その7
「めぐちゃん、大丈夫?」
私は日陰のベンチでのびきっていた。高校生になってからもっぱらインドアな生活を送ってきたもので、七月下旬の日差しにやられてしまったのだ。隣に座ったさーちゃんが扇子で風を送ってくれる。
「うん……だいじょうぶ……。ごめんね、さーちゃん。付き合わせちゃって」
受験勉強から一時離れて楽しめるのせっかく休日なのに、暑さにダウンしてさーちゃんに看病してもらう私、ダメすぎる……。でもさーちゃんは首を振って微笑んだ。
「ううん、気にすることないよ。むしろ私のほうこそいきなり誘っちゃってごめんね」
優しい。さーちゃんは昔からそうだった。私とたっくんは、よく言えば活発、悪く言えば悪ガキで、例えば台風が来るとあえて外に飛び出そうとするタイプの子どもだった。しょっちゅう怪我をして泣きわめいた私たちは、まっさきにさーちゃんのもとへ走っていったものだ。お母さんや先生より、まずさーちゃん。さーちゃんはわんわん泣く私たちにちょっとびっくりした顔をしてから、笑いながらばんそうこうを取り出して擦りむいた膝に張ってくれた。懐かしい。
「さーちゃん、ありがとう」
私は暑さでぼんやりしながら、さーちゃんを見つめた。さーちゃんは少し視線を泳がせて、照れくさそうに笑った。
「おいバカめぐ! 水買ってきてやったぞ!」
たっくんと風見くんがやって来た。顔がべらぼうにいい彼ら二人が並ぶと、何かの撮影みたいだ。たっくんがペットボトルを私に投げてよこした。
「まったく、世話が焼けるなあ。反省しろよ、バカめぐ」
「……ごめん」
なまじっか迷惑をかけてしまっているから、バカめぐと連呼されても言い返す言葉がない。さーちゃんに寄りかかりながらうなだれていると、無表情のまま風見くんが口を開く。
「屋内のカフェで空いてるところ見つけたからそっちに行きましょう。たぶん熱中症だから、涼しいところに移動したほうがいい」
さーちゃんしか眼中にないと思われた風見くんだけど、私がふらふらしだしたときに最初に気づいて休むように言ってくれたのは意外なことに彼だった。年下の風見くんにまで気を使わせてしまって、ありがたいやら申し訳ないやら、である。
「めぐちゃん、立てる?」
さーちゃんに支えられながら私はゆっくり立ち上がった。
「うん、日陰で休んだらだいぶ良くなった。風見くんもたっくんもありがとう」
たっくんはにやりと笑って
「おう。一生恩に着ろよ、バカめぐ」
と言い、風見くんは
「博田先輩が具合悪いと、冴里先輩が心配するので……」
とゆっくりと瞬きした。ぶれない二人だ。
そんなこんなでカフェにやって来た私たちだったが、たっくんと風見くんは二人で遊園地を回ることにしたらしい。あれだけいがみ合っていたのに一体どうしたんだと私が聞くと、たっくんは言った。
「男同士、積もる話もあるんだよ。それに、いろいろとはっきりさせとかなきゃだからな」
目が笑っていない。ついでに風見くんの目も笑っていない……けどこれはさーちゃん以外の人の前では通常運転かもしれない。
たっくんが相変わらず私に寄り添ってくれているさーちゃんをちらりと見やる。
「どうせ冴里はめぐと一緒にいるんだろ?」
「うん。めぐちゃんのこと心配だし、二人で楽しんできて」
さーちゃんの返事に、たっくんは盛大なため息をついた。
「だと思った。おい風見、行くぞ」
「……冴里先輩、あとでね」
風見くんは名残惜しそうにさーちゃんを振り返りながら、たっくんについていった。なんだかよく分からないが、あの二人、喧嘩しなきゃいいけど……。
私とさーちゃんは空いていた窓際の席に座った。さーちゃんはホットのコーヒー、私はアイスティーを注文する。
さーちゃんとおしゃべりしていると、やがて注文の品が届く。カップに手を伸ばし、そっと持ち上げ、ちびちび飲む白いワンピースのさーちゃん……という光景で、私の脳裏にすっかり忘れていたあのイベントが浮かび上がって来た。
白いワンピース、長い黒髪、うつくしく整いすぎた無表情、さかさまのカップ。
『ねえ、私ね、あなたのこときらいよ』
そして降り注ぐ茶色の液体……。
「――っ、げほっ!」
思わず咽てしまった私に、さーちゃんが慌ててカップを下ろし、背中をさすってくれた。
「め、めぐちゃん大丈夫!?」
「ご、ごめ、大丈夫、ぜんぜん大丈夫……」
「ほんとに? めぐちゃんなんか今日変だよ? 具合悪い?」
さーちゃんが本気で心配してくれているのが分かって、思わず涙が出た。コーヒーぶっかけも怖いけど、なんというか、それ以上に花澤冴里――さーちゃんに「きらい」って言われるのにダメージを食らってしまった……。
「あは、あはは……。ごめん、もう大丈夫だから。ほんとに」
姿勢を持ち直して笑って見せると、さーちゃんはまだ心配そうな顔をしているものの、「それならいいんだけど」と微笑んだ。
それから、私たちはたわいのないおしゃべりを続けた。夏休みのこと、夏休み明けの文化祭のこと、それからさーちゃんの受験のこと。
話しながらも『どきメモ』の花澤冴里のことが頭によぎってしまって、さーちゃんの顔をよく見れない。せっかくさーちゃんと二人で話してるのに、いつもみたいに楽しめない。
さーちゃんがふと黙り込んだ。
「……? さーちゃん?」
「ね、めぐちゃん。めぐちゃん、私のこと、きらいなっちゃった?」
「……へっ!?」
目玉が転がり落ちるかと思った。さーちゃんは真剣な顔をしている。私は混乱しながら必死に首を振った。
「嫌いになるわけないじゃん! な、なんでそんなこと言うの?」
さーちゃんが目を伏せる。長いまつげが黒目がちな瞳に影を落とした。
「……このあいだの生徒会室でのことから、めぐちゃん、ちょっとよそよそしくなったような気がして」
ぎくりとする。まさかさーちゃんが『どきメモ』のことを知っているわけではないと思うけれど、確かに私は、蝶野生徒会長とさーちゃんのあのシーンを見てしまってから、さーちゃんのことを避けがちだったかもしれない。さーちゃんは固い声で続ける。
「蝶野会長とは、なんでもないの。あれは私が転びそうになったのを会長のが支えてくれただけで、事故なの。その、もし、めぐちゃんが蝶野会長のこと……す、好きで、あのことを気にしてるんだったら……」
「ま、待って、ちょっと待ってさーちゃん!」
私は慌ててストップをかけた。さーちゃんの中で色々と誤解が進んでいる。
「私、生徒会長のことは好きでもなんでもないし、というか面識ないし、そりゃああんなところ見ちゃったらちょっとは気まずいけど、さーちゃんのこと避けてるとか嫌いとかそういうのは全然ないから!」
「ほ、ほんとに? 私のこと嫌いになったわけじゃない?」
さーちゃんがおそるおそる聞いてくる。私は大きく頷いた。
「私、さーちゃんのこと大好きだよ!」
と、さーちゃんの顔に少し赤みがさした。私も時間差でだんだん恥ずかしくなってきた。別に変な意味じゃないけれど、高校生にもなって、幼なじみに向かってこんな風に堂々と「大好きだよ!」って、それは、ちょっと照れる……。
「あ、あの、そういうわけだから……。さーちゃんのこと嫌いになるなんて、天と地がひっくり返ってもありえないから」
もぞもぞと付け加える私に、さーちゃんは今日一番の笑顔を返してくれた。その笑顔を見て、私はすごく反省した。だって、『どきメモ』の花澤冴里のことを気にしすぎて、目の前にいるさーちゃんにいらない心配をかけるなんてくだらない。私はさーちゃんが好きだし、『どきメモ』が何であれ、今まで一緒にいた『花澤冴里』は他でもないさーちゃんなんだ。それを忘れちゃいけない。
と、カバンの中のスマホが鳴った。
「あれ、たっくんだ」
さーちゃんに目配せしてから電話に出ると、たっくんの、ちょっとくだびれた感じの声が聞こえてきた。
「めぐ、お前体調治ったか?」
「治ったけど」
「じゃ、外出てこい。俺も風見も店の前にいる」
そう言って通話が切れる。
「拓人、なんだって?」
「わかんない、店から出ればいいみたいだけど」
首を傾げながら私とさーちゃんがカフェを出ると、そこで待っていたのはずぶ濡れのたっくんと風見くんだった。頭から水でも被ったのか、この人たち。
「……水もしたたるいい男じゃん?」
ムスッとした二人になんて声をかけていいか分からずそう言えば、たっくんから「うっせ、当たり前のこと言ってんじゃねえよ」と返される。
「ふ、二人ともどうしたの、そんなびしょ濡れになって……!」
さーちゃんが慌ててカバンからハンドタオルを取り出す。風見くんが濡れた前髪を指でよけながら答えた。
「俺とおにいさん、ちょっと勝負してきたんだ」
「おい風見、おにいさんとかふざけた呼び方すんな」
「勝負って何やったの?」
ちゃっかりさーちゃんに髪の毛を拭いてもらっている風見くんに私が尋ねると、風見くんは無言でカフェの前の広場を指さした。
「……わんぱく水鉄砲パーク?」
そこでは小さな子どもたちが、色とりどりの水鉄砲を持って遊んでいる。
「まさか勝負って、あれで……?」
なかば呆れてしまう私に、たっくんはフンと鼻を鳴らした。
「暴力はだめだろ、俺の繊細な指が傷つくし。だからあれで勝負してたんだよ」
「まあ俺が勝ちましたけど。だから俺、これからも堂々と冴里先輩にくっつける……」
かすかに目じりを下げて嬉しそうな顔をする風見くんの膝に、たっくんが蹴りを入れた。おい、非暴力の誓いはどこに行った。
「はあ!? ざけんな、俺が勝った!」
「おにいさん、負け惜しみは見苦しいですよ」
「だーっ! だからおにいさんって呼ぶな!!」
仲良く喧嘩をするたっくんと風見くんに、私とさーちゃんは思わず笑ってしまった。
ダブルデート夏の陣、戦々恐々として臨んだけど、結局楽しかった。『どきメモ』に関することはたいして分からなかったけれど、逆を言えば、私は『どきメモ』のことをそんなに気にしなくてもいいのかもしれない。いままで通り、さーちゃんたちと仲良くやれればそれでいいじゃないか。うん。
……とは言いつつ、台風が来るとあえて外に飛び出そうとするタイプの子どもだった私は、『どきメモ』と私の日常との関係性への興味を捨てきれないのだった……。