってきた。
花子の言ったことが本当なら、俺たちはたった三分の間に、『くいだおれストラップ』に髪の毛を巻き付け、放り投げ、化物から隠れ、追い回され、穴に飛び込んで今に至った、ということになる。
ありえない。電話してから十分は経っている。
「二度目の電話は?」
「最初の電話から数秒後です」
「……一体どういうことなんだ?」
「アーケードの中では時間の流れが遅かったのね。それもかなり」
そんな感じはしなかったが。
「ケータイの時刻がみんなバラバラなのは? 俺のは三分進んでた」
「花子ちゃんのケータイだけが正しい時間を刻んでる。私たちのは穴に入ったことでラグが生じた」
……夢か。
「俺、穴の中で夢を見た気がするんだ。内容は全く覚えてないが、三分のタイムラグはその夢に関係してるんじゃないかと思う」
唄乃は肯定も否定もせず、ただまっすぐ前を見たまま押し黙っていた。
この憶測が事実なら、唄乃は穴の中で何十時間も過ごした計算になる。
アーケードでは時間の進みが遅かった。穴の中が正常とは思えない。
やつれた唄乃の姿にも合点がいく。
「私も夢を見た」
唄乃が掠れ声で切り出した。
「うろ覚えだけど、ずっと泣いてた気がする。独りぼっちで、寂しくて……そういう時に出る涙を私はよく知ってる。私のケータイ、日付が二日後になってる。穴の中に四十三時間いたことになる」
「ちょっと待て……俺は三分だぞ? この差は何だ?」
「たぶん、穴に入って夢を見始めてから誰かに起こされるまでの差異だと思う。私は花子ちゃんに見つけてもらうまで時間がかかったし、その間は意識もなかった。八重くんもそうでしょ? 私が手を握るまで夢の中だった」
確かにその通りだ。気付くとそこには唄乃がいて、俺の手をしっかり掴んでいた。
「なぜ夢の中だけ時間が流れたんだ?」
「さあ……なぜかしらね」
まただ。またはぐらかされた。
一度目は悪鬼の正体がタナトスかどうかを尋ねた時だった。
あの時も「そうかもね」とか唄乃らしくない答えが返ってきた。
知識豊富な唄乃は例え推測の域を出なかったとしても、自分の意見や見解をしっかり述べてくれる奴だ。
そして、分からないものは分からないと断言する奴だ。
こんな中途半端な回答は唄乃の本意ではない気がした。
明瞭な答えを知っていて、それを隠すような仕草だった。
俺に気を遣っているんだろうか? なんで?
「行きましょ。その子を保健室へ連れて行かなきゃ」
忘れてた。青年は死んだように横たわったまま、ずっと床に放置されていた。
「唄乃さーん」
花子が唄乃の元へ駆け寄っていく。
「次はいつ遊びにきてくれるんですかあ?」
「……放課後ね」
保健室には誰もおらず、壁際の人体模型が見張りよろしく突っ立っているだけだった。
俺は青年をベッドに下ろし、枕元に書き置きとサインを残してその場を去った。
「花子って幽霊なのか?」
教室へ向かう道すがら俺は聞いた。唄乃の顔色は良くなりつつあった。
「幽霊とは違うわね。あの子は思念体に近い」
「何?」
「魂がないのよ。花子ちゃんの存在は私たちの知識や記憶や情報から創られた、言わばイメージの具現化なの。八重くんなら、トイレと幽霊を関連付けてまず誰を思い浮かべる?」
「……トイレの花子さん」
「だから彼女はあそこにいる」
分かるような、分からないような、具合の悪い回答だ。
「なんでブルマなんだ?」
「着替えさせたの。花子〝さん〟ってのも気に入らなかった。年下に〝さん〟はないでしょ。おかっぱは可愛いから残しておいたけど」
「お前のじゃなく、俺たちの花子さんだろ? そんな好き勝手した挙句この学校に住まわせていいのかよ」
「『花子さん』なんてどこの学校にもいる。言ったでしょ。魂じゃなくて、思念体なのよ」
なるほど、今のは分かりやすい。
「イメージの規模にもよるけどね。花子ちゃんくらいになるとトップアイドルも顔負けの知名度だから、学校のトイレならどこにだって湧いて出る可能性がある。みんなが視認できるわけじゃないけど」
「穴の中でお前を見つけ出せたのは花子が思念体だったからか?」
「分からない。けど夢の影響を受けなかったのは確かね。それに……私たちが見たと思ってる夢も、実は夢じゃないのかもしれない。それはケータイの時刻が進んでいたことからも裏付けられる」
「火星にでもワープしてたのかな」
「あるいは別の時間軸……過去や未来を時空飛行してたのかもしれない。声を掛けられて戻れたことからも、魂だけが肉体を離れて次元の壁を越えた可能性は高い。……でもそれだと、ケータイの時刻は進まないはずなんだけど」
「案外あの世だったりしてな」
冗談で言ったつもりなのに、唄乃は深刻な顔で口を閉ざしてしまった。
次に口を利いたのは教室に入る数歩手前、取って付けたような無表情で俺を振り返った時だった。
「人は夢を見る時、いつだってあの世にいるんだよ。本人が気付いてないだけ」
そう言って、唄乃はきびきびと教室に入っていった。
俺はその言葉の端々に、「そうかもね」とか「なぜかしらね」に共通するあいつなりの〝ぼかし〟を感じ取った。
唄乃はきっと「そうなら面白いわねフフフ」とか誤魔化そうとして、今度こそ踏み止まったに違いない。
あの無表情は感情の無を示唆させるものでなく、何かを押し殺した時に滲み出る作り物のそれだった。
唄乃は何かを隠している。重大な何か……あいつにしか分からない何かだ。
教室には入れなかった。
よく分からん決め台詞を残して教室へ踏み込んでいった唄乃が、慌ただしい足取りで踵を返してきたからだ。
俺という壁に鼻をぶっつけて痛がっている。
何焦ってんだ? 聞くと唄乃は答えた。
「学校で自殺したい時、八重くんならどこを選ぶ?」
ふざけてるんだと思った。
教室へ入るための合言葉を決めておかなきゃね、終いにはそんなことを言い出すに違いない。
「屋上だろ。手っ取り早いし」
真面目に答える気にならない。早く自分の席に座りたかった。〝授業〟という日常へ帰りたかった。
だが唄乃は容赦しない。
「行きましょ、屋上」
そして一緒に死にましょう、ってか?
「説明しろ。俺には屋上へ行く理由がねえ」
うっ……横目で睨まれた。まるで刃物だ。
「私が誘えばそれが理由だろ? 来いよ。人探しだ」
屋上を目指す唄乃の足取りには迷いがなかった。
今日が授業初日だってのに、こいつの脳内にはなぜか学校の地図が出来上がっているらしい。
そういえば、保健室へ向かう時もこんな調子だった。
角を曲がった先に何があるのか、唄乃はすべて熟知しているようだった。
「春休みに遊びに来てたから。花子ちゃんとはその時出会った」
そのことを尋ねるや返ってきた答えがそれだった。
平然と澄ましてはいるが、春休みに学校へ遊びに来る新入生などまずいない。
知ってはいたがこいつやっぱり変人だ。
「ここよ」
唄乃は言って、四階東廊下の末端から伸びる屋上への階段を駆け上がっていく。
「鍵開いてんのか?」
「開いてなかったら誰も入れない。あの子だって入れない」
「〝あの子〟が外から施錠してたらどうする」
「外から鍵はかけられない。もう調べてある」
「さすが」
ドアは抵抗なく開いた。
薄暗い空間に眩いほどの光が差し込む。
青空と川と桜ケ丘の街並みが、ドアの額縁に納まる風景画さながら眼前に広がった。
ただし、屋上はひどく殺風景だ。
だだっ広く、周囲を高いフェンスに囲まれている。
ベンチや花壇を彩りよく並べて、生徒を手厚くおもてなししようなんて風情は微塵も存在しない。
それを助長するように冷たい風が吹いている。
この風……何かヘンだ。
さっき外にいた時とだいぶ違う。春の暖かさがまるで感じられない。
冬と春の境目を縫うような、思わずマフラーをきつく巻いて身を強張らせてしまうような、そんな風だった。
屋上だからこんな風が吹くのだろうか……分からない。
「誰かいるぞ」
女子の後ろ姿だった。
肩に触れるセミロングの黒髪が風に揺れている。
フェンスに指を絡ませ、川の横断する灰色の街並みを眺めている。
物悲しい背中だった。
物悲しい屋上が彼女を物悲しくさせているように見えたし、その逆にも見えた。
彼女の姿はこの殺伐とした屋上にしっとり馴染んでいる。
それがどうにも気に入らなかった。
ほっといてはダメだ、話しかけなければいけない、そう思った。
「何してんの?」
不自然に明るすぎず、暗くなりすぎず、バランスのいい第一声が放たれて、彼女は呼応するようにゆっくりと振り向いた。
フェンスに指を引っ掛けたまま、濡れた瞳で俺を見つめた。泣いてたわけじゃない。寒風が目に染みたのだろう。
可愛い子だった。
優しい垂れ目と膨らんだ唇が印象的で、口元にはほくろがある。
長い間ここにいたのか、白い素肌に淡いチークが差し込んでいる。
俺と彼女の間をうねるように風が吹いた。スカートがなびくたび、俺の中の彼女は弱っていった。
不安に駆られるほどの細い脚が見え隠れしたせいだ。
俺たちはしばし見つめ合った。
物言わず、時間ばかりが過ぎていった。
俺は彼女の目を見つめながら、この子は俺と同じことを考えてるな、と直感した。
どこかで会ったことがある、と。
でもそれがどこで、いつで、どういうシチュエーションだったのかは思い出せない。
だが俺たちは、間違いなく互いのことを知っている。
名前すら分からない相手のことを知っている。
奇天烈な共通意識に縛られ、詮索することで、互いの言動と思考が相殺されてしまっている。
俺たちはただ見つめ合う。いつまでもいつまでも……
「死のうとしてたの?」
唄乃の声で我に返った。唄乃が俺より一歩前へ歩み出て、女子生徒に近づいた。
「死ななきゃいけない気がして、ここへ来た」
声はトーンが高く、どこか明るい調子だった。まだ俺を見ている。
「こういう網目状のフェンスって、足掛けてよじ登ってくれと言わんばかりだよね。挑発じみてて頭来たけど、死ねば関係ないと思った」
彼女が自嘲的な笑みを浮かべたのは意外だった。
同時に、自決を覚悟した人間はこんな風に笑うのかと感心した。
その笑みは憎しみというより、世を見限った末の憐みに染まって見える。このお粗末なフェンスなど、彼女が象る笑みの前では無力に等しかった。
「なんで死にたいんだ?」
聞きながら、こんな質問は野暮だと思った。知ったところでどうしようもない。これはエゴだ。
俺はきっと……彼女に死んでほしくなかったんだと思う。
体のどこかが彼女の死を拒絶し、見せかけのカウンセリングで正義心を誤魔化そうとしている。
「死ぬな」。ただそれだけを伝えたかった。
「死なないよ」
彼女は静かに言って、フェンスへ寄り掛かった。
「もういいんだ。さっきね、二人が来る少し前に、神様から贈り物があったの。死んじゃダメだって言われてる気がして、踏み止まった。どうやって死のうか、どこで死のうか、もう考えなくていいんだって気付くと、すごく楽になったよ」
「贈り物って?」
唄乃が尋ねる。彼女は微笑して、かぶりを振った。
「内緒。私だけの神様だから」
さっきとは違う笑顔だ。
自然的というか、日常的というか、そういうものに則った笑みのこぼれ方だった。
「ところでさ……あなたたち誰? なんで私が死のうとしてたこと分かったの?」
言われるまで気付かなかった……唄乃はどうして自殺しようとする彼女の存在に気付けたんだろう?
あいつは教室へ入ってすぐ取って返すや、俺に「学校で自殺するならどこか」と尋ねた。
教室で何か見たんだろうか?
「神様の声が聞こえたの」
唄乃が切り出す。
「江崎美弥が自殺しようとしてるって。すると天の使いが現れて、私たちをここへ導いてくれた」
口からでまかせもいいとこだ。こんな話小学生だって信じない。
「ほんと?」
食いついた。
「ほんとなの? 見えるの? 天使?」
「ええ。私が天使みたいなもんだし」
アホか。
「私の名前は、ウタノ・シャムエル・タカヤシキ。唄乃って呼んで」
二人は握手する。俺の時より幾分短い。
「彼は?」
「付き人のセイタロウ・マジシャン・ヤエ。好きに呼んで」
『大切な友達』への扱い雑すぎだろ。
「シャムエル……そんな天使知らない」
「天使といっても星の数ほどいるわ。教室へ戻りましょ、江崎さん。私たち同じクラスよ」
江崎美弥。それが彼女の名前らしい。
唄乃は親交的かと思いきやそれ以上喋ろうとせず、傍らに立ったままじっと俺たちを眺めていた。
鋭い眼差しは監視しているようでもあった。
気が変わった江崎さんが不意を衝いてフェンスを登り出すかもしれない。眼光にはそういった警戒心が宿っていた。
俺と江崎さんが横に並んで歩き始めても、唄乃はだんまりを決め込んだまま後をついてくるばかりだった。
「…………!?」
ビビった。
フェンスの向こうに人影が……宙に浮いた人間が見えた。
「なあ唄乃、今フェンスのあっち側に誰かいなかったか?」
「霊体でも見たんじゃないの?」
「ここは学校だぞ」
「どこにでもいる。ここへ来るまでに何体もすれ違ってる」
やべ……見えることが当たり前になってて全然気づかなかった。
やっぱり学校には未練ある生徒の霊が集まりやすいのだろうか?
俺が見たのは身投げした未浄化の霊に違いない。
「さっきから何の話?」
江崎さんが声を掛けてきた。困った。こんな時どう説明すればいいんだ?
俺は幽霊が見えるんだぜとか暴露してしまおうか?
「やだ何言ってんのかしら」とか思われるのは嫌だし傷つく。
何しろ唄乃に対する俺のリアクションがそれだったんだ。そう思われても何ら不思議じゃない。
唄乃はどんな気持ちで〝他人とは違う自分〟を打ち明けてきたんだろう。
あいつは、肝心なのは信じるか信じないかだと言った。江崎さんは信じてくれるだろうか?
俺は唄乃ほど能弁じゃない。
江崎さんだってもちろん幽霊なんか見えないだろう。
視覚化できないものを信じさせるのは難しい。
まだ出会って間もない彼女に距離を置かれるのは御免だ。
「何でもないよ。ただの空目だ」
結局言えなかった。
昼休み。
唄乃と江崎さんが購買へパンを買いに行ってる間に男子生徒が一人、登校してきた。
朝からずっとカラッポだったその席にカバンを下ろす。
俺は弁当をつまむ箸を止めた。
見覚えのある顔だった。
特徴のない平凡な面立ちのせいかなかなか思い出せない。
じっと見てると声を掛けられた。
「おはよう。君、八重清太郎くんでしょう?」
あ、思い出した。
「お前……アーケードでぶっ倒れてた……同じクラスだったのか?」
そうみたいだね。言って、なよなよと笑った。
「何で俺の名前知ってんだ?」
「それは……だって……入学式で会ったし」
たまたま倒れていた青年をたまたま助け出したらたまたま同じクラスだった。
これは偶然? 必然?
「もう大丈夫なのか?」
「うん」
「授業初日からツイてねえよな」
「そうだね」
「飯持ってきてるか? もう昼だぜ」
「お弁当があるよ」
「アーケードで何してたんだ? あの時間にあんなとこいたら遅刻だろ」
「お父さんの車を待ってたんだ。時間があるから辺りを見て周ってたんだよ。そしたら急にめまいがして、気付いたら保健室にいた」
「ふーん。……ちなみにさ、その腕時計、時間ズレてなかった?」
「え……いや、正確だよ。ほらね。どうしてそんなこと聞くの?」
「気にすんな」
こいつは穴の中で夢を見なかったのか? 気を失ってたから?
「あそこから学校まで遠かったでしょ。僕、重たくなかった?」
いや、そんなことはない。
俺は言って冷凍食品のオムレツを頬張る。
「むしろ軽すぎだ。もっと太れ。男はガッチリしてる方がモテんだぞ」
「そうする。席、いい? 一緒に食べたいな」
「そことそこの席引っ張ってこいよ。心配すんな。シャムエルの席だ。椅子は自分のを持ってきた方がいい」
唄乃と江崎さんの席をくっつけた後、そいつは弁当箱を取り出して食べ始めた。
「名前は?」
「藤原朝生。朝に生まれるって書くんだ」
いい名前だな。褒めると耳を紅く染めた。
こうして見ると痩身以外の特徴が見当たらない。
癖のない髪型、イケメンでもブサイクでもなく、声は高すぎず低すぎず、言葉にも方言や訛りはない。
この高校に受かるくらいだし、偏差値も人並み程度だろう。
箸の持ち方も正しい。弁当も美味そうだ。
平凡な環境で平凡な人生を送ってきた人間の日本代表みたいな奴だった。
しかし……こいつ誰かに似てるな。
似てるというか、懐かしい感じがする。誰だっけ?
唄乃と江崎さんが戻ってきた。
「おかえり……」
唄乃の両腕には大量のパンが抱えられている。
定番の焼きそばパン、きな粉揚げパン、あんパン、ジャムパン、ちくわパンまである。
「お前、それ全部食うの?」
「もちろん。あら……席が……」
唄乃はパンで塞がった視界のまま、消えた自分の席を探っていた。
「こっちだ、唄乃。江崎さんも。紹介しよう、朝生くんだ。さっき長い眠りから目覚めたんだ」
「はじめまして。藤原朝生です」
朝生は座ったまま浅く会釈した。直後、唄乃のパンが机を占拠したので弁当を避難させる羽目になった。
山積みのパンの下から牛乳が二パック出てきた。
「ういっす。元気そうで何より」
こいつは相変わらずだな。
「……同じクラスだったんだぞ。もっと驚けよ」
「何となく気付いてたよ。授業初日から休む人なんてまずいないもの」
唄乃は言って、パンの一つを開封しながら自己紹介した。握手はしなかった。
「江崎美弥。よろしくね」
江崎さんの明るい声色。
さっきまで自殺をほのめかしていたとは思えない。あの時の彼女はもうどこにもいなかった。
俺には理解できないが、生に対する価値観なんてその程度のものなんだろう。
平和な国だ。手段には困らない。死に場所だっていくらでもある。そういう環境が動機を甘くする。
親に怒られたから。失恋したから。この世が厭になったから。
俺たち未成年者にとって自殺は気分なのか。
したいからするのでなく、何となく試してみよう、後のことは死んでから考えよう、そんなものなのか。
死ぬことで同情を誘うことはできる。
だが遺族にとってはただの呪いだ。
江崎さんは言った。「神様から贈り物があった。だから踏み止まった」と。
その贈り物が何かは分からない。見当もつかないし、本人にも答える意志はない。
やっぱり気分なのか……。
腹が立ってきた。
箸が進まない。目の前に座る江崎さんを直視できない。
真面目に生きることを否定されてるみたいだ。
どうせ死ぬ、病気で事故で老衰で。
彼女はそういうことを天秤にかけて生きる意味を排除しようとしている。
俺にはそう感じて、だから無性に腹立たしかった。
「八重くん」
唄乃がこっちを睨んでいた。首を小さく横へ振っている。
俺の江崎さんに対する疑念や怒りを透かし見て、「それは違う」「誤解してる」とテレパシーを送ったようだった。
実際、唄乃は俺の心境に気付いていたんだろう。
あいつは江崎さんのことで何か知っていて、それが俺の考えと食い違うためにああやって首を振ったんだ。
「分かったよ」
俺は呟いて、弁当の残りをたいらげた。
「部活は何にする?」
話題を振ったのは朝生だったが、これは失敗だった。
私は習い事があるから帰宅部、と江崎さん。
僕は家の手伝いがあるんだ……、と朝生。
俺はパス、と俺。
唄乃に至っては答えもしない。どうせ帰宅部だろう。話は広がらなかった。
「習い事って?」
沈黙が苦手な俺はジャムバタートーストにかじりつく江崎さんにすかさず尋ねる。
「英会話とピアノと水泳と家庭教師」
「そんなに?」
「親がね……決めたから」
江崎さんの表情は沈んでいた。目を伏せ、肩が落ちた。
俺は見てはいけないものを見た気がして、少し滅入ってしまった。
江崎さんのことになると、俺は自分でも驚くほど感情の起伏が激しくなる。
他人事ではないような気がして、放っておけなくなる。
「いいなあ、水泳。僕ずっと泳げなくて」
朝生が空気も読まずに割って入る。小さな弁当箱は半分も食べ終わっていない。
「水泳は楽しいよ。ダイエットにもなるし。でもピアノは……全然うまくならないんだ」
「やめちゃえば?」
三個目のパンに取り掛かりながら唄乃が言う。
俺が過度に気を遣ってばかりいるせいか、この二人が無神経の塊に見えて仕方がない。
「無理だよ。お母さんが管理してるんだもん。習い事も学校も……友達もね」
いわゆる四角四面の教育ママってやつだ。
こういう親は子供時分のコンプレックスや、自分が出来なかった、叶わなかったことを我が子に押し付けて自己満足したいだけって聞いたことがある。
彼女の母親も例に漏れずその手合いだろう。
「この学校も母ちゃんが決めたのか?」
「……落ちたの。私立の女子高だったんだけどね、私勉強が苦手で、家庭教師が入れ代わり立ち代わり教えてくれたんだけど全然ダメで、塾とかも行ったんだけどテストの点数は伸びなかった」
「その女子高はスポーツにも力を入れてたから、じゃあスポーツ推薦で受けてみようってことになったの。運動はそこそこできたんだ。でもてんで考えが甘くって、帰宅部だったし、水泳だって地区の大会で準優勝するのが精一杯だったから、話になんないねってことで勉強に力入れ直したんだけど、やっぱり落ちちゃった」
よく喋るなあ。
誰かに聞いてもらいたかったんだろうか?
「友達も母ちゃんが決めるってことはさ、俺たちのこと知れたらやっぱ気に入らないわけ?」
「……友達になってくれるの?」
え……この四人が友達として一緒に過ごしてると思ってたの俺だけ?
唄乃は知らん顔で牛乳をラッパ飲みしてるし、朝生はなんかヘラヘラしてる。
「友達になるっていうか……そういうのって自然と出来上がってるもので、意思の確認とか誰かの許可とか必要ないんじゃね? な、唄乃?」
俺とお前がそうだったように……今思えば、あのうなじへのキスが『大切な友達』になった証だったのかもしれない。
「嬉しいなあ。もうこんなに友達できちゃった」
お前はマジで悩みがなさそうだな、朝生。
「人間の友達なんて興味なかったけど、〝こういう〟タイプの友情も悪くないかもね」
〝こういう〟タイプ? 唄乃がまたわけの分からんことを言い出した。
幽霊でも思念体でも小人でも人間でもない存在って意味だろうか?
まさか死神……なわけないか。
「ウタノ・シャムエルも私のこと友達だと思ってくれる?」
それまだやってんのか。
「私たちは友達以上の関係だよ」
唄乃は江崎さんの肩に腕を回し、食べかけのチョココロネを強引に食わせようとする。
まるで酔っ払いだ。彼女はされるがまま一口ついばんだ。
「食べ物を分かつのだ。君に私の命をやろう」
そう言って、自分も一口頬張る。
「美弥、君は自由になりたいか?」
「うん」
「神の与えた試練が過酷を極めても?」
「もちろん」
「君の愛する者がそれを拒んでも?」
江崎さんはしばらく考えてから、
「……ズルいよ、そんな質問」
「私は正直者なんだ」
二人は離れ、そしてまじまじと見つめ合った。
横に目をやると、朝生が肩を組みたそうに俺を見ていた。
放課後。
朝生は念のため病院へ行くらしく、パート帰りの母親を待つため学校に残った。
俺、唄乃、江崎さんは学校を出て、外来駐車場脇にある駐輪場へ向かった。
俺も江崎さんもバスで帰ると言ってるのに、唄乃はなぜかそれを許さなかった。
「私の自転車がある。今後それを使って登下校すること。バスには絶対乗らないで」
言いながら俺たちにチャリの鍵を手渡す。
こいつはなぜか、駐輪場に六台も自分のチャリをストックしているらしい。言動が異常すぎて怖くなってきた。
「なんでバスに乗っちゃいけないんだ?」
「タナトスからあなた方を守るためよ」
「知らない間に二ケツしてたらどうする」
「私の自転車には魔除けのまじないがかかってる。バスくらい大きいとどうしようもないけど、自転車くらいなら手に負える」
バカげた話でもこいつが言うと本当っぽく聞こえる。
「どうして六台も自転車があるの?」
江崎さんが便乗して尋ねる。
「壊れたら乗れなくなっちゃうでしょ」
家にもう四台ある。そう結ぶ唄乃の顔が少しドヤって見えた。
「お前は帰らねえのか?」
「私はトイレに用があるから」
トイレ? ……ああ、花子か。
「そうだ。あんたたち、明日から一緒に登校しなさい。どっかで待ち合わせて、その自転車で来ること」
「な……」
言いかけて、言葉を飲みこんだ。
なるほど。
これは江崎さんを監視しろという俺へのメッセージに違いない。
元自殺志願者の彼女を放っておくわけにはいかない。それならチャリを強制するのも腑に落ちる。
そういうわけで、俺と江崎さんは唄乃の計らいで一緒に登下校することになった。
女の子と並んでチャリを漕ぐのは初めてだった。
無論、キャリアに乗っけた女の子からグーパンされるのも初めてだったが、こうして横に並ぶとまた違った緊張感がある。
しかも相手は唄乃のような粗暴女とは真逆の、おしとやかで可愛い女の子だ。
「家どのへん?」
聞きながら、口元が緩まないよう意識した。
「駅前。アーケード脇のコンビニから川を背にしてまっすぐ行くの」
そういえば……あの空間はどうなっただろう。朝生のような被害者が出てなければいいが。
「あのアーケード近寄らない方がいいよ。ガス漏れしてるって噂だから」
「ほんと? 気をつけなきゃね」
表情豊かな江崎さん。屋上で見た彼女とはまるで別人だ。
なぜ自殺を考えたのか、その理由を俺はまだ知らない。
もう一度聞いたら気分を害するだろうか?
昼食時の会話からいくらでも推測は立つ。
教育ママからのプレッシャー、成績不振、受験の失敗。
それを声に出す江崎さんはとても冗舌で、お喋り好きな女の子のまさに典型的な姿だった。
もしや、自分に向けられた衝動的な殺意を抑えられなくなったのかもしれない。
耐え難いことが続いて精神がやられれば誰だってネガティブになるだろう。
気持ちを切り替えることはできるが、俺のように不器用な奴は多い。
神様からの贈り物とは、その衝動を誤魔化すための『言葉』だったんじゃないか?
自分を説きつかせる言葉。心を騙す言葉。
何か思いついて、自身に言い聞かせたのだとしたら、そんなものは神の啓示ほど仰々しいものじゃないし、ほんの一時しのぎにしかならないだろう。
一人悩んでる内に宅地を抜けてしまった。
俺たちは橋のたもとに当たる大きな交差点を渡る。川を跨ぐ立派な橋だ。
制服姿の女の子が一人、橋の上から河川敷を眺めている。
思わず足を止めてしまうのも無理はない。
川に沿って咲き乱れる桜並木の壮観が見る者の心を奪うからだ。
「桜、綺麗だね」
江崎さんは桜を見下ろしながら言う。
俺たちは土手の遊歩道を走っている。優雅な川の流れも相まって実に見事な景観だ。
桜ケ丘の桜並木は『さくら名所百選』に選ばれるほど美麗で、他県からの花見客も多い。
俺たちは徐々にスピードを緩め、やがて立ち止まり、眼下を染める桜色のパノラマにしばし思いを馳せた。
暖かい風が吹いている。
江崎さんとこうして桜を眺めるのは初めてじゃないような気がした。
漠然と考えてる内に頭が冴えてきて、記憶が鮮明に、確かな輪郭を形作っていくのが分かる。
そして次にはもう、俺の中でそれは確信に変わっていた。
俺はこの子を……この横顔を知っている。見たことがある。
川と、咲き始めの桜と、哀愁の横顔と……
「ねえ、川の向こうには何があるの?」
江崎さんが尋ねる。何のことか分からなかった。
「街があるじゃないか。ここより小さな街だぞ。行ったことないの?」
「……ない。でも、引っ越しの時通ったかもしれない。私、三年前に越してきたの」
俺は、江崎さんの横顔から感情の一切が消えるのを見た。
「両親は厳しいけど、マサ兄は優しかった。言ってなかったけど、お兄ちゃんがいるんだ。名前が正則だから、私はマサ兄って呼んでた」
「どの家庭教師より教えるのが上手で、定期テストが終わるとよく私を公園に連れてってくれた。私はまだ小学生だった。途中おやつを買って、私は遊具とかで遊ぶんだけど、その内知らない子と遊び始めて、私はそういうことが得意だったから、マサ兄は笑って私を好きに遊ばせてくれた。一日ずーっと、私は自由だった」
「帰ったらもちろんお母さんに怒られるんだけど、マサ兄は、自分が連れ出したんだ、美弥は悪くないっていつも庇ってくれた。お母さんはマサ兄の成績の良さを知ってて、だから強く言わなかったけど、私にはひどく冷たかった。バカだったし、習い事も面白くなかったから全てが中途半端だった」
「だから死ぬつもりだったの?」
聞いてしまった。今しかないと思った。
江崎さんは無反応だった。川の向こう岸を眺めている。
「理由はそれだけじゃない……と思う」
やがてこう続けた。
「いつか行ってみたいな、向こう側。マサ兄と一緒に」
〝美弥、君は自由になりたいか?〟
昼休み、唄乃は江崎さんに問うた。彼女は〝うん〟と答えた。
〝神の与えた試練が過酷を極めても?〟
〝もちろん〟
〝君の愛する者がそれを拒んでも?〟
彼女は答えられなかった。
江崎さんとはアーケードを少し過ぎたコンビニ前の交差点で別れ、明日もここで待ち合わせて一緒に登校しよう、ということに決まった。
チャリの入手先に関してどう言い訳しようか考えてる内に家へ着いてしまった。
これから毎日これに乗って登下校しなきゃならない。「借りた」は通用しないだろう。
例の奇人について説明するのもおっくうだ。やれやれ。
和室から出てきた制服姿の真智と鉢合わせた。線香の匂いがする。
「おかえり」
「ああ……ただいま」
「……どうしたの?」
突っ立ってると訝られた。
和室へのふすまは閉まっている。そこを開けてはいけない気がした。
本能が開けることを拒否している。
線香の香りが露出した肌に吸い付くようで、気持ちが悪かった。
「何でもない……ちょっと疲れただけだ」
俺は言って、逃げるようにその場を立ち去った。
自室に入るや椅子にもたれかかる。
脚を伸ばすと赤い靴下が嫌でも視界に入る。
心なしか、今朝見た時より色がくすんで見えた。
「持ってたかな……」
呟いて、脱ぎ捨てる。
「こんな靴下」
その晩、夢を見た。
喪服姿の家族がリビングに集まり、泣いてる夢だった。
親戚の姿もある。みんな泣いていた。
悲愴と嗚咽と、衣類に染みついた線香の香りが部屋を満たしている。
俺はソファに座り、誰が観るわけでもないテレビを一人眺めていた。
音量は抑えてあって、映像が淡々と切り替わっていく。
場違いなほどの笑みで女性リポーターが動き回っている。どこかの大きな夏祭りを取材中らしい。
俺だけが泣いていなかった。
座卓には寿司やら蕎麦やらシュークリームやらが並んでいて、俺はそれらをつまみながら、悲しみをまとったリビングの一角をテレビでも観るかのように遠くに感じていた。
茶をすする。
ふすまは閉まっていた。