7.変化する現実
春吉グラウンドのマウンドに長身の男が立つ。
ベンチの明かりをつければ、なるほど商店街からもれる明かり、街灯の明かりと相まって目線の高さくらいの球であれば視認できる。
「ルールは簡単だ。一打席勝負、俺よりも後ろでバウンドする球を打てばお前の勝ち、財布の中身は3倍だ。前でバウンドする打球か、内野フライなら俺の勝ち、その財布は置いてってもらう。」
自分は、ついているのかいないのか。
みちるがあとで聞けば羨ましがることは間違いないのだが。
受ける気など本当はなかった。しかし野球人としての興味本位には勝てない。
野球通り魔の実力やいかに。
それを自らのバットで確かめてみたいという思いに駆られた。
しかしやはりついているのかいないのか。
この日の財布の中は3万円と少し。使いもしないのにふたばぁから余計にもらうお金が貯まっている財布だった。
もし負けて坊主になったことを考えると、ふたばぁに矢野の名前を汚しおってと軽口を叩かれるのは面倒だなと思いながら一人は軽くスイングを繰り返す。
だからといって勝って10万近い大金を手に入れるのも気が引ける。どうせ使い道などないのだからそれこそ面倒な気がする。
とどのつまり、一人はこの勝負の内容自体に価値を見出すことを考えていた。
一人が通り魔に抱いていたイメージと、目の前で肩をゆっくりと回している男のそれは、大きく違っていた。
通り魔というくらいだから、もっと陰湿で、金と勝負に飢えていて、相手を威圧するようなどこか狂気じみた雰囲気をまとっているのかと思っていたがそうではない。
彼の低く通りの良い声はむしろ紳士的な印象を抱かせたし、歴戦の余裕からか調子も落ち着いているように見えた。
一人はゆっくりと歩を進めて左打席に入る。
「稲高生、お前レギュラーか?」
「いや、ベンチ入りだ」
「学年は」
「1年」
そういうと通り魔は黙って口角を少しあげたように見えた。薄暗く、はっきりとはわからないが。
「では始めよう」
通り魔はグラブを右手にはめる。
サウスポーか、やっかいだな。
左打者にとって左投手は難敵である。対戦の機会が少ないだけでなく、投手のリリースのポイントが背中越しになるため、終始投球が見えにくい。
大ぶりでゆっくりとしたオーバースロー※で、第1球が放たれた。
※オーバースロー…上手投げ。上から下へ腕を振って投げるもっともオーソドックスな投法。
一人が通り魔に抱いていたイメージと、目の前で肩をゆっくりと回している男のそれは、大きく違っていた。
通り魔というくらいだから、もっと陰湿で、金と勝負に飢えていて、相手を威圧するようなどこか狂気じみた雰囲気をまとっているのかと思っていたがそうではない。
彼の低く通りの良い声はむしろ紳士的な印象を抱かせたし、歴戦の余裕からか調子も落ち着いているように見えた。
一人はゆっくりと歩を進めて左打席に入る。
「稲高生、お前レギュラーか?」
「いや、ベンチ入りだ」
「学年は」
「1年」
そういうと通り魔は黙って口角を少しあげたように見えた。薄暗く、はっきりとはわからないが。
「では始めよう」
通り魔はグラブを右手にはめる。
サウスポーか、やっかいだな。
左打者にとって左投手は難敵である。対戦の機会が少ないだけでなく、投手のリリースのポイントが背中越しになるため、終始投球が見えにくい。
大ぶりでゆっくりとしたオーバースロー※で、第1球が放たれた。
※オーバースロー…上手投げ。上から下へ腕を振って投げるもっともオーソドックスな投法。
放たれた直球を一人は見送る。球はバックネットに当たって、ドンと鈍く曇った音をたてた。
外角いっぱい、ストライクだろう。
速い、確かに速いが真人ほどではない。せいぜい130キロ弱。
手加減をしているようには見えない。こんなものなのか。
通り魔は持っていた3球のうち2球目に手をかける。
黙って2球目を投げ込んだ。
同じく直球が外角に、コースは甘い!
一人は迷いなくバットを振った。
ボールがバットにインパクトする。しかし――
「痛っ!!」
インパクトの瞬間、グリップを伝って強烈な電流のような衝撃が一人を襲う。
堅い金属バットがぐにゃぐにゃにうねるような振動に怯んだ一人は思わずバットを離した。
カランコロンと地面に投げられた金属バットが鳴く。
しまった!打球は!
一人は思わず飛球を目で追う。
通り魔より前でバウンドした打球は、ボテボテのまま三塁線へ流れてファウルになる。
思わずバットから手を離してしまったことが逆に打球の勢いを殺し、幸いした。
危なかった。一人は急いで呼吸を整える。
通り魔を見たが、その表情は変わらない。そして一言だけ、
「危なかったな」
さっきの球はいったいなんだ、聞きたいところだったが、おそらく彼はこうしか答えないだろう。
直球だと。
球の軌道は真っ直ぐ、確かに単なるストレートだ。しかしバットを伝ってきた振動はそこらの投手が投げるものとは比較にならない威力を持っている。
バットスイングの力よりも球の威力がまさったとき、まるで球にバットがはじかれるような感覚があると言うが、これがそうだ。
これが”重い球”というやつだ。
球の重さというのは主に球にかかる回転がいかに少ないか、そして球が放たれるリリースポイントからバットに到達するまでの高低差がいかに大きいかで決まる。
この男の投球は、指に無駄な力をかけないことで回転の多さを減らし、さらにあの長身を存分に活かしたリリースポイントの高さでこの重さを作り出している。
一人は足元の土を整え、時間をつくりながら推理した。
しかし指を力ませずに投げるというのは相当な技術だ。
おそらく手が大きいことも有利に働いているのだろうが、投手の置かれる精神状況で無駄な力を入れることなく投げるというのはプロの選手でも難しい。
なるほど、この重い球があるからこそ、この賭けの条件なのかと一人は理解する。
普通この条件であれば、打者が圧倒的に有利だと多くの者が錯覚して打ち急ぐはず。
しかしこれだけ前に飛ばすのが難しい球であれば、相当なパワーを持つ打者でもヒット性の打球を飛ばすのは困難だ。
冷静沈着な強い心臓と、鉄球のように重い直球、自分のポテンシャルを十分に活かした上手い賭けだと感心してしまう。
3球目、またも外角を刺す直球。
一人はこれをバットの上にかすらせてはじいた。球はバックネットに当たって冷たい金属音が響く。
かすらせただけだというのに両の手のひらがじんじんとしびれてくる。すごいものだ。
重い球、それは確かに相当打ちにくい球ではあるが、攻略法はある。
それは、バットの真芯で打ち返すことだ。
「やるな、3球で勝負がつかないのは久しぶりだ」
通り魔はどこか嬉しそうに言う。一人はバックネットに転がった2球を投げ返した。
「こんな奴が稲嶺のベンチでくすぶってるとは、よっぽど監督は素人だな」
「そうかもな」
一人も苦笑する。言い訳をすれば長くなる。
4、5、6球と一人は続けてバットにかすらせて本命の球を待った。
通り魔はいずれも外角に絶妙なコントロールを見せる。微妙にコースを変えながら狙い球を絞らせない。
よほどの強心臓だ。
7球目、一転内角に来た球を一人は見送った。ボール一個分、ストライクには遠い。
すると通り魔は低い声を高ぶらせて言う。
「ほう、見送るか。選球眼もいいとなるとますますベンチにいるのがおかしい」
「そりゃどうも」
待ち球、未だ来ず。
重い球の重さをなくすためには、球の衝撃をバット全体に均等に吸収してくれるど真ん中の場所、つまり真芯で捉えるしかない。
バットの上、下、先、根元、偏った場所でインパクトすれば、衝撃は吸収されることなく手のひらを伝ってフルスイングをはばむ。
しかし真芯で捉えることさえできれば、鉄球は一転ピンポン玉に姿を変える。
そのための絶好球しか、一人に勝ち目はない。
勝負は12球目まで両者譲らず、一人が球をバックネットにはじき続ける。
しかし一人の手のひらも限界に近づいてくる。かすらせるだけとはいえ、鉄球の衝撃は一人の握力をじわじわとむしばみ、グリップを強く握ると小刻みに震えが起こりだした。
これ以上長期戦になれば勝機が薄らぐ――そう思った13球目だった。
真ん中近くに直球が入り込んでくる。これだ!
残った力を両手に込めて、一人はバットを振り抜いた。
鋭いライナー性の弾道を描く打球は通り魔の頭の上めがけて打ち返された。
ピッチャー返し!高さも威力もある、抜けろ!抜けろ!
しかし通り魔はグラブを突きあげて高く跳ぶ。
打球への反応が早い。しまった、加えてヤツは背が高い。
通り魔のグラブはマウンド上を突き抜けようとする打球の高さに届いた。しかし打球の勢いは強い。
斜め後ろ向きに飛びあがった通り魔は、着地出来ずにマウンドの後ろへと倒れ込む。
抜けたか――
止めたか――
ゆっくりと起き上った通り魔は、ダメージジーンズについた砂ぼこりを軽くはらったあと、右手のグラブにおさまった球を一人に掲げて見せた。
……負けた。
一人がそう思った瞬間。
「俺の負けだ」
通り魔が発したのは意外な言葉だった。
「どうして、ピッチャーライナーでアウトじゃないか」
「野球のルールならな。だが賭けのルールは違う。マウンドよりも後ろに飛ばせばお前の勝ちというルールだ。俺がお前の打球を捕ったのはマウンドの後ろ。俺はマウンドのラインを守れなかった。お前のスイングが俺の球に勝った証しだ」
なんとも腑に落ちないとは思ったが、通り魔はすでにマウンドを降り、自らの財布をまさぐりながら近づいてくる。
「約束通り、財布を3倍にしてやる。珍しい勝負ができた」
こともなげに一万円札を差し出す通り魔、しかし一人の注目はそれとは別のところに注がれた。
打球に飛び付いた際、通り魔のかけていたスポーツ用のサングラスが外れたのだ。
マウンドとの距離ではその顔は分からなかったが、近くに来て一人は衝撃を受ける。
「サングラス、いいのか」
「いい、負けた相手に顔を見られたところでな」
見られたところで赤の他人、一人もそう言いたいところだったがそうはいかなかった。
自分はこの人を知っている。いや、知っているなんてもんじゃない。
その瞬間、低くよく通る声も、この長身も、革ジャケットにダメージジーンズも、全てに納得がいった。
野球通り魔の正体、それは入学以来一度も稲嶺高校に姿を現さない男。
強肩の外野手としてだけでなく真人のリリーフピッチャーも務め、稲嶺黄金期の一角を担うことになる男。
あなたがなぜ、こんなことをやっているんだ。
彼の正体は、2013年の世界でバーハイライトを営むマスター、坂本丈二だった。
「えぇぇぇぇぇっっ!!じゃあお金返してきちゃったのっ!」
「賭けは嫌いだって言ったろ?それにあれはオレの勝ちじゃなく、引き分けだよ」
「もらっときなさいよ!10万よ!ワンピース何着買えると思ってんのよひとりくん!」
「あのお金だってもとは誰かの物なんだ。オレは勝負出来ただけで十分」
八月も半ばに差し掛かっている。朝の部活開始前、一人は昨晩起こった出来事をみちるに話す。
みちるは両手でほおづえをつきながら、歯がゆそうな表情で一人の一打席勝負について聞いていた。
「で、結局どうだったの?」
「どうって?」
「通り魔の正体に決まってるじゃない。それなりにいい勝負したんだから、分かるんじゃないの?」
「さぁ……」
「さぁ?」
「プロではないと思うな、それにしては球速は遅かった。社会人チームの投手じゃないかな」
「ふーん、このへんだと林原重工とか?でもつまんない幕切れね」
もちろん、通り魔の正体はふせる。
「名前は」
昨晩の去り際、丈二は一人に尋ねた。
「矢野、一人」
「そうか、お前がうわさの矢野家の御曹司か」
そんなにうわさになっているものなのかと一人は苦笑する。しかも通り魔にうわさされているようでは世話はない。
「お前とはまた勝負してみたいものだ」
「おたく、オレと同じくらいだろ」
そのまま去っていこうとする丈二に一人はカマをかける。
「高校とか、行ってないのか。なぜこんなことを続けてるんだ」
丈二は足を止め、一瞬振り返る。そして一言だけ。
「復讐」
予想だにしない言葉に、一人はそれ以上丈二を引き留めることは出来なかった。
薄暗い光に照らされながら遠のいていく彼の細長い影は、心なしか彼の直球のように大きな質量をもってずるずると重く引きずられているように見えた。
一人へのショートコンバート打診に続いて、一人たちをひっくり返らせる二つ目の出来事は、この日練習前に知らされた。
いつも誰よりも早くグラウンドに姿を現していた寺崎が、この日は集合時間になっても姿を現さない。
珍しく寝坊でもしたのかと軽口を叩く部員たちの前に姿を現したのは寺崎ではなく、教頭だった。
「実に言いにくい話ではあるが、寺崎先生は入院された」
部員を集め神妙な面持ちで語る教頭を前に、場は静まった。
「病気ではない。実は昨晩、自転車での帰宅途中に暴漢に襲われ、暴行を受けたということだ。命に別条などはないが、手足を骨折されており、早急な復帰は難しい」
部員たちは騒然となった。どうして、一体誰が、大会はどうなるんだ、様々な会話が飛び交う。
待て、教頭先生の話を聞こうと松野がいかにもキャプテンらしく場をいさめる。
「寺崎先生の話では、暴漢は複数人いて金属バットを持っていたという話だ。もちろん、君たちを疑うつもりは毛頭ない。しかし何か心辺りのあるものがいれば正直に名乗り出てほしい」
一転部員たちは静まる。当然だ、仮に知っていたとしてもこんな大勢の前で話せるわけがない。
一人がそう思った矢先、
「教頭先生、それはもしかしたら最近うわさになっている野球通り魔の仕業かもしれません」
はっきりと口を開いたのは、松野だった。
「野球通り魔?なんだそれは」
有益な情報とみた教頭の目の色が変わる。
「最近、野球で勝負を挑み、敗者の財布を奪って暴行する通り魔がいるそうです。狙われるのはみんな野球の経験者だそうで――」
松野は通り魔についての情報を淡々と教頭に伝える。真剣な表情で頷きながら話を聞く教頭。
そして、そうか通り魔か、なるほどそうだ絶対、と次第に周りの部員たちが調子を合わせてざわつき始める。
しかし一人からすれば、そんなことはあるはずがないという確信に近いものがある。一人はたまらず松野の話に割り込んだ。
「しかし、通り魔は単独犯のはずです。複数犯という寺崎先生の証言とは食い違います」
松野は一瞬キッと鋭いにらみを利かせて一人を見る。しかし、怯まない。
「それに寺崎先生には勝負をしたという証言もないはずです。通り魔が無差別に暴行をふるった事例はないはずですが」
「やけに通り魔の肩を持つじゃないか矢野、お前心当たりでもあるんじゃないのか?」
松野が挑発的にまくしたてると、部員の視線が一人に集まる。
「いえ、僕がこれまで聞いたことを元に推測で話をしています」
表情を変えない一人の横で、みちるが一人を守るかのように目を光らせて部員たちを制している。
二人の後ろで真人が何か言いたそうにしているが、優が話がややこしくなるだけだから黙れと口をふさぐ。
昨日、通り魔と勝負をしたなどと無理に通り魔のアリバイを立証しようとすれば、自分が複数犯のひとりに数えられる危険性だってある。
ここは慎重に話を進めるべきだと一人は考えた。
しかし、一打席勝負は公正なものだった。丈二が無差別に暴行するなど、そんなことをするわけがない。
「ふん、何の証拠もないじゃないか。仮に単独犯だったとしても、今回から賭けが面倒になって手っ取り早くお金を奪う方法に変えたのかもしれない、それに金属バットを持っていたのは共通するじゃないか」
一人の言い分ももちろんだが、松野の言うことにはさらに証拠もなければ説得力もない。金属バットなんて強盗の常とう手段だ。
何より一人の目からみて松野の口調は、今回の寺崎襲撃事件を通り魔の犯行として片付けようとしているかのような作為的な雰囲気があった。
実際、松野の話によって教頭のみならず部員たちまでも今回の襲撃は通り魔の仕業だと早合点してしまっている。
「とにかく、みんなには寺崎先生の一日も早い回復を祈っていてほしい。この話は以上だ」
「先生が秋の大会に間に合わない場合はどうするんです」
みちるがたまらず言う。
「そのときはどなたか代理の先生をお願いすることになる」
「大会一か月前に代理!?作戦に起用法から何から練り直しですよ!」
練り直すどころか、素人の先生が代理という可能性もあり得る。
「とにかく、今は寺崎先生の回復を、一番に考えなさい」
早く場をおさめたいという雰囲気を前面に押し出した教頭は足早にグラウンドを去って行った。
寺崎の襲撃は松野によって仕組まれている。
一人はそう確信した。
それは寺崎がいなくなり、練習の全権限を松野が握ったことからも明らかだった。
バッティング練習の順序、守備練習の配置、その全てが松野に近い部員ばかりで固められていく。
一人がコンバートを断ったことで、ショートでは考と松野にこびへつらう1年生のポジション争いが繰り広げられる。
「稲葉、お前速球ばかり投げてないで変化球の一つも覚えたらどうなんだ」
そして松野は真人にも剛速球封印の圧力をかけ始める。
確かにまだこの時の真人には伝家の宝刀フォークはない。ひじを壊すとの理由でみちるのゴーサインが出ていなかったためだ。
ブルペンで不本意な緩い球を投げ込む真人を横目に、一人は2年生の控え投手の球を受けた。
松野の独裁はいよいよ本格化してきたのである。
そしてもう一つ、一人たちにとっては厄介なうわさが部内で持ち上がり始めた。
寺崎襲撃は通り魔の犯行ではなく、それに見せかけたマネージャーみちるを首謀者とするクーデターだというのだ。
夏の大会から通じて真人を先発で起用せず、松野よりも一人を使うべきとの彼女の進言にも耳を貸さない寺崎に対する報復行為であるという、一見筋の通った内容がささやかれる。
また、みちるに近い武田兄弟の弟優は実力がありながらベンチ入りも叶わず、兄考が一人の不本意なコンバートによってレギュラーを追われるかもしれないという状況がこのうわさに拍車をかけた。
そして女子であるみちるに襲撃は不可能であることから、実行犯は一人たちではないのかという疑念も渦巻く。
うわさがどこから流れたか、その本流ははっきりしていたものの、このうわさが部内の大勢を占めていただけに、一人たちは身動きの取れない状況に追いやられていた。
「ふっざけんじゃないわよっ!あたしが首謀者!?この部のお遊びにはホント付き合ってらんない!私たち嵌められたのよ、ねぇわかってるのまーちゃん!」
矢野雑貨店、お決まりのたまり場で、みちるがかき氷をがつがつとかき込みながら嘆いた。イチゴシロップのしずくが白いほおにとんでいる。
真人は聞いているのかいないのか、水晶のように透き通った板氷がかき氷機の上でくるくるきらきらと削られる様を黙々と眺めていた。
ここまで露骨な圧力となると、松野が最後の邪魔ものである自分たちを黙らせる、もしくは排除しにかかっていることは明らかであった。
ここ最近、みちるはここに来ると決まって松野の愚痴をこぼしている。黙っていれば絶世の美少女の口癖が、ここのところふっざけんじゃないわよ!になっていることが何とも切ない。
「そういえば、今日優ちゃんは?なにか用事?」
新しく出来上がったかき氷を半ばやけになりながらほおばるみちるが尋ねた。桃色のくちびるがメロンシロップでほんのり緑がかっている。
「いや、来るよ、今日はちょっとゲストを呼んでもらってるんだ」
そう言った矢先に店先の立てつけの悪い戸の音が鳴った。
優と共に表れたのは、兄の考だった。
ここに考を呼んだのは、松野による野球部支配の裏側を全て話してもらうためだった。
重い口調で語る考の話を、みちるたちは目を丸くさせながら聞いた。
「考兄!なんで相談してくれんかったんだ!」
話がひと段落して、考に飛び付くようにして詰め寄ったのは優だった。
その瞳には涙があふれ、何度も鼻をすすっている。
「優、お前はそうだろ?そうやって心配してくれるとは思ったけど、自分のことみたいに考えてしまうから」
考は鼻息を荒くする弟を笑いながら気丈にいさめた。
「俺は、俺は悔しい、悔しいぞ!」
普段おおらかな大男はちゃぶ台を一度、こぶしで叩く。
「お前は名前通りやさしいな優、ありがとう」
そんな弟の肩を兄はとんとんと優しく叩いた。
「じゃあ考ちゃん、松野先輩の独裁は、かなり前から周到に仕組まれてたってこと?」
みちるもかき氷を食べる手を止めて考を真剣な表情で見つめる。先輩とはいえ考もみちるたちの幼馴染だ。
「僕はそう思う、だけど今になってどうして寺崎先生を退場させる必要があったのか、それがどうしてもひっかかるんだ」
それには一人も同感だった。間接的にとはいえ、寺崎はすでに松野の操り人形と化しており、これからもそうであったはずだ。
わざわざ危険を冒してまで寺崎を排除し、彼が直接指揮を振るうことにどれだけの意味があるというのか。
自分がここにいることで、寺崎が襲撃されるきっかけを作ってしまったのか?
しかし自分がいたところで松野のレギュラーは不動のものだし、真人の速球を捕れないことに変わりはないはずだ。
ではなぜか、未だ謎であった。
「俺は――」
ここまで沈黙を続けてきた真人が、口を開く。
「俺は、今の野球部のために命をかけることはできない」
「今の野球部で、野球をやろうとしてるのは、ここにいる5人だけだ。5人じゃ野球は出来ないんだよ」
あたしもやるのねと、横でみちるが苦笑したが。真人の言うとおりだ。
『投げるからには命がけだ。でなきゃ、チームを背負うことなんて、できない』
時を越える直前、林原戦のベンチ裏で、父が放った言葉が一人の脳裏にこだます。
ブラックキャッツに系統する本当の稲嶺高校野球部は、父が命がけでマウンドを守りたいと思ったチームだ。
今の野球部にその面影は微塵も感じられない。
「俺は、野球をやりたい。命がけでだ」
そのために野球部を取り戻す。真人の言葉に、5人の思いは決まった。
真夏にしては風の強い日だった。
連日続く暑さを和らげ、ひたいの汗をぬぐってくれるような風ではなく、日の光をたっぷりと吸い込んだ生暖かな強風だった。
ところかしこで騒々しく自己主張を繰り返すセミたちも、この日ばかりは風に遠慮しているかのようにひと鳴きもしない。
同じ様な日が続く夏休みの中で、この日だけがどこか切り取られたようにくっきりと自分の存在を誇示しているかのような一日。
「なんだ、こんな遅くに呼び出して。相談なら部活のあとすればいいだろう」
「どうしても松野くんだけに聞いてもらいたくてね、野球部の今後に関わることなんだ。今日は来てくれて感謝してるよ」
考がそういうと松野は面白くなさそうに鼻で笑う。
日の沈みかけた春吉グラウンド、ホームベースの前で武田考と松野の二人が対峙する。
強風は相変わらず、グラウンドの砂を巻き上げて時折二人のほおに砂のつぶてを投げつける。
イチョウの大樹はざくざくと音を立てて激しく揺れながらも、マウンドに向けて太く影を落としていた。
「キャプテンが副キャプテンの相談を聞くのは当然のことだろう?」
考の眼鏡の奥の瞳はしっかりと、自信ありげな言葉とは裏腹に反らしがちな松野の目を捉えている。
「じゃあ、本題から行こう松野くん。君にお願いがあるんだ」
「キャッチャーを降りてくれないか?」
考の発言に、松野は一度びくりとのけぞって下くちびるを噛んだ。動揺を隠せない。
「な、何言ってるんだ考、これまで俺がキャッチャーで何か不満に思ったことがあったって言うのか。俺は1年の終わりからキャッチャーをやってるんだ、誰よりもこのチームの動きについて知ってるのは俺だぞ」
「でも真人くんの球を君は捕れない。これから稲嶺のマウンドを背負って行くのは彼だ。そんな彼の球を捕れない君は、捕れるよう努力することはおろか、真人くんの剛速球を自分の都合よく殺すことしか考えていない」
「捕れるようになるとも!今日だって難なく捕れた!」
「それは真人くんが140キロ級の速球を10キロ以上落としているからだと言ってるんだ」
「第一、投手は速球が全てじゃない。証拠に稲葉はあの速球を維持するためにコントロールや変化球を犠牲にしてるじゃないか」
「矢野くんであればそんな彼のポテンシャルを100%引き出せる。それを分かっていながらまだこんなことを続けるっていうのかい?」
「黙れ考!お前そうやって自分が矢野にポジションを奪われそうになったからって俺に当てつけているだけだろう!」
松野は鼻息荒く、語気も次第に刺すように強くなる。考は両手を強く握りしめて、目を静かに閉じた。
「そうか、じゃあ捕手を降りる気はないということだね」
「当たり前だ!」
「出来るなら平和的に解決したかった。残念だよ松野くん」
考は一度大きく深呼吸をし、目を大きく見開いて言った。
「全てを仕組んだのは松野くん、君なんだろう?」
もやのかかった空気を全て吹き飛ばしてしまいそうな風の中、松野はひたいから汗を吹きだしている。
「なっ、何を言い出すんだ」
「1年での捕手抜擢、君に逆らった部員たちの相次ぐ退部、君に近い人間で固められたレギュラー、そして実力で圧倒的に勝る矢野くんをベンチにとどめるどころかショートに追いやり、真人くんの投手生命を脅かす。全て君の仕組んだことだ」
「言いがかりだ!それは寺崎先生の起用法で――」
「その寺崎先生を操っているのは君だと言っている!」
普段のおどけた表情とは似ても似つかない、威圧的な言葉と表情で考は松野に迫る。武田兄弟には似たような覇気がある。
「僕は聞いてしまったんだ、OB会長である君のお父さんが寺崎先生の起用法について口を出し、それに言いなりになっている寺崎先生との密会の話を」
松野は目をきょろきょろさせながら黙ったかと思うと、突然うつむいてくすくすと笑いだした。
「そうか、わかったぞ武田考、やっぱり寺崎先生襲撃の犯人はお前たちだったんだな。最近部内で事件の真相がささやかれて居心地の悪くなったお前たちは、逆に俺を全ての元凶として嵌めてしまおうと思ったわけだ」
「いい加減しらばっくれるんじゃないわよド三流!!」
腹の底からはきだした本音と共に、バックネット裏からみちるたち4人が飛び出してくる。
「なっ、お前たち!ほらみろ、やっぱりグルだったんじゃないか。このまま俺を嵌めようたってそうはいかないぞ」
「先輩、もう認めて下さい。これ以上続ければ先輩がどんどん不利になるだけです」
一人が考の横に立ち、冷静な表情で言う。
「何を言ってる!矢野、お前だってレギュラーになれない逆恨みでこんなことをしているんだろ。第一、証拠がない!」
「松野くん、証拠があるからこうやって君とだけの話し合いで済ませようとしてるんだよ」
考の言葉に、松野は呼吸が止まったかのようにぴたりと固まる。汗はもうあごからぽとりぽとりとグラウンドに落ち続けている。
一人に代わってみちるが一歩前に出る。
「今日、寺崎先生の入院しておられる病院へ面会に行ってきました」
「バカな、面会謝絶のはずだ」
「なんで知ってるんです?」
「いや……それは――」
「ほんと苦労しましたよ、ドアの前で大声でお願いしたら入れてもらえました。『本当のことが知りたいんです!』ってね」
みちるのやり方は強引ではあったが、こうする以外になかった。暴行を受け、松野に半ば裏切られた形になった寺崎が真相を告白してくれるかどうかは、賭けでもあったのだから。
「寺崎先生は全てを話してくれました。本当に申し訳なかったとおっしゃってました。学校にも教育委員会にも、自分の過ちだけでなく、松野くんのお父さんから受けた要望や接待の全てを伝えるそうです」
「そんな、そんなことが、しかし、寺崎先生を襲撃した証拠には――」
「まだしらを切るの?ホントド三流ね、ううん、ド三流以下よあんた」
みちるは吐き捨てるように言う。今まで溜まりに溜まった不満の塊だ。さぞ胸がすく思いだろう。しかしせっかくの容姿が残念である。
「寺崎先生は意識を失う直前に立ち去る偽通り魔たちの会話を聞いています」
『先輩、これで俺ショートのレギュラー確定ですよね』
『バカ、しゃべるんじゃねぇ、寺崎に意識があったらどうする』
「これで通り魔は無差別でなく、自分を狙った犯行であること、そして自分を操る松野の仕業であると確信が持てたと話してくれました。それともう一つ――」
「生徒にぼろ雑巾の様に使われた教師としての自分を、心から恥じていると」
「はったりだ!そうやって俺にここで罪を認めさせようとしてるんだろ!」
みちるはもうやれやれといった表情で付け加える。
「寺崎先生が退院されれば全て、明らかになることです」
しばらく、沈黙が流れる。
松野は全身の力が抜けてしまったかのように、体を前にだらりと傾かせて微笑して、毒をゆっくり抜くように言った。
「はっ、1年から正捕手としてチームの柱、2年からはキャプテンとして絶対的な信頼とリーダーシップを発揮、もとはと言えば指定校推薦でらくに明応大学に行こうとしたことが始まりだったのに、親父が無駄にことを大きくしやがってよ」
たったそれだけのために――その場にいた5人の怒りを考が代弁する。
「たったそれだけのために、中村先輩たち3年生は最後の夏を君に奪われたんだぞ!」
「知ったことかそんなもん、俺と仲良くしてれば甘い汁が吸えるとわかったとたん、へこへこしだしたのはあいつらだって同じことだ。先輩よりも上の立場ってのは、いい気分だったよ」
「貴様……!」
こぶしを握る手を強くする考の手を、一人が抑えて松野に問う。
「しかし、一つだけ僕たちにもわからないことがあります。なぜ今になって寺崎先生を襲撃したんです。そんなことしなくたって先生は先輩の言いなりだったし、わざわざそんな大きな危険を冒してまで先生をグラウンドから遠ざける必要があったんですか?」
「寺崎が、こんなことはもうやめようと言いだしたと親父から聞いた。ちょうど矢野、お前をショートにコンバートさせるよう指示をだした翌日、電話があった」
みちるが寺崎から聞き出したものにはない情報だった。
「稲葉真人の球があれば、強豪校に赴任させてもらわなくても自分が稲嶺高校を強豪にできるとかほざいて、オレがもし稲葉の球を捕れないのなら次の大会からは矢野を使うと、手のひらを返しやがったんだよ。使い物にならなくなったんだ、そりゃ捨てるだろ」
寺崎の野望からか、最後の良心からか、それは分からない。しかし自らの都合だけで人を使い捨てる松野の外道なやり方は揺らがなかった。
「あと考、寺崎はコンバートに反対してこうも言ってたよ。ショートの武田は毎日誰よりも頑張っている。部員みんなに声をかけチームを鼓舞する、精神的柱だ。私はあいつの頑張りだけは裏切るわけにはいかないってな。ここまで部員をコケにしておいて何を善人づらしてんのか。良かったな、先生に一番気に入られてたのはお前だったらしいぞ」
「貴様はっ!!」
一人、真人、優の静止を振り切って考は松野の左ほおにこぶしを叩きこんだ。考の眼鏡が地に落ちる。
松野はじんじんと脈打つほおを抑えて笑う。
「おいおい良いのか、俺をなぐったら親父が黙っちゃいないぜ」
「黙れ!!黙れ黙れ!!」
「考兄だめだ!ここは抑えろ!!」
寺崎は見ていた。操られ不本意な起用を余儀なくされる中で、考だけに野球部最後の希望を見出して。その事実を嘲笑う松野を前に、考はいつもの冷静さを失っている。
「大体お前ら甘いんだよ、俺がお前たちに呼び出されて本当に一人で来ると思うか?」
そういうと、ベンチ裏の入り口からぞろぞろと人影が現れる。その手には、金属バット。
メンバーの中には松野に近い部員たちの他に、見ない顔もある。大方松野に甘い汁を吸わせてもらう悪友だろう。
「お前らが俺のやってきたことにどこか勘付いてたことくらい、分かってんだよ」
「脅すつもりですか、寺崎先生の口はもう封じられませんよ」
「お前らが腕の一本でも折られて野球人生が終わるとなれば寺崎は黙るさ、お前らを守るためにな」
「三流とか数字をつけるのももったいない下衆ね、あんた」
「悪いな、俺もあとには引けないんだ。まぁ安心しろ、今日は傷が外に見えない程度にしてやるからな!」
そう言って後ろの暴徒たちに指示を出そうとしたときだった。
集団の後ろ側がいきなり騒がしくなった。金属バットが地に落ちる音やうめき声が聞こえる。
「なんだなんだ!」
彼らは、後ろ側からの”奇襲”に意表を突かれた格好になっているようだ。
一人たちにも何が起こったのかさっぱりわからない。
暴徒の一団が次第に散り散りになって、後ろの様子がわかってくる。
みぞおちを押さえて悶えたり、気絶して倒れている暴徒たちの中心に立っている男に、一人は見覚えがあった。
黒い野球帽にサングラス、そして革のジャケットにダメージジーンズをはいた長身の男。
金属バットを持って向かってくる暴徒をひらりとかわし、長い脚で腰に回し蹴りを叩き込む。
体を掴みにかかる者の腕を持ち、相手の勢いをそのまま利用してくるりと投げ飛ばす。
こぶしで相対する者にも、その打撃を全て姿勢をかがませてかわし、代わりに顔面とみぞおちに向けて有効打をばしばしとお見舞いしてノックダウンを奪う。
ここまでの一連、ひとりとして彼に一撃加えたものはいない。
大方片付いたところで、彼は松野を見据えて言った。
「偽の通り魔がいると聞いてな、お前らのことか」
「だっ、誰だお前!」
「俺が通り魔だ。中途半端な覚悟で、野球を汚すな」
本家通り魔あらため、坂本丈二の言葉には相手をすくませるほどの覇気があった。
その威圧感を前に、松野をはじめとした暴徒たちは血相を変えて逃げ出した。
先ほどまで一人たちと話していたことなどどうでもいいことかのように。
「これで金の借りは帳消しにできたな」
脱いだジャケットを肩にかけ、丈二がゆっくりと近づいてくる。
「どうしてここに?」
「今日の獲物を探していたら偶然、先客がいたものでな。あとこいつが教えてくれた」
丈二の足もとから小さな黒い影が飛び出してきた。
「ラルド!」
目を丸くするみちるに向かってラルドはどこか誇らしげにすり寄って来る。どう?ぼく凄いでしょと言わんばかりに。
「知り合いか。先日エサをやったら懐かれた。こちらの言っていることが分かるらしい。賢いものだな」
「っていうかひとりくん、彼がうわさの通り魔?」
「あぁ、ありがとう。助かったよ」
「礼には及ばない。受け取らなかった金の借りを返したまでだ。それに、自分の名をかたる悪行を防いだだけのこと。しかしこれ以上友に迷惑をかけることが起こるなら――」
そう言って、丈二はサングラスと帽子をとる。隠れていた肩にかかるほどの後ろ髪がさらりと下ろされる。
「これで賭け野球も廃業しなければなるまい」
サングラスに隠れていたその瞳が先日よりもはっきりと見える。
暴漢を蹴散らした男とは思えない、優しい目をしていた。
「久しぶりだな、真人。それにみんなも」
「丈二!!」
「ジョーくん!」
なんだ、みんな元から知り合いだったのかと一人は驚く。
調べでは丈二の出身中学が県外であったことから思い違いをしていた。
真人が嬉しそうに丈二に駆け寄って肩を揺する。長身の真人が並んでも、丈二は彼より少し高い。
「お前今までどうしてたんだよ!5年のときいきなり転校しちまって、みんなびっくりしたんだぞ!」
「すまん、家の都合で急だったんだ」
なるほど、もともとこのまちに住んでいて高校進学と同時に戻ってきたということか。
「っていうか、ジョーくんが通り魔の正体ってどういうことよ。今何してるの?」
「いろいろあってな、また追い追い話せればと思う」
そう言って丈二は一人をちらりと見る。復讐という文言については伏せてほしいという意思の表れだと察して、一人は皆に気付かれない程度にこくりと頷いた。
「それより、まずは考をねぎらうべきじゃないのか」
そして丈二は苦笑しながら考を見遣る。
さきほどまで怒りに打ち震えていた考はというと、その場にぽとりとへたり込んで、抜け殻のようにうつむいていた。
「考兄!大丈夫か!」
優が慌てて考の肩を抱えて起きあがらせると、考は気力の抜けきった表情でぽろぽろと涙を流していた。
「いやぁ……ごめんよ優。何故だかわからないんだけど、体に力が入らなくて。慣れないことはするもんじゃない」
「よく頑張ったぞ考兄!考兄は自慢の兄貴だ!」
つられて優まで涙を流す。それをみて考の表情はいつものおどけたものに戻った。
「なんで優が泣くんだよ、まったく。見た目に似合わないからやめろって」
「だって、だってよ考兄……」
「みんなもありがとう。特に矢野くん、君が僕に告白の勇気をくれた。本当にありがとう」
「いえ、考先輩はきっと僕が言わなくたってみんなをまとめていたはずですよ」
本音だった。考の野球部を思う熱意があれば、遅かれ早かれ行動は起きていただろうと一人は思う。
自分がここにいるから未来を変えられた、そんな実感は一人にはない。
自分がいなくたって、こんな結果があったのではないかと思ってしまうほど、考の意思は強いものだったからだ。
「ごめんみんな、もうちょっとだけこうしてていいかな。なぜだか分からないけど、涙が、止まらないんだ」
恐怖と緊張の糸が切れ、考の瞳から流れ出す涙はこれまでの彼の孤独な戦いの傷を洗い流すかのように流れ続ける。
そうして止めどなく流れる涙のすじを、一日の終わりを告げるように弱まった風がそっと優しくぬぐっていった。
*
この日を境に、稲嶺野球部の状況と取り巻く環境は一変した。
事態の拡大を恐れた松野と中心になっていた仲間たちはそろって退部届を提出し、部の規模は一気に半分程度の14人にまで減少した。
「捕手なら、部を支配するんじゃなく、試合を支配するべきだったな」
空きのロッカーが増えた部室を見回して一人はつぶやいた。
そして松野の野球部支配を手引きした松野の父にも、社会的な制裁が下ったことを一人は後日の新聞で知る。
【市議会議員松野氏、教育委員会とのたび重なる癒着。教諭の内部告発により発覚】
【松野氏、大手ゼネコンの公共事業入札談合にも関与か】
教育委員会に対してパイプがあるというところからもかなり怪しいと思ってはいたが、やはり余罪は多々あったらしく、松野の父はあっけなく失脚した。
内部告発の発端、癒着の舞台となった稲嶺野球部にもマスコミの手が伸びるのではないかと危ぶまれたが、意外にもそんなことはなかった。
「情報というのは駆け引きでね」
連日取りざたされる松野議員の汚職記事を覗き込む一人の隣でふたばぁがにたりと笑いながら言っていた。
稲嶺へのマスコミの取材を封じたのはなんとふたばぁが持つコネであった。
松野議員の隠れた汚職を独自のルートで調べ上げたふたばぁは、その情報提供を条件にマスコミの稲嶺高校への取材規制をかけてみせた。
「官公庁、地方行政にどれだけ私の政治塾の教え子がいると思ってるんだい。ちょろちょろ動きまわるネズミなどひとひねりだよ」
ネズミという言葉に反応してか、ふたばぁのひざの上でラルドが勇ましく鳴く。
本当にこの人だけは敵に回してはいけない。
しかしふたばぁは同時に粋な計らいもしている。内部告発によって自らの罪を全て認めた寺崎を、県内の小さな高校へ赴任させるよう教育委員会に働きかけた。
辞表を出そうとしていた寺崎を思いとどまらせ、田舎の小さな野球部の顧問として再出発ができるよう力添えをしたのである。
それこそ教育委員会との癒着あってこそではないのかと一人は苦笑したが、今は考を裏切らなかった寺崎のリスタートを応援したいと思った。
そして、新生稲嶺高校野球部だが――
「えぇ!僕が、キャプテン!?」
「あったりまえでしょ?考ちゃんが副キャプテンだったんだからそのまま持ち上がりってことで」
戸惑う考に、みちるは満面の笑みで太鼓判を押す。
「そうだぞ考兄!誰も反対するもんなんかおりゃせん!」
優の言うとおり、残った部員たちは普段から考に励まされ、その人柄に魅了されているものたちばかりだ。
「やっと考がキャプテンで、カズがキャッチャー、そして俺がエースだな」
腕をぶんぶんと回しながら今すぐにでも投げ込みたいと真人はうずうずしている。
「でも、僕は実力もないし、みんなを引っ張っていけるようなプレイは――」
「先輩は前に言いましたね」
たじろぐ考に、一人が声をかける。
「お年寄りや子どもたちの笑顔を守るために、この国を変える手伝いがしたいって。それはとても難しいことです。今すぐできることじゃない。そんな大きな目標を持つ人が、野球部の一つや二つ、背負えないわけがないですよ」
「この国を変える前に、まずこの野球部を守り、そして変えていきましょう。今度はひとりじゃなく、みんなで」
考の表情が、図書館で夢を語ったあのときの表情へと変わって輝く。そして、
「そう、だね。やろう。今度はみんなでこの野球部を作っていけるんだから」
大きく頷いた瞬間、新キャプテン武田考が誕生した。
「よっしゃ、決まりだ!さぁ、そうとわかれば練習練習っと!」
「ちょっと待ってまーちゃん。もうすぐ夏休みも終わりだけど、課題はちゃんと終わってるんでしょうね」
「げっ、それはですね」
「学生の本分は勉強よ!どれだけ終わってないか見せなさい!」
「お、お前に教えてもらうと徹夜になんだよ!」
「だいじょーぶ、今年は眠気も吹き飛ぶ特製トマトジュースをたっぷり用意して個人指導してあげるから!」
「いやだいやだいやだ!絶対いやだ!ほらカズ!さっさと投げ込み行くぞ!」
「こら、待ちなさい!稲葉真人ー!」
ブルペンの回りをぐるぐると走り回る、二人にやれやれと苦笑しつつ、一人はようやくマスクをかぶった。
この日の朝刊で、一人は松野議員の汚職記事の他にも興味深い記事を見つけている。
それはスポーツ欄の一面に大きく掲載された見出し。
【大阪府代表、西城大三島高校が甲子園初制覇】
【影のMVP、三塁ベースコーチを務め続けた名主将】
中央の写真には、西城大三島高校の主将が選手たちに胴上げされながら笑顔で涙を流す感動的な場面が踊っていた。
野球は実力が全てではない。極限の精神状況を強いられる激戦の中で希望の光となるのは、精神的な柱となる者だ。
この写真の中央の主将のように、自分も考を胴上げするところまで導きたいものだと一人は思った。
そして、夏は沈みゆく。