2 弟君、登場!③
せめてその、半年を待っていてくれたら、どんなに助かっただろう。
自分とさくらは高校を卒業して、それぞれ違う進路を歩んでいたのだ。
クラスメイトである今は、近過ぎる。
「母さんたちの事情は、理解しているつもり。俺たちは俺たちでがんばるけど、なかなか大変だよ」
「ごめんなさい、玲」
「俺はいい。さくらに謝れ」
「うわあ。私より、さくらちゃんのことを気遣うなんて、なんだか妬けてくるぅ」
「うるさい。適当言うな。あいつは、妹なんだ。受験生だし。俺はもう寝る!」
「ふふふ。玲はからかうと、おもしろい」
「あのなあ!」
聡子の肝が太い性格は、しっかり類に受け継がれている。
玲はテレビを消して、寝袋にもぐり込んでふて寝をはじめた。
新家族、うまくいってない。全然。
授業中も、勉強に身が入らなかった。
親は仕事が忙しい。
玲はときどきとてもやさしくなるけれど、いつもそばにいてくれるわけではない。
類は暴れ馬のようにやんちゃである。しかも、超売れっ子モデル・北澤ルイだなんて、誰にも言えない。
確か、友人の純花は北澤ルイの大ファンだった。なんと説明すればいいのだろうか。
「笹塚。今のところ、訳してみろ」
英語の和訳を急に当てられたが、さくらにはなんの準備も心がまえもなかった。
すっかり『柴崎』のつもりでいたので、旧姓・笹塚を聞かされても、すぐには自分だと気がつかなかった。
「……五十六ページ。三行目」
隣の席の男子がフォローしてくれたものの、さくらの机の上に出ていたのは英語の教科書ではなく、日本史の教科書だった。
「たるんでいるぞ、もっと気合いを入れろ」
「すみません……」
謝るしかない。
「家の事情は分かるが、授業中ぐらい勉学に集中しろ」
さくらは、身体が熱くなった。
『家の事情』。
そんなの、誰だって分かっている。
なのに、あらためてクラスメイトの前で言うべきなのだろうか。
怒りが湧いてきた。
反論しようと腰を浮かせたとき、さくらよりも早く意見を述べた人物がいる。
「個人的な部分を、公然と口にしないでほしい。教師とはいえ、軽々しい発言でむやみに生徒を傷つけるな」
玲だった。
さくらをかばってくれている。
英語教師はもちろん、いやな顔をした。
けれど、玲は引かなかった。
玲と教師の睨み合いの結果、先に視線を逸らしたのは教師だった。
「お前ら、あとで指導室に来い」
放課後、教師数人に囲まれ、たるんでいるだの浮ついているだのと、こってり絞られたものの、さくらと玲はどこ吹く風だった。
授業に身が入らなかったことは反省しているけれど、家の事情まで責められる覚えはない。
「だいじょうぶだった? ふたりとも」
心配した純花が、さくらの帰還を待っていてくれた。
「うん。ありがとう。心配かけて、ごめんね」
「気にしないで。とんだ災難だよ。さくらも、おにーちゃんも。よしよし、いい子。泣かないでね」
「……お前の兄になった覚えはない」
「冷たいなあ」
「先、行く。じゃあな。今夜もごはん、要らないんで」
「う、うん」
玲はたまに夜遅く帰宅する。今日もそうらしい。
振り返りもしないで、すたすたと歩いて行った。
「……柴崎くん、彼女でもいるのかなあ」
「ひっ?」
「だって、そう考えるほうが自然でしょ。さくらと夫婦みたいな会話しておきながら、ひとりでそそくさと下校。帰宅は夜遅く。柴崎くんのことだから、かわいい系の女子とかつかまえてんじゃないの。いや、年上のほうかな。飼ってもらっているとか」
「玲は、そんな人じゃないよ」
「『そんな人じゃない』だって。同居して、これはずいぶんと感化されましたね、さくらさん」
「か、からかわないで」
「そんな友の反応がおもしろくて……いえ、不憫で。こうなったら、さくらも彼氏を作るしかないよ。目指せ、健全交際!」
純花は買い物があるから、と言いつつ、さくらを渋谷まで引っ張った。
スクランブル交差点の前に、北澤ルイの巨大ポスターが掲示されていた。
さわやかな笑顔が似合うルイは、清涼飲料水のイメージキャラクターに起用されている。砂浜に寝転んで、水着にパーカーという姿である。
「どうしたの、さくら。あれ、北澤ルイのこと、好きなんだっけ」
「い、いやいや。好きっていうか、その」
このタイミングで、純花には告白してしまったほうがいいだろうか。
でも、街の雑踏の中では会話を誰に聞かれているか分からない。
のちのち、類が困るようなことはしたくない。
「かわいいけど、かっこいいよねえ。年下だけど、すごくいいよね。好きだなあ。まぶしい天使のほほ笑みっ」
「う、うん。そうだね」
「明るくてさわやかなのに、一瞬どきっとするような色気。モデルの仕事がメインだけど、たまにトーク番組にも出てて、ちょっと毒舌なんだよ」
「そ、そうだね」
家での類の姿を見てしまうと、ルイの笑顔は全肯定できない。
ちょっと毒舌どころか、暴君である。
さくらは顔をひきつらせたまま、純花の後を追った。
いくつか店をまわったものの、純花にはモノを買う気があまりないらしい。
試着したり、サンプルで遊んでいるだけだ。
「ねえ純花。私、そろそろ帰らないと、夜ごはんの支度が」
「どうせ、親は残業、兄は食事いらないんでしょ。いいじゃん、もう少しぐらい。見て見てこの色。素敵」
純花の手には、落ち着いた青色の便箋と封筒。
思わず、笑みがこぼれる。
「かわいいね」
「あ、笑った。さくら、笑った。よしよし、この調子で」
完全に、純花はさくらをなぐさめていた。
そして、わざと隙だらけにして、男性から声をかけられるタイミングを窺っている。『さくらに彼氏』を。でまかせでは、ないらしい。
「純花、気持ちは分かるんだけど、私はそろそろ……お弁当の準備もあって」
「こっちのスタンプもかわいいね!」
「純花……」
「じゃあ今度は、あっちのお店!」
そのときだった。
銀座線の、改札口に続く階段を下りてくる人混みの中に、玲がいた。
薄手のジャケットに、グレーのパンツ姿。
制服ではない。どこかで着替えたらしい。
自宅とは、まるで方向が違うのに。
「れ……」
さくらは手を振ろうとしたけれど、浮かばせた腕は途中で止まってしまった。
玲は女の子と仲よく歩いていた。腕を組んで。
「うわあ、女の子だ。誰?」
「……知らない。全然」
聞いたこともない。まさか、彼女? 歳は、さくらよりもやや上だろうか。
「かなり親密そうだね……って、おい。さくらっ」
足が勝手に動き出していた。
玲を追いかけている。
歩いている人が多いので、玲には見つからないとは思う。
逆に、見逃さないように追うのが難しい。
「追いかけて、どうする」
「だって」
「ただの義理の兄でしょ」
「でも、気になる」
帰りが遅かったり、朝が早かったりするのは、彼女の存在のせいだろうか。
さくらは手で胸もとをおさえつつ、道玄坂を上る。
渋谷の街は暗くなるにつれて、ネオンがぎらぎらと輝きはじめ、昼間よりも明るいのではないかとさえ思えてくる。
玲と女の子はどんどん歩いてゆく。
たまに顔を見合わせ、ほほ笑みを交わす。昨日今日の仲ではないようだ。
「ね、これ以上は無理」
「どうして」
「冷静に見なよ、周りの景色」
指摘されて、さくらは驚いた。
よくよく方向も確かめずに、ふたりを追いかけていたが、渋谷のホテル街に踏み入っていた。
「どういうこと?」
「私に聞かれても」
「どうして、玲がこんなところに」
そして、玲は女の子と、とあるホテルに吸い込まれて行った。
ためらうこともなく、馴れた感じだった。
人違いではない。
確かに玲その人だった。見間違えるはずがない。
毎日、家で学校で顔を合わせているのだから。
なのに、さくらは玲のことをまったく知らなかったことに改めて気がついた。
「頼れ、とか言っておいて」