2 弟君、登場!②
類は玲に怒られてもなお、さくらのベッドの上でころころと寝転んでいる。
「せっかく、いいところだったのにな」
「姉を傷ものにしようとしてどうする。だから、類との同居は無理だと、あれほど」
「うるさいから早く出て行って。眠い」
「お前は、自分の部屋に帰れ」
「玲、類くんの部屋は全然片づいていないんだよ。類くん、私のベッドを貸すのは今日だけだよ」
さくらは玲の背後から類に声をかけた。
「さすがは我が姉君。よく分かっていらっしゃる。どこかの猪野郎とは違うね。じゃ、おやすみなさい。夕食の時間になったら起こしてね、さくら~」
「猪扱いするな。呼び捨てするな、年上を敬え」
「さくら。玲がいかがわしいことしてきたら、逃げるんだよ」
「いかがわしい存在は、お前だ」
玲はさくらの部屋のドアを乱暴に閉めると、深くため息をついた。
「悪かったな、驚かせて。類から突然、家に帰るって電話がかかってきて、道を教えろって言うし、いやな予感がして早く帰ってきたら、これだ」
「私のこと、心配してくれたの?」
「ああ。当たり前だろ。マスコミには隠しているが、類は相当な女好きだからな。しくじったことも何度かあるし……おっと」
「しくじった?」
「ごほん。そのへんの詳細は、また後日。とにかく、類はあぶない弟だから、やつの間合いに入らないように。姉でもなんでも、平気で襲ってくる。つけこまれるから、あいつに同情するな」
「はい」
「ほんとに、なにもなかったんだな」
「玲のおかげで、どうにか。ありがとう」
「今日みたいに、いつもタイミングよく助けられるとは限らない。むしろ、お前が自分で身を守れるようになってくれ」
弟から身を守るって、どんな家族……さくらは先が思いやられたけれど、暗い気持ちに沈みたくはないので、努めて笑顔で明るく振る舞う。
「類くんに悪気はないことぐらい、察しているよ。たぶん、ほんの冗談でしょ。今日のことは忘れるよ。食事、支度するね」
「今夜は、三人か。母残業、涼一さんも出張。俺にできることがあれば、手伝う」
「玲が」
「こう見えても、これまで家事全般は俺がやっていたから。さくらが来てからは、任せっきりだけど」
「じゃあ、ずっと類くんとふたりだったのね。あ、大根を切ってくれるかな。お味噌汁に入れるから、短冊切りで」
「いや。あいつは、中学生でスカウトされてから、芸能事務所の合宿所に入ったし、私生活はまるで野放図。それまでは、俺や通いの家政婦が面倒を見ていたけど、母さんはあんな感じだから。中学を卒業したあと、類は急に自宅に戻って来て、ペースがつかめないうちに再婚騒ぎ」
玲の包丁さばきは、なかなか様になっている。
いい音が響く。
「玲も、かなり苦労したんだね」
「さくらほどじゃないさ」
「でも、うちは近所に住んでいた、父さまの妹……おばさんが助けに来てくれていたし。夜、ひとりで寝るのは寂しかったけど。雨の日とか」
「同じく。雨音が、いやに大きく聞こえるんだよな。風とか強いともう、お化けか百鬼夜行のお通りかと、錯覚するよな」
「そうそう。窓を閉めて、カーテンをぴっちり引っ張っても、そういうときはだめなんだよね。怖かった。今でも、慣れないよ。雨の夜は。だから、家族が増えて、とっても嬉しかったのに」
まさか、弟があんな人だとは。
「もう、怖がらなくていい。俺がいる。疲れていたら、遠慮なく休んでくれ」
玲は、真剣な眼差しをさくらに送った。
どう答えたらいいのか、さくらがまじまじと考えていると、己のことばの大胆さにようやく気がついたようで、玲は真っ赤になってうろたえた。
「いいい、今のは、かかか、家族って意味だ。兄として、な。母さんもいるし、もちろん涼一さんだって。ま、親ふたりは帰りが遅いけど、いざというときはやってくれるさ。行動力だけはあるから」
なんだか、いい感じ。うれしい。
あの類だって、急な同居に戸惑っているんだ、きっと。
「うん、そうだね。信じるよ、家族みんなを」
この夜、食事を終えて風呂から出た類は、再びさくらの部屋に乱入してきた。
どうしても、自分の部屋には入りたくないらしい。
これは今度、時間を見つけて一緒に類の部屋を片づけなければ、と決意するさくらだった。
「さくら、お願い。ここにいさせて。初めての部屋でぼく、心細い」
風呂上がりで、なまめかしさ数倍増しの美男子に迫られ、さくらは拒否できなかった。
「……今夜だけだよ」
「じゃあ、添い寝してくれるんだね。でもさくら、かわいいパジャマだね。これから脱がせちゃうの、もったいないぐらいだよ」
「なんの話? ここで寝るのは類くんだけだよ。私はリビングに行くから」
「えっ、添い寝は」
「しません。おやすみなさい」
さくらはさっさと自分のベッドを明け渡し、リビングのソファで寝ることにした。
非常持ち出し袋から寝袋を取り出し、テレビの前に陣取った。
眠くなるまで、テレビでも見ていようか。
「おい。なにやってんだよ、そんなところで」
風呂上がりの玲が、寝袋に入ろうとしていたさくらを咎めた。
「やっぱり、類くんにベッドを取られたから」
「俺の部屋、使え。俺がソファで寝る。朝早いし、ちょうどいい」
「そんな。玲に悪いよ」
大いに首を振って否定した玲は、さくらの寝袋を取り上げた。
「いいから早く。弟の不始末にケリをつけるのも、兄の仕事。そろそろ母も帰って来るだろうし、類のことは今日のうちに話しておきたいから、俺がリビングに残ったほうが都合がいい。部屋の中から二重ロック、かけろよ。窓の鍵も忘れるな」
「う……分かった」
いったん部屋に戻り、室内をざっと片づけた玲はさくらを呼んだ。
玲の部屋の鍵を渡される。なんの飾りもついていない、そっけない鍵だ。
「んじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
ドアが閉まる。鍵をかけた。
……男の子の部屋だ。家具は少ない。
大きなものは机とベッド、本棚にパソコン。壁には、ポスターやカレンダーも貼っていない。趣味の傾向が窺えない。
先日は部屋に立ち入ることを頑なに拒否していたが、よく片づいている。
余計な詮索はいけないと思うけれど、机の上の小物とか、本棚の本とか、細かいところにがやけに気になってしまう。
「あ、これ、読みたかったマンガ。ゆるキャラマスコット人形? こういうの、わりと好きなのかな」
観察している場合ではない。寝なければ。玲のベッドで。
「し、失礼します」
さくらはベッドに向かって一礼すると、おそるおそる玲の布団に身体を入れてゆく。
サイズ大きめで、寝やすい。
ライトを消して布団にくるまれていると、玲に抱き締められているかのように、玲を近く感じた。
先ほど、類に押し倒されたような驚きではなく、やわらかいあたたかさがある。
「そりゃそうか。兄だもんね」
困ったときは頼っていいと言われたのだ。玲が困っているときは、支えよう。
そんなことを考えつつ、さくらは眠りについた。
「ただいま。あら玲、そんなところに寝袋。サバイバルごっこか、なにかなの?」
ようやく聡子が帰って来たのは、終電だった。さくらはすっかり寝ていた。リビングのソファの上で寝袋に入っていた玲は聡子を睨み返した。
「そんなわけないだろ。類のせいだよ、類の」
「類の?」
「メール、読まなかったのか。今日、正確に言えば昨日の午後、類が帰って来たんだ。この家で最初に発見したのは、さくらだった」
「あら、間の悪い。しまったわね」
「しかも類は、さくらに襲いかかって。未遂だったけど、俺があともう少し遅かったら、大変なことになっていた」
「もう。類ったら、相変わらず手の早いこと。さくらちゃんが気に入ったのはいいけど、ほんとうに困った子」
「みっちり叱ってやってくれよ。俺はもう寝る。さくらにも謝れ。新しい弟が『北澤ルイ』だったことも、襲われかけたことも、傷ついたはずだ」
「そうね。傷ついたでしょうね、さくらちゃん。ちょっと、驚かそうと思っただけだったのに」
「だから。類のことは早く言えって、あれほど忠告したのに、最悪の結末だ。類ひとりのせいで、全部裏目」
「類も、もうちょっと、世間を勉強してほしいわね。育児を丸投げした、私のせいか。明日は遅め出勤だから、類とよく話しておく。じゃあ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
「で、なぜここで寝ているんだっけ、玲は?」
類がさくらのベッドを占領したこと、さくらは玲のベッドで寝ていることを話して聞かせた。
「そんなことになっていた日に、残業だなんてますます親失格か。涼一さんも出張なのに」
「類を、合宿所に戻せないかな。さくらの身が危険過ぎる」
「そうねえ。考えてみるけど、家に戻ってきなさいって言ったのは、私だから」
「母さんが?」
「思えば、母親らしいことほとんどしてこなかったじゃない、玲にも類にも。玲は高校を出たらきっと家を出て行くだろうし、それまでの半年だけでも、家族で住めないかと思って。なのに、子どもたちに申し訳ない」