その1
来年に迫る大学受験だとか、期末試験の成績だとか、ありがちな悩みは抱えているけれど間違いなく私は幸せだ。この世に生を受け、博田 愛という一人の人間として、私は今まで不幸な事故や悲劇的な事件に巻き込まれることなく平和に生きてきた。そんな平凡な私の十六年間が、期末試験の最終日、試験勉強からの解放感に満ち溢れた蝉の鳴く昼下がりに崩れ去ろうとしていた。
そもそもの始まりは、たった一人の部活の同期である蝶野 真くんの一言だった。蝶野くんは涼し気な切れ長目に眼鏡をかけて、サラサラの黒髪をしたインテリ少年だ。見た目だけじゃなくて本当に頭もいい。万年平均点の私は彼のおかげで平均点を保っていると言っていい。まったく頭が上がらない。
今日も部活動と称して空き教室で適当な本を読んでいた私に、参考書と向き合っていた蝶野くんがふと顔を上げて声をかけた。
「博田さん、そういえば活動報告書は生徒会に出してあるのかな」
私はページを流し読みしながら答えた。
「出してないんじゃないかなあ。部長も含めて先輩方はみんな幽霊部員だし……」
私と蝶野くんが所属している文芸部は幽霊部員の巣窟だった。三年生たち五人はすべて幽霊、二年生は私と蝶野くんの二人だけ、一年生は見学の時点でそんな文芸部を見限って入部することはしなかった。
蝶野くんは無表情に頷いた。
「うん、そうだよね。実は兄から催促されたんだ。活動報告書が出ていないのは文芸部だけだからさっさと出せって」
「えっ、そうなの?」
蝶野くんのお兄さんは一級上でなんと生徒会長だ。しかもイケメン。蝶野くんと同じ眼鏡のインテリだが、お兄さんのほうは厳しくも頼りがいのある魅力にあふれている。蝶野くんだってめちゃくちゃ頼りがいがあるし心は男前だけど、彼はどちらかというと線が細くて病弱そうなのだ。背も私とそう変わらない。イケメン、というよりはカワイイって感じである。
「出さないと最悪廃部かも」
蝶野くんが淡々とそう言った。私は顔を青くした。
「やだ、それは困る」
蝶野くんはわずかに眉を寄せた。
「なんで? 別に廃部になっても、自分たちでこうやって集まればいいんじゃない?」
「蝶野くん、分かってない。部活動っていう名目で読書ができるのは文芸部だけだよ。部活動の時間だからということを免罪符に読書に集中できる。他のことに煩わされずにすむこの時間はめっちゃ貴重なの」
「べつに読書に集中するのは罪でもなんでもないと思うけど……。まあいいや、とにかく活動報告書を書こう」
さっとカバンからクリアファイルを取り出す蝶野くん。中には『活動報告書』と書かれたA4サイズのわら半紙。さすが準備がいい。
「蝶野くん、紙もらってきてくれたの? ありがとう」
「うん。じゃあこれは博田さんが書いてね」
「ええっ、蝶野くん手伝ってくれないの?」
「だって俺、博田さんに頼まれて人数合わせのために入っただけだし。俺は廃部になっても別に困らないし」
蝶野くんのにべもない回答に私はうなだれた。うちの高校では、部活動として認められるためには部員が最低七人は必要なのだ。誰が決めたか知らないけれど、せめて三人とかにしてほしい。私が入学したときにはすでに文芸部の部員は五人で、私と、もう一人誰かが入部すればぎりぎり存続といった状況だった。そこで私は小学校からの知り合いである蝶野くんを誘ったというわけである(仲のいい女子はみんな吹奏楽部やバレー部に行ってしまった)。
「こういうのはそれらしいことが書いてあればそれでいいと思う。俺らは学校から予算とかもらってるわけじゃないし、形だけでも出しとけばそれでいいでしょ」
蝶野くんはそう言ってクリアファイルで私の頭をぺしぺしと叩いた。私は渋々クリアファイルを受け取って、活動報告書を書き始めた。書くことがなさ過ぎてだいぶ苦しんだが、下校時間の前にはどうにか書き終えることができた。
と、ここまではなんてことはない学校生活のワンシーンだったのだ。問題はこの後、夕日の射し込む生徒会室で、蝶野 正生徒会長と、私の幼なじみでもある花澤 冴里書記長のラブシーンを不本意ながら目撃してしまったことから始まる。
私と蝶野くんはそろって三階の生徒会室へ向かった。私はこの時すでに今日の夕食のことしか考えていなかった。家がお隣さんで生徒会の役員の花澤 冴里、通称(私がそう呼んでるというだけだ)さーちゃんがもし生徒会室にいたら一緒に帰ろうと誘うことも考えていた。真っ直ぐに伸ばした黒髪が美しいさーちゃんはうちの学校のアイドルで、容姿端麗で優しい、スーパー女子高生である。美人で優しい年上の幼なじみ、ちょっと劣等感を感じないでもないけれど、柔らかくていいにおいのさーちゃんのことが私は昔から大好きだった。
「失礼します」
蝶野くんが生徒会室の扉を開けた。生徒会室といってもそんなに畏まった場所ではないので、失礼しますと言って同時に扉を開ける。
この意味がない形骸化した「失礼します」をこれほど憎むなんてこと、あとにも先にもないだろう。
目の前に広がった光景に、私と蝶野くんは思わず顔を赤くした。
男女が抱き合っていた。より正確に言うと、蝶野生徒会長がさーちゃんを抱きしめていた。窓の外はピンクがかった夕暮れで、さーちゃんのわずかに乱れた黒髪がつやつや輝いている。蝶野生徒会長の腕にすっぽりと収まっているさーちゃん、生徒会室、窓の外の夕焼け。この光景を見た私の脳内に浮かんだ言葉は、次のようなものだった。
(これ、『どきどきメモリアルforガール』のスチル……二年生七月のイベントの……)
『どきどきメモリアルforガール』が一体何なのか、スチルって何なのか、私、博田 愛には見当もつかなかったが、一方で『私』はばっちり思い出していた。『私』の人生のバイブル、心のオアシス、『私』は覚えていたのだ。
私が呆然と立ち尽くす横で、蝶野くんが控えめに私のスカートを引っ張った。
「行こう、ジャマするのもなんだし……」
「うん……」
私は頷いた。頭がぐらぐらしている。蝶野くんにつづいて踵を返そうとしたとき、私は派手に転倒し、そのまま意識を失った。これが私の人生初失神であった。