4.タイム!
1998年8月、テレビでは甲子園での熱戦が連日伝えられる日差しの強い日に、稲葉一人は生まれた。
「誰にも負けない、一番の人になってほしい」
そんな思いが込められ名を受けた彼は、両親の期待を上回る才を持っていた。
「一人くんまた100点ね!みんなもわからないところは、先生だけじゃなくて一人くんにも聞くのよ」
学校の成績は一番。
「えぇー、またカズと同じ組かよー。勝てるわけないじゃん!」
運動でも、一番。
「稲葉のせがれにゃかなわんよ。これで何敗目だまったく」
商店街のおじさんたちと将棋を指しても、一番。
「一人くん、実はね、わたし前から一人くんのこと――」
人気も、一番だった。
何をしても自分と競ってくるものがいない日常が、彼は正直なところ退屈だった。
退屈しのぎに勉強を隅々までやって、将棋を指して、女の子とデートもした。
しかし足りない。大体のことは少し力を入れると思い通りになった。他人ほど頑張らなくても結果を残せると知ってしまった。
自分には才能というやつが人より多く備わっているのだと、子どもながらに勘付いていた。
そんな彼の心を、これだと揺さぶるものは一つしかなかった。
野球だ。
「よーしカズ!来い!」
まだ立てるようになったばかりから、父とキャッチボールをしていた。
部屋の中で、柔らかいカラフルなゴムボールを使いながら投げて、拾って――
「おいすごいじゃないか今の!」
その場所がいつしか公園になって、グラウンドになって、ボールも柔らかいものから軟式のボールに変わった。
「将来は俺を超えるエースになるぞ!契約金1億なんて目じゃない!」
「こら真人くん?一人は何でもできるんだから、他にも色んな道があるんだよ?」
温かい食卓の中で、親バカな会話を毎日のように聞いた。
思い返せば、こうやって親バカにも毎日ほめちぎる両親の声が、一人を期待に応えようという気にさせたのかもしれない。
しかし野球というスポーツは才能があっても一筋縄ではいかないものだった。
「ど真ん中に投げろ!」
父とのキャッチボールでほめられたのは、ど真ん中にぴゅんとおさまる球だった。
『ど真ん中の失投でしたからねー、打たれて当然です』
テレビでプロ野球を見ていて、解説の人がど真ん中は絶対投げてはいけないと言っていた。
小さい一人には矛盾だった。どうして?
地元の少年野球チームで、一人はピッチャーになった。
チームで一番上手いやつがピッチャーをやる。少年野球のわかりやすい序列。
5年生に上がってすぐの大抜擢に、家では大騒ぎだった。
いよいよ大エースの誕生だと真人は喜び、絵里はそれをはいはいと優しく笑った。
上手くなるにつれて、なんでど真ん中に投げてはいけないのか、その理由はわかった。
ど真ん中は当然打ちやすい。自分が打席に立ったときだって打ち損じることはそうないんだ。
じゃあマウンドに立って自分が投げる球はど真ん中以外でなくてはいけない。
どこが打たれない?ここ?それともここ?
日々、考えながら投げた。
そうするうちに、どんな構え方、背丈、性格の人がどこに投げられるのが苦手なのか。
それが次第と分かるようになった。
この人には、この球がいい。
この人はこういう人だから、この球だ。
それを黙々と組み立てていくうちに、いつの間にか部屋にはトロフィーやメダルが次々と増えていった。
「一人、お前キャッチャーやってみろ」
6年生に上がってすぐのことだ。一人のはめるグラブは普通のグラブから、キャッチャーミットに変わった。
どうして?こんなに上手くピッチャーをやってきたのに。
最初は戸惑いだった。キャッチャーなんて、ただピッチャーの投げる球を受ける壁じゃないか。
自分の代わりにエースになるヤツも、自分より上手くはないと思った。なのになぜ?
戸惑いに反比例して、試合では勝った。これまでよりトロフィーの数は増えていった。
マウンドで考えていたことを、今度はホームベースでやった。
すると、マウンドで見るよりバッターのクセや特徴がよく分かるのだ。そうなると、ピッチャーに送る指示も確実になった。
あっという間に、キャッチャーという仕事の魅力に取りつかれている自分に気づいた。
勝ち続けるほどに強い相手と戦える。そんな強敵を相手に、考えに考え抜いた策でバットを空ぶらせる。
球を受けるだけの壁なんかじゃない。
試合を支配するのは、キャッチャー、自分だ。
その快感が一人を虜にしていった。
一方で不安でもあった。
ピッチャーとして活躍する自分のことを、あれだけ喜んでくれていた両親がどう思うのか。
特に真人なんてこのまま一人がエース街道をひた走るものだと信じて疑わないようだったのに。
でも、そんな不安は不要だった。
「キャッチャー?やったじゃないか一人!」
父は喜んでくれた。
「お前は俺と違って頭がいいからな。本当にそれを活かせるのはきっとキャッチャーだ!」
頭をくしゃくしゃとなでながら大きな父は笑っていて、一人はホッとしたのを覚えている。
「そうなるんじゃないかなって思ってた。きっとあなた好きよ?キャッチャーのほうが」
母はまだ一人がキャッチャーになったことを戸惑っていた時期からこう言った。見事、的中。
中学校生活を終えるまで、実際に捕手としての一人の活躍は目覚ましい。
捕手になって間もないころのふたばぁとの出会いも、それに大きく関係している。
たぐいまれな才能を持ちながらオーバーワークで体を壊し、離脱していく選手が多い投手の道を抜けて、一人は捕手としての実績を積み上げていったのだった。
「お前は誰だと聞いてるのだ」
一人には、ふたばぁの言っていることの意味が分からない。
ふたばぁの葬儀だと思い飛びこんだ店の中、男たちにもみくちゃにされて、ピンピンしているふたばぁを目の当たりに誰だとは。
何のサプライズだと言うのだ。
「誰って、一人だろふたばぁ。何の冗談だよ」
「私はお前のようなヤツは知らん」
「からかうなよ、パン屋のせがれの稲葉一人だ!」
「パン屋?パン屋のガキなどクソ生意気なまさ坊だけで十分だ!」
まさ坊、なぜ父のことはわかってて自分が分からないなんてことがあるんだ。
「父さんじゃない、オレだ!一人だ!」
「ガキのまさ坊になぜ息子がいるというのだ」
ふたばぁは蔑むように言い捨てる。彼女は普段から口が悪いが、こんなにも聞き分けない冗談は初めてだった。
「専務、コイツどういたしますか」
「店の外に放り出せ、大方また遺産目当てのゴロツキだ」
「どういうことだよふたばぁ、試合は、グラウンドはどうなったんだ!」
「目障りだ!早く下げろ!」
一人は大柄の男に襟をつかまれて半ば引きずられながら、店の外に放り投げられた。
「悪い冗談だろ」
ふと、店の前にかけられた看板に目がいった。
『矢野グループ会長 矢野春吉 葬儀会場』
矢野春吉、ふたばぁの夫、グラウンドの創設者である春吉氏の名前がそこにあった。
しかし、春吉は亡くなって久しいと一人はきいている。かれこれ20年も前のことだ。
なのに、なぜ。
「会長なしで、ウチの経営はどうなる」
「会長の太鼓判で進めてたプロジェクトなんだぞ」
「どういうつもりだこんなボロ屋に引っ込んじまって」
店の外では男たちの怒号にも似た内輪話がどこかしこで飛び交っている。
一人は状況が飲みこめないままに稲葉ベーカリーに帰った。
商店街の小さな時計塔が、12時を指している。
こんな時間まで息子が帰らないと言うのに、稲葉ベーカリーは照明を落として寝静まっていた。
裏の玄関をノックする。カギは、しっかりとかかって開かない。
本当に、どういうことだ。
「父さん、父さん開けて!」
「母さん!起きてないの!母さん」
ノックしても反応がない。次第にノックはどんどんと扉をたたく音に変わった。
「じいちゃん、開けてくれ、じいちゃん!」
何度か繰り返したところで奥の明かりがついて、のっそりと影が近づいてきた。
扉が、開く。
扉から出てきた顔は中年の男性のものだった。
父ではない。
「えっ?」
「誰だぁ?お前は」
「じい、ちゃん?」
祖父よりは明らかに若い男性であった。しかし、面影というか、顔も背丈も祖父そのものなのだ。それに、
「じいちゃん、髪が」
祖父に髪が生えそろっている。若い以上にそれが衝撃だった。
「髪がなんだ、お前誰だ」
「いや、その、オレは」
あまりの衝撃に一人は口をパクパクとさせて言葉が出ない。
「ガキが夜中に悪ふざけするんじゃねぇ!」
バタンと扉が大きな音をたてて閉められた。カギが閉まる。
しまった!
「じいちゃん、一人だ!開けてよじいちゃん!」
「バカ野郎!俺にもう孫がいてたまるか!」
扉越しに聞こえた声を最後に明かりも消された。
一体、どうなってる。
「参った」
時計塔の前に座り込んだ。
なぜだかふたばぁに店を放り出され、若返ったじいちゃんに家を閉め出される。
自分が寝てる間に何かあったのか。必死に試合直後のことを思い出そうとしてみるが、何も思いだせなかった。
有馬のスイングは、確実に真人の失投を捉え、快音を残した。
あのままおそらく逆転満塁ホームランのホームを踏んだことだろう。
しかし、そのあと試合がどうなって、どういう経緯でユニフォームを着替え、イチョウの下にもたれて眠っていたのか。
「参った」
一人は自分の置かれてる状況をつかめない。これは夢か。
しかし寒い。このまま家に入れてもらえなければ凍えてしまう。
もう一度ダメもとでドアをノックしてみるかと、立ち上がろうとしたときだった。
「ミャーア」
隣に黒猫がちょこんと礼儀よく座ってこちらを見つめていた。
全く気配なく鳴き声が聞こえただけに、一人はぎょっとして一歩のけぞる。
明かりなく寝静まった商店街にあって、エメラルドのように一人を照らす緑色の瞳には、吸い込まれそうな輝きがあった。
「ネコ?こんなネコ商店街にいたか」
一人は15年ここに住んで一度も見かけたことがない。
しかし当の黒猫はまるで飼い主を見つめるかのように警戒心のない、人懐っこそうな視線を一人に送っている。
ときおり、前足で目をこすってはぱちくりとまばたきを繰り返し、ミャアと鳴くのを一人はしばらく見つめていた。
「キミもひとりなのか?参ったよ、家を閉め出されて、いきなりにひとりになったんだ。キミの宿があったら紹介してほしいくらいだ」
するとどうだろう、黒猫は一人の言葉を知ってか知らずかゆっくりと商店街を歩き始めた。
振り返って、ミャアと鳴く。
これには驚いたが、付いてこいと言わんばかりで一人の足は自然と黒猫に従って動いた。
黒猫が足を止めたのは、矢野雑貨店の前だった。
先ほどまでの黒いセダンの行列も、黒服の男たちも、葬儀の看板も消えて、閑散と静まり返っている。
「お前、ここが宿だっていうのか?」
黒猫は一人を見上げながら足元をぐるぐるとまわる。どうやら、そうらしい。
「だめだよ、オレはここも追い出されたんだ。なぜだか分からないけど、ふたばぁは機嫌が悪いらしい」
お構いなしに足元をまわる黒猫は、ごろごろとノドを鳴らして一人にすり寄っていた。
ネコの散歩を真に受けてしまったかと、自分に苦笑したときだった。
「珍しいじゃないかラルド、あんたが人を気に入るとはね」
立てつけの悪い戸を強引に開けながら現れたのは、ふたばぁだった。
「またお前か。一体、何の用だというんだ」
「ふたばぁ、もう冗談はよせよ」
「なにが冗談なものか、私はお前みたいなガキなど会ったこともない」
ふたばぁの表情は真剣そのものだ。
一人もいよいよ冗談には聞こえなくなっていた。
「まぁいい、上がれ」
「いいのか?」
「ラルドが懐く人間だ。純粋に興味がある」
「ラルド、この猫が」
「エメラルドのような目をしているだろう、だからラルド。単純なもんさ」
ラルドは足元でミャアとなく。よろしくとも聞こえた。
一人は奥の間に上がると、ラルドもひょこひょことついてきた。
部屋にはまだ線香の香りが濃く残っていた。
「まさ坊のガキが父だとか言ったな」
ふたばぁは奥のソファに腰掛け、足を組んで言った。
「そうだよ、当たり前じゃないか」
そういうと、ふたばぁはしばらく黙りこんだ。しばらく、いや、かなり長いことだ。
10分ほど経ってもお互い沈黙のまま。ふたばぁは目を閉じて何かを考え込んでいる。
大きな振り子時計の時を刻む音だけが、部屋にこだましていた。
そして沈黙を破ったふたばぁの一言に、一人は絶句する。
「お前は、未来から来た。そうだな?」
「そしてお前はまだ、その事実に気づいては、いない」
ふたばぁは一人を指さしてにやりと笑った。
何を、言っているんだ……
「今、何年か言ってみろ」
ふたばぁが一人に尋ねる。
「2013年、3月、28日」
答えた一人を見ることなく、ふたばぁは一人の足元のラルドを見てから首を横に振った。
「違うな、今は1992年の、3月28日だ」
「なんだって!?」
1992年…一人にとって全く馴染みのない年号だった。
とっさに一人はポケットに入っている携帯電話を見た。
----年--月--日 --:--
ディスプレイの時計は初期化されている。いつの間に。そして、
「圏外だ」
携帯は電波を受信しない箱と化していた。
とっさに壁にかけられたカレンダーを見た。
1992年の年号が大きく掲げられたカレンダーだ。日付は、3月28日。
テーブルにあった新聞を手に取る。発刊は――1992年、3月27日。
ずかずかと台所に進んで冷蔵庫を開ける。高級そうな調味料のラベルを見た。
消費期限 92.11.29
「馬鹿な……」
言われてみれば、雑貨店の中は一人の知るそれよりガタがきていない。置かれたアンティークな調度品だって、知らない物がたくさんある。
商店街だってそうだ。時計塔も、稲葉ベーカリーも、どこか真新しい違和感があった。
まさか、本当に?
動揺して動き回る一人を前に、ふたばぁは冷静だった。
「その猫、ラルドは、人語を理解する。まぁしゃべりはしないがな」
猫が人語を理解する?そんなことさえ今の一人には二の次だった。
まさか自分が、時間を飛び越えるなんて、そんなSFの世界に放り込まれている事実を整理するだけで精いっぱいだ。
ふたばぁはかまわず続ける。
「そしてこのラルドはウソを見抜く天才なのだ。人の微妙な表情の変化を読み取ってその人間の真意を見抜いてしまう。化け猫だよ」
そういうとラルドは不機嫌そうに低い声で鳴いた。意地悪く言うなとでも文句を言うように。
「それだけにこの猫は正直なもの、頭の良いものにしか懐かない。お前は今が2013年だと言った。普通なら子どもでも歯牙にかけないホラに思うものだが、ラルドは不快感を示さなかった。つまり正直に言ったということだろう」
一人の足もとでまたラルドは行儀よく座って尻尾をゆらゆらと振っている。
「名前は?」
「稲葉一人」
「稲葉真人の――?」
「息子だ」
「そして私はお前の何だ」
「野球の師匠だ」
「野球の師匠だと?うわっはははは!」
これは傑作だとふたばぁは低い声で大笑いした。
そうか、未来の医術で私はまだぴんぴんと球遊びをしているというのかと、半ば馬鹿にするかのように言う。
理論の師匠だとつけたすと、まぁ野球は好きだよと笑いをおさめた。
「そうか、いいだろう稲葉一人。お前は2013年から1992年にやってきた。しかしなぜやってきたのかは分からない。そういうことだな」
「……おそらく。気付いたらイチョウの下にいた」
一人自身、今のこの状況を飲みこもうとする前に、ふたばぁが無理矢理飲みこませてくる格好だった。
今更だが、確かにこのふたばぁはまだ顔のしわも浅く、自分の知る彼女よりかは若い印象を受けた。
一人は話した。2013年、自分がここに来るまでの間に何があったか。
自分が未来のふたばぁに教わってきたこと。
大型のショッピングモールの進出で、商店街の経営が危機に瀕していること。
グラウンドの売却をふたばぁが決めたこと。
そのグラウンドの命運をかけた試合をして、その途中記憶が途切れて現在にいたること。
つい今朝まで当たり前であったことを、本人に説明し直すというのは何とも奇妙なものだ。
話の途中、余計なことを話そうとするとふたばぁは手で制した。未来のことを知り過ぎるのはよくない。そういう意図だと一人は察する。
一通り話すあいだ、ラルドは大人しかった。
「なるほどな、筋は通っている。これが作り話なら大したものだ」
「作り話なものか!」
この見知っていながら見知らぬ空間の中で、一人はなんとか自分の居場所を作ろうと必死だった。
「しかしな、まだ完全に信用はできない」
一人だって、自分自身が信用できない。
ふたばぁはやっと煙草を手にとって火をつけた。いつものように。銘柄も2013年の彼女と同じものだった。
「今日は旦那の葬儀だった。お前も見たろ、この狭いボロ屋に来た男たちはみんなウチの社員だ。バブルがはじけて皆焦っているときに旦那が死に、泣きっ面に蜂な男たちだよ」
「それに混ざって、旦那とこんな契約を交わしただ、遺産の割り当てを聞いただとほざくやつもいた。数千万単位の香典を狙ってるやつもいる。お前だって小細工を使って私に取り入ろうする輩だと思う節もあるんだよ」
「違う」
「ラルドは頭の良いやつが好きだ。おそらくお前はそうなのだろう。だからこそ、証拠が欲しい」
「証拠って言ったって……」
証拠なんて自分だってほしい状況だった。だれでもいい。ここが1992年だと言う確証をくれと心の中で叫ぶ。
「まぁ、少し考えてみるといい。今日はここで寝ろ。どうせ行くところもないのだろう」
「ふたばぁ……」
「私も朝から疲れたのだ。話は明日改めて聞こう」
ふたばぁが疲れたなどと口にするのを一人は初めて聞く。
一線を離れた時期しか知らないとはいえ、どれだけの資料を読み込んでいたってバリバリと仕事をこなした鉄人だ。
気丈で、相変わらず強気に見えても、伴侶の葬儀はさすがの魔女にも堪えるのだろうと、一人は思った。
目をあければ、いつもと同じ様な日常があってほしいと願った。
朝見上げる天井は、見慣れた自分の部屋の天井で、最初に五感を刺激するのは焼きたてのパンの温かな香りであってほしいと、願った。
でも夢であってほしいと思ったものはどうやら現実のようだ。
翌朝、一人の鼻に届いたのは焼きたてのパンの香りではなく、古くさい線香の残り香だった。
目の前には見慣れない、矢野雑貨店の天井。
そして、自分の顔を覗き込む、ラルドだった。
「おはようラルド、キミはなんでずっとオレの側にいるんだ?」
ラルドは目を2度くいくいとかいただけで、答えなかった。
まぁ、答えるはずもないのだが。
「起きたか、さっさと飯を片付けてくれ」
ふたばぁがつくった朝食を食べる。初めての体験だった。
なんてことはない、白ご飯に、あさりの味噌汁に、納豆、ゆで卵、白魚の西京焼きが少し豪華に思った。
味噌汁をひとくちすすって、やっとざわついていた心が静まる心地がする。
「証拠は見つかったか」
「いいや、見つかりそうにもない」
「では信用できないということになるぞ?」
「そうだね、オレ自身が自分を信用できないんだ。仕方のないことかもしれない」
「ふん」
ふたばぁは黙った。これも、迫真の演技として映っているのだろうか。
「春吉さんは……」
沈黙をやぶって一人は切り出した。ぎろりとふたばぁの見る目は鋭くなったが、かまわず続ける。
「どんな人だったの?」
「なぜそんなことをきく」
「昨日が春吉さんの命日なんて知らなかったんだ。そんなこと今までふたばぁは一度も言わなかった」
命日を前に、ふたばぁは旦那さんの大事なグラウンドを売った。そんなことを普通するものなのだろうか。
「のんきな人だったよ」
ふたばぁはぼそりと言った。
「私がいつも尻を叩かなければ、ただ笑っているだけの人だった。でも何故かあの人の周りには人が集まったよ、頭は私以上に良かったしね。やってくる者の話がいい話か悪い話か、私の仕事はそれを見極めるだけだった。誰にでも優しいものだから、ひとりでいるとよくだまされもする人だった。しかしあの人は笑っていたよ。いつでも人に優しい人だった」
「好きでもあり、嫌いでもあった。あんな生き方私には死んでもできないと思ったからね。それがぽっくりといっちまうんだから、拍子抜けだよ。おとといの晩まで商店街の連中とカラオケに行ってたんだ。それが翌朝起きてこないと思ったら、冷たくなっていやがるんだから。ぐっすりとね、眠ったままよ」
ふたばぁは話した。煙草に手をつけることなく。
「ふたばぁは言ってた。春吉さんは、商店街の人の利益を一番に考える人だったって」
そんな春吉にとって、それはふさわしい最期だったのかもしれないと一人は思った。
いろんな問題を置いてきぼりで逃げやがったがなとふたばぁは言ったが、その目は光っていた。
「ふたばぁ、オレ行くよ」
もう一度イチョウの根元まで行ってみると言って、雑貨店を出た。
ふたばぁは証拠が見つかったら戻って来いと言った。もう半ば信じてくれているのだろう。
しかし背負うものが大きい彼女には、簡単に認めることのできない事情もあると考えた。
ラルドもついては来なかった。相変わらず行儀よく構えて、店の前から一人を見送った。
1992年、3月。
世間は2月にフランスはアルベールビルで行われた冬季五輪の余韻に浸っている時期だった。
日本人選手の活躍としてはフィギュアスケートの伊藤みどりが銀メダルを獲得したことがよく挙げられる。
そして、1986年から始まった不動産を中心とする資産価格の急騰によってもたらされた好景気、いわゆるバブル景気が前年の1991年ではじけ、後に「失われた20年」と称される終わりの見えない経済不況の始まりとなった年でもあった。
しかしまだこのころの市場は楽観的だったと言われている。この資産価値低下は急騰の反動を受けた一過性のもので、すぐに好況が復活するだろうという意見が大半を占めていた。
都心の歓楽街にはまだ活気が残され、路上に札束が舞い落ちるという現在では考えられないような金の流れが繰り返される最後の時代。
潤沢な資金を元手として、都市の再開発が活発に行われたのもこの時代であった。しかしこの後、第3セクターをはじめ、資金繰りの焦げ付きで債務不履行に陥る企業や自治体が続出、物価が継続して落ち続けるデフレーションのらせんへと日本が沈んでいくことを、人はまだ知らない。
一人も朝刊の記事に目を通し、テレビで流れる政府の追加金融政策の方針を見ながら、今が1992年であるという実感を深めていった。
「このままでは日本は沈むよ。考えなしに買い漁りおって」
朝食を食べる一人のとなりで、ふたばぁは吐き捨てるように言った。楽観を続ける市場の中にあって、その危機を予見していた英知はやはりさすがと言うほかなかった。
イチョウの大樹の根元に腰をおろして目を閉じて、開いても、見える世界に変化はない。
変化した街の中で、この大樹だけは何一つ変化していないように見える。
葉一つつけない身をわずかな風に乗せてゆらゆらと天に向けて手を振るのみ。
ここにくれば何かわかるような、妙な自信があっただけに、一人は肩をすくめるしかなかった。
いったいなぜ、自分が1992年に来てしまったのか。
長い夢の中に放り込まれてしまったような心地は相変わらずぬぐえないのだけれど、この奇想天外な状況に、何か納得のいく意味を求める。
2013年から、21年も前。自分はもちろん生まれていない。
そうだ、ちょうど父がいるとするなら、自分と同い年なのではないかと気付く。
稲葉ベーカリーがあって、祖父がいるのだ。若き日の父真人やブラックキャッツのメンバーだって、いるに違いない。
会ってみたい気持ちが芽生えた。
でも、ダメだな。
これが本当に1992年の世界だとするなら、自分の一挙手一踏足が、これから起こることを変えてしまうかもしれない。
極端な話、自分が真人の前であなたの息子だなんて言ってみたとしたらどんなふうに未来が変わってしまうのか想像もできなくてぞっとする。
なんとか父と会うことなく、ここから2013年に戻る方法を見つけなければ。
そのためにはやはりふたばぁの協力は不可欠だと思った。何とかして”証拠”を考えてみようかとしたときだった。
一人の足もとに、1球のボールが転がって来た。
「おいまさ兄!どこ投げてんだ!しょっぱなから全力で投げるんじゃねぇよー」
「わーりぃ!」
「すいませ~ん!取ってもらえますかぁ~!」
グラウンドの端に何人かグラブとバットを持った青年が見えた。4人。歳は中学生か高校生か、自分と同じくらいに思った。
キャッチボールの球がそれて一人の足もとまでやってくる。
一人はそれを拾ってすぐさま投げ返す。
びゅんと直線の軌道で投げ返された球は追いかけてきた青年のグラブで威勢のいい音をたてた。
「おぉ、お兄さんやるねぇ!ナイスボール!経験者?」
青年は返ってきたボールの予想外の勢いに驚いている。はて、この青年どこかで見覚えがあると、一人は思った。
「ありがとう!」
青年は足早に青年たちの集まりへと戻っていった。やはりあの背丈もどこかで――
「まさ兄!最初は肩慣らしだろ普通!だからノーコンなんだよ」
「うるせぇ良!商店街のトラブルメーカーに言われたらおしまいだ」
良……良!そうだ思い出した。
武田良か、武田精肉店、考、優、良、三兄弟の末っ子。お調子者の良だ。
精肉店の奥に飾られた写真、三兄弟の中心で乗り出しピースサインをしていた顔とピッタリ一致する。
1992年に来てしまったという確信がついに芽生えた瞬間だった。
ということは――
良がまさ兄と言ったキャッチボールの相手をする彼は――
「父さんか!」
何ということだ、会うまいと決めた矢先に会ってしまうこの偶然は一体どういうめぐりあわせだろう。
遠目でしか分からないが、良のキャッチボールの相手はやはり他の三人に比べて頭一つ分高い。
投げるフォームも洗練された投手のものに思えた。
父さん、若いころの父さんだ。
一人はそのキャッチボールを食い入るように眺めていた。
そこで、受ける良も相当上手いことに気づく。
ノーコンノーコンと父をののしりながら、あさっての方向を向いた球でさえ飛び付いて、楽しそうにしている。
「へいへい、どこだってとりますよノーコンエース!」
やはりどこか敵を作りそうなお調子者だとも納得した。
「良、そのへんにせんと、あとで頭にぶつけられるぞ」
隣にいるのはどうやら優らしい。あの大きな体は相変わらずで、肌も黒い。
彼のキャッチボールの相手は――
「なんでピッチングよりキャッチボールのほうがノーコンなんだよ」
あの苦笑いの仕方は覚えている。光さんだ!
トップバッターオレからな!とわくわくしながら言うのを、ひかる兄は守備したくないだけだろと良にからかわれれている。
みんな、若い。
しばらくすると、4人はグラウンドの中心に移動する。
優がキャッチャーのマスクとプロテクターを装着し、光がバッターボックスに。
良はセンターの辺りまで駆けていって、さぁこい!よしこい!今すぐこい!と飛び跳ねていた。
そして真人は、マウンドだ。
バックネット裏から隠れるようにその光景を見つめる一人は、武者ぶるいにも似た身体のうずきを抑えるのに必死だった。
まさか、父さんの球が見れるのか。
「さぁ行くぞ良!こんなじゃがいもボール、狙うはセンターバックスクリーンだ!」
「おうこいひかる兄!フェンスによじ登ってでも止めてやんよ!」
「バカ!何がじゃがいもだ!三振だ三振!そんなゴボウみたいにひょろっちいバットにかすらせるか!」
「真人、頼むから全力は勘弁してくれんか」
威勢のいい3人に比べて、マスクをかぶる優は腰が引けている。
「頼むぜ優、そんなプロテクターでガチガチに固められると調子狂っちまう。ったく体ばっかでけぇんだから」
真人は肩慣らしに1球投げ込む。それも勢いある快速球だ。優がびくっと体を震わせて、両手で抑える。
すごい、全盛期の稲葉真人を見れる。
一人の胸は高鳴りっぱなしだ。
「やっぱさぁ、ピッチングのほうがコントロールましだよなお前」
「染みついたもんだからな」
「おぉう、痛い……」
1球目、放たれた直球は優が構えたど真ん中のミットにおさまる。
光はそれを平然と見送った。
後ろで優が悶えている。
一人は衝撃だった。15歳そこらで父がこんな速球を投げていたのかと。
バックネット裏からではあったが、直球が放たれたポイントから明らかに浮き上がって来るように見えた。
球の回転で空気を切る音が、一人の耳まで確かに届いていたのだ。
これが、稲嶺の不死鳥、契約金一億円の男か。
そして思った。こんな球を、自分の手で――
「受けてみたい」
2球目、またもど真ん中へとせり上がってくる強烈な球。
それに打席の光は当ててみせた。
「おう、このやろ当てたな」
「毎日のように見てりゃ当たるもんだよパン屋!」
「ふん、最近までかすりもしなかったクセに」
目視、140キロ。自分が知る父の全力投球とその球は似ているが、やはり”活き”が違う。
自分が受けた父の球は、決して超回転をもって迫ってくるような威圧感はなかった。
しかし目の前の稲葉真人にはそれがある。
3球目、またど真ん中へ直球。そこから浮き上がった球は光の肩辺りの高さへ迫った。
迷わず振り抜いたバットに球がかすって、そのまま優のかぶるマスクに直撃した。
「うぉっ!」
マスクが後ろへ吹っ飛んでボールも転がる。
「おいおい優、大丈夫かよ」
真人がマウンドを降りて声をかける。
「だから本気でなげるなと……言うとろうが」
幸い痛みはないようだが衝撃は相当のようで、優はしゃがんだまま目を抑えて首をぶんぶんと振る。
だらしないぞゆう兄!と外野から声が飛んで、ならお前が受けろと言うとお調子者はそっぽを向く。
確かにあの直球のファウルチップは捕球するのはおろか、避けるのすら難しい。
こんな球を満足に受けられるキャッチャーがいたのだろうか。
「しょうがないな」
4球目は先ほどまでの勢いはない直球だった。それでも速いものは速いが。
優はなんとか捕球するが、ボール。
5球目も同じ様な球だったが、
「よっしゃあ!」
その球を光は良の待つセンターへ向かってかっ飛ばした。
「ひかる兄!でかすぎ!」
打球は良の遥か頭上、柵の向こうへと消えていった。
「みたかパン屋!初ホームランだ!」
光が得意げにガッツポーズしながらダイヤモンドを一周する。
実はこの秋山光、彼も後に高校通算42本のホームランを放つスラッガーへと成長することになる選手だ。この飛距離にも頷ける。
「優!お前が全力を捕れないせいだぞ!」
「す、すまん」
一方の真人は子どものように悔しがり、優は肩をすくめて小さくなる。
確かに、真人の全力投球であれば打たれていないはずだった。
光に代わって良が外野から戻って来る。
その間も、真人と優は投球練習をしながらこれくらいならいけるか、いやまだちょっと速いと、速度の微調整をしている。
その1球1球に引きつけられ、一人は震えが止まらない。
それと同時に、自分なら、自分ならもっと上手く受けられるのにという思いが足を突き動かしそうなのをこらえた。
ここで父に会ってしまったりなんかしたら、この後の未来がどうなるか――
「あれぇ、お兄さんまだいたの?」
隣でかけられた声に一人はぎょっとした。
短髪の髪にくりっとした目をもつお調子者は気配なく一人の隣までやって来て声をかけているのだ。
父の投球に集中し過ぎて全く気がつかなかった。
「うわっ、どうして」
「お兄さん、やっぱ経験者でしょ。なんかさっきから目つき違うもん」
「いや、そんなことは――」
「どうせだからさ、一緒にやらない?」
「え?」
「だから、やろうよ一緒に。お兄さんポジションは?」
「いやその、オレは――」
まずい、これは本格的にまずい。意表を突かれて頭が回らない。
「良、何やってんだー、始めるぞー」
「ちょっと待って!このお兄さんが一緒にやりたいって」
「いや、ちょっ」
言ってない、言ってないぞ断じて!
一人は良に手を引かれ、ほとんど強引にグラウンドへ引きずり出されてしまった。
4人の視線が一人に集まって、いよいよ引き下がれない。
もう、こうなったら破れかぶれだ!
「見ない顔だな、どこ守れるんだ?」
尋ねたのは真人だった。極力目を合わせないように答える。
「キャっ、キャッチヤーを、少し」
少しってなんだ。趣味じゃないんだからと思うものの言葉が思うように出なかった。
「キャッチャー?ほんとかよ!やったぜ、じゃあ受けてくれ」
真人はその言葉を待っていたと言わんばかりに喜んでいた。
その喜びように一人は後ろめたさもあったが同時に興奮していた。
受けられるんだ、父の球を。
「おいおい真人の球だぞ、そんなすぐに受けられるわけが――」
光の言うとおり、投球練習の1球目、全力で放たれた剛速球は、一人のミットの上をはじいた。
しかし、はじいたのはこの一回きりであった。
「わかった、もう一度」
怯えるそぶりなど、微塵もない。
超回転でホップしながら浮き上がる球の軌道を理解した一人は、もう一度同じ球を要求した。
「おいおいやめとけって、そんなすぐに目が慣れないって――」
ズシンと身体に電流を走らせる2球目を、一人はしっかりと受け止めた。
左手一本で。
響き渡る快音が波打たせるように、グラウンドの砂が辺りを舞う。
一人は、マウンドのエースから目を反らさない。
その口元からは笑みがこぼれた。
これだ。これこそ――
オレの待ち望んだ球だ。
「う、受けおった……」
ぽっとあらわれた見知らぬ青年が、自分たちの舌を巻く剛速球をいとも簡単に抑えてみせる光景を前に、優と光はお互い顔を見合わせて言葉を失う。
「お兄さん、すげぇ!すげぇよ!」
バットをもったままはしゃぐ良も興奮している。
しかし何より興奮しているのはマウンド上の男だろう。
真人は何度も何度もミットめがけて全力で投げる。
その全てを、目の前の見知らぬ捕手はミットに吸い寄せるように捕球してくれるのだから。
「良!打席に入れ!」
興奮を抑えきれない真人は良を急かした。
やってしまった。そんな思いもどこかにある。
しかし、ずっと抑え続けた剛速球を受けとめる快感を前に、一人の理性では歯止めがきかない。
自分も相当な野球バカであることを、実感していた。
一人はのちに知る話であるが、この4人が所属していた稲嶺中学は、当時の県大会決勝の常連である。
エース真人を筆頭に、スラッガー光と優、そしてマルチプレイヤー良を擁する稲嶺中学は、界隈ではちょっとした強豪校だった。
真人のこの剛速球をもってすればもっと上に行ける、そのはずであったが、真人の全力投球を7回通して受け切れる捕手が稲嶺にはいなかった。(中学軟式は7回制)
だからここぞという時以外、リミッターを外すことを禁じられるというまさに林原との試合のような芸当を昔もしていたのだ。
さらにコントロールの定まらない荒れ球なのだから、打たれなくても負けるというのはしばしばだった。
その荒れ球を、一人はこともなげに軽々とさばいていく。
「ふぅ~、速いねまさ兄!」
2年生でありながらチーム首位打者を記録した良でさえ、真人の全力投球に当てることは難しい。
インコースに絶妙な直球が差し込まれたってなぜか自分が三振をとったかのような喜びようをする。
「お前が喜んでどうする!」
代わって優が打席に入る。優に対しては苦手と思われるインコースをばしばしと攻める。
やはりむかしから自分の体に近い球が苦手のようだ。完全に腰が引けている。
バッテリーは優からも簡単に見逃し三振を奪った。
「こい光!こんどこそかすらせねぇ!」
「キャッチャーが球とれるくらいでいい気になってんじゃねぇよ」
光が二度目の左打席に入った。
一人は外角いっぱいに構えると、ミットめがけて速球が飛びこんでる。
光のスイング、タイミングこそピッタリであったが、ホップした球はバットの上をハードルのように飛び越えていく。
豪快な空振りを奪った。
「くっそ、なんでだ!」
タイミングは完璧なはずなのに。というのが打者の心理だ。
頭の中ではインパクトした打球は鋭い角度でスタンドめがけて一直線に飛んでいくはずだというのに、現実はミットの手中。
打者は打てない理由の見当がつかない。
それゆえに打ち急ぎ、振り急ぐ。
2球目も同じコースの球だというのに、光のバットは空を切る。
球の軌道に目が慣れていたとしても、手元でバットをすり抜ける直球は体の反応が追いついてはくれない。
勝負は3球で十分だ。
一人は光の胸元の高さへ中腰になって構えた。
放たれた直球はそれよりはるか上に伸びあがって風をきる。
はたから見れば完全な悪球でも光のバットは自然と始動してしまった。
「いったろ光、かすらせもしないってな!」
父は得意げに右の親指を立てた。
「ちくしょう!なんで!」
光はバットを地面に叩きつける。
「せっかく真人を打てると思ったのに、また振り出しかよ」
「俺が本気になればこんなもんよ!」
「見てろよ、絶対に打ち崩してやる!」
意気揚々とする真人に対し、光は闘志を燃やしている。
なるほど、こうやって長いこと真人の球を空振りし続け、挫折してきたことが光の力を伸ばしたのか。
「仲良くすればいいのに~。だからってわざわざ違う高校行くことないじゃん」
良は他人事のように軽口を叩く。そうか、こういう経緯があって光は真人たちと道を分つことになったのか。
エース真人に、この光の力が加わわれば確かに甲子園への道はもっと近いところにあったかもしれない。
しかし光は、高校で真人と手を取り合うことではなく、お互いに戦うことを選んだ。
一番近いところであの球と接していれば、そう思い立つようになることもわかると一人は思った。
それはきっと、自分が真人の球を受けたくて受けたくてたまらないと感じた衝動と、同じなのだから。
「いやぁ、しかし驚いたな。すぐ取っちまうんだから。こんなの初めてだ」
真人がマウンドを降りて自分の方へ近づいてくるのを見て、一人はようやく我に返った。
しまった。球の魅力に取りつかれたあまりに取り返しのつかないことを――
急に緊張が一人の胸を締め付け始めた。マスクが取れない。
「えっと、名前は?どこ中?このへんの奴じゃないよな」
きた、ついにきた。このまま名乗らずに逃げるか、いやそんなこと名乗るより怪しい。
どうする。本名を言うわけにもいかない。
「どっか他の県のやり手じゃろ、こんな上手いキャッチング、見たことないぞ」
そう、他の県の、県の、どこの県のどこの中学だ、とっさにウソが浮かばない。
まずいまずいまずいまずい。
胸の鼓動がきいたことのない速さで脈打ち、眉間がしびれていく。
「オレは、オレはその――」
明らかなウソを吐くか、いっそ本当のことを話してらくになろうか、そんな狭間で口をパクパクとさせているときだった。
「そいつは矢野一人、アメリカ帰りの私の孫だ」
この窮地を彼女に救われるとは思わなかった。
「ふたばぁ!」
グラウンドのすみから姿を現したのはふたばぁと、その足元につき従うラルドだった。
「姿が見えないと思ったらこんなところで球遊びをしておったかバカ孫め」
これは一体どういうことだ。
「孫?こいつがふたばぁの孫って、ふたばぁ孫いたの?」
「きかれもせんのに答える義務はあるまい」
4人の驚きよう以上に、混乱しているのは孫と言われた一人本人だった。
「えっと、矢野、一人っていいます。よろしく」
一瞬では事情を飲みこめないものの、まずはこの場を脱するためにふたばぁに調子を合わせた。
しかし合わせた調子をふたばぁはさらにぶっ飛んだ方向へと向ける。
「まさ坊、ゆう坊、この春からウチの孫もお前らと一緒に稲嶺高校に行くことになる。まぁせいぜい仲良くな」
「まじかよ、じゃあこんな良いキャッチャーとバッテリー組めるのか!」
呆然とする一人の隣で、真人ははしゃぐ。
「よろしくな、カズ!目指すは甲子園!全国の頂点だ!」
一人の手をとってぶんぶんと勝手に握手をする父の手は自分の知るそれよりまだ小さい。
あ、あぁよろしくと魂のこもらない様子で返す一人をよそに、若き父の笑顔がまぶしかった。
そして未来の父と、目の前の父が同じ様に自分のことを『カズ』と呼ぶことが一人は不思議で、嬉しかった。
二人の物語はここから始まる。