その3
家に着いた私は心配そうなさーちゃんと別れて、部屋に引きこもった。お母さんには「しばらくそっとしておいてほしい」と言っておいた。放任主義の権化みたいなお母さんは、それでもちょっと私を気遣うような表情をしたが、「晩御飯になったら呼ぶからね」と微笑んだ。ありがたい。
私はベッドに寝転がり、スマートフォンの電源を入れ、ブラウザを立ち上げる。『どきどきメモリアルforガール』で検索をかけてみる。目を皿にしながら表示されたページをスクロールしてみるが、それらしいゲームは見つからない。『どきメモ』は決してマイナーなゲームではなかったし、題名で検索すれば必ずヒットする。つまり、『私』の知っている『どきメモ』、女性向け恋愛シミュレーションゲームの権威であった『どきどきメモリアルforガール』は、この世界には存在しないということだ。
スマートフォンを放り投げる。私は日が暮れ切った自室の暗い天井を見上げた。
しばらくぼんやりしていたが、私は勢いよく起き上がった。『どきメモ』がなんにせよ、思い出してしまったものはしょうがない。とにかく、『どきメモ』のこと、そしてそれをプレイした記憶を持つ『私』のことについて整理した方がよさそうだ。
使っていないノートを引っ張り出し、私はシャープペンシルを握った。まずは、『どきメモ』の登場人物をおもいだせるだけ書き出していこう。机に向かい、私は『どきメモ』のメインヒーローであったはずの人物の名前、『花澤 拓人』を一行目に書き記した。そのときだった。
「めぐ、お前倒れたんだって?」
「ひぇあっ!?」
突然背後から声をかけられて私は奇声を上げた。単にびっくりしたというのもあるけれど、その声の主が『どきメモ』メインヒーローにあたる『花澤 拓人』――私の幼なじみで、さーちゃんの弟である――その人だったからだ。
「ちょ、ちょっと、たっくん、音もなく入ってくるのやめてよ! プライバシーの侵害!」
私が喚きちらすと、たっくんこと花澤 拓人はいっそ憎らしいほどはっきりした二重の目を糸のように細めて笑った。
「なんだ、冴里から倒れたって聞いたから具合でも悪いのかと思ったけど、ぜんぜん元気そうじゃん。さすが健康優良児」
「うるさいなあ……。それで、たっくんは何の用? 用がないなら出てってくれる? 漫画返しにきたならそこの棚に入れといてね」
「おい、せっかく心配して見舞いにきてやったのに、ずいぶんな態度だな。バカめぐのくせに」
背中合わせの姿勢で私のほうに体重をかけてくるたっくんは、顔が良くても大変鬱陶しい。
顔よし成績よし性格よしな花丸百点満点のさーちゃんと比較して、弟のたっくんは顔よし成績よし性格難ありである。しかし天は時として人に二物も三物も与えるもので、彼には音楽の才能があった。たっくんのピアノはプロ顔負けである。『どきメモ』の『花澤 拓人』と同じように。
「用がないならほんとに出てってくれる!? 暑いしうざい! 今考え事してるんだから!」
勢いよく上半身を跳ね上げてたっくんの背中に頭突きをお見舞いする。が、たっくんは華麗にそれを避けて見せた。悔しい。
「考え事とか、能天気なめぐにしては珍しいな。明日は雪か?」
いちいち一言多いたっくんは机の上のノートを覗き込んでくる。私は慌ててノートに覆いかぶさったが遅かった。
「花澤 拓人……って俺の名前じゃん。なに、お前俺のこと好きなの?」
たっくんが綺麗な顔をにやにやさせてこっちを見てくるので、私はやれれとため息をついてやった。
「そんなわけないでしょうが。いくら顔が良くて成績が良くてピアノがうまくても、たっくんのシスコンぶりは百年の恋も冷めるレベルだよ。とにかく、これ以上邪魔したらさーちゃんに言いつけてやるから」
そう、たっくんはシスコンなのだ。十年以上の付き合いだが、彼のシスコンぶり凄まじい。いつでもどこでもさーちゃんの後をついてまわった幼少期(これはまあ私も他人のことは言えない)、小学校の縦割り班では無理やりさーちゃんのいる班に紛れ込み、中学校では部活も委員会もさーちゃんと一緒、先日など、私たちより一年先に卒業してしまうさーちゃんに、「冴里、留年しないかな……」とうそぶいていた。これはもう手遅れだ。
「うるせ、シスコンで何が悪い。まあ俺んちもそろそろ夕飯だし帰るわ」
そう言って、たっくんは私の本棚に漫画を三冊突っ込んで帰っていった。本当に漫画を返しにきただけらしい。
私はまたノートに向き直った。
そう、私の知っているたっくん――花澤 拓人は、シスコンなのだ。お姉ちゃん大好きっ子なのだ。しかし『どきメモ』の『花澤 拓人』は、むしろ姉である『花澤 冴里』を嫌っていた。というのも、拓人と冴里は親の再婚によってきょうだいになったものの、冴里は拓人をひどく苛めるのである。ピアニストを志す拓人を、親を巧みに味方につけて邪魔をしようとする。『花澤 拓人』ルートでは、拓人は幼なじみである愛(名前変更可)に支えられて、エンディングではどうにか音大への進学が認められ、自分の夢の第一歩を踏み出す。
たっくんと『花澤 拓人』の共通点は、名前と家族構成、外見、おおよその性格と、ピアノの才能だろうか。しかし彼が今までたどってきた人生は、『どきメモ』のそれとは違う。
たっくんがピアニストになることに関して、彼のお父さんはいい顔をしてないけれど(たっくんたちのお父さんはお医者さんで、お父さんはたっくんに後を継いでほしがっている)、さーちゃんは冴里みたいに邪魔をするどころかたっくんをずっと応援している。もちろんたっくんを苛めたりしていない。
たっくんとさーちゃんのご両親がお互い再婚かどうかは分からないため、これは確認してみた方がいいかもしれない。
「愛、晩御飯できたよー」
お母さんの声だ。私は走り書きしたノートを閉じる。
とにかく、納得のいくまでやってみよう。『どきメモ』が私の頭の中に突然ふってわいたただの妄想かどうか、確かめるすべがあるかもしれない。
それにしても、『どきメモ』事件(そう呼ぶことにした)が起こったのが期末テスト終了後でよかった。テスト期間中だったら間違いなく赤点は避けられなかっただろう。不幸中の幸いというやつだ。