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ジレンマ・パラドックス  作者: 北の宮
1/7

一話

第一話


「兄貴!」


 甲高い声で目が覚めた。

 天井と、馴染みの間取りが見える。俺の部屋だ。

 焦燥と悲愴の声色で叩き起こされた割に、俺はずいぶんと冷静だった。

 声の主が妹である真智まちのものだと気付くのに時間はかからなかった。

 

 部屋には俺以外、誰もいない。耳元で叫ばれたはずなのに。

 頭がボーっとする。口が乾いている。春の陽射しが部屋を横切って、暖かい。

 今日から高校生なんだなとか、今何時だろうとか、ケータイどこやったとか、下へ行って飯を食おうとか、漠然と考えてる内に俺の体はあるべき日常のリズムへと溶け込んでいった。


 寝間着のままダイニングへ下り、朝食を囲む一家の輪の中へ滑り込む。

 新聞で顔を隠す親父、誰にともなく今日の用事をまくし立てるお袋、ブレザー姿で飯をかっ込む真智、テレビに夢中のじいじ。


 あるべき日常だ。


「おはよう、みなさん」


 厳かな挨拶を皮切りに全員が俺の顔を覗き込む。

 俺は言う。一旦箸を止めて聞いてくれ。

 おもらしか? 親父がいやらしい眼光で問う。俺は無視した。


「今しがた真智の大声で起こされたことに関して、俺は納得のいく説明を伺いたい」


「寝ぼけてる」


 真智。てめえ白切る気か。


「確かだ。耳元でガツンと、〝兄貴!〟って。なんか、こう、憐れむようで、焦ってるようで、それでいて死にかけの人間に納豆ご飯を差し出すような慈愛に溢れてた」


「納豆食べたいなら言いなさいよ」


 キッチンへ納豆を取りに行くお袋。

 違う、そうじゃない。


「鼓膜が痺れるくらいの大声だぞ? 俺を〝兄貴〟なんて呼ぶの真智だけだろ」


「身に覚えがないよ、〝お兄ちゃん〟」


 ひねくれ者のこいつに口喧嘩では勝てない。

 俺より頭がキレるし、勝機を見て取るや一枚上手って顔をする。

 この憎たらしい顔を見ると悔しくて泣きたくなる。

 お袋が納豆を俺によこす。冷ややかに笑いながら。


「ゲームで夜更かしするとオバカになるよ」


「でも……」


清太郎せいたろう


 俺を呼ぶ親父。新聞の向こうからエラの張った強面が現れ、こう言った。


「おもらしか?」


 二人揃って大爆笑。下品な夫婦だ。


「じいじは信じてくれるよな?」


 テレビに夢中のじいじ。鼻の下が伸びきってる。


「いいなあ、わかくさ、しずる。二十二歳。ピッチピチのダイナマイッボデー!」


 じいじはローカル情報番組、春の新人キャスター『若草静流』二十二歳独身に夢中だった。


「見ろ、見るんだ清太郎。まるで絹豆腐だ」


 若草静流が何か喋っているがそれどころじゃない。

 お袋が味噌汁を掲げながら「あらやだ。これ木綿豆腐よお爺ちゃん」とか白々しく加勢する。


 本当に、誰一人、あの声を聞いていないらしい。


「あんた今日から授業でしょ? 赤点取ったらケータイ解約するからね」


「分かってるよ……」


 うやむやのまま、あるべき日常へ軌道修正されていく。


「勉強ならわしが教えてやろう」


 名乗り出るじいじに待ったをかける親父。


「じいじは当てにならんぞ。ゲートボールと手品と女の話しか出来ねえんだから」


「んなこたない。オセロだって得意だ」


 オセロ?


「あたしが教えた。ボケ防止に」


 ごちそうさま。真智は食器を下げて和室へ行ってしまった。


「今度勝負しよう、清太郎」


 楽しそうだな、じいじ。


「俺が勝ったら?」


「小遣いやる。わしが勝ったらエロ本の隠し場所教えろ」


 俺は自他ともに認めるじいじっ子だ。

 じいじは親父の親父で、名前は喜助きすけ。俺の名付け親でもある。


 俺が物心着いた時にはもうばあばはいなかった。

 じいじは若い頃網元だったらしい。

 漁船を売っ払ってギャンブルに明け暮れたとか、女に貢いだとか聞かされてきたけど、本当のところは分からない。


 ガキの頃はよくじいじの背中を追いかけたもんだ。

 ひょうひょうとしていて、誰とでも仲が良かったじいじは酒好きのオープンスケベだが、世の中には憎めない奴っているだろ? じいじはまさにそんな人柄だった。

 趣味の手品を俺に見せたがる、教えたがる。

 指先から花が出たり消えたり。コインを瞬間移動させたり紐がすり抜けたり、独学にしてはなかなかの腕前だ。

 なぜ手品なのか聞くと、バーでナンパした若い娘にモテるからだそうだ。


「部活はどうすんだ?」


 親父が尋ねる。銀行員の親父。ワサビが嫌いな親父。甘党な親父。

 よくいる堅物の頑固親父ってわけじゃない。

 俺をいつまでもガキ扱いする自称〝お茶目〟なアラフォーだ。その点はお袋も引けを取らない。


「部活は……どうすっかな」


 小学校の頃はサッカークラブに入っていた。勉強は苦手だが運動はできた。リレーの選手に抜擢されるくらい足が速かった。

 俺はチームのストライカーで、大会で優勝したこともある。


 中学では陸上部へ入部した。ボールを蹴るより走る方が好きだった。

 両親はサッカーを辞めることに納得しなかったが、じいじは誰より俺の意志を尊重してくれた。大会ではいつも応援に駆けつけてくれる。

 俺はじいじが大好きだ。

 だが……


「部活……考えとく」


 これに関して追及されなかったのはラッキーだった。

 考えとくなんてのは建前で、本当はやる気が起きなかっただけだ。

 なぜだろう。

 走る自分の姿や蹴り上げる砂の匂いや熱い陽射しを思い出すだけでやるせなくなる。そして虚しくなる。

 カラッポな自分に気付いて、バカだけが取り柄になる。

 走ることをやめたら、俺に何が残るだろうか?


 食べ終わると、真智が和室から出てきた。もう学校カバンを背負っている。


「一緒に行こうぜ」


 真智は何も言わず、ソファに座ってテレビを観始めた。待ってくれるらしい。

 部屋へ戻り、新しい制服に袖を通す。ピカピカの学ラン。今日から高校生活が始まる。

 胸元には校章が刺繍されている。『桜ケさくらがおか高校』。桜の花弁を模した派手な校章だ。


「その色、やめた方がいい」


 リビングへ下りると真智によるファッションチェックが始まる。もう日課だ。こいつは特に靴下の色にうるさい。

 靴履きゃ関係ねえのにさ。ちなみに今日は赤だ。


「青にして」


「ねえよ。穴開いたから捨てた」


「とにかくそれはダメ。今すぐ脱いで」


「他は洗濯中だ」


「じゃあ裸足で行け」


 ふざけんな。

 真智の視線がテレビ画面へスライドする。

 折しも、よくある〝お出かけ前の星座占い〟に俺の獅子座が映し出されている。

 ラッキーアイテムは『くいだおれ人形のケータイストラップ』。

 修学旅行のお土産で買った覚えがある……どこしまったっけ?


「ほらよ」


 真智が何やら放ってよこす。『くいだおれ人形のケータイストラップ』だった。


「お前の……?」


「拾った」


 あっそう。


「靴下の代わり」




「じゃ行ってくるぞ、じいじ」


「おう、気張ってこい」


 俺たちは前庭で体操中の陽気なじいじに見送られながら学校へ向かう。

 じいじはお馴染みの『じいじ体操第二』を満喫中である。

 雲一つない、心地よい春日和だ。


「お前また背伸びた?」


 俺の身長は平均よりやや高めだが、真智の視線が肩にぶつかるのを見ると自分の背が縮んだんじゃないかと思えてくる。


「ダチがさ、お前を俺の彼女だと勘違いしてんだよ。こうやって歩くとカップルに見えるらしいぞ」


「いいじゃん、ダミーになってよ。告白断るのって結構ストレスなんだよね」


「何人フッたんだ?」


「十五人くらい」


 真智は美人だが高慢じゃないし驕ったりもしない。

 言い寄る男を蹴散らすのは単に面倒だからと聞いたことがある。

 実際のところは分からない。

 恋愛にかまけて他の物事を粗末にしたくないんじゃないか、と思うようになったのは最近のことだ。

 何しろ真智は器量があって抜け目がない。

 俺と違いしっかり者で、人見知りするものの愛嬌を欠かさない。ふられた十五人はそのギャップに魅せられた手合いだろう。


 クールで落ち着いてはいるが、こいつはたまに可愛らしく笑うのだ。


 子供っぽいというか、その無邪気な笑みを向けられた男共の中で熱烈なギャップが生じると、結果、真智にとってのストレスとなる。

 兄貴は彼氏役兼ボディーガードね、真智はそんなことを言いながらポニーテールを弾ませる。


「月千円で雇われてやるよ」


「報酬は支払い済みだよ。さっきのストラップ、一年分の価値がある」


 よく言うぜ。


「あのストラップどこで拾った?」


「土手沿い」


「お前占い信じるんだ? ちょっと意外だよ」


 話題を替えてみる。真智はしばらく考えてから、


「いや。だってあれ占いじゃないし」


「は? 占いだろ」


「あれは真理だよ。当てずっぽうの占いとは違う」


 真智はたまに熱を帯びてこういうことを言う。今年で十五歳。

 いい意味でも悪い意味でも賢しいお年頃だ。


「あの番組は月曜だけ真理を放送してる。あの占いに見せかけた情報は全部本当なんだよ」


 ほう、今日は月曜日だ。


「何で月曜だけ?」


「毎日だと不審がられる。仕事始めのブルーな月曜が景気のいい一日になればソレは誰にだって糧になる」


 こいつ早口だなあ。


「要は、『獅子座にくいだおれストラップをもたせろ』と陰で指示を出す超人がいるってわけだな? しかも用心深いそいつは月曜しか情報提供してやんねえよ、と?」


 前を見たまま微かに頷く。ポニーテールが跳ねる。


「どこで知った?」


 答えなかった。まっすぐ歩き続ける。ポニーテールが跳ねる。


「なんであの番組なんだ?」


 つぶらな瞳が俺を捉えるも、またすぐに進行方向へ戻ってしまう。


「超人って誰だ?」


「たぶん……メリー」


 それっきり喋らなくなった。

 真智は昔から何考えてるのか分からん奴だった。

 お袋は「真智には霊感があるのよ。前にポルターガイストとドッジボールしてるの見たし」とか言ってたが恐らく嘘だろう。


 俺は霊能力だの占星だの、現実逃避めいたオカルティズムを決して認めない。幽霊とかあの世なんて信じてないし、靴下の色に運勢を委ねたりしない。

 だがそのことについて妹と議論するつもりもない。

 真智がゲンを担ぎたがるのは愚かだからじゃなく、俺とは〝違う〟からだ。

 価値観は個性である。

 個性は否定せず肯定してやるものだ。


「ところで……」


 バス停が見えてきた。急いで話題を切り替える。


「今朝、叫んだろ?」


「くどい」


 馴染みの仏頂面だ。


「誰も叫んでないし、そんな声聞いてない」


「じゃああれは……」


「夢がはみ出たんでしょ」


 納得いかん……が、よく考えれば確かにおかしな話しだ。

 真智のあんな声色は聞いたことがないし、朝っぱらから叫ばれる由縁もない。

 やっぱ寝ぼけてただけか……?

 バス停についてしまった。俺はここからバスに乗る。真智とはしばしのお別れだ。


「兄貴」


 真智は振り向きざま俺を見て、


「そのストラップあげる」


「おう……サンキュー」


 なんだよ、その寂しそうな顔は。


「大事にしてね」


 〝ほらよ〟の一声で放ってよこす拾得物を大事にしろってか。

 こんなキモいストラップいらねえけど可愛い妹のためだ。ケータイに着けといてやる。




 やがてバスが来た。

 ラッシュの兼ね合いでほぼ満席だった。

 見渡すと、後方に二人掛けのシートが一つ空いているのが見えた。だが誰も座ろうとしない。

 吊革に手を掛ける多くの乗客がその空席を無視している。優先席でもなければ、死角に子供が座ってるわけでもない。


 なぜ座らない?


 誰も座らないから俺も座りづらい……仕方なくそばの吊革に掴まる。

 走り始めて十分ほど。

 バスは川沿いの大きな通りへ出た。

 左手には道路と並行して長い土手が続く。

 土手は川へ向かって大きく下り、遊歩道の敷かれた河川敷となる。ジョギングコースには打ってつけだ。


 乗客がざわめきだした。驚嘆と、笑い声が混じる。みんなが窓の向こうに注目している。

 見ると、セーラー服姿の女子高生がママチャリで幹線道路を激走し、時速四十キロのバスとピッタリ並走しながら、鬼の形相で何やら叫んでいる。

 長い黒髪が突風に煽られる鯉のぼりの鯉のようだった。


 気付いたドライバーが減速し、女子高生が隙あらばとこれを追い抜くやバスの前に立ちはだかり、フロントガラス越しに「ドア開けろ」的なボディランゲージを繰り出した瞬間、俺の中の〝あるべき日常〟が崩れ落ちた。


 バスに乗り込んでくる。同じ高校の制服だ。嫌な予感がする。


八重やえくん! 八重清太郎くん!」


 叫ぶ女子高生。

 八重清太郎……残念ながら俺のことだ。


「返事して! 八重!」


 俺は、俺以外の『八重清太郎くん』が威勢よく名乗り出るのを待っていた。

 無視すればやり過ごせないだろうか? 

 そんな魂胆を見逃さんとする女の鋭い眼差しが、俺の目玉を脳みそごと串刺しにしていった。


「いた! 来い!」


 腕を掴まれ、俺は引きずられていった。

 小柄なくせになんつう馬鹿力だ。俺は定期券を掲げながらステップを降りていった……否、落ちていった。

 バスは俺を置いて行ってしまった。

 ここどこだよ。


「……やっと会えたね」


 女は別人のような語調で言った。


「よかった、間に合って」


「俺は遅刻だ」


 刺々しさの消えた女の声は抑揚がない。

 素っ気ないというか、無愛想というか、こういう物腰を表現する言葉はたくさんあるが、それらが漏れなくぜんぶ当てはまる奴はこいつくらいだと俺は思った。

 女のどこか冷めたツラは今しがたの暴挙や無礼など歯牙にもかけない、といった面相で、俺の動揺はやり場のない怒りへ変わる一方だった。


高屋敷唄乃たかやしきうたの


 数瞬、それが自己紹介だと分からなかった。「屋敷が歌うの」「はあそうですか」、そんな具合だった。

 直後に名前だと気付いたが、聞き逃したのでもう一度促した。


「私の名前、高屋敷唄乃」


 たかやしき、うたの、って誰だよ。


「私たち同じクラスよ。入学式の時会ったでしょ?」


「悪いけど……覚えてない」


 まあ当然よね、そう言って手を差し出す高屋敷。どうやら握手を求めているらしい。応じると頬が紅く染まる。

 照れてんのか? 高屋敷は手元をじっと見つめながら口を真一文字に結ぶ。

 長い長い握手だった。包み込んでしまうほど小さな手だった。

 俺たちはコンビニの駐車場まで移動し、そこで改めて向かい合った。


 そこらの中学生より背が低い。

 華奢な体つき。腰に触れる黒髪。

 それに……なんだこいつの瞳は。

 宝石か? 黒曜石か? 黒真珠か?

 どれだけ研磨すりゃこんなに輝くんだよ。その無骨な性格にとことん釣り合わない。

 こんな輝きは世のけがれを知らない無垢な子供の笑みや、貪欲なほどの情熱に満ちたごく少数の人間にしか体現できない代物だ。

 高屋敷の場合はそのどちらにも当てはまらない気がした。人間カテゴリ『その他』だ。


 しかも見透かされてるというか、眼差しがやけに強烈で頭の内側をスキャンされてるみたいだった。

 見つめられるとさながら世界の晒し者だ。

 善悪まるごと剥き出しで、それがどうにも落ち着かなかった。

 言動といい馬鹿力といい、人間離れにもほどがある。


「どういうつもりだ」


 思わず語調が荒んだ。

 言っとくが、俺は温厚な人間だ。こんな言葉遣いはしない。初対面なら尚更だ。


「目的を言え」


 威圧的に声を低めようとも、睨みつけようとも、高屋敷唄乃が身長百八十センチの俺に動じることはなかった。

 俺たちのつむじには四十センチ以上の高低差があって、しかし高屋敷唄乃は無限に広がる宇宙を閉じ込めたような瞳で俺を呑み込んでくる。

 幾億光年彼方から届く眼光で包み込んでくる。

 敵意はない。慈愛……のようにも見えた。


「八重くんを助けに来た」


 声には柔和な憐みの響きがあった。


「俺を何から助けるって?」


 答えは聞けなかった。

 騒音が鼓膜を打ち、地鳴りが続く。

 驚いて振り向くと、土手に乗り上げ川の方へ消えていく大型トラックの貨物ボディが見えた。

 距離にして百メートルくらい先だろうか?

 その近くにさっきまで乗っていたバスが停まっている。トラックとニアミスしたに違いない。


「行きましょ」


 チャリにまたがる高屋敷は冷静だった。冷静と言っても不敵な笑みは絶えず、またがると言ってもキャリア部分だ。


「漕いで。八重くん足腰強そうだし」


 お前もな、って言ってやりたかったが、状況が状況なだけに従うしかなさそうだ。

 いざ走り出すとペダルの軽さに驚いた。

 いや、チャリが高性能なんじゃなくて、この女が軽過ぎるだけだ。尻が浮いてるか中身空気詰めのどっちかだろう。

 

 土手に沿って人垣ができはじめていた。

 立って首を伸ばすと川べりで横転するトラックが見える。

 折しも、中年の男性ドライバーが這い出てくるところだった。河川敷にひと気はない。単独事故で事なきを得たようだ。


「重傷者はいないみたいだな」


「そう……よかった」


 その声がなんとも哀れっぽくて、俺は、嗚呼、こいつにも人間らしい感情があるんだなと知りもしない親心で勝手に安堵した。


「サンキューな」


 半ば気持ちが落ち着いたところで俺は切り出した。


「助けてくれたんだろ、俺のこと? お前がいなきゃあのトラックはバスの横腹に突っ込んでるはずだった。この道路は丁字路の突き当りだ。思わぬ高屋敷唄乃の登場でダイヤに遅れの生じた路線バスは間一髪、大参事を免れたってわけだ」


「正解」


 正解……って、言うことはそれだけかい。

 俺は自分の言ったことが恐ろしいよ。トラックは恐らく居眠り運転か何かだろう。こいつがいなかったら俺は……死んでたかもしれない。


「なんで分かったんだ? まさか〝たまたま〟ってわけじゃないよな?」


「ここ数日、夢を見た。霊感とか霊能力とか、とにかく私にはそういう力がある。

 予知夢、っていうと分かりやすいでしょ。死神のタナトスが標的を探して死を招く内容だった。

 そんな時、タナトスは踊るの。夢の端から端まで。私はそれを傍観してる。やがてタナトスはとぐろを巻いて、赤目の蛇になる。

 蛇は家を探す。死を招き入れる標的の家をね。

 そして決まり次第、標的の名で歓喜の咆哮を上げながら屋根に旗を立てる。何本も何本も黒旗を突き立てて、いつか魂を迎えにやってくる。

 私の見解だとそれは、忘れないための目印、なんだと思う」


「そして、トラックと衝突するバスの夢を見たのが今日だった。

 旗を立てた家と、タナトスが叫んだ名で見当はついていた。でもバスが見つからなくて、ギリギリになってしまった。

 私が標的を助け出したと分かるや、タナトスは驚いて行ってしまった。

 狡猾なタナトスは正面切って戦うことはしない。罠を張るか、第三者を巧みに騙して利用しようとする。

 アダムとイヴを欺いた蛇のようにね」


 こいつの言ってることが何一つ理解できないのは俺が世間知らずだからか? 胡散臭いにもほどがある。

 こいつまさか、宗教勧誘の回し者なんじゃないか?


「信じないとバチ当たるよ」


 うわひでえこと言いやがる。


「信じろって方が無理あんじゃね?」


「霊的な障りなんか珍しくもなんともない。あなたがタナトスを信じられないのは、イメージすることを放棄したからよ」


「そんな抽象的なもん信じられっかよ。見たわけでもねえのに」


「見たら信じるんだ?」


「ああ。死神でも幽霊でも信じてやるよ」


 って、ムキになりすぎか。

 こいつの言葉はただの狂言だ。バカバカしい。

 高屋敷の腕が背後からこめかみをかすめて、前を歩く若い男の背中を指差した。


「……なんだよ?」


「姿勢が右に傾いてる」


「当たり前だろ。女が引っ張ってんだから」


「あの女性死んでるよ。あっちへ引きずりこもうとしてる」


「…………」


「今すれ違った自転車も二人乗りだったでしょ? 片方は死んでる」


「……おい」


「私はどっちだと思う?」


 鳥肌が総立ちした。

 急ブレーキで小さな体が背中にぶつかった。振り向くと高屋敷の頭越しに、今しがた追い抜いた男の姿が見えた。

 女はいなかった。


「女の人、びっくりして逃げちゃったね。目が合うとついて来る場合も多いんだけど、臆病なタイプだったみたい」


 俺は何も言わなかった。言えなかった。黙々とペダルを回した。

 何か……何かおかしなことが起きている。

 幽霊が見える。

 霊感なんてなかったのに……それどころか、幽霊の存在なんて真っ向から否定しまくっていたのに。

 

 ふと目を上げる。

 電柱を取り囲む和服姿の女たちが見える。

 道路の真ん中に佇立する裸のおっさんが見える。

 赤信号を渡る子供たちが見える。

 見てくれは普通の人間だ。肌には生気がある。目は春の陽射しに輝いている。

 しかし、どこか〝ヘン〟だ。

 前カゴにうごめく身の丈十センチの小さなおっさんが見える。十数人、全員ふんどしだ。


「老けた小人が俺の腕をよじ登ってくるんだが?」


「気にしないで。妖精みたいなもんだから、害はないよ」


 害はないと言っても肩であぐらをかかれて鼻なんかほじられれば運転どころじゃない。

 目障りなので試しにデコピンしてみると、おっさんは歩道脇の茂みまで勢いよく吹っ飛んで消えた。


「痛っ!」


 背中をグーで殴打された。


「害はないって言っただろ! 可哀想なことすんなよ!」


「待て待て! デコピンが通用したんだぞ? なんで生身の人間が幽霊に触れるんだよ!」


「『気』って分かる!? 万物にはエネルギーがあるんだ! こうやって! 殴ったら! 痛いだろうが! 痛覚がどうこうじゃない! 言葉にだってエネルギーはある! 世界中があんたの悪口言ったら心が痛むだろ! 一緒なんだよ! 幽霊も! 人間も! 一緒なんだ!」


「分かった! もうやらない! デコピンしない!」


 高屋敷は怒鳴りながらも、ずっと俺を殴り続けていた。

 グーにした時できる凸凹の部分でずっとだ。その間、チャリは危なっかしく蛇行運転だった。


「悪かったよ。ごめん、ごめんなチビども」


「霊体は魂が剥き出しな分、イメージがダイレクトに伝わりやすい。言霊の影響力だって侮れないんだから。もっとデリケートに接してね」


 いきなり何事もなかったような声色だ。妖精にデコピン食らわせたのが相当癇に障ったらしい。

 俺はフロイトじゃないが、こういった精神状態が他者にもたらす危険性を誰よりも把握しきってるつもりだ。

 俺はクレイジーな高屋敷の手によって救われ、そして、クレイジーな高屋敷の手によって滅ぼされようとしている。

 ていうかおっさん増えてないか? カゴから溢れてこぼれ落ちてるぞ。


「こんな幽霊アリかよ」


「魂に形なんかない。怨念が強ければ人の形なんか留めないし、こういった小人は元々動物霊だった場合が多い」


「犬が鼻ほじんのか?」


「人型になれば人間らしくなる。幽霊になれば幽霊らしくなる。八重くんはまだイメージが追いついてないだけ。それは当然のことだし、偉そうに語ってる私だって網羅できてるわけじゃゃない。三次元に縛られた人間が四次元を理解できないこととさして変わりないのよ」


「バリバリの文系にそんな例えはよしてくれ」


「現実にイメージが追いつけないのは悪いことじゃない。肝心なのは信じるか信じないかよ。八重くんは命拾いしたことで一歩外へ踏み出せた。それは奇跡とか偶然とか、どう扱おうと構いやしないけど、私のアクションで八重くんの中の何かが首をもたげた」


「だから幽霊が見えるようになったのか? スピリチュアルな経緯で命拾いしたから?」


「きっかけなんて些細なことなのよ。例えばジェットコースターに乗った時、人間の精神状態は臨死世界に近づきやすくなる。これはカラッポになるわけじゃなくて、生きてんのか死んでんのか定まらない状態、って言った方が正しい」


「……もちろん生きてるよ? 心臓も脳みそもしっかり稼働中なんだけど、精神は著しく不安定になる。死をリアルにイメージできる状態にあるからね。日常では決して味わえない過剰な刺激がイメージ可能な領域を飛び越えて精神に干渉すると、それは恐怖になる。死を恐怖に関連付ける人間特有の概念が精神を不安定にさせる。この異様な精神状態が幽霊の見える環境を生み出すきっかけになる場合だってある。ほんの一時的でしょうけど」


「つまり……バンジージャンプで落下中は幽霊が見えてるってことか?」


「鋭いね。私はそう考える」


 マジかよ。


「もちろん個人差はある。絶叫マシンなんか屁でもない人が乗ったって精神に異常はきたさない。でも例えば、交通事故に遭う瞬間、車がひっくり返ったり居眠りやスリップで対向車とぶつかる瞬間、人間の精神なんかいとも簡単に壊れてパニックになる。これは意図して乗る絶叫マシンとは違って不意にやって来るものだから避けようがない。精神は極限までトランスし、死を悟った魂はあの世へ還る準備を始める。もう思い残すことはない? 魂は意識へ働きかけ、過去へ遡ると、死の直前、人は走馬燈を見る」


「異議あり」


 腕を突き上げた拍子に風が小人をさらっていく。


「走馬燈を霊体験へ結びつけるのは安直だ。ありゃパニクった脳みそが起こすフラッシュバックだと俺は思う」


「そこよ、大事な点は」


 改まった口ぶりで高屋敷は言う。


「幽霊を信じない人が霊感のある人を滑稽に思うのは、生まれ持った感性や通念に差があるからよ。幽霊が見えるとか、金縛りに遭うとか、心霊写真とか、そんなものは科学的根拠でいくらでも説明できてしまう。点が三つあれば顔に見えるし、睡眠中に脳だけ覚醒すれば体は動かないし、オーブの大半はただの埃なの」


「八重くんが今見てる小人だって、錯乱した精神が見せる幻や夢と相違ないのよ。そう断言してしまえばそうなってしまう……それが信じるってことだから」


 その声は怒りとも悔しさとも違う、紛れもない悲哀を孕んで聞こえた。

 涙は女の武器というが、それに近いものを感じた。

 さっきまであんなに怒ってたくせに……こいつの幽霊へのこだわりは大したもんだ。恐れ入った。


「なあ……お前にとっての幽霊って何?」


 深い意味はない。ただの興味本位だ。高屋敷は考える間もなくこう答えた。


「友達」


「……なるほどね」


 面白い。


「この小さいおっさんを信じると言えば、世にも不思議なホラー話。信じないと言えば、陳腐なホラ話ってわけか」


「そうなるわね」


「じゃあ信じるよ」


「……え?」


「今まで心霊番組やホラー映画や靴下の色なんか馬鹿にしてたけど、そういう〝モノ〟が見えてる間くらいは信じてみていいんじゃねえかと思った。それに、こき下ろすにはまず知ることが必要だ。だろ? 頭ごなしに否定するのはズルいじゃねえか。それは逃げだ。男じゃねえ。だから信じる。拒絶はその後だ」


「……チュッ」


 刹那、首筋から腰に掛けて寒気が駆け下りた。


「てめ……今うなじにチューしただろ!」


「小人にしたのよ。キス顔で迫られたから」


「嘘つけ! ていうかチューする時にチュッて言うか普通?」


 高屋敷の顔はどこか嬉しそうだった。

 広角が緩んで、目つきが柔らかく、優しくなっていた。

 それが証拠に、春のそよ風をつかんで下手くそな鼻歌をなびかせ始めた。

 普段あまり笑わないクラスメートをギャグで笑わせるとこっちまで楽しくなるのと同じで、高屋敷が嬉しそうだと俺も嬉しくなった。


 俺は再び前を向きながら思った。

 霊感がある故に苦労してきたんだろうな、誰からも信じてもらえず辛かったんだろうな、と。

 俺が小さいおっさんの存在を信じようと思ったのは目に見えたからだけじゃない。半分はこいつへの同情心からだ。

 あの悲しい声色に一人ぼっちの気配を感じた。ほっとけなかった。

 タナトスだの蛇だの、あるいはそれらが嘘だったとしても、こいつが俺の命を救ったのは確かだ。


 いっちょ信じてみるか……そう思わせる何かがこいつにはあったんだ。


「停めて」


 言いながら踵でブレーキをかける高屋敷。


「八重くんも一緒に来て」


 何事かと振り向けばもういない。点滅する青信号を駆け抜けている。

 追うと繁華街のアーケードへ入っていく後ろ姿が見えた。

 バスの沿線上とあって人通りも多い。チャリを押して後を追う。

 高屋敷は居酒屋の脇でうずくまっていた。

 道端で屈むと道草くってる小学五年生にしか見えない。何か覗き込んでいる。


「どうした?」


 高屋敷は答えなかった。一緒に覗き込む。地面の亀裂をなぞっている。よく雑草とか生えてくるアレだ。

 稲妻型に三十センチほど。躓きそうな程でかい。


「お金でも挟まってんの?」


「臭いの」


「……ガス漏れじゃねえだろうな」


「そうじゃない」


 立ち上がり、尚も奥へ進んでいく。ケータイで時間を確認してみる。

 始業ベルまであと三十分。こりゃ遅刻だな。


「どこまで行くんだよ」


「ついてきて。どこにも触らないで」


 へいへい。


「自転車は置いていった方がいい。壊れるかもしれない」


「…………」


 素直に従わなきゃいけない。そう思ったのはアーケードにはびこる異様な雰囲気を感じ取ったからだ。

 奥へ進めば進むほど暗くなっていく。

 天蓋は透明のプラスチック板だが、青空は失せ、陽光も届かない。さながら洞穴だ。

 地面の亀裂も増えている。ひと気はない。小人も残らず消えてしまった。


 そして……このにおい。

 ドブか、下水か、腐敗した生ごみか、あるいはそれ全部だろう。

 鼻から入り込んで脳みそにアッパーしてくる。記憶の中枢にこびりつくような悪臭だ。

 よく見ると亀裂どころじゃない。ショーケースは割れ、外壁が崩れている。

 傾いだ看板、倒れたマスコット。取れた首が転がっている。


「高屋敷……おい高屋敷……戻ろう。吐きそうだ」


 高屋敷は振り返り、つかつか歩み寄ると、こう言った。


「唄乃でいいよ。高屋敷って長いじゃん?」


 こんな時に何言ってんだ。

 そもそもこいつは平気なのか? 並みの顔色でケロっとしてる。


「何でこんなに暗くて臭いんだ? 誰もいねえし……」


「空間が壊されてる。悪臭は足跡よ」


「高……唄乃、もっと分かりやすく言ってくれ」


「悪鬼が不法侵入して器物損壊させたあと証拠ばら撒いて退散したってことよ」


「悪鬼って……タナトスのことか?」


「ええ……そうかもね」


 歯切れの悪い言い方だった。


「仮に悪鬼が幽霊だとして、現実世界のものをこんな風に壊すことなんかできるのか?」


「無理ね。だからこれは幽霊が見えることと同じなのよ。見える人には壊れてるように見える。あるいは……そうね、ここはもう現実世界じゃないのかも」


 言葉の余韻に地鳴りが重なる。いや、地鳴りに似た耳鳴りかもしれないが、とにかくそれは重たい沈黙だった。

 ここは地獄に違いない、そう直感した。


「……あった」


 何か見つけたらしく、更に奥へ進んでいく。さっさと引き返したかったが、一人で行動する勇気もないので後をついていく。

 唄乃が見ていたのはアパレルショップ……ではなく穴だった。地面から一メートル程の虚空に開いた穴。

 縦に大きく口を開けている。人ひとりくぐれそうだ。厚みはないが、周囲は黒い靄でぼやけている。

 穴の中は真っ暗で、ショーウィンドウを彩る春物のワンピースが透けて見えることはない。


「何だよそれ」


 俺は距離を置いて尋ねる。これ以上近づくと吸い込まれそうで怖かった。


「穴……かしらね。たぶん、悪鬼はここから出てきたか、出て行ったんだよ。まだ割と新しい。どこに繋がってるのかな」


「お前にも分からないのか?」


「入るまでは誰にも分からない。この手の穴や亀裂って、神隠しやバミューダ・トライアングルに代表される言わば時空の〝歪み〟に依存するものなの。これはね、時空の概念が曖昧な霊界の構造とよく似てるんだ」

「瞬間移動とか、タイムスリップみたいな解釈でいいんだけど、私たちがイメージできるほど単純な仕組みじゃない。服だけ置いてけぼりになったり、五臓六腑がバラバラになる可能性だってある。一人目と二人目が同じ場所に出るとも限らない」


「そんなもん意図的に作り出せるのか?」


「偶発的なケースがほとんどね。例えば何か大きな力……地震発生に伴う莫大なエネルギーが穴のようなものを生み出すことだってある。霧の向こうが過去に繋がっていたとか、そういう事例はたくさん挙がってる。でも、こうやって意図して開けられたことってないんじゃないかな。聞いたこともないし」


「まるでSFだな」


「そんなこと言い出したらまた振り出しだよ。幽霊を信じると言ったからには、この穴を霊的なアングルから解析しないと」


「分かったよ。とにかく戻ろうぜ。ここは俺の肌に合わねえよ」


「……そうね」


 もう限界だった。

 臭いし怖いし気味が悪い。ここは地獄の片鱗だ。

 この世のはずがない、時空を越えて穴など開くはずがない。

 幽霊が見えるようになってまだ数分だぞ? 先が思いやられる。

 礼服店の前を通りかかった時、うつ伏せに倒れた青年を見つけた。同じ制服だ。気を失っている。


「迷い込んだみたいね」


「ビビって気絶しちまったんだな」


「体質でしょ。むしろ八重くんがタフすぎるくらい」


「俺も気絶してえなあ」


「背負える? 連れてってあげなきゃ」


 意識のない人間は重たいというが、骨と皮の標本みたいなこいつの体はすんなり軽かった。

 しかし、こんな時間にこんな場所をうろつくとは……一体何やってたんだ?

 俺が言うのもなんだが遅刻だぞ、君。


 再び歩き出して数分。

 霧が立ち込め始めた。浅黒い。悪臭も相まってスモッグのようだ。

 間もなくチャリは見つかったものの、一向に出口が見えてこない。

 闇の出口。光の入口。見えてこない。見えてこない。見えてこない。


「おい……やばくねえか、これ?」


 数メートル先に穴がある。さっきサヨナラしたはずの穴。

 もう二度と会うことはないと思っていた穴。

 背中で見送ったはずの穴。


「行きましょ。歩かなきゃ」


 唄乃は顔色一つ変わらない。こうなることを覚悟していたような雰囲気さえ醸している。そして、俺たちは歩き続ける。


 ファミレス、礼服店、八百屋、骨董露店、ゲーセン、カラオケ、アパレル、穴。

 ファミレス、礼服店、八百屋、骨董露店、ゲーセン、カラオケ、アパレル、穴。

 ファミレス、礼服店、八百屋、骨董露店、ゲーセン、カラオケ、アパレル、穴。


 店はループし、穴へ戻る。穴はゴールか? スタートか? もうこりごりだ。


「言ってくれ」


 俺の限界が限界を超えた。


「今はお前の言葉だけを信じる。だから言ってくれ。お前の口から真実を聞かせてくれ」


「迷った」


 即答!


「どうすんだよどうすんだよどうすんの! 穴に飛び込めってか?」


「それはダメ」


「このままじゃ野垂れ死にだ! この謎めいた青年と一緒に!」


「その子が何か知ってるかも」


「お手上げの唄乃が知らないことを知ってたからってその情報がここから脱出する大きな手掛かりになるとは思えないよ俺は!」


「落ち着きなよ。みっともない」


「…………」


 返す言葉もない。

 何でこんなことに? いや、原因は分かってる。

 高屋敷唄乃。

 幽霊を信じると口にしたあの瞬間……こいつがバスの前に立ちはだかったあの瞬間、〝あるべき日常〟から俺という存在は剥離はくりされたんだ。


 もう戻れない。あの輝かしい毎日は遠い過去の幻だ。

 俺の未来はご覧の通り、お先真っ暗だ。

 俺たちはその場にへたり込み、ただ打つ手もなく途方に暮れた。


「だいたい、ここはどうなってんだ? 何で同じ場所に戻ってくる?」

「空間が歪んでる。私たちは知らず知らずの内に穴の中へ入ってたみたいね。このアーケードそのものが穴の入口だったのよ」


「ってことは……ここは地獄か?」


 解釈は人それぞれね。唄乃は言って、ふっと柔らかなため息を吐いた。


「そういえば……まだ何も知らなかったわね、お互いのこと」


「……そうだっけ?」


 怪力で霊感持ち、幽霊とお友達の、怒るとグーでぶん殴る鼻歌が下手くそな高屋敷唄乃。

 俺の中のお前はもう十分すぎるほどキャラが立っている。


「今さらだけど、何で俺たち一緒に行動してるんだ? 唄乃が俺を助け出した後、〝ありがとう、さようなら〟じゃダメだったのか? タナトスはもういないんだろ?」


「それは……私に責任があるから。本当に安全だと分かるまで一緒にいる」


「どういう意味?」


「私が呼び出したの、死神」


「…………」


「悪魔と話がしてみたくて、一人で儀式をやった。『こっくりさん』に近いわね。こっちは狐の低級霊なんだけど。私が試したのはウィジャ盤だった。死者と交信する海外版こっくりさんってところね」


「でもそれだけじゃ物足りなくて、黒魔術を根底に取り入れた儀式にしてみたの。でも、この二つは馬が合わなかったみたい。ウィジャ盤に答えたのは悪魔じゃなく死神だった。死神はまず、自分をタナトスだと名乗った」


「悪魔と死神って違うのか?」


「全然違うよ。それぞれ宗派による解釈の違いがあるけど、悪魔は基本的にずる賢くて、取り憑いた人間をなぶり殺しにしたり、契約を結んで巧みに扇動したりする。死神は問答無用で魂を狩ってくる場合が多いわね。役回り次第で存在意義に微妙なズレがあるけど」


「あれ……でもお前さっき、アダムとイブの蛇がどうたらって。ありゃ悪魔のことだろ?」


「ねえ、八重くんのこと聞かせてよ」


 話すり替えやがった。

 ツッコミたいけど目がマジだからやめておこう。


「俺か……俺はサッカークラブに入ってた。中学では陸上部だった。足が速かったんだ。体力もあったし、バカだったけど部活は楽しかった」


「また陸上部入る?」


「いや……なんかやる気起きなくてさ。飽きたのかもな」


「ふーん。趣味は?」


「趣味はねえな……特技ならじいじに教わった手品だ」


「え……何かやってみて」


 人前で実演することに長けた奴はその場ですぐ応じられるよう、常に〝タネ〟を仕込んでおくものらしい。俺も例に漏れずその一人だった。

 指先から何枚もコインを取り出してみせると、唄乃の目がカッと見開いた。

 怖かった。

 じいじが飼っていた猫そっくりだ。

 瞳孔が開いて、首だけ突き出してくる。好奇と興奮の表れか、ひどく腹ペコでエサをねだっているかのどっちかだ。


「すっげ! 本物じゃん!」


「本物ってなんだよ」


 さっき怒った時といい、こいつの口調はボルテージの上昇に伴って荒れる傾向にある。

 どっちが素の唄乃なのか、俺にはまだ推し量れない。

 ただ、この口調の唄乃には不思議と親近感が沸く。

 一緒に格ゲーやったら面白そうだなとか、ホラー映画見せたらどんなリアクションすんのかなとか、気付けば俺はコインを何十枚も両手に抱えたまま、勝手な妄想を一人捗らせていた。


「おじいさんはプロのマジシャンなの?」


「まさか……ただの暇潰しだよ」


 こうやって女を喜ばせるためのね。


「でも最近は手品よりオセロに夢中みたいだけどな」


「ねえ、あれはどうやるの? 人体切断マジック」


「マジシャンがタネ教えるわけねえだろ」


「でも知ってるんでしょ? 教えろよ」


 人体バラバラより幽霊と友達になるタネの方がよっぽど興味深いじゃないか。


「やり方は色々あるけどな。作り物のパーツを使ってる場合が多いんだよ。上半身役と下半身役の二人で演じてることもある。人が箱に入るパターンは大体そんなもんだ」


「デスクに上半身だけ乗っかってるやつもある。あれはデスクの脚と脚の間に鏡を立てて反射させた床を見せてるんだ。つまり、デスクに見せかけた箱なんだよ。でも鏡だから、見る角度によっちゃバレバレだけどね。まあ手品は見せ方と演技力でカバーできるもんだし、騙せりゃ勝ちなのさ」


 唄乃が急に立ち上がったので驚いた。例のかっ開いた目で俺を見ている。


「そっか……鏡……鏡なんだ!」


 めちゃくちゃ興奮してる。


「鏡がどうしたって?」


「穴だよ! 意図的に作れるはずないと思ってた……でも鏡があれば……合わせ鏡があれば!」


 なんのことか分からんが唄乃にとっては驚異の大発見らしい。俺の前を右往左往し始めた。


「一度は聞いたことあるでしょ? 深夜零時に合わせ鏡を覗くと死んだ自分の姿が見えるとか、四番目の自分と入れ替わって鏡に閉じ込められるとか。鏡にまつわるこの手の話は多いんだけど、それは呪物における鏡の性質に縁があるからなのよ」


「儀式や魔除けに使われたり、神社には祭具の一つとして厄災と穢れを祓う神鏡が用いられてる。鏡には人知の及ばぬ力が宿り、故にオカルトを下敷きにした伝承も多い。決定的なのはね、合わせ鏡で霊界への扉を開けられるってことなのよ」


「霊界って……ここは霊界か?」


「分からないけど、やってみるしかない」


「じゃあ鏡を探そう……って、ここに鏡なんかあんのかよ」


「外から繋げるんだよ! あの穴に!」


 なるほど。段々分かってきたぞ。


「宛ては?」


「ある……でも問題が一つ。合わせ鏡をセットできても、あの穴が外界へ……つまりアーケードの外へ繋がってる確証が得られないと意味がない」


「どう調べる?」


「ちょっと待って……何か落ちてる」


 唄乃は穴へ近づいていき、その真下で何か拾い上げた。

 真智から貰った『くいだおれ人形のケータイストラップ』だった。


「俺のストラップだ。何でそこに?」


「さっき覗いた時落としたんじゃない?」


「怖くてそこまで近づけなかった。そもそもケータイなんか出してない」


「最後にケータイを出したのはいつ?」


「えっと……アーケードの外だ。ほら、お前が居酒屋前の亀裂を見てた時……!」


 さすがの俺でもピンときた。唄乃と目が合う。思わず立ち上がっていた。


「あの亀裂……ここと繋がってんのか?」


「たまたま繋がっただけかもしれないけど……でも、この穴が外界と繋がってるのは確かね」


「その穴から居酒屋前へ出られるのか?」


「あの亀裂を通るのは物理的に無理よ。もしかしたら光の速さで射出されて、ミンチになるかもしれない。さっきも言ったけど、これは四次元を理解できない私たちが容易に扱っていいものじゃない」


「じゃあどうする? 宛てがあるんだよな?」


花子はなこちゃんよ」


 何?


「説明は後ね。とにかくやってみましょ。時間もないし」


 唄乃はケータイを取り出すとどこかへかけ始めた。


「俺のは圏外になってるぞ」


「私のケータイは基地局を経由しないの……もしもし、花子ちゃん?」


「もっしもーし!」


 近づくと会話が聞こえる。通話相手は女の子だろうか。声高でよく響く。


「こちらプロジェクト・メリー事務員、花子ちゃんだよ! どちら様ですか!」


 プロジェクトなんだって?


「花子ちゃん? 私、唄乃だけど……」


「唄乃さん!? どこにいるんですか! 夜明け前に来てくれるって言ったじゃないですかあ!」


「ごめんね。色々あって……花子ちゃん、今トイレだよね? クローゼットの姿見で合わせ鏡用意できる?」


「何するつもりですか? 幽体離脱のアシストならもうやりませんよ」


「閉じ込められたの。空間の狭間なんだけど場所が特定できないから、そっちで引っ張ってもらえる?」


「空間をねじっちゃったんですか? もう人間業じゃないですよ、唄乃さん!」


「紐を腰に巻き付けて、迷子にならないよう気を付けて。準備できたらまた連絡するね」


「人遣い荒いわあ!」


 通話を切った唄乃が自分の髪の毛を抜き始めた。


「おい……何やってんだ……」


「八重くん、私の髪の毛抜いて。十本くらい。結んで紐にする」


 何かに取り憑かれたのかと思ったがそうじゃないらしい。

 唄乃は抜いた髪の毛を『くいだおれストラップ』に巻き付けていく。


「これを穴に放り込む。何度も繰り返せばいずれ花子ちゃんの元へ届くかもしれない」


 髪の毛は〝回収〟と〝橋〟を担ってるってわけか。


「ちゃんとした紐の方がいいんじゃねえか? 手品用のやつ持ってるぞ」


「髪の毛は霊力が強いから穴の中でも強度を保てるはず……私は結ぶから、その間に抜いて」


 俺たちは向かい合って珍奇な共同作業を開始した。

 唄乃の頭は小さくて、いい匂いのする毛の生えたメロンのようだった。

 悪臭に対して鼻がバカになりつつあるのだろう。

 唄乃の柔らかで細い毛髪に指を通すたび、俺の精神はいつもの平穏を取り戻していった。


「白髪みっけ」


「嘘でしょ……」


「スマン、違った」


 すねを蹴られた。場を和ますかわいいジョークじゃねえか。


「こんなところね」


 唄乃は二メートル近くなった髪の毛の紐でストラップを宙に浮かせてみせた。それを俺に手渡すと、再び電話する……コールが続く。


「準備できた?」


「ずいぶんせっかちですね! 今終わったところです!」


「そっちに人形投げるから、届いたら教えてね……八重くん、誕生星座は?」


「獅子座だけど……」


「じゃ、八重くん投げて。今日の獅子座は『くいだおれ人形のケータイストラップ』の恩恵を強く受ける日だから。八重くんが投げれば届くかもしれない」


「お前……ゲンを担ぐにも程があるだろ。いくらラッキーアイテムだからってそううまくいくかよ。漫画じゃあるまいし……」


「やれよ」


「……おう」


 こわ。つうか何で俺のラッキーアイテム知ってんだよ。

 訝りながらも穴の前に立つ。真っ正面から対峙すると更に恐怖心を煽られる。

 暗闇は死を連想させる。ふっと意識を吸い取られ、関節に力が入らなくなった瞬間、俺はこいつの餌食になるだろう。

 今そうならずに済んでいるのは、きっと唄乃がいるからだ。


 届け。

 髪の毛を指に結びながら祈る。

 届け。届け。

 花子ちゃん(誰?)の元へ。届いてくれ。


 『くいだおれストラップ』は俺の手を離れ、穴へ吸い込まれていった。髪の毛が後を追う。

 指に巻き付いて、ピンと張ったまま動かない。

 向こうでは重力が働いていないらしい。ストラップは万有引力を無視してそこに在り続けている。

 唄乃が髪の毛に触れる。


「何か感じる?」


「いや……重くも軽くもない。何もない」


 何もない、って表現は的確だったと思う。

 髪の毛が指に巻き付いている事実以外、得られる情報は皆無だった。


「花子ちゃん、人形届いた?」


「来ません! ウサギの人形ですかあ? ウサギの人形が欲しいです!」


「もう一度やってみよ」


 手繰り寄せるとストラップは何の抵抗もなく戻ってきた。放った時の微笑みのまま、特に変わった様子はない。


「いくぞ……あっ……!」


 ストラップが穴へダイブした瞬間……髪の命綱が切れた。真ん中からプッツリと。


「ダメじゃん、お前の髪の毛!」


「強く投げすぎ! 野球みたいに振りかぶんなよ! キャッチャーいないんだから!」


「そもそも花子って誰だよ! ストライクゾーン狭すぎだろ!」


 いがみ合ってる猶予はなさそうだった。俺たちは反射的にその場から飛び退いた。

 穴から手が突き出ている。何か探るように虚空を掴んでいる。


「誰かいらしたぞ……」


「隠れなきゃ……早く!」


 俺たちは未だ気を失ったままの青年を担いで店内へ隠れた。

 アパレルショップの向かいにある狭苦しい質屋だった。ガラス張りの入口から外を窺える。


 蒼白い二本の腕が穴の縁をつかみ、上半身を引っ張り上げる。

 もつれ合う長い黒髪が顔を隠し、地面をこすった。

 赤剥けの皮膚にはケロイドが隆起している。


 腐ってる。そう思った。

 死体か、あるいはそれに近い千年前のミイラが時を超えて穴を突き破ってきたように見えた。

 情けないことに、全身が震えていた。

 唄乃に気付かれまいと震えを抑えるも逆効果で、芯に力を入れれば入れるほど震えは大きくなった。


 ドッと鈍い音がした。

 女……と思しきミイラが穴から完全に這い出て、地面に落ちた音だった。

 真っ黒な和服をまとっている。

 立ち上がるとやけにでかい。二メートル……いやもっとあるかもしれない。首が異様に長いせいだ。

 背筋が伸び、長い黒髪が耳をかすめて肩の後ろへ流れた時、顔が見えた。


 顔は剥き出しのドクロだった。眼窩に穴が開いている。

 顔の右半分に腐りかけた皮膚と肉の残滓が貼り付いている。

 禿げ上がった額が赤くただれ、化膿している。


 やおら、その醜い面相を小さく左右に振り始めた。気味が悪かった。

 関節にガタがきているのか、女の動作はストップモーションビデオの被写体よろしくぎこちなかった。


「私たちを探してる」


 唄乃が急に声を出したのでチビりかけた。


「知り合いか?」


「叔母に似てるけど、違うと思う。まだ生きてるし」


「ありゃ何者だ? 悪鬼か? タナトスか?」


 唄乃は女をねめつけながら首を振った。


「アーケードを壊して空間をねじ曲げるほどの力は感じない。幽霊……って言ってしまえばそれまでだけど、かなりの怨念にまみれてる。もう何百年も前に死んだ人……それもひどい殺され方をしてる。冤罪で焼かれたか、恨みを持って殺されたかしたんでしょうね」


「背が大きいのは他所から怨恨を集めて肥大したせいよ。憎悪が姿態を異形にしていく。だから首が長い。ストラップの出し入れで勘付かれたのかもね。ここであんなのに迷い込まれるなんてツイてないわ」


「捕まったらどうなる?」


「右手に岩を持ってる。あれで頭蓋を割って脳みそと目玉を食べるのよ」


「グルメだなあ」


「紐、貸して。さっき言ってた手品用のやつ」


 俺は言われるままカバンからそれを引っ張り出した。三色三本、計三メートル。


「今度は何を投げる?」


「私が入る」


 耳を疑った。


「正気か? まだ他の方法で……」


「もう時間がない。このままじゃあと十分で遅刻よ」


「今は学校よりお前の命だろ!」


「花子ちゃん? まだ繋がってる?」


 聞いちゃいねえ。


「繋がってまーす。次は何します?」


「鏡から迎えにきて。クローゼットに懐中電灯があるから、それで位置を知らせてほしいの。私も中へ入る」


「迷子になっても知りませんよー?」


 通話が切れると再び静かになった。唄乃は黙々と紐を結ぶ。

 女はまだ首を振っている。

 目がないから見えるはずがない。においか、空気の微弱な震えを感じ取ろうとしているんだろう。


「俺が穴に入るよ。もし中で迷った時、唄乃なら俺を助け出せるかもしれないだろ? お前には外側の知識があるけど、あの中がどうなってるのか、分からないのはお互い同じじゃないか」


 紐を結び終わった唄乃が顔を上げた。まっすぐ俺を見据えている。


「優しいね、八重くんは」


「俺はただ……」


「八重くんには仕事があるよ。私が中に入ってる間、怨霊の注意を引きつけといてほしい。こっちには自転車があるし、そう簡単には追いつけないと思う。何だか鈍そうだし」


「けど……分かった」


 唄乃の目は一度決めたら譲らない頑なな意志を宿して見えた。

 俺はもう何も言わなかった。


「紐の端はカバンに結びつけておく。私は中へ入って、花子ちゃんを探す。もしかしたら、懐中電灯の明かりが届くかもしれない。女が出てきたことからも、あの穴が居酒屋の亀裂以外と繋がってる可能性は高い。きっとうまくいく」


「……お前を信じるよ」


 信じる……その言葉が未来にもたらす影響力を俺は知っている。

 信じることで見える何かがあるのなら、そいつに賭けてみようと思った。

 唄乃がそう言うなら、そいつに賭けてみようと思った。


「じゃ、行こ……」


 その場を動けなかった。ガラス張りのドアに女がへばり付いている。

 長い長い首の上に据わるカラッポの眼窩でこっちを覗き込んでいる。

 息遣いが聞こえる。嗚咽のような鳴き声がドア越しに聞こえるたび、女の口元でガラスが灰色に曇った。


 和服の袖からケロイドの腕が伸び、ドアに触れた。

 錆びた蝶番がパキパキと音を立て、女がゆっくりと入ってくる。裸足だった。


 買取専門の質屋は狭い。俺たちはカウンターを周り込んで店の奥へ退避した。

 女はまた首を振り始めた。頭が天井の梁をこする音と、朽ちた床板の軋むような吐息が重なった。

 壁際の段ボールに買取品と思しきブランド物のポーチが入っていて、俺は手当たり次第にそれを引っ掴んでは店の反対側へ放り投げた。

 女の首が、壁にぶち当たったポーチの方へ百八十度ひっくり返る。


 俺たちはそれが合図とばかり飛び出した。

 唄乃は穴へ、俺は青年を背負ったまま質屋の前で待機する。

 女の注意を唄乃へ向けるわけにはいかない。俺が囮でいる間、唄乃には穴と鏡を繋げてもらう。


 大丈夫だ。

 奴は目も見えない。図体ばかりでかくて動きはトロそうだ。

 振り返ると唄乃はもういなかった。紐が地面に置かれたカバンと穴とを結んでいる。


 本当に平気なんだろうか? 呼吸はできるんだろうか? 動き回れるんだろうか? 

 穴を見つめながら考えてる内、あの息遣いが聞こえてきた。

 女がほとんど眼前に迫っていた。意外と速い。伸ばした腕が虚空をかすめる。

 後ずさりするとついて来る。何か言っている。


「ち……」


 何か言っている。


「ち……ち……」


 〝ち〟が何だって? 聞いたが答えない。

 顔を上げるとすすけたドクロに蛆のうねりが見えた。蛆は零れ落ち、和服の柄となった。

 俺は背を向けて駆け出した。ついてくる。歩幅が大きい。速い。ついてくる。


 何か言っている。


「ち……血……」


 躓いて転んだ。

 青年が脇へ投げ出されるも、女の狙いは俺だけのようだった。

 長い首が伸び上がり、岩を持つ右手が俺に照準を合わせた時、蛆のひと塊が新品の革靴に零れ落ちた。

 余りに気持ち悪くて、俺は足を振り上げがてら身を起こし、再び走り出した。


 案の定、足元で横たわる青年をないがしろにし、不格好な前傾姿勢で俺を追いかけてくる。

 俺は全力疾走し、空間の歪みを利用して再び穴の前へ戻ると、勢いも殺さずチャリに飛び乗った。

 とにかくここを離れよう。ペダルを踏み込んだ矢先……


「八重くん!」


 穴から唄乃の声が聞こえた。紐はまだカバンと繋がったままだ。


「唄乃!? どうした!?」


「うまくいった! 繋がった! 今花子ちゃんと一緒にいる! すぐに来て!」


 やった……!


「ちょっと待ってろ! 今すぐは無理だ!」


「時間がない! 空間が不安定でこの紐じゃ長くは持たない!」


 嘘だろ……。

 振り返ると女が迫っていた。

 無我夢中でペダルを回し、青年を回収しに戻る。

 チャリを捨て置き、もたもたと背負ってる間に追いつかれた。


 腕を振り払う。尚も走った。

 元陸上部の底力で走った。

 練習でも大会でも俺を追い抜いた奴はいない。あんな化物に負けるはずがない!

 穴が見えてきた。地面を踏み込む。腕を伸ばしてカバンを引っ掴み、頭から飛び込んだ。




 穴の向こうはグラウンドだった。

 舞い上がる砂の匂い。

 俺はまだ走っていた。

 白線のレーンを一人疾走していく。コーナーを曲がって最後の直線でスパートをかける。

 もう誰も追いつけない。最高の瞬間だ。胸を突き出し、ゴールラインを蹴り上げる。


「また新記録だ!」


 走り終えた俺に向かって誰かが言う。振り向くと、そこには誰もいなかった。

 ゴール脇に人だかりができている。

 みんな感心した面持ちで誰かを取り囲んでいる。笑い声が聞こえる。


「そうか……」


 レーンに誰もいなかったのは俺が速かったからじゃない。

 足の遅い俺をみんなが追い抜いていっただけだ。俺は最下位だった。

 悔しくはない。この結果を当然のことだと受け入れられる自分がいた。

 その場に座り込み、青い空と雲を見上げる。風が気持ちよかった。


「おつかれ」


 聞き覚えのある声だった。視線を下ろすと高屋敷唄乃が立っていた。セーラー服を着ている。

 俺は力なく笑いかけた。


「冷やかしか?」


「応援しに来ただけよ」


「あんな記録、すぐ追い抜いてやる」


 俺は拳を握った。

 唄乃が俺に向かって手を差し出した。


「少し話せる?」


 俺は頷き、その小さな手を握って、立ち上がった。そして……




「八重くん!」


 深い眠りの底から叩き起こされたような気分だった。

 目の前に唄乃がいる。ぐっと伸ばした腕で俺の手を掴んでいる。

 辺りはほの明るい。唄乃の背後に四角く切り取られた小さな明かりが見える。

 

 両足で立ってる感覚がない。体が宙に浮いている。

 宙というか、無に近い空間だ。

 青年が気を失ったまま俺の背中に体を預けている。

 狐につままれた気分だった。


「花子ちゃん! 引っ張って!」


「はーい!」


 どこか遠くの方から甲高い声が聞こえる。


「いっくよー、それ! オーエス! オーエス! そいや! オーエス! オーエス!」


 体が動き出した。

 いや、体が動いているというより、周囲の景色が俺を置いて背後へスライドしていくようだった。

 無論、周囲に景色と呼べるものはない。

 それは、今しがた見たグラウンドの情景とか、匂いとか、地面を蹴る音とか、五感の生み出した記憶思念が脳みそから排除されていく一過程のようでもあった。

 昨夜見た夢の内容を思い出せない昼下がりのように、それは俺を置いて遠ざかっていく。

 四角い明かりが段々大きくなる。やがて、俺たちは光に包まれた。


 目の前にライムグリーン色のタイル床が迫っていた。俺は青年を担いだまま肩から派手に落ち、痛みでしばらくのたうち回った。


「割って!」


 唄乃の声が響く。


「鏡を割って!」


 俺は反射的に立ち上がり、焦点の定まらない視界で洗面台に備え付けの鏡を見た。

 果てなく続く合わせ鏡の彼方に腕が見える。蒼白い指先がこっちに伸びて……


「早く!」


 俺は拳を放ち、化物もろとも鏡を撃ち砕いた。




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