その5
夢を見た。それはもうはちゃめちゃに悪い夢だった。私はさーちゃんとお買い物に来ていて、カフェでお茶をしていた。さーちゃんは笑っていて、私も笑っていた。
突然さーちゃんの笑顔が消えた。能面みたいな顔をしたさーちゃん――花澤冴里は、あつあつのコーヒーが入ったカップを持って立ち上がったと思うと、私の頭の上でカップをさかさまにした。重力のままに、コーヒーは私の頭へ落ちる。降ってくる茶色の液体。
「花澤拓人ルートに入るのに必須イベントとはいえ、これはひどすぎる! せめて麦茶にしろ!」
そんな叫び声とともに、私の土曜日は始まった。
私の『どきメモ事件録』もとい適当に引っ張り出してきた4Aのノートは、そこそこ埋まってきている。時間が経てば経つほど、「思い出す」ことが多くなってきたのだ。
まず、それぞれの攻略対象が持つ悩みを私はノートにまとめた。これは乙女ゲームによくあること(と『私』の記憶から推測する)なのだが、攻略対象はなんらかの悩みを抱えていて、主人公は彼らに寄り添い時には癒し時には叱咤して困難を乗り越え、悩みを解決し、晴れて二人は結ばれる。『どきどきメモリアルforガール』もその例に漏れない。同じ高校生なのに、というかある意味では同一人物かもしれないのに、博田 愛(名前変更可)はできた性格をしている。私は正直自分のことで手一杯だ。
それはともかく攻略対象たちの悩みである。『花澤 拓人』はピアニストになるという夢、『蝶野 正』は周囲の期待と羨望への違和感、『風見 亜紀』は陸上競技とモデルとしてのキャリア、『皆月 英成』は過去のトラウマ(だった気がする。『私』は彼を攻略していなかった)。三者三様だが、たっくんの悩みに関してはエンディングを迎える卒業式を待たずしてすでに解決している。100パーセントではないけれど、八割くらい解決済みだ。そしてそれを解決したのは私じゃなくてさーちゃんである。私も少しは協力したけれど、まあ微々たるものだ。
高校一年生の冬のことだ。たっくんはお父さんと大喧嘩して家を飛び出した。喧嘩の原因はピアノのことだ。たっくんはそのころ音大に行くと決心して、熱心にピアノの練習をしていた。バイトもして、お家の人に内緒でピアノの先生に師事したり、たっくんは本気だった。たっくんがピアノを弾くことをお父さんは止めなかったけれど、彼が本気で音楽の道を進むと宣言した時、お父さんは激怒した。たっくんは優秀だったから、このままお医者さんになるために医大へ行かせたかったのだ。案の定二人は隣の私の家まで聞こえるくらいの大声で喧嘩して、たっくんは家出してしまった。
私とさーちゃんは二人でたっくんを探した。三日後、やっと見つけたたっくんは(友達の家にいたらしい)、帰り道、パンダの遊具が二つあるだけの小さな公園の前でぽつりと言った。
「俺、ピアノが弾きたい。三日触ってなかっただけで、もう耐えられないんだ」
私とさーちゃんは顔を見合わせた。鼻を真っ赤にして、今にも泣きだしそうなたっくんを見て、さーちゃんは言った。
「わかった。お姉ちゃんが、なんとかする。だから拓人は、どうにか毎日ピアノを練習して」
私とたっくんはさーちゃんをじっと見つめた。冬の澄んだ日差しのなか、さーちゃんの瞳が何かを決心したようにきらめいた。
私と私のお母さん、さーちゃんとさーちゃんのお母さんの四人で話し合って、たっくんはしばらく私の家から学校に通うことになった。私の家には電子ピアノしかなかったけれど、鍵盤が触れるだけでありがたいと、らしくない殊勝さでたっくんは微笑んだ。電子ピアノでも、ちゃんと音の強弱を拾ってくれるいい電子ピアノだ。毎日たっくんが練習する音色を聞きながら、私は小さいころの私のわがままに感謝した。(その電子ピアノは、たっくんの家のピアノがうらやましくて、昔私が駄々をこねて買ってもらったものだった)
一週間後、たっくんは自分の家へ帰っていった。その日、散歩に出た私はピアノの音色を聞いた。『道化師の朝の歌』だ。たっくんのお気に入りの曲、たっくんの音だ。華やかで、どこかおどけているように、余裕で難しいリズムを刻む。たっくんの長い指が鍵盤の上で縦横無尽に踊っているのが見える気がした。
週明け、さーちゃんとたっくんと一緒に登校した。玄関先で会ったたっくんは、私にピースサインをしてみせた。さーちゃんがその横で笑っていた。
詳しいことは知らないけれど、さーちゃんがお父さんを説得して、お父さんにたっくんの演奏を聴いてもらったそうだ。結果として、たっくんは一度だけチャンスを得た。一度だけ音大を受験してもいいけれど、落ちたら医者の道を行くように。そういうことになったらしい。
これは私の人生の中でだいぶいい話、というかトップクラスに感動的な話(たっくんが私の部屋に漫画目当てでやってくるようになったことを除けば)なのだが、ますます花澤冴里とさーちゃんのイメージの間に差が開いていく。あんなにいいお姉ちゃんのさーちゃんが、歪んだ愛情ゆえに弟に近づいただけでコーヒーを頭からぶっかけてくる花澤冴里と同一人物だなんてありえない。
じゃあやっぱり私の日常と『どきメモ』が無関係かと言えば、そうとも言い切れないのだ。その証拠が、本日土曜日に起こったダブルデート夏の陣(そう呼ぶことにした)である。
私は、今まさに目の前でコーヒーをちびちび飲でいるさーちゃんを見つめた。さーちゃんは猫舌なのだ。夏の午後の光が白いさーちゃんの腕をわざとらしいくらいに照らす。私はさーちゃんが日焼けしないようにカーテンをすこし動かして、それから店内を見渡した。いい感じの照明、おしゃれなインテリア、そして白いワンピースのさーちゃん――花澤冴里。
これは、あれだ、『私』のトラウマイベントであり、夢にまで見てしまったあのイベントと全く同じ状況である。
どれだけ『どきメモ』のことを思いだしても、それをプレイしていたはずの『私』に関する記憶はまったく出てこない。私が『私』について知っていることは、『どきメモ』を深く愛していたこと、そして、花澤冴里が怖すぎてイベントコンプリートができなかったということである。『私』に圧倒的な恐怖を植え付けたかのコーヒーぶっかけイベントは、スチルも相まってめっちゃ怖かった。真っ白なワンピースの花澤冴里は、コーヒーが跳ねることも気にせずに、無言で、唐突に、コーヒーをかけてくる。無表情なのがマジでありえんくらい怖い。さーちゃんは悪くないのに、私の手が勝手にふるえてしまう。さーちゃんが「めぐちゃん、寒い?」とカーディガンを貸そうとしてくれた。めっちゃ優しい。
『私』のトラウマをガンガン揺さぶるダブルデート夏の陣は、またも時間を遡って今朝、私が悪夢から飛び起きたところから始まる。