その2
目を覚ますと、カーテンに仕切られた白い天井があった。消毒液の匂いがする。
「めぐちゃん、起きたの?」
ずっと隣に居てくれたのだろうか、さーちゃんが私の顔を覗き込んだ。さーちゃんの白い手が私の頭をなでる。
「いま真くんがめぐちゃんの荷物持ってきてくれてるよ」
真くんと言われて一瞬だれだと思ってしまったけれど、蝶野くんのことである。目の前で同級生がぶっ倒れるなんて、蝶野くんもさぞびっくりしただろう。私が一番びっくりだけど。私は起き上がって痛む後頭部を擦った。
「さーちゃんが保健室に連れてきてくれたの?」
「ううん。蝶野会長と、あと先生が担架で。はいめぐちゃん、これで痛いところ冷やしてね」
さーちゃんからハンカチにくるまれた保冷剤を受け取る。後頭部に当てると、痛みがすこし和らいだ。
(それにしても、ここマジで『どきどきメモリアルforガール』の世界なのかな、でももうそうとしか考えられない。だってイケメン眼鏡生徒会長なんてそんなのもうゲームだよ。だいたいうちの学校の顔面偏差値が妙に高いような気がするのも、ここが乙女ゲームの世界ならうなずける)
私は頭を抱えた。こんなことに気付きたくなかった。自分がゲームの世界で生きているだなんて、それに「気付く」なんて、そんなのどう考えても狂気の沙汰である。いきなり唸りだした私の背を、さーちゃんが心配そうにさすった。
「お家に連絡して迎えにきてもらう?」
「ううん……大丈夫……歩いて帰れる」
「そう? でもムリはしないでね。荷物は私が持ってあげるから」
私はまじまじとさーちゃんの顔を見つめた。さーちゃんは不思議そうな顔をして、それからちょっと微笑む。きれいな眉のかたち、長いまつげ、すっと通った鼻筋、薄くて形のいい唇。さらさらのロングヘアーの彼女は、顔立ちだけなら間違いなく『花澤 冴里』だった。
『私』――『どきどきメモリアルforガール』をプレイした記憶のある『私』にとって、『花澤 冴里』は鬼門だった。なにせ彼女はライバルキャラ、どこからともなく現れては攻略の邪魔をしたり、金の力を使ってえげつない嫌がらせを主人公である博田 愛(名前変更可)に仕掛けてくる。美しい天女のような容姿だが実のところ心に般若を飼っているような、悪役令嬢まっしぐらキャラだったのだ。彼女の強烈さはプレイヤーに「今自分がプレイしているのはホラーゲームだったかな?」と言わしめるほどである。私博田 愛は信じがたいことに『どきメモ』の主人公である博田 愛(名前変更可)。それなら私とさーちゃんはもっとギスギスした、争う宿命のもと生まれた感じの関係性になっているはずだ。
でも、実際はどうだろう。さーちゃんはマジ天女、余裕があって優しくていいにおいの女の子だ。私にも、誰にでも、分け隔てなく優しい。やっぱり『どきメモ』とかなんとかは白昼夢だったんだ。そうに違いない。
「おーい、そろそろ起きたかー」
間延びした声とともに仕切りのカーテンが開けられた。現れたのは白衣の……これまたイケメンである。ふわふわの茶髪は縦横無尽に跳ねているけれど、彫りの深い整った顔に愛嬌を添えていている。
「ちょっと皆月先生、いきなり開けないでください! 女の子が寝てるんですよ!」
さーちゃんがきっと皆月先生を睨んだ。皆月先生は「すまんすまん」と頬を掻く。その横で私はまた頭を抱えた。
(保健室の先生が男でしかもイケメンとかそれはもう乙女ゲーム……!! 抗いがたく乙女ゲーム!!)
しかも『皆月 英成』は『どきメモ』の攻略対象である。それはもうイケメン、(好みは置いといて)十人いたら十人が認めるイケメン。私は悶絶した。『蝶野 正』がイケメンで眼鏡で生徒会長なだけだったら、白昼夢で済ませられたかもしれない。だが「保健室の先生がイケメン」とくるとそうはいかない。なぜ私は今まで「保健室の先生がイケメン」であることに疑問を抱かなかったのか。私は『私』と違って乙女ゲームはやらなかったからだ! 「保健室の先生がイケメン≒乙女ゲーム」という持たなくてもいい偏見を一つ手に入れてしまったことが虚しい。
「もう、皆月先生はもうちょっとデリカシーを持ってください! この間だって」
「あーあーお説教は勘弁な。可愛い顔がだいなしだぜ」
「そういう適当なこというのやめてください」
やいのやいのと痴話げんかみたいな会話を繰り広げるさーちゃんと皆月先生をよそに、私はすこし涙が出てきた。
「失礼します。博田さんの荷物、持ってきました」
蝶野くんの声だ。混乱しきっていた私はふとその声に安心した。攻略対象『蝶野 正』の弟とはいえ、蝶野くん自身は『どきメモ』に登場しない。今この場所で、蝶野くんは私の日常そのものだった。
「博田さん、大丈夫?」
蝶野くんがベッドまでやってきて、カバンを近くの椅子に置く。私はうなずいた。
「大丈夫……」
「ほんと? なんか博田さん涙目じゃない?」
蝶野くんの目が、すっと細くなる。蝶野君は眼鏡をかけているときも、何かをよく見ようとするとき目を細める。蝶野君が私のよく知っている蝶野くんで、それ以外のなにものでもないことが、妙にありがたく感じた。
「め、めぐちゃん泣いてるの? 頭いたい? やっぱりお母さん呼ぶ?」
さーちゃんがおろおろと私の肩を撫でた。私は頷いた。なんだかんだ情緒不安定になっているし、さっさと家に帰りたくなったのだ。
電話をもらったお母さんが車で迎えに来てくれた。私とさーちゃんは後部座席に並んで座った。さーちゃんはぐずる私の手をずっと握ってくれていた。