6.Hello! Baseball!
1988年
稲葉真人、秋山光、みちる、12歳
「ホームランホームラン、ひっかっるっ!ホームランホームラン、ひっかっるっ!」
「三振三振、まっさっとっ!三振三振、まっさっとっ!」
「おいみちる!お前どっちの味方だよ」
「どっちもに決まってるじゃん」
「三振とホームランは一緒にはムリだろ」
「代わるがわるやればいいじゃん」
「「できるか!」」
春吉グラウンドに、少年少女が3人。
ホームランをはやされた少年は右の打席に、三振をはやされた少年はマウンドに。
そしてはやす赤茶色の澄んだ瞳をした少女は打席の傍らに。
「こい玉ねぎボールピッチャー!今日こそ決着をつけてやるぜ!」
「うるせぇ大根バッター、まともに当たったことないくせに!また三振だ。っていうか玉ねぎって言うな!」
「じゃあトマトだ。お前の球なんてぐしゃぐしゃに潰してやらぁ!」
「こら、兄貴。トマトをバカにするな」
「あ、しまった。わりぃみちる」
「ほら投げるぞ!打ってみやがれ!」
真人少年の放つボールに大根バットは見事空を切る。
それは何度やっても同じ。
「兄貴また三振。前に飛ばなきゃつまんない」
しゃがんで頬杖をつきながら退屈そうにする、みちる。
「くっそ、くっそ、なんで打てないんだよー」
「お前にゃ一生かかったってムリだよ」
「そんなことないよ兄貴、前に言ったじゃない。踏み込むまで体の力を全部抜いて、踏み込むときに右足にもっと体の重心を大きくかけるの!あと大きいの狙いすぎ。もっとひじ畳んでヘッドの角度をあと8度下げて、グラウンドにボール叩きつけるスイングしなきゃ」
「お前はいつも何言ってんのかさっぱりわからん」
「兄貴が真剣に聞かないからでしょー?」
「やったことないくせに!」
「私が男の子だったらまーちゃんの球だって打ってみせるもん!」
「むりむり!みちるは頭いいばっかりじゃないか」
「まーちゃんだって、もっと良い投げ方があるのにどうして言うとおりにしてくれないの!」
「だってこのほうが気持ちよく投げれるんだっ!」
「そんな腕だけで投げる方法、すぐに肩を壊しちゃうよ。もっと体全体を使って体重をボールに乗せるの!あとリリースの瞬間にボールをもっと押しだして!もっともっと回転をかけるの!」
「分かんねぇよそんな難しいこと」
「もう、私が男の子だったら絶対まーちゃんよりすごいピッチャーになれるのに。ううん、それよりキャッチャーね。まーちゃんの球を受けられるキャッチャーになれる」
「みちるの言うことはいつもわけがわかんねぇなぁ」
兄は、自分よりも頭の良い妹をやっかむ。
「いい?みんなで甲子園に行くの!まーちゃんがエースで、兄貴が4番。そしてあたしがマネージャー、ううん、監督になる」
「ばーか、女の監督なんていやしねぇよ」
「なるもん!二人を私が甲子園まで連れて行ってあげる!」
「いやだね、俺は真人と違う高校に行って、こいつの球をホームランにして甲子園に行くんだ!」
「上等だ!出来るもんならやってみろ、かすりもしないクセに!」
「もう、仲良くしてよ2人とも」
「みちる見てろ、お前を甲子園に連れていくのは俺だ!」
「バカ兄貴!みんなで一緒に行くの!ね、まーちゃん」
「あ、えっと――」
「まーちゃん!」
「なんだよ真人、お前みちるを甲子園に連れていけないのか?」
「なっ、連れていくとも!みちるを甲子園に連れていくのは光じゃない!俺だ!」
「だからぁ、ふたりとも私が連れて行ってあげるって言ってるでしょー?」
「そういや真人、昨日持ってったトマト食べたのかよ」
「ぐっ、それは――」
「えぇー!まーちゃんまた食べてないのー!」
………
……
…
*
1992年7月15日
夏の全国高校野球選手権大会 県予選2回戦
県立 稲嶺×県立 戸波商業
9回表
5 対 6
戸波商業の攻撃
ツーアウト、ランナー3塁
「なぜですか!なんで矢野くんを出さないんですか!」
アルファベットのⅠが入った野球帽をかぶったみちるがベンチで監督寺崎の前に仁王立ちして訴える。
この試合でもう何回目のことだろうか。
マウンドには、背番号12をつけた真人。
ベンチから冷ややかなまなざしで戦況を見守る一人の目からでも、真人は明らかにいらだっていた。
「だがなぁ、松野はこの日の為に一生懸命練習してきたんだ、その努力を認めてやらないと」
6回の表に2年生捕手松野がパスボール(投手の投球を後ろに反らす、捕手のエラー)を犯してから一向に同じセリフでしぶる寺崎に、みちるの我慢は限界だった。
「何を悠長なことを!最終回に勝ちこされてるんですよ!?またパスボールで!もう4回目です!矢野くんなら難なく捕れるんです!」
「しかしなぁ……」
試合は背番号1をつけた3年生投手、中村の先発でスタートした。
強打のチームである戸波商業を相手に打ちこまれて点は幾度も取られるものの、相手のエラーも重なって何とか稲嶺が食らいつくという展開であった。
しかし6回、疲れが見え始めた中村は、四球を連発、ノーアウト満塁のピンチを招いたところで降板した。
マウンドには代わって真人が上がった。
ノーアウト満塁のピンチで、真人は後続の2人を見逃し三振に切って取った。
相手打者に一球たりとも振らせない完ぺきな内容だった。
しかしそのあとがいけなかった。3人目の打者への2球目、真人は松野に対して全力投球を解禁してしまう。
松野は当然、その剛速球に反応できない。ミットではじいてしまった球はマスクを直撃して転々と転がった。
一人が過去に来てすぐに目撃した優のような格好だった。
そしてその間にランナーが生還、3対4と稲嶺はまたもリードを許した。
その回は何とかこの1点でしのいだが、ミスは止まらなかった。
その1球で恐怖を植えつけられた松野は、手を抜いた真人の球でさえ捕球がままならない状況となってしまう。
相手打者がスイングすれば後ろへ反らす。三振を取ってもパスボールすることで振り逃げ※されたのが2回あった。
三振を奪っているのにアウトカウントは増えず、増えるのはランナー。
回を経るごとに真人がマウンドの土を蹴る回数が多くなっていった。
※振り逃げ…第3ストライクが宣告されたにもかかわらず捕手が投球を捕球できなかった場合に、三振で 直ちにアウトになることを免れた打者が一塁への進塁を試みることができるプレーのこと。
そして9回、またしても振り逃げとフォアボールで出たランナーが塁を埋め、致命的なパスボールでついに相手に勝ち越しを許してしまったというのがここまでの展開である。
「あんなのテンで素人じゃない、話にならないわっ!」
稲嶺ベンチ、みちるがすみで腕組みをして動かない一人のとなりにドスンと座る。
なんで捕手も代えないんですか?
中村から真人に投手を交代した時点で、みちるは寺崎にこう進言していた。
彼女からすれば、真人の球を満足に捕球できない松野がこのような事態を引き起こすことはあらかじめ簡単に予測できたことだ。
しかしなんちゃって熱血顧問は「松野の努力を――」の一点張りである。マウンドの真人も、みちるも我慢の限界だった。
「勝たなきゃ終わりなのよ!?なんで3年生の先輩たちも黙ってるのよ!」
誰に言うでもなく愚痴るみちるの声は半ばヒステリックだった。しかし彼女がこの状況を理解できないのも頷ける。
醜態をさらす2年生捕手を目の当たりにして、ベンチ入りメンバーはおろか、レギュラーの3年生まで松野を代えようとみちるに加勢してくれる先輩はひとりもいなかったのだ。
「どんまいマツ!絶対取り返すから!」
かける言葉といえばこれくらいのものだ。
「友情ごっこじゃ甲子園に行けないのよ」
みちるはぼそぼそ言いながら指でくるりと内巻きの髪をいじっている。
君にはまだ2年あるじゃないか、なんて声をかけようものなら爆発して襲いかかってきそうな不穏な雰囲気をまとっていた。
「んもう、ひとりくん!いい加減黙ってないでキミもなにか寺崎先生に言ってきなさいよ!」
一人は黙っていた。それはうすうす分かっていたからだ。
みちるや、自分がこれ以上寺崎に何を言ったところで無駄であるということを。
真人の速球は、勢いを抑えても常時130キロを超えている。
そこらの公立校で130キロを超える球を投げる投手だって多いわけではないのだから、松野ばかりを責められない。
しかしミスを連発しているにも関わらずここまで頑なに交替を拒むことに関しては、一人も狂気の沙汰かと思った。
そして思い至ったのは、何か別の事情を寺崎が自分たちに隠しているのではないかという考えだった。
それを確かめるために、今は動くべきではないと考えていた。
相手打者からスリーアウト目の三振を奪った真人の直球は、バックスクリーンに128㎞/hと表示される。
父なりにかなり微調整を加えながら球の威力を抑えていることがわかる1球だった。
「先生、僕を代打で出してください」
9回ウラ、ワンアウト、ランナー1、2塁と稲嶺が一打逆転サヨナラの場面を迎えたところで、静かに戦況を見守っていた一人は重い腰をあげる。
背番号18番をつけた彼は、意表を突かれて目をぱちくりとさせる顧問を見据えて言った。
マネージャーに続いて今年の1年生はどうなっている。
ベンチにいた誰もが思っただろう。同時に、あれだけみちるの嘆願を受け流した寺崎が何を聞きいれるのかとも思ったはずだ。
しかし実際は
「打てるのか」
前向きな返答だった。これにはみちるをはじめとしてベンチ内のぎょっとした視線が集中する。
「はい、打てると思います。ずっとピッチャーのクセをベンチで見てました」
一人は大げさににこりと笑って見せた。その表情に不安の色はない。
一瞬視線を落として考えるそぶりをみせる寺崎だったが、すぐにちいさく頷く。
「よし、行ってこい」
おいおいこれはどうしたことだと、誰か監督に突っ込みを入れるのではないかという雰囲気がベンチを包む中、一人はヘルメットをかぶった。
「代打、矢野!」
寺崎はテンで野球の素人なわけでもなければ、狂気の沙汰なのでもない。
というのが、左打席に立った一人の結論だった。
何か事情があると踏んだ一人の疑問は確信に変わったのである。
そしてその事情は、一人を捕手として使えないという趣旨のものであることがはっきりしてきた。
実力だけで見れば、キャッチングの技術にせよ、バッティングにせよ、先輩の松野のそれに対して一人が大きくまさっていることは日ごろの練習から明らかなことだ。
上級生を年功序列にそって、もしくは努力に報いて起用したいという教育者の心理も分かる。
しかし、まだ1年の猶予が残された2年生捕手をそれだけの理由でミスを連発させる中使い続けるのは、どう考えても道理に合わないのだ。
最初から寺崎に一人を起用する気がないのであれば、一人はベンチに入ることすらできなかったはずだ。
しかし代打であれば一人の起用に文句はないという意思の表れが先ほどあった。そうなれば答えは一つしかない。
勝ちを逃してでも、寺崎には一人にどうしてもマスクを被せたくない事情があるのだ。
あるいは、そうすることができないのか――
1球目、勝負は一瞬だった。
一人はインコースへずばりと入って来る直球を、ひじを畳み、グラウンドに叩きつけるような角度で思いきり振り抜いた。
鋭いライナー性の打球は飛び付く一塁手をすり抜けて、軽々と一塁線を破る。
長打コースだ!
二塁ランナーは悠々とホームベースを踏み、一塁ランナーも外野手がボールの処理にもたつく間にそのまま生還した。
逆転サヨナラタイムリーヒット。
一人はたった1球で、あっという間に試合を決めてみせてしまった。
二塁へ滑り込んだ一人は立ち上がってベンチを見る。
そこでは先ほどまでの険悪なムードが冗談だったかのようにベンチを飛びだし、生還したランナー二人と抱き合う先輩たちの姿があった。
マウンドではがっくりとしゃがみ込んで立ち上がれない戸波商業のエース。背番号1がとても小さく見えた。
「矢野お前すげぇよ!ナイスバッティング!」
試合終了直後、一人の頭をポンポンと叩きながら3年生の先輩が声をかけてくる。
「俺はずっと思ってたぜ、マツよりお前を使うべきだって」
手のひらを返したように多くの先輩が一人をほめちぎった。
「あぁ、ありがとうございます」
投手のクセを読んでいるなどというのは、一人のハッタリだった。
ベンチからでもある程度判別できることはできるのだが、本当に球種やコースを見定めるためには打席に立たなければ話にならない。
しかし、この程度の投手であれば、クセどうこう抜きにして自分でも打てる。その確信は初球から表れ結果となった。
一発でサヨナラになるのは一人も予想していなかったが。
帰りのバスの中でも大喜びの先輩たちとは対照的に、一人はこの勝利を手放しでは喜べなかった。
寺崎が自分を使わないことには何か事情がある。それはわかったものの、何故使わないのかに関しては未だ謎が残る。
何度も思うが、松野との実力差は明らかなのだ。
しかし今回の活躍を見て、寺崎が次回から単純に起用を考え直すとは、どうしても思えなかった。
自分も父さんもまた、ベンチスタートだろう。
そしてもう一つ、喜べない理由がある。
20年前の高校野球の記録を詳しく知らないために確証はないが、一人は、自分は未来を変えてしまったという念に囚われていた。
最終回、稲嶺はチャンスこそ作ってはいたものの、おそらくあの試合はこちらの負け試合だった。
自分が代打ででなければ打席に入っていたはずの3年生は、一回戦と今日通じて無安打、全く当たっていない。
もし自分がいなければ、あのまま試合は決まっていただろう。
それを自分がひっくり返し、用意されていた未来をもひっくり返した。
二塁ベースから見つめた戸波商業エースの小さな背中が、背番号1が、一人の頭からどうしても離れない。おそらく3年生だったろう。
自分がいなければ、彼はこの次の試合でも投げ、一日でも長く野球を続けることができたはずだ。
そんな未来を自分は、奪った。
おそらく、地球上の誰も感じたことのない罪悪感を今自分は味わっているはずだと、思った。
しかし、こんなことは甲子園を目指す上ではこれからいくらでも起こり得ることなのだ。
この連続なくして、父を羽ばたかせる道はない。
一人は、自分には未来との葛藤というもう一つの敵があることを知った。
バスの通路を挟んだとなりで、みちるがむすりと不機嫌そうな顔をしている。
それはちょうど先日の中間テストで一人と2点差で1位の座を奪還した直後、順位表を見上げる横顔と同じ様なものだった。
口にこそ出さなかったが、手を抜いたのはお見通しのようだった。
「おもしろくない?」
一人は隣のみちるに尋ねる。みちるは視線を前に向けたまま答えた。
「そりゃあたしだってたまには落ち込むわよ」
「悪かったよ」
「なんでひとりくんが謝るわけ?」
「拍子抜けだったんだろ」
「そうよ、拍子抜け。だけどそれはひとりくんが一振りで試合決めちゃったからじゃなくて、流れってこういうものかって思ったから」
「ん?」
「負け試合だと思ってたの、流れ的に。あれだけ私があがいたところで何も変わらないものを、変えられる人は簡単に変えてしまう。何かモッテルっていうの?あんまり信じたくないけど」
あぁ、負け試合だったとも。
理論第一を信条とする彼女からすれば、一人の行動は規格外の出来事だったろう。
一人は人生において自分が何かモッテル、という感覚に至ったことはない。
しかし今の状況、自分がこの時代に来た時から無理矢理何かを持たされているという感覚はあった。
後ろでバカ騒ぎを続ける先輩たち、それに合わせる1年生たちの調子が、2人には耳ざわりだった。
あれだけミスを犯した松野でさえ、一緒になって騒いでいる。
今回の勝ちは決して勝利ではない。拾い勝ちなのだ。それを分かっているものがこの中に何人いる?
黙ったまま、先ほどの試合を回想していたのは、一人、みちる、そしてベンチ入り叶わず観客席で応援していた優のみ。
真人はというと、一人の隣の席で大口を開けたまま眠りこけていた。
バスの窓から差し込む夕陽が、電柱を通り過ぎるたびに見え隠れしている。
目を刺すようにぎらぎらと輝く赤い光に、一人はたまらずカーテンを閉めた。
2日後に行われた三回戦で、稲嶺高校はあっけなく大会から姿を消した。
結果は2対13の完敗。
5回コールドゲームの完敗だ。
一人の予想通り、この試合でも一人はマスクをかぶることなく、相変わらずスタメンに名を連ねたのは松野だった。
そして今回は、中村がどれだけリードされても真人がマウンドに上がることはなかった。
相手も大した強豪校ではなかった。もっと言えば、戸波商業よりも格下の相手であったにも関わらず、この大敗である。
何故か、それは稲嶺野球部の傲慢さに、悪い流れが加勢した結果だった。
格上である戸波商業を破った、それは自信ではなくおごりとなってこの試合に表れている。
13点を取られながら、許したヒットは7本。たったの7本である。
失点のほとんどは、エース中村の死四球、そして内外野のたび重なるエラーによるもので、5点差をつけられてからがひどかった。
もう勝ち目がないと見るや、緊張の糸が切れ、セキを切ったかのように稲嶺ナインはミスを連発する。
早く終わらそう、終わらせたい、そう思うあまりにボールが手につかない選手たち。
その散々たる光景をベンチから眺める3人は、もう何の言葉もなかった。
「みんなよく頑張った、今日は残念だったが、あの強豪戸波商業を破ったという事実はきっとみんなのこれからの人生の誇りとなるはずだ。後輩たちもお前たちの雄姿を受けて、来年さらに飛躍をとげてくれると――」
試合後のミーティング、顧問ですらこの調子なのだから、いよいよ救いようがない。
たなぼたで勝った戸波商戦が雄姿?寝ぼけるのも大概にしなさいよと、みちるが毒づいていたのはその日の帰り道での話だ。
高校生活最後の試合の直後というのは、負けの悔しさ、もっと野球をやっていたかったという思いから多くの部員たちが涙を流す感動の場面が印象的だが、この野球部に限ってはそんなことはない。
涙を流す者がいない。誰もが黙って、淡々と寺崎の最後の言葉を聞き流しているように思えた。ただひとり嗚咽まじりに泣きじゃくる、武田三兄弟の長男、考を除いては。
一人は考が不憫でならなかった。この無気力極まりない野球部にあって、先輩たちの中で最も熱心に練習に打ち込み、毎日泥だらけになっていたのは彼以外にいない。
時にはノックが顔面を直撃し、眼鏡のフレームが曲がっても必死にボールに食らいつき続けていた。
不得手ながらも努力の量は人一倍で、みちるのレクチャーも先輩の中でただひとり熱心に聞き入れていた。
この日の試合だって、最後まで声を出し続け、ひとり気をはいていた。
事実、この日野手の中でただ一人のノーエラーはこの考ただひとり。
これまでの努力の成果がこんな試合で表れるというのは、皮肉以外の何ものでもない。
しかしそこまでしてこそ、この節目にあたって自然と涙が流れるもの。
先輩たちのなかで野球部と呼べるのは、彼しかいないと一人は思った。
しかしあろうことか、寺崎が次なるキャプテンに指名したのは、ここまで散々一人たちの頭を悩ませてきた2年生捕手、松野だった。
「松野は今年2年生ながらキャッチャーとしてチームを支えてくれた。来年はその経験を活かしてチームをさらにまとめてくれると――」
円陣の後ろ側すみで、みちるはあんぐりと開けた口を急いで隠し、きつく一文字に縛っていた。
こればかりは一人も、キャプテンは考になるものと疑わなかっただけに驚愕した。
指名された松野に向けて拍手が起きる。
なぜだ、なぜ誰も疑問を抱かない!
自分の考えがおかしいのかと疑いたくなる状況に、思わず一人はみちると目を見合わせた。
みちるは大きな目を見開いたまま、ぶるぶると小刻みに顔を横に振っている。
考はそのあと副キャプテンに指名されたものの、いよいよこの野球部はおかしい。
「ふっざけんじゃないわよ!まったく何なのよ先生といい先輩たちといい、やっと茶番が終わると思ったのに、松野先輩がキャプテンなんて、もとの木阿見じゃない!もうあんなチームのマネージャーなんて御免よ。ふたばぁちゃん!アイスおかわり!」
「相変わらず図々しい奴だなみちるは。取りたいなら勝手に取れ」
「あ、じゃあ俺も!」
「まさ坊、お前は食い過ぎだ、大概にせぇ」
「おい」
「なにひとりくん、キミはアイス食べないの?」
「いつからここはたまり場になったんだよ」
「何言ってんの、ひとりくんが越してくるまえから私はふたばぁちゃんと仲良しなの、ねーラルド?」
新しいソーダアイスをほおばりながら、みちるはもう片方の手でひざ上に丸くなるラルドをなぜる。
喉をごろごろと鳴らすラルドは実に居心地がよさそうだった。
いつからか、矢野雑貨店の居間は休みの日のみちるたちの憩いの場になっている。
大会が終わり、夏休みとなった今は、真人、みちる、優の3人と練習後決まって矢野雑貨店で課題にいそしんだり、みちるの野球講義を聞いたりしていた。
もともとふたばぁと親交のあったみちるとしては、一人がやって来たことでいくらでもお菓子の出てくるこの場所に居座る良い口実を得た格好だった。
ふたばぁがこんなにも大人数を家にあげることが一人は意外だったが、みちるのことを気にいる理由は自分を気にいった理由と似ているのだろう。
ラルドが彼女に懐いていることにも合点がいった。
整った小さな庭につながった解放的な居間に、柔らかく涼んだ風が入り込んできて、風鈴の音が心地よく響く。
夏の強烈な日差しも、ろ過されたかのように澄んだ光となって、ちゃぶ台が中心の六畳間に届いている。
縁側に立てかけられたござが、みちるの太ももに細かい網目状の影をおとしていた。
「あーあ、なんか面白い話はないかなー。あ、ふたばぁちゃんなんか新しい本は?」
「今はこんなものしかないな」
『打者心理入門』
『ヘルシンキの狂犬』
『新版トマトレシピ100』
みちるの問いに慣れた調子で本棚をあさり本を取り出すふたばぁ。
ふたばぁ図書館の蔵書はいつも興味深いが、規則性のないジャンルにはいつも驚かせる一人だった。
「ありがとう、全部借りてく」
「本なんて何が楽しいんだか」
アイスに飽きた真人がゼリーを口いっぱいにしながらつぶやく。
「真人、お前は逆に読まなさすぎだ」
優が真人の横でプリンをつつきながら言う。大男がプリンを食べる様はなんともおかしい。
「なんだよ優、お前だって読まないだろ」
「あー、まーちゃん知らないんだ、優ちゃん去年の読書感想文コンクールで県入賞してるんだよ?」
「げっ、ホントかよ」
「能あるタカはなんとやらってな」
へー、そんな才能があったのかと横で聞く一人も関心してしまった。
「ったくどいつもこいつも面白くねぇな」
「面白いか分からんが、変わった話ならあるぞ。最近、春吉グラウンドの近くに通り魔が出るらしい」
プリンを食べ終わった優がちゃぶ台に肩幅の広い上半身を乗り出して言う。
「通り魔?ただ物騒なだけじゃねぇかよ」
「ウチの肉をよく買ってくれる小料理屋の大将から聞いた話なんだが、これがただの通り魔じゃないって話だ。なんでも賭けをふっかけてくるらしい」
「賭け?道端で花札でもやんのかよ」
「まーちゃん、黙って聞く!おもしろそう!」
「ただの賭けじゃない。野球で賭けを仕掛けてくるんだ。1打席勝負の賭けをな」
優の話によると、声をかけられるのは、バッティングセンター帰りのオヤジ、がたいのいいサラリーマン、ランニング中の大学生など、いずれもスポーツ経験の豊富な者ばかり。
黒い野球帽にサングラスで長身の男が、いきなり闇夜から現れ、自分が投げるから1打席で賭けをしようと持ちかけるというのだ。
もし勝てば財布の中身の3倍の勝ち金を保証するというと、多くの者が賭けに乗ってバットを握るのだが、未だ誰一人としてその野球通り魔に勝った者を聞かないという。
賭けに負けると有り金を全て奪われるルールなのだが、渋ったり逃げようとするとぼこぼこにやられるという話だった。
つい最近は近所の草野球チームの4番打者がその男に挑んだらしいのだが、これもまたこっぴどくやられたらしい。
相当なやり手であることから、近隣の社会人チームのエースだとか、プロ崩れが隠れて小遣い稼ぎをしているとか、適当なうわさが立っていた。
「面白そうじゃない!」
この話を聞いて一番に目を輝かせているのはみちるだった。
「なんでみちるが乗り気なのさ」
一人はたまらず吹きだして言う。
「だって三倍よ、三倍!財布一杯にして挑んだら大儲けじゃない!」
「なんで勝つことが前提なんだよ」
「ウチには将来を期待される選手が3人もいるじゃない!」
「俺はパス、だって相手ピッチャーなんだろ?俺の出る幕ないじゃん」
真人は相手が投手だと聞いた途端にやる気をそがれてしまったようだ。
「じゃあ優ちゃん!」
「すまん、どうも夜道は苦手で……」
「なっさけないなぁ、こんな時に頼れるのが――」
みちるが金に目のくらんだ目で一人を見つめる。しかし
「ひとりく――」
「賭け事は嫌いだ。っていうか高校生だろ、ばれたら停学じゃすまないぞ」
そう言うとみちるは白いほおをぷっとふくらませてそっぽを向いた。
「もう、つまんない!三倍になったお金で新しい夏服買おうと思ったのに。なんか天地がひっくりかえるような面白いこと、ないかなぁ」
「ないない、っていうか勝ったらお前が金使うのかよ!」
真人の突っ込みに合わせてラルドがミャアとひと声鳴く。
「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしことは 心なりけり とな」
となりの部屋で煙草を吹かしていたふたばぁが苦笑しながら言った。
みちるの言う、天地のひっくりかえるような出来事は起きなかったが、みちるたち自身がひっくり返る出来事であればこのあと立て続けに二つ、起きることとなる。
「矢野、お前ショートにコンバート※してみる気はないか」
※コンバート…守備位置の変更
一つ目は2年生を中心とした新チームが発足し、ようやく練習も地に足つきだしたころ。寺崎の衝撃発言だった。
いよいよ寺崎は自分を捕手として使う気はないらしいと、一人も薄々とではあるが予想していた事態だった。
もちろんみちるは血相を変えて猛反対する。
「これからのウチを考えたとき、エースになる稲葉くんの球をとれるのは矢野くんだけなんですよ!?」
コンバートするのは松野のほうだと、のどまで出かかった叫びをみちるはなんとか抑える。
2年生にも藤野という投手がいるにはいるが、その実力は引退した3年生の中村にすら遠く及ばない。
必然的に、来季からチームのエースナンバー1を背負うのは真人になるはずだ。
そのためには早く真人が本調子で投げられるようバッテリーを安定させなければならない。
春の甲子園、センバツ大会の切符をかけた秋季大会はもう一ヶ月後に迫っているのだ。
「カズ以外に捕れないじゃないすか。また手加減して放れっていうんすか?」
夏の大会では黙って従っていた真人も、この発言にはさすがに異を唱えた。
「この一ヶ月で松野には特訓を課す。あいつはやってくれる」
何の根拠もないプランに、真人もみちるもあっけにとられている。2人からすれば、寺崎はテンで素人のままだ。
しかし当の一人はというと、全く違うところを心配していた。
「ショートにコンバートってことは、武田先輩、考先輩はどうなるんです」
これまでショートを守ってきたのはチームで最も努力家の副キャプテン、武田考だった。
100歩譲って自分がコンバートするということは、彼の処遇はどうなるのか。
「武田は当然、当分お前とポジションを争ってもらうことになる」
何をバカなと一人は首を横に振る。それは事実上の考に対するレギュラー降格通告だった。
一人がいきなり守備位置を変えると言っても、彼は50メートル6.4秒の俊足、捕手で鍛えた強肩と、ボールを後ろにそらさない技術がある。
加えてたぐいまれなバッティングセンスと選球眼、考に勝ち目はなかった。
考は努力だけで今のポジションを勝ちとった。
打撃は未だに上達しないが、守備ではボールに何としても食らいつこうというハングリー精神でチームのピンチを何度も救ってきた。
しかし今、守備位置争いに敗れれば、次は考がコンバートをせねばならない。
しかし彼は短時間でそんなことをこなせるだけの器用さは持ち合わせて、いない。
「反対です。僕は控え捕手でも構いません、それでも松野先輩と競わせてください」
もう競うどうこうの問題でないことは多くの者が分かっている。
しかし一人は自分が捕手として使われないこと以上に、考をレギュラーから外し、グラウンドから遠ざけることのほうが問題だと考えていた。
考は今やチームの精神的支柱だ。どんな時でも声を出し、誰かがミスをしても駆け寄って声をかけ励ます姿は、チームリーダーそのものなのだ。
そんな柱を取り除いてまで、顧問は自分を使うという。こればかりは寺崎は素人だと思った。
考がいる限りこのチームは持ちこたえるという考えはまた、彼がグラウンドから消えればチームは終わることを意味していた。
一人が断ると、寺崎はそうかと言って話を切り上げたきり、それ以上強要することはなかった。
この話の直後の練習、松野がチームメイトに対して声を荒げ、あからさまに機嫌が悪かったことを、一人ははっきりと記憶している。
「矢野くん、ちょっといいかな」
練習終了後、部室で帰り支度をしていた一人は先輩に呼び出された。
彼のことを君づけで呼ぶ先輩はひとりしかいない。考だった。
「今日どうかな、一緒に帰らない?」
彼のユニフォームは今日も泥だらけで、ひざは何度も厚布をあてて修繕したあとがある。
整えられたスポーツ刈りの髪はシャワーを浴びたあとのようにびっしょりだった。
眼鏡の奥の瞳には、なんの詮索も疑いの様子もない。純粋に一人を誘う。なんだろう。
「はい、かまいませんよ」
一人は真人たちに考と先に帰ることを告げて部室を出た。
考とともに帰りがけに立ち寄ったのは、商店街近くの小さな図書館だった。
以前借りに来た本をついでに返したいという。持っていたのは
『眼前の高齢化社会』
『これからの社会保障』
これまた高校生が読むには難しい内容だ。一人も未だあまり触れたことのない分野だった。
「ここにはよく来るんだ。練習終りに勉強して帰ったりね。結構参考書も置いてあるんだよ」
「意外でした。先輩はてっきり図書室で勉強してるものと」
「学校の図書室はなんだか落ち着かないんだ。勉強してます!って、みんな殺気立っているような気がしてね」
考は練習のときの真剣な表情とは違い、とても柔らかい表情をしている。おどけた笑顔が爽やかだった。
思えば、一人は考とは2013年でも話したことがない。小さいころ、地域の祭りに大学教授として凱旋していたのを遠目で見たくらいだ。
教授!教授!と酔っぱらった商店街の親父たちにはやされて神輿を担いでいたときも、こんなおどけた表情だったようなと回想する。
未来過去通じて、これが初めての長い会話かと思うと奇妙な感じがした。
二人は図書館の中の自販機が置かれた休憩スペースに腰掛ける。
もう夕方だというのに、図書館は本を借りに来る多くのお年寄りや、こども文庫に熱心なまなざしを向ける子どもたちで賑わっていた。
「ここ、好きなんだよ。お年寄りと子どもたちが触れあえるいい場所だと思うんだ」
よくみると、お年寄りたちが子どもたちに絵本の読み聞かせをする光景があちらこちらにある。
ゆっくりとした語り口で物語を進める老婆の話を、円を作って行儀よく聞く子どもたち。
両者の心が通い合っているかのように、そこにはほころんだ表情があふれていた。
「これから日本は今以上にお年寄りの数が増えていく。今働いている世代だけでは、リタイアした人たちを養えない時代がもうそこまで来てるんだ」
「さっき返した本も、その勉強ですか」
「ああ、そんな時代になったとき、頼りになるのはお年寄りが生きがいを持てるもの。こういう場所の充実だと思うんだ。そんなこと、学校の社会科じゃ教えてくれない。テストで100点取ったって、あのおばあさんや、こどもたちの笑顔は守れない」
考は2年生の定期テストで常にトップを走っている。単なる努力好きかと思っていた一人にとっては意外な一面だった。
「お年寄りや子どもたちの為に、今の仕組みは変えなくちゃならない。僕は将来、そんな仕組みづくりの手伝いをしたいと思ってるんだ」
なるほど、だから大学教授かと一人は合点がいった。
日本が少子高齢社会、並びに人口減少社会に突入しているというのは、ある程度教育を受けた日本人であれば誰もが知る実情だ。
現在、国の歳出のうち、実に3割が国民の生活を支える社会保障に充てられている。
考の言うお年寄りたちを守るための年金、医療、介護、社会福祉の費用もここから支出される。
今でこそ、高齢世代の生活確保の為、政府は多くの制度改革に舵を切って来たと言えるが、1992年当時このような風潮はまだまだ下火であった。
当時、社会保障のために充てられていた予算は現在の半分程度に過ぎず、世間はいずれ訪れる社会情勢に疎かったと言わざるを得ない。
しかし1992年はバブル経済の残り香の中、潤沢な所得税と法人税に財源を頼ることができた上に、労働人口はまだ増加の最中であったことから、考のように日本の将来を真剣に見据えていたのは一部の専門家に限られていたのかもしれない。
2013年に、この図書館は現存していない。ちょうど最初の大型ショッピングモールの建設の際、土地買収で取り壊された。
高齢化が一気呵成に社会を圧迫している未来の世界にあって、この図書館が時代の波に飲まれていくことを知っている一人は、考の希望の笑みを複雑な思いで見つめていた。
2013年の考は、今懸命に戦っていることだろう。
それこそ、泥だらけになってもボールに食らいつくように。
「コンバートの話、聞いたんだ。寺崎先生から」
急に話の矛先を変えた考に、一人の心臓はどくりと高鳴る。
考が自分を誘ったことから予想はついていたものの、この手の話は急に振られるとひるむ。
「僕には遠慮しないでほしい」
考は読み聞かせの円を眺めながら言った。その表情は特に焦ってもいなければ負い目に感じる色もない。
「君には僕よりはるかに実力がある。今のチームに必要なのは僕より君だ」
「何を言ってるんです。先輩が誰よりも努力してきたことはみんな知ってるはずです。みんな先輩を頼りにしてるんです」
一人は本音をぶつける。
「僕はこれまで自分に出来ることを精いっぱいやって来たつもりだよ。だけど君は僕の精いっぱいより多くのことができる。そのチャンスを逃してはいけないよ」
「オレは先輩ほどチームの信頼はありません。俺にできないことを、今先輩はしているんです」
「今年の夏の甲子園、矢野くんも見てるよね」
「えっ?それはそうですが」
「大阪府代表で、次の準決勝に出てくる西城大三島高校のキャプテンを知ってるかい」
「いえ」
「彼はレギュラーじゃない。サードベースコーチだ」
一人は考の言わんとすることを察する。すでに彼の中では覚悟が出来ての話なのだろう。
「彼はサードベースコーチとして打者にサインを出したりランナーに指示するだけじゃなく、打者一人一人の特徴を理解して的確な励ましをかけている。守備の時もベンチから一番声を張り上げているのは彼だ。彼を見たとき、僕は何だかほっとしたんだよ。
僕が担う役割は、何もグラウンドの上でなくても出来るんじゃないかってね」
「先輩はこれまでたくさんのピンチを救ってきたじゃないですか。みんなやる気をなくした三回戦だって、試合として成り立っていたのは先輩がいたからです」
一人もここで折れるわけにはいかなかった。
「ありがとう、だけど僕がボールに飛びついて相手の流れを止めたところで、そのあといつも三振してこっちに勢いを持ってこれない選手なんだから、結果はイーブンなんだよ」
詭弁だ。逃げだ。そうは言いたくなかった。
「僕はキャッチャーとして松野先輩と競います。次の大会に出れなかったとしても来年には必ず――」
「寺崎先生は、君を捕手としては使わないよ。松野くんがいる限りはね」
一人は思わず立ち上がった。自分以外にこの結論に至った人間がいる。
「何か知っているんですか?」
「寺崎先生は、松野くんの言いなりなんだよ。正確には、松野くんのご両親かな」
「どういうことです」
「一番最初におかしいと思ったのは、僕たちが野球部に入って間もないころのことだ。松野くんは中学の時からキャッチャーだったらしくて、確かに僕たちの学年では頭一つ抜けた上手さだった。でもキャッチャーには彼よりも上手い先輩がいたんだ。なのに寺崎先生は去年の秋、その先輩をピッチャーにコンバートして松野くんをキャッチャーに据えた」
「その先輩ってもしかして――」
「そう、この夏引退した中村先輩だよ。先輩は実力もあったし、ピッチャーとしても通用した。みんなも疑いの目は向けていなかったと思う。だけどおかしいことは続いたんだ」
読み聞かせが終わって、たくさんあった円が次々に散らばっていくのが見える。
もう一回読んでと老婆のシャツのすそを掴んでせがむ女の子を、老婆はまた明日、今度はあかりちゃんの好きなのを読んであげるねと頭をそっとなぜていた。
「松野くんの練習中の態度が気に入らないと言っていた部員が突然黙って部をやめたり、松野くんと仲の良い人たちが決まってベンチ入りしたり、レギュラーになるといったことが続いたんだよ。これはさすがに何かあると思った。そして、僕は寺崎先生がいつも職員会議の日に他の先生よりも部活に参加するのが遅いことに気づいたんだ」
一人は淡々と野球部の裏側を告白する考に戦慄した。一年間ずっとひとりで抱えてきたことを今彼は話している。
「僕は体調不良で保健室に行くことを装って、職員会議終わりに応接室へ入った寺崎先生の話を盗み聞きしたんだ。褒められたことじゃないけど、どうしても気になってね。すると話の相手はあろうことか松野くんのお父さんだったんだよ」
考が話すその内容は信じられないものだった。
松野の父は市議会議員で、稲嶺高校の野球部OB会長だということ、母はなんと寺崎の高校時代の恩師ということだった。
そんなまったく頭の上がらない相手に対して寺崎は常にへりくだった様子で話していたという。
そして、最近あの生徒の練習態度がよくないと息子から聞いた。そんな生徒をレギュラーとして使うのはいかがなものか、それよりこの生徒が練習熱心だから彼を使うべきだとか、選手起用に細かい注文をつけていたという話だった。
その見返りは、OBから野球部への練習器具の充実をはかれるよう支援するということ、そして寺崎が野球強豪校に赴任できるよう教育委員会にかけ合ってやるということだった。
考はそのとき全てを察した。松野が早くから捕手としてレギュラーに抜擢された理由も、彼の思うようにチームが組み上がっていくからくりも。
「翌日、松野くんのお父さんの言った通りにレギュラーが見直されたよ。最初は先生が本当にそんなことをするものかと信じられなかった」
『どんまいマツ!絶対取り返すから!』
一人は戸波商戦、ミスを連発した松野を糾弾しなかった先輩たちの心中を察する。
もし彼に逆らえば、レギュラーを落とされる。どれだけ彼がミスをしようと、自分たちは耐えるしかない。
そんな思いで一度きりの夏を奪われた彼らの気持ちは一人の想像を絶するものがあった。
三回戦、勝ちがないとみるや集中力を切らしたのは、何もやる気をそがれたからではない。これで松野から解放されるという安堵が、形となって表れた結果だったのだと気付いた。
それを全て知りながら、今横にいる先輩は淡々と全てを振り返っている。
コネが支配する部の中でただひとりそれに屈することなくレギュラーを守り続け、たったひとりで戦ってきたのだ。
「だから矢野くん、君はどうあがいてもキャッチャーとしては今年も来年の夏もレギュラーにはなれない。そして、松野くんにとって都合が悪いレギュラーポジションは、僕のショートだけなんだ」
「どうして、先輩はどうしてそこまでして――」
「入部したとき、僕は一番の下手くそだった。松野くんたちにもひどくバカにされたよ。だけどこのからくりを知って、負けたくないと思った。そんなものに屈していては何も変えられないと思ったんだ。それに――」
「僕は野球が好きだ」
「彼らがやっているのは野球じゃない。たったひとりでも、野球をしていたいと思った。でなければこの部は終わってしまう、そう思ったんだ。だけど、優や、君や、真人くん、そして寺崎先生にも元気にかみつくみちるちゃんを見ていたら、君たちがこの部を変えてくれるんじゃないかってね。君が僕に代わってショートを守ってくれるなら本望だよ」
「先輩……」
一人は何も言えなかった。彼の背負ってきたものに対してかける言葉が見つからない。
気安くこれ以上引きとめることができなかった。
閉館のアナウンスが流れだし、二人は図書館を出る。
この話、内緒だよと微笑む考に言われ、一人はもちろんですと返して別れた。
気付かぬ間に、外はすっかり暗くなって、住宅地にも青白い街灯の明かりが列をなしている。
今思えば、確かに稲嶺の不死鳥たる父真人の活躍が世間に向けて本格的にクローズアップされたのは2年生の秋になってからのこと。
それこそ、松野たち上の世代がいなくなってからのことだ。
これは一人の推測でしかないが、この松野がしいた体制は彼の引退の時まで続いていたのではないか。
日を増して実力を伸ばす真人の球に、松野が対応することができたとは思えない。
真人はずっとベンチか、手を抜いた球をマウンドで投げることを強いられ、みちるもそれに耐えていた。
そんな一コマが、重い足を一歩踏み出す度に頭の中をよぎっては消えを繰り返す。
しかし、寺崎の不可解な起用法の元凶が分かった今、なんとかこの状況を秋までに打開する方法を考えたい。
寺崎を説得する、松野を問い詰める、密談の現場をおさえる――様々に考えたが、ピンとくる策は未だ生まれなかった。
「そこの稲高生、お前、野球部だな」
いきなり後ろから低く通った声が聞こえて、一人は足を止めた。
見渡す限り人通りはない。稲高生は自分ひとり。
振りかえるとそこには革のジャケットにダメージジーンズをはいた長身の男が、ひとり。
「どうだ、ひとつ賭けをしないか」
右手にはバット、左手に硬式ボール。
街灯に照らされて、かけたスポーツ用のサングラスが不気味な光を放っていた。