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ハイライト  作者: にしおかナオ
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3.黒猫の意地


稲嶺ブラックキャッツ

1.セカンド   香川翼(香川鮮魚店)

2.ライト    井上道(喫茶ハイライト)

3.センター   坂本丈二 (バーハイライト)

4.キャッチャー 秋山光(秋山商店)

5.ファースト  武田優(武田精肉店)

6.ショート   岸本 (岸本文具店)

7.レフト    深川 (カギの深川)

8.サード    山田 (山田家具)

9.ピッチャー  稲葉真人(稲葉ベーカリー)





「まさかこれが最後になってしまうとはなぁ。残念でなりませんわ」


「時代の流れってやつですかね、最近は手痛くやられてますが、今日は勝たせてもらいますよ」


「はっはっは、やる気ですな。一つお手柔らかに頼みますよ」


あごひげを生やした屈強そうな男が真人と親しげに話している。この男が林原の捕手、有馬圭司だ。


その後ろで林原重工のメンバーが続々とバスから降り、アップを開始している。


キャッチボール一つ見ていても選手層の厚みが分かる。送球はもちろんのこと、掴んでから投げ返すまでの動作が速い。


一人は要注意として挙げたショート、田村を見遣る。


さすが実力ある集団のなかでも彼の動きは目立つ。ひとりさくさくとアップをこなし、先に監督のノックを受けている。


左右に打ち分けられるゴロを瞬時に回り込んで柔らかくグラブで包み込んでさばく。なるほど、やはり上手い。


一方のブラックキャッツは、守備が得意な翼、道、丈二は別として比べるとその動きがかなり鈍い。


特にサード、ショート、レフトを守るメンバーをはじめ、稲嶺の黄金世代ではない者たちは完全に草野球のレベルにある。


年齢こそ真人たちより若いが、ほとんどが運動不足の体を動かすため、健康管理の一環として参加しているにすぎない程度なのだ。


野球がしたくて入社するものもいる林原重工とは埋まらない差があるのも当然だろう。




「あっちからすりゃ、お遊びに付き合ってる感覚なんだろうな」


真人が有馬からメンバー表をもらって帰ってきた。


真人が面白くなさそうな顔をしているわけは相手のメンバー表にあった。


投手の欄にエース木島の名前がない。あるのは有馬と同期入社のベテラン投手、前田の名前だった。


それだけではない。スターティングメンバーには旬を過ぎたベテランと一人も聞いたことのない若手の名前が並んでいて、主力は有馬と、ショートの田村だけだ。


林原サイドとしては、ブラックキャッツ最後の試合に花を添えるために同世代の選手で固めた粋なはからいのつもりだろうが、真人からすれば‘一軍‘を叩かなければ意味がない。


のっけから拍子抜けを食らった格好だ。


一人も同感だった。確かにこれなら思っていたよりも勝てる可能性は高いかもしれないが、ふたばぁがこんな茶番を認めるとは思えない。


何としても主力を引きずり出さなければ。


一人は真人、光のバッテリーと共にブルペンへ向かった。


それまでこちらのエースには踏ん張ってもらう必要がある。バッテリーに関しては父の調子次第で作戦を決めるつもりだった。


真人の調子はここ何年かの衰えを忘れさせる出来栄えだった。


「うそっ」


全力の一球目を受けた光とかたわらの一人は声を合わせて真人の投球を疑った。


ここ最近お目にかかれなかった快速球である。目視ではあるが130キロ後半、いや140も出ていそうだ。


「おい真人、なんだよこれ」


光はまるで自分が打席に立っているかのように焦る。


いつも通りの投球だと思って構えた彼にとって、この思いがけない速球は捕るのがやっとのものだった。


加えてもともと捕手が本職ではないのだから無理もない。


「へっへっへ、見たか!」


どうだと言わんばかりにぐっと親指を突き立て笑う父がまるで子どものように一人の目には映る。


聞くまでもなく、この日に照準を合わせて体の鍛え直しをはかっていたのだろう。


そういえば配達から帰るのが遅くなるのもしばしばだったと思い返す。


真人の勝つという言葉もはったりではなく、確信をもった言葉だった。


自分の実力を悲観することなく勝てる可能性を自分なりに見出した結果を一人はその一球に見た。


真人は繰り返し速球を飛ばして肩をつくり、それを受ける光はひーひーと焦りを漏らす。しかし――


「待った」



「父さんその球、絶対投げるな」


「何言ってるんだカズ!オレがこの日の為にどんな思いでここまで仕上げたと――」


「だからだよ父さん」


真剣に考えて、今の父の直球の威力であれば確かに林原重工の打線といえどもそう簡単に打ち返すことはできないだろう。


しかし回を重ねれば目が慣れて、確実にタイミングを合わせてくる。しかもそれはまだベストメンバーではないのだ。


「そのストレートは相手のレギュラーを引っ張り出すまでとっておこう。7割の力で投げること。それまではうちの守備と、打線を信じるんだ。いいね?」


真人は納得のいかないような渋い顔をしたが、自分から息子に采配を頼んだ手前、無視するわけにもいかない。それに、


「こんなにブルペンで思い切り投げ込んだら疲れるし、相手の選手に気づかれるぞ」


林原のベンチ前では、素振りを始めている選手がちらほらと見える。


このまま相手のベンチまでミットのばちんという音を響かせて、無駄に速球の活きのよさを披露すれば、ここぞとばかりにこちらの投球練習に合わせてバットを振ってくるに違いなかった。


「今はとにかく、旬を過ぎた元高校野球のスターを演じるんだ。本気出すのは、あっちが本気出してからでいい。あと、多分光さんが痛がってる」


一人がキャッチャーミットを外して赤く腫れたてをふぅふぅと冷ましている光を指さして言うと、真人は仕方ねぇなと苦笑した。


まもなく、試合開始。



「真人くーん、しっかりねー!」


「つばさぁーしっかり足で稼ぎなさいよー!」


母の絵里と、翼の妻弘美の二人がバックネット裏で大きな声援を送っている。


商店街の仲良し看板娘二人は、ブラックキャッツの試合となると途端に若さを取り戻す。


恥ずかしそうにマウンドで帽子を深くかぶり直す真人と、グラブをぶんぶんと振り回したり、飛び跳ねて体を温める翼が対照的でおかしい。


そして何より、一人はこうやって監督のようにベンチの最前線で乗り出しながら腕を組む自分の姿がおかしい。


「かずとー!あなたもちゃんと指示出すのよー」


なるほど、父が帽子を深くかぶりたくなる理由がわかる気がした。


黒を基調として、首元やロゴ、背番号に赤が使われている稲嶺のユニフォームはさながら、赤い首輪をつけた黒猫だ。


昔商店街に出入りしていた一匹の黒猫がモデルになったと母から聞いたことがある。


この可愛らしくも品のあるユニフォームを、見納めにはさせない。


ネット裏には相当な数の見物客が集まっている。


これでブラックキャッツも見納めだと言う者も、林原重工の野球を来た者も、今日のこれから起こることを予想できる者などこの中にはいないだろう。


一人はひとりで、商店街の運命をひっくり返そうとしているのだ。


「プレイボーール!」


審判の掛け声と同時に、バックネット裏最前列に陣取ったふたばぁと目が合う。一人の采配を値踏みするかのような視線に思わず彼は目を反らしてグラウンドを見た。


「ストライーク!」


右打席に入った相手の若手一番打者への第一球は、バッターから遠いアウトコースぎりぎりに決まった。


真人の直球は遅いとも速いとも言えない。


ここ最近見慣れた打ちごろの球だ。


光が手を傷めることがないのを安心したかのように「ナイスピッチィ!」と野菜を売り込むのと同じ様に威勢の良い声で叫んでミットを鳴らす。


「ストライクツー!」


二球目もまったく同じコースに決める。


そうだナイスボールピッチャーー!という光の声に急かされて審判がストライクのコールをしているようなぎりぎりのコース。


真人も7分の力だからか、とてもラクに投げているように思える。


初回から光が構えた場所めがけてボールがおさまるのは珍しい。


「ストライーク!バッターアウッ!」


先頭打者との勝負はなんと三球で決まった。


先ほどの二球よりもボール一個分外に外れたボール球を、誘い出された打者が中途半端に空振った。


ボール一個分の判断が遅い。


「真人くんさっすがぁ!」


「つばさぁ!次は飛ぶよー!」


いきなりの三球三振にバックネット裏が騒がしい。


もう勝ってしまったかのようなお祭り騒ぎが聞こえる。


やれやれこの勢いが九回まで持ってほしいものだと一人は頭をかいた。


「でも、計画通り」


同じく右打席に入った二番打者は初球からガンガンとタイミングを合わせてきた。


全ての球をアウトコースの、ストライクが入るか入らないかの場所に集めるバッテリーを相手に、腕を伸ばし、何とかバットの先ではなく芯に当てようとしてくる。


1球目、2球目とファウルボールがバックネットに飛んでガシンと音を立てると見物客が騒ぐ。


3、4球目と外に明らかに外れるボールを見送ったあと、5球目で一塁方向に一番当たりの良いファウルを飛ばした。ここまで全て、直球。


6球目、一人がベンチからサインを出した。サインは帽子をとって頭をかくと決めてある。


真人が投じたのは同じストライクゾーンぎりぎりへの直球、ではなくスライダーだ。


打者の目からは直球だ!と決めてバットを振り始めた途端に横へグイっと曲がり、ストライクゾーンからボールが逃げていくように見える、変化球。


芯で捉えたはずのボールはバットの先っぽにコツンと当たるだけ。ぼてぼてのセカンドゴロ。


「待ってましたぁ!」


バットにインパクトした瞬間にスタートを切ったセカンドの翼が前へと駆け出してあっという間にボールを処理し、ファーストの優へと送球してツーアウトをとった。


「翼カッコイイ!」


夫の出番に妻の弘美がエキサイトしている。そのはしゃぎようは女子高生にも負けていない。


計画通りにツーアウトをとって、一人はひとまず胸をなでおろす。しかしやっかいなのは次だ。


左の打席に入って素振りをするリーディングヒッター田村のそれは、明らかに先ほどの二人のモノとは違う。


まだベストメンバーがそろっていないとはいえ、とにかくこの田村と、次の四番に控える有馬を抑えなければ、こちらに勝機はない。


さぁ、勝負だ。








「じゃあ、ずっとアウトコースぎりぎりだけ構えてろってか?」


試合直前、光がまだひりひりと痛む左手を振って冷ましながら一人に尋ねた。


「そう。とにかく外角にだけ絞って投げるのが得策だと思うんだ。林原は右打者が多い。外側のボールに合わせて打たせれば打球は翼さんか優さん、最悪でも道さんが止めてくれる。」


「確かに、引っ張られたときのことは想像したくないな」


真人が頷いて言った。右打者に打球を引っ張られると、守っているサード、ショート、レフトはいずれも経験の浅い”草野球”のメンツだ。


強敵が相手でないときでも簡単なゴロやフライもとりこぼすことがある。


強烈な打球を食らえば正面でもとれないだろうし、最悪外野を抜けてランニングホームランを量産されることだって頭をよぎってぞっとする。


「まぁ魚屋なら食らいつくだろうな、目立つの好きだし。」


「光さんもバッティングばっかりで目立とうとしないで、もっと守備練習しなよ」


「じゃがいもと玉ねぎをかごに速くさばくのなら得意なんだがなぁ」


一方で右打者が流しうちをする方向であるファースト優、セカンド翼、ライト道は強い打球に慣れている。


とりわけ後者二人は足も速い。それに流しうちを集中させれば打球の勢いを殺すこともできる。だが、


「アウトコース攻めてストライクが取れるか?お前だって知ってるだろ俺のコントロールは」


外攻めはコントロールの悪い投手であれば明らかなボール球が増えて打者が勝負してこないリスクもある。


「全力で投げない間くらいは頑張ってよ。勝てないよ?」


勝つという言葉が魔法のように真人を奮い立たせる。事実、立ち上がりは完璧に近い制球力なのだから。


田村にももちろん、アウトコースぎりぎりで攻める。


左打者であるため、どうすると真人がベンチの一人に視線を送ったが、続行とばかりに一人は一つ頷いただけだ。


攻めなければと緊張したのか、真人は最初の1、2球とも明らかに外へ外れる球でボール。


2球目は余りに外で光が横跳びしながら抑えた。


田村はこれを、逃げと読むか。


3球目にようやく外角にストライクが入った。


バシンと乾いた音が響いてバックネットから安堵の拍手が聞こえる。


田村は全く振るそぶりを見せず見送った。


4球目、また大きくストライクゾーンを外れる。


今度は審判の目線めがけて直球が飛んできて、ボランティアの審判は慌てて伏せた。


おいおいさっきまでの好投はどこに行った。


強打者相手に慣れない頭脳戦で、完全にテンパり気味の父をみて一人は苦笑する。


昔からの癖なのか、彼はどうしても強打者を意識する。


内心本気で投げ込みたくてうずうずしているのだろうということがベンチまで伝わって来る。


カウント3ボール1ストライク。ここはフォアボールでもって盗塁されても仕方がないかと思った矢先だった。


やっとのことで入ったと思った外ぎりぎりのストライクボールを田村は真芯で捉えた!

ガシンという金属バットの快音が響いて、あっと一人は思わず声を漏らす。


田村が外のボールを無理やり引っ張って放った強烈なライナー性の打球はファーストとセカンドの間を抜けライトを襲う。


これはさすがにヒットだと思ったとき――


打球めがけてダイレクトに飛びこむ選手がいる。井上道だ!


道のスタートは早かった。


アウトコース攻めを見て浅く守っていたのも幸いしたが、打球がインパクトするより前、田村のバットの振り始めからこちらへ飛んでくることを予測して前へ駆け出していた。


案の定、普通であればライトの前に落ちるクリーンヒットとなるところを、間一髪で飛び込んでダイレクトキャッチを決めた。


「道くんすごい!」


「道さーん!ナイスプレイ!」


バックネットでマスター道目当ての奥様方が大歓声を上げた。


先ほどの翼のときの歓声が比較にならない。弘美も先ほど同様にエキサイトしている。


一人はヒットと確信していたであろう田村を凝視する。


すると、遠目ではあるが悔しがるどころか笑っているように見えた。


外の球を無理やり引っ張ってあそこまで強烈に打ち返すのは一人も予想外だった。


「道ナイス!」


「おいみっちー、俺よりおいしいところ持ってくんじゃねぇよ」


スリーアウトでベンチに引き返し、みんなが道をたたえる中で翼だけが面白くなさそうにひがんだ。


ごめんねと道はユニフォームについた土を払いながら笑う。


いつもはきれいな頬につく砂が彼の懸命さを際立たせた。


林原からすれば初回を三人で切られたのは相手の運が良かっただけと思うだろうがそうではない。稲嶺は勝つべくして抑えたのだった。


1回のウラ、ブラックキャッツの攻撃は予想に反して怒涛のものだった。


1番翼がいきなり初球をセンター前にはじき返してヒット。


2番道がこれまた初球にしっかりと送りバントを決めて1アウト、ランナー二塁。


そして3番の丈二が真ん中に甘く入った4球目の直球を真芯で捉えた。


打球は浅く守っていたレフトの頭を越えるタイムリーツーベース。


ブラックキャッツはわずか6球で1点を先制して見せる。


まだ勢いは止まらない。


4番の光、5番の優が連続でタイムリーをかっ飛ばし、さらに2点を追加して押せ押せムードが漂う。


バックネット裏のお祭り騒ぎはベンチの中にも伝染して、飲み会の席のような異様な盛り上がりを見せる中、一人だけが冷静だった。


捕手の有馬が、投手の前田に一つもサインを出さない。何だ?鼻からやる気がないのか?


ストライクと言えばど真ん中、ボールは明らかなボール球。これじゃどっちが草野球かわからない。


そもそもこの前田という投手も完全に旬を過ぎた選手だ。


真人たちと同年代とはいえ、ここ最近ほとんど実践などなかったのだろう。


直球にノビはなくほとんど山なりになりかけている。


それなのに全くバッテリーに焦るそぶりはない。淡々と投げているといった感じだ。


ブラックキャッツは7、8番とボール球に手を出して凡退し、結局押せ押せは3点だったが、普通なら流れを考えても大きなリードだ。


しかし林原は完全にその流れをどうぞとばかりに差し出すようなプレイをしている。おかしい。


「やはり、なめられているようだな」


腕を組んで難しい顔をする一人の横に立って声をかけたのは丈二だった。


「やっぱり思いますか、さっきの打席、どうでした?」


「あれはひどい。打ってくださいと目の前にボールを差し出されたようなものだ。バッティングマシンだってもう少し骨のある球を投げる」


「ハンディキャップか何かですかね」


「それもある。本意は格好の遊び相手ってとこだろうが」


「なら洒落にならないところまで追い込んで、本隊をひきずり出すまでですよ」


メンバーが勢いよく守備に飛び出していく。リードを得たナインの威勢はさきほどにも増して盛んだ。


しかしそうなのだ。林原からすればこれは遊びだ。わざわざウチの引退試合に付き合ってやっているという感覚なのだから、勝敗なんて大した意味もない。


翼がセカンドの守備位置から林原なんざ大したことねぇ!と挑発めいたことを叫んでいるが、今はその子どもっぽい挑発にでも乗ってくれないかと祈るばかりだ。


2回の表、打順は4番有馬から。




相変わらず狙うのはアウトコースぎりぎり。一球目はストライク。


「やけに逃げ腰じゃないか」


右打席に入った有馬が、マスクをかぶった光に言う。


「作戦ってやつだ。うちにも優秀な指揮官がいるんでね」


「指揮官?あぁ、あのガキか。稲葉がさっきからちらちらベンチ見てるから良く分かるよ」


2球目と3球目、外に明らかなボール球。カウント2-1


「次も外だろ?芸がない」


有馬の言った通り、外のストライクゾーンに直球が来る。


有馬はフルスイングで当てて見せた。強烈なゴロが一塁線をスピンしながらフェンスに切れていく。


おいおいマジかよと光は内心肝を冷やし、真人も一瞬やられたと体をこわばらせる快音がグラウンドに響いた。


「お、おいおい旦那、そういう軽口は前に飛ばしてからにしなよ」


「今にわかるわ、八百屋の大将。次は外に逃げるスライダーだな」


光は絶句してはめたミットを落としそうになる。読まれている。


宣言通り、ストライクゾーンからボールゾーンへ逃げていくスライダーが有馬の前を通過する。彼はピクリとも動かなかった。


カウント、3ボール2ストライク。


「あのガキに言っとけ、頭をかくなんてサイン古典的すぎて一回と持たないとな。中学生の野球なら別だが」


光はというとハハッと愛想笑いを浮かべるしかない。


「それはそうと旦那、ちょっと腹が出てきたんじゃないか?肉ばっか食ってるとあそこの一塁手みたいになっちまうぞ。ウチのゴボウとキャベツもらってけよ」


光も動揺で自分で何をいってるのか分からない。


6球目、この球も外角に決まるはずだった。しかし、真人の悪い癖が出る。



真人、光、一人が皆一様にしまった!と心の中で叫ぶ。フルカウントから何とか三振を取ろうと焦った結果投じた直球はあろうことかど真ん中だった。


インパクトしたというより、しばき倒したといった方がしっくりくるほどの轟音と共に鋭い打球はレフトの遥かかなたに消えた。


あまりにも完璧な打球にグラウンド全体が静まり返ったあと、各所からどよめきが起こる中で有馬がダイヤモンドを一周した。


「あぁ、もらって帰ろう。戦利品の味は格別だろうからな」


ホームベースを踏んだ有馬は光の耳元でそう言ってベンチへ戻った。


「ウチのメタボな一塁手とは格が違うってわけだ」


これで、3対1。


ベンチの一人も、サインが読まれていることには気づいた。やはり一筋縄ではいかないか。


追いつこうと思えばいつでも追いつける。そんな陰湿なメッセージが込められた一発だった。


残りの後続は三人で切ったが、先ほどまでのお祭りムードは完全に断ち切られてしまった。


証拠に、1回あれだけ勢いよく攻めた打線は以降沈黙した。


2回、3回、4回と、ランナーは出るもののチャンスでショートの田村のところにボールが飛んで華麗なダブルプレーを二度も決められたら、士気も下がる。




これも偶然ではない。


キャッチャー有馬のリードによってみんな彼の思ったところ打たされている。


打てない球では決してないはずなのに、内野ゴロの山を築かれて、先ほどまであんなににぎわっていたバックネットも静まってしまった。


「おかしいよね、勝ってるのにね」


バックネットうらで観戦していた絵里がつぶやくように言った。


そうだ。まだ真人は何とか踏ん張りを見せている。


あのあと田村にセンター前にヒットを打たれ、続けて有馬にも三塁線を破られるタイムリーを浴びて1点を追加されたが、まだ3対2でリードは稲嶺なのだ。


「流れが悪い」


一人もベンチでひとりつぶやく。野球とは流れのスポーツだというのはよく言われてきたことである。


たとえ一方が大量にリードしていたとしても、一つのミス、一つの好プレイで待ち構える未来が大きく変わってしまうもので、リードしているチームの士気が追う側のそれに比べて大きく劣る場面と言うのは非常に危険だ。


一人の頭の中では、もう自分たちは林原の、いや有馬の術中にあるという思いがぬぐえない。


この流れを断ち切るカードを一人は2枚持っている。しかし次は五回だ。まだその1枚を切るには早いし、もう1枚はできれば使いたくない。


しかし林原の動きは早かった。8番打者から始まる攻撃でついに代打がコールされる。


出てきたのはベストメンバーのひとりだ。そしてネクストにはエースの木島がバットを持って控えていた。


「お出ましか」




この回の林原の攻撃で、一人は大きな思い違いをしていたことに気づかされた。


それはこの回に木島のタイムリーでランナーがひとり生還し、同点に追い付かれた瞬間だった。


彼ら林原重工は、決してブラックキャッツの引退試合に花を添えに来たわけではないということ。


そして、だからといって真剣に勝負をする気もなかったということ。


彼らは序盤に点を献上して真人たちのぬか喜びを誘い、一転地獄に叩きおとすという手法を狙っているということだ。


信じたくない話ではあるが、彼らは長年戦った年老いた黒猫を最後に嘲笑うために来たのだ。


8番、9番、1番と代打でベストメンバーが登場してくる。


そしてその誰もが外野に勢いある打球を飛ばすのだ。先ほどまでの彼らの拙攻は何だったのか。


寝ぼけてふらついていた獣が、一転意識を取り戻して一気呵成に襲いかかって来るように。


3対3の同点。ランナーは1塁3塁。

2番打者にも代打が送られ、先ほどまでとは明らかにスイングのスピードが違うレギュラーが打席に立つ。


こうなると真人がしきりにベンチの一人に視線を送る。もう投げさせろ、そう訴えている。


しかしまだ五回だ。ここでカードを切ってしまえば、終盤まで真人のスタミナがもたないというリスクもある。


それでも父の力押しの性格からして、これ以上抜いた力で痛打を食らうのは我慢の限界だろうと覚悟を決めた。


一人がうなずくと、真人はニカリと笑った。


先ほどまでとは明らかに違う、ずどんと何か分厚い板が破られたような音が、グラウンドに響き渡った。


バックネット裏も、林原のベンチも、稲嶺のベンチすらも静まり返って、イチョウの木が風に揺れて鳴く音だけがこだます。


ご神木が、エースの再来に歓喜しているかのようだった。


「いってっー」


速球をなんとか両手で受けとめた光が小さくうめくと、ハッとしたように審判がストライクをコールしてグラウンドがざわめいた。


一人の目視で、140キロ半ば。おいおいブルペンより速いじゃないか。


初回から溜まったうっぷんをぶつけるかのように、真人は投げた。とんでもないボール球でも光が何とか食らいついて止める。


打者は1球目の轟音を聞いてからもう体が縮こまって、全くバットを前に出すことができない。


ずどん、ずどん、ずどん。コースでたらめの圧倒的な集中砲火で見逃し三振を奪った。


あまりの勢いにバックネットも声援を忘れて息を飲んでいる。


真人は光に向けてぐいと右手親指を立てた。


光も苦笑いで左手を冷ましながら返す。


稲嶺の不死鳥、ここに見参。







「相変わらず負けず嫌いなんだよね、真人くんは」


バックネット裏、最前列で腕を組みながら試合を静観しているふたばぁの隣に、絵里が腰かけて言った。


「勝ちたいと思うことはいいことさ。その気持ちなくして成長はない」


「それは商売人としてってことでしょ」


「勝負の世界では同じことだよ絵里、あんたはあいつのそういうまっすぐなところに惚れたんだろう」


「やめてよふたばぁ、恥ずかしいなぁ」


目線をバッテリーから反らすことなく話すふたばぁに、絵里が一冊の本を手渡す。


「これありがとう、もっと難しいと思ってたけど、面白かったよ」


手渡した本は「中堅都市開発に見る現代日本の経済成長とその展望」という何とも堅苦しいタイトルの本だ。


「そうか、しかしなんであんたがこんな本を読んでまで学ぶ必要がある。一介のパン屋の嫁が経済の波を動かせるとでも思ってるのかい」


「なにかしなくちゃと思って。大好きな街が消えていくのに、それを何も知らずに黙って見てるのって違うと思うの。せめてどうしてこうなってるのか、理由だけでも知ってれば、心持ちラクかなって」


絵里がふたばぁに本を借りるのは高校時代からのことだ。ふたばぁ図書館の蔵書は彼女にとって興味深いものばかりだった。


「家族そろって往生際の悪いことだ」


ふたばぁは皮肉ったが、その口元には笑みがこぼれている。


打席では、真人と田村が対峙している。真人の全力投球に、さすがの田村もバットに当てるのが精いっぱいという感じだ。



「もし――」


ふたばぁがつぶやくように言う。


「絵里、あんたは一億円と引き換えにパン屋を売れと言われたら、売るかい?」


「なに?突然」


「売るかい?」


「売らない。売るわけ、ないよ」


即答だった。


「そうかい、あんたには愚問だったか。しかしね、この質問をここを立ち退きたいと言った奴らにしたら、喜んで売りたいと言ったよ。今すぐにでもと」


「……そう」


ネットの向こう側で、真人は速球を投げ込む。田村に粘りに粘られた11球目、ど真ん中の球にバットはついに空を切った。


マウンドでウォーと雄たけびをあげた真人に、観客は再び沸き上がる。これで、ツーアウト。


「この街のみなが、お前たち家族のように強ければと思うよ」


そしてふたばぁはこうも付け加えた。


「絵里、あんたは賢い。あんたにだけは話しておこう」



グラウンドはいつの間にか四方からの照明に照らされて、選手ひとりに四つの影を落としている。


その中でもひと際躍動するマウンド上の影は、四つそれぞれが力を放っているかのようなキレを見せている。


真人は一球一球放つ瞬間にエイヤァ!と叫ぶ。この叫びも、全盛期の名物だった。


スタンドのファンが真人のリリースと共に叫んで、球場の一体感が増していくのがわかった。


打席の有馬が、一方的に押されている。


「売るのはこのグラウンドではなく、商店街になるはずだったんだ」


叫びが支配するスタンドの中で、絵里の心を貫いたのは、ふたばぁの告白だった。


「ふたばぁ、それって」


「商店街を守るためにはこうするしかなかったのだよ」


ふたばぁは話した。モールの連中が狙っていたのはもともとグラウンドの土地ではなく、住宅地に隣接した商店街のある土地であったこと。


もし応じなければ他の一部権利者を片っ端から買収していくと脅しをかけられ、その金額が最低でも1世帯あたり1億円であったこと。


もともと商店街全ての土地を所有するわけではないふたばぁだけでは、商店街を守れないと判断したこと。


その引き換えに提示できる土地は、グラウンドしかなかったということ。


「こんな腐りかけた街でも、旦那との約束がある。それに、あんたらみたいな家族がいるんだ。守らないわけにはいかない」


グラウンドの売却は、元敏腕経営者、矢野双葉の交渉力を駆使して何とか相手を折らした代替措置だった。




「しかし、あんたんとこの息子と賭けをしたんだ。この試合に勝ったら、グラウンドの売却を考え直すと。私としたことが勢いで保証もないこと言ったもんだよ」


「じゃあこの試合にもし真人くんたちが勝ったらふたばぁはどうするの?」


「ふん、もう破れかぶれだ。旧矢野邸の土地だろうが、都心の一等地だろうが、財産だろうが何でもくれてやるよ」


「ふたばぁ……」


「いいかい絵里、経済の波を、流れを変えるというのはこういうことだ」


そういってふたばぁがグラウンドを向いたまま微笑んだとき、真人渾身の一球が光のミットにおさまった。


有馬が豪快な空振りで天を仰いで、グラウンドの雰囲気は最高潮に達していた。


三者、連続三振。


大歓声がグラウンドを包む中で絵里はひとり、必死に涙をこらえていた。


経済界にその人ありと言われたふたばぁでさえ、こんな小さなまちの変化を止めるには全てを賭けなければならない。


自分に、ブラックキャッツのみんなに、商店街役員に、そんな覚悟があるだろうか。


一億円の札束を前にして、みんながスクラムを組むことができるのか。


悲しいことに、絵里には「みんなで協力して商店街を守って見せる」なんて間違っても軽々しく口にすることはできなかった。


「みちるさんがいたら、今の商店街をどう思うだろう」


誰に言うでもないそのつぶやきに応えるように、イチョウの大樹がざわざわと揺れている。


照明の光でできた影が、今日もマウンドからホームベースまでを薄暗く包み込んでいた。





5回のウラ。林原のマウンドにはいよいよエースの木島が登ってきた。


5番の優からの攻撃だったが、木島の直球とカーブの絶妙なブレンドに全くタイミングが合わない。


苦手の内角にバンバンとストライクを決められ、緩い球に誘い出されてあっけなく三振。


あとの6、7番もさっぱり手も足も出ない。先ほどの前田の球でさえ満足に打てないのだ。前に飛ぶはずもない。


林原に行きかけた流れを食い止めたものの、エースの登場で試合は両者決め手を欠く状態となった。


守りとなれば真人の叫びと共に球場全体が湧き立って、面白いように三振の山を築く。


たまに光が受け損ねて後ろへボールを反らしたが、ランナーが出ないからお構いなし。7回までで、9奪三振。


しかしエース木島を攻略できないのは稲嶺も同じだ。打者を打ち取るほどに木島は調子をあげていく。


ああいうプライドの高いお調子者は波に乗らせると手がつけられないと、一人も考えるが、有馬の配球の攻略が見いだせない。


一つ攻略の糸口があるとすれば――


「タイム!」


7回のウラ、ワンアウト、ランナーなしの場面でタイムをかけたのは光だった。


「代打で、稲葉一人」




「ちょっと!光さん!」


唐突に光は一人の名をコールした。戻って来るなりかずちゃんよろしく!とバットとヘルメットを差し出してくる。


まさに一人の考えていることだった。攻略の糸口があるとすれば、自分で打席に立ち、有馬の配球と木島のクセを見抜くことしかない。稲嶺に残された最後のカードだ。しかし――


「オレは出れませんよ!みんなの試合でしょ!」


「なに堅ぇこと言ってんだよ、公式戦じゃあるめぇし一発ゴール決めてこいや」


翼が横から一人の頭をくしゃくしゃと混ぜて言う。


「そうだよ、一人くんだって商店街の一員だもの」


「かず坊の頭で何とかしてくれいや」


道が笑顔で言って、優が一人の背中をバンと力強く叩く。


「それにさ、申し訳ねぇがもうオレの手が限界なんだわ」


光が苦笑しながら左手のキャッチャーミットを外すと、その手の平は赤むらさきに腫れ上がって内出血を起こしていた。


「おい光なんだよそれは!」


やりとりを眺めていた真人がベンチから飛んできて光の左手を掴む。


「捕り方がヘタクソだからよ、なかなかバシッといかねぇんだわ。次の回から、頼むよかずちゃん」


「でも……」


「行きなさい、一人」



「母さん!」


男ばかりのベンチに不釣り合いな高く優しい声に驚いて振り返った先にいたのは、絵里だった。


「絵里!なんでベンチに!」


「親バカかって言われてもいい。この中で一番頭がいいのは誰?この中で一番うずうずしてるのは誰?このピンチを救えるのは誰なの一人、あなたでしょ?」


力強く話す母の表情は優しい。しかし一人には何かをこらえて話しているようにも見えた。


「あなたは真人くんとキャッチボールすると思えばいいの。いつもと同じ様に。ね?」


15にもなって母に人前でさとされるのは、何ともくすぐったい。


しかし、勝つために必要なことは何か、それを第一に考えたとき、一人の思いは決まった。


「母さん、古きものが駆逐される運命だなんて、間違いだよ。それを証明する」


「勝ちなさいよ。でないと、色々困るんでしょ?」


そう言って絵里は軽くウィンクする。そのとき一人は母がふたばぁとの賭けを知って発破をかけにきたと理解した。


「選手交代します。代打、稲葉一人です!」




「指揮官自ら登場かい」


左打席に入った一人に、有馬が声をかける。


「君、今年から蒼城館に来るらしいじゃないか。じゃあオレの後輩だな」


「だからなんです」


「親父を負かした高校の一員になるなんて、複雑だろうにな」


有馬がほくそ笑みながら言っているのは振り返らなくても、声色で分かる。


戦い方が、下衆だ。


1球目から容赦がない。完全なボール球のコースから、球は急激に軌道を変えて一人の体に迫る。体を反応させようとしたときにはすでに球は膝元へと舞い落ちている。ストライク。


落差のあるカーブだ。曲がるスピード、いわゆるキレもある。


これ以上木島を調子に乗せてはいけない。一人にあるチャンスは、この一打席だけなのだ。


「おいおい、配球だけじゃなくてバッティングも逃げ腰なのか?」


耳を貸さない。打ち気にされては、いけない。


それでもグリップを握る手には力が入った。


2球目、脇の下めがけて直球が来る。速い。


「ストライクツー!」


速い球ではないのだ。しかし、1球目に遅いカーブを見せられればどうしても直球の体感速度は上がる。


ましてや、木島の球は技巧派投手とはいえ、そこらの中学野球で投げる投手の球より格段に速い。


どうする。


3球目、直球がアウトコースに来る。ストライクか、ボールか、ストライクか、ボールか。


一人はぎりぎりのところでバットを振り抜いた。三塁線へ飛んだライナー性の打球はファウル。


「おうおう、やるねぇ」


いちいちあおる中年オヤジが耳障りだ。


「そういうの、効きませんよ」


「どうかな」


大人気ないと言えばそこまでだが、大人の野球に首を突っ込んだのは一人なのだ。彼の視線は木島だけを見据える。


4球目、直球!と思いグリップに力を込めた。しかし、一人は紙一重で体の始動を食い止める。


スライダーだった。ど真ん中からスライドした球はインコースのボール球に変わる。


振っていればどん詰まりのピッチャーゴロだったろう。


「どうやらさっきまでの野球バカとは一味違うらしいな」


有馬の声色が低く、変わる。カウント、1ボール2ストライク。


5球目、ストライクゾーンにボールが迫る。しかしこれは、遅い!


カーブか、いや違う。これは単なる、緩い球!


一人は狙い定めて思い切りバットを振り抜いた。




「ファ、ファウルボール!」


バックネットの大歓声が一転ため息に変わった。夜空を貫く角度で上がったフェンス直撃の大飛球は、ラインのわずかボール一個分外側に切れた。


ファウルの宣告を確認して一塁から戻るとき、初めて有馬のいやらしい笑顔を見た。人を値踏みするような、想像通りの笑い顔だった。


「いやぁ、惜しかったな。遅い球が好みか、わかった」


そのあとストライクゾーンをかすめそうなボール球2つを一人は平然と見送った。


3球目のファウルで、ストライクゾーンは記憶している。


さらにカーブ、スライダーを続けてバックネットにはじいて粘る。


調子よく一人を攻め立てる有馬だったが、一方で木島はいらだっているのを一人は見逃さない。


先ほどまで、ひとり当たり5球程度で片付けて来たと言うのに、一人だけにかけた投球は次で10球目だ。


中学生にここまで自慢の変化球を当てられるというのは屈辱なのだろう。


それもそのはず、一人はこの10球のうちに、木島の投球のクセを見抜いた。


直球を投げ込むとき、タメをつくるための静止時間が長いこと。


カーブを投げるとき、腕を大きく振るためにボールを持つ手が背中越しに見えること。


スライダーを投げるとき、どうしてもひじが下がってしまうこと。


これだけ分かれば、あとはボールを当てることなど造作もないことだった。





「案外、大したことないんですね」


一人はマウンドの木島にも聞こえるようにあえて大きな声で言うと、木島は明らかに眉間にしわを寄せて、不機嫌な顔をつくっている。


そそくさと投球モーションに入って投げた10球目、タメが大きい。ストレートだ。


見逃せばボールの荒れ球だったが、一人はカットしてファウル。


「フォアボールなんていらないんですよ」


本音をそのまま口に出す。木島はマウンドの土をけり上げた。


「このガキ……余計なことを」


有馬は両手を大きく広げて木島に落ち着くように促した。しかし効果はない。


木島の頭の中には何とかしてこの生意気な中学生のバットを空振らせることしかなかった。


いつぞや見学しに来た中坊相手に苦戦を強いられている自分が許せない。プライドが彼の右肩に大きくのしかかってくるのだ。


焦る気持ちが、振りかぶりのクセを大きくし、体の軸をブレさせる。一人はこれを待っていた。


11球目、腕の振りが大きい。カーブだ!


気が急くなか投じられた一球は一人に差し出されるかのように回転不足でど真ん中へとやってきた。


もらった!





打球はライナーでセカンドの頭上を越え、センターとライトの間を突き破る長打だ。


油断して浅く守っていた外野は追いつけない。


「まわれまわれ!」


ベンチ、バックネットから幾度も同じ歓声が上がった。一塁を勢いよく蹴った一人は二塁も蹴って三塁にすべりこむ。


スリーベースヒットだ。


「カズー!」

「一人ー!」


「さすが俺の息子だぁ!」

「さすが私の息子だよぉ!」


ネクストの真人とバックネットに戻った絵里が声をそろえると、これは恥ずかしい。


一人は帽子を深くかぶりなおして小さくガッツポーズをしてみせた。


一方の木島はというと、マウンドを整えて気持ちを落ち着かせようとしているものの食いしばった歯が解かれない。


マウンドに駆け寄って何か声をかけようとする有馬の手を振り払ってマウンドを整えるというか、もう半ば地団駄を踏んでいる。


こうなってしまえばこちらのものだった。


続く真人は失投を見逃さずにレフト前へヒットで勝ち越しに成功。


翼と道にはフォアボールで木島はいよいよ調子を崩し、満塁となったところを丈二と光の連打でさらに2点を加えた。


茫然自失のエース木島は静かにマウンドを降り、グラブをベンチに叩きつけた。


相手の特性を理解し、見極めることが出来さえすれば、流れを奪い返すために必要なチャンスは1度で十分だった。


スコア、6対3。






8回表、一人はマスクをかぶる。光は代わってサードに入った。


「かずちゃん頼むぞー!」


「親子バッテリーや!」


言われてみれば、一人はこれまで父とバッテリーを組むことなどなかったのだ。


キャッチボールはもう幾度となくやった。毎日のように、父の球を受けた。


小さいころから真人がほとんど容赦なく投げるものだから、一人にとっては毎日のキャッチボールがキャッチングの練習のようなものだったのかもしれない。


それでもこうやってマウンドに立つ父の球を受けることは、これが初めてのことだった。


そう思うとなんだか、この瞬間が特別なもののように思えて、一人の体は強張った。


投球練習から、光とは一味も二味も違う乾いた革の音をグラウンド中に響かせて、一人は捕る。


先ほどまでと真人の球威は変わらないのに、一段と速く、重くなったかのような錯覚を起こさせる上手い捕り方だった。


『あなたは真人くんとキャッチボールすると思えばいいの、いつもと同じ様に。ね?』


母の言葉が一人の緊張をスッと解きほぐすと、一人は細く息をひとつ吐いた。




さぁいくぞ、父さん。


追い風が吹いている。


センターからバックネットに向けて低空飛行して、真人の放つ速球を包む追い風が。


味方する風を球の軌道に一迅ずつ織り込むように、投げる、投げる。


スイングはそれを阻むことなく、風に嫌われたかの様に無を切るしかない。


風に乗った全ての球は、吸い込まれるように一人のミットにおさまっていく。


「ストラックアウッ!」


三振。


一人は真人の球を受けるたびに身震いを繰り返す。左の手のひらを伝わって、父の投げる球の威力が電流のように全身を駆け巡る。


この一球一球の感覚を忘れまいとバシンとミットが響くそのたびに、まぶたを閉じて神経を研ぎ澄ます。


真人のコントロールはぶれなかった。一人だけでなく真人も親子の最高のキャッチボールに酔っている。


二人の間に打者がいることなど、何の関係もないかのように、ただ息子の構えたミットめがけて全力で腕を振る。


『よーし、ナイスキャッチ!』


『今のすごいじゃないかカズ!』


まだ小さいころ、顔よりも大きなグローブを抱えながら必死で自分の投げた球を追いかけていた息子。


それが今や、鋭い目で自分を見据えて渾身の投球を待ち構えている。


身震いしているのは父も同じだった。


「ストラックアウト!!」


三振。これで、5者連続。


追い風を受けて、ご神木が嬉しそうに揺れている。




どこに投げれば打たれないのか、どこに投げれば打者の意表を突くことができるのか。


それが捕手の役目たる配球術だ。ベンチから林原を抑えるべく思案した。


しかし今はどうだ。父の全力投球を前に、ど真ん中だろうが、相手打者はバットにかすらせることすらできない。


一人は配球なしに打者をなぎ倒す父の剛速球に、喫茶ハイライトの壁にかけられた高校時代の稲嶺の不死鳥を見た。


これだ。これなんだ。


「ストラーイク!バッターアウトォー!」


一瞬、この一瞬だけではあるが、確かに父は全盛期の輝きをよみがえらせた。


打者6人、誰一人として、父の球を前に飛ばすことも叶わない完璧な投球だった。



「ナイスピッチ父さ――」


空振りを奪った最後の球を一人は真人に投げ返そうと手に取ったときだった。


白球の縫い目から縫い目にかけて、2本の太く赤い筋が走っていることに気づく。


血だった。


一人は慌てて、ついて間もない血痕を太ももの辺りでぐいと拭き取り父に投げ返す。


「おう、ナイスキャッチだカズ」


真人は爽やかな笑顔を浮かべながら何事もないかのようにベンチへ引き返していった。


「父さん……?」


ベンチで大歓声に迎えられる父は右手を握りしめて人差し指と中指を隠したまま、グラブをはめる手でハイタッチに応えている。


やっぱりそうだ、父さんは。


おいかずちゃんからだぞと、光が一人を打席に急かす。


「あ、うん」


打席に入ってもベンチの奥に腰をおろしたまま動かない父が気になって、目の前の投手に集中できない。


わいわいと騒ぐベンチのすみで、じっと動かない。


なんだ、どうした、父さん!



カウント2-0から3回、ぶんとバットでわざと空を切って、一人はそそくさとベンチに戻る。


一人さっきのはまぐれかよーとやじるベンチのみんなには目もくれず、すたすたと真人へ一直線にせまる。


「父さん、ちょっと!」


「お、おいなんだカズ」


ぐいと父の腕を掴み、無理やりベンチの裏へと引きずり出して問い詰めた。


「右手を見せろ」


「なに?」


「右!右の手の平を見せろ父さん」


「やだ」


「いいから見せろよ」


「いやだって言ってるだろ!」


子どものように頑として握った右の握りこぶしを解こうとしない父に、息子が迫る。


「わかってるぞ、さっきボールに血がべったりついてた!どうなってるか今すぐ見せるんだ」


「大したこと――」


「大したことないなら、なおさら見せろバカ親父!」


息子が父をにらみつけたまま少しの間沈黙が続いて、グラウンドの金属バットの音だけが時折ベンチ裏に届く。


鬼気迫る剣幕で詰め寄る息子に観念したのか、真人はゆっくり右の手のひらを開いた。



「なんてことを……」


右の手の平をみて、思わず一人はそう漏らした。


差し出された手は意志とは無関係に小刻みに震えて、気持ち青白く見える。


人差し指と中指の皮はマメがつぶれたのだろう、第一関節の近くまでめくれあがっている。


流れ出た血液は黒く固まって、付け根まで濃く筋をつくっていた。


中指の爪は中心で真っ二つに割れて、人差し指の爪もひびが入っている。


とても、これ以上投げられる状態ではない。


しかし父は言った。


「誰にも、いうな」


「まだ投げるっていうのか」


息子の半ば嘆きにも聞こえる問いに父は静かにうなずく。


「こんなの大したこっちゃない。あと一回くらい余裕で――」


「ふざけるな!」


おどけながら一人の肩をポンと叩いた手を、彼は振り払う。


これ以上投げられない、いや投げさせるものか。


「交替だ。丈二さんだっているんだ。このまま投げられなくなったらどうするつもりなんだよ」


「いやだ、投げる」


「ばか野郎!」


「最後なんだ!俺も!ブラックキャッツも!」


父の目には涙があふれていた。


「投げるからには命がけだ。でなきゃ、チームを背負うことなんて、できない」


勝てば最後じゃないんだ!一人はのど元まで出かかった言葉を必死にこらえる。


『なぜプロにならないのか。1億の契約金が今そこにあるというのに』


プロを蹴り、群がるマスコミを蹴り、父はこのチームに心血を注いできた。


今もし1億の札束が目の前にあったとしても、決して父は黒猫を捨てはしないだろうと一人は思った。


「オレ以外の誰かに――誰かに止められたらそこで交替だ。約束してもらう」


父は赤く汚れた右手でグッと親指を立てた。





9回表、スコア変わらず6対3。稲嶺ブラックキャッツが3点のリード。


「よっしゃあぁぁ!いくぞぉぉ!」


マウンド上の真人の雄たけびに合わせてグラウンド全体が湧き立っている。流れはこちらのものだ。


マスクをかぶる前に、一人は真後ろのふたばぁをちらりと見た。


初回から表情を変えることなく、ただ戦況だけを見つめているように思える。


一人が視線を送っても、反応を返すことはなかった。


なんにせよ勝たなければ未来はない。


「プレイ!」


前の回のようなオーバーワークはさせられない。何とか父に負担がかからないように配球を組み立てることを一人は最優先に置いた。




変わらずしなやかなフォームから投げおろされる直球は一人の構えたところにおさまる。球威は衰えていない。


しかしボールにはやはり血痕が付いている。これをさりげなく拭き取ってから投げ返すことを繰り返した。


エイヤァ!と、真人は叫びを絶やさない。


そうでもしなければ、緊張の糸が切れてマウンドに倒れ込んでしまうのではないかと、一人には悲痛な思いがよぎった。




カウント3-2からの直球がわずかに外れた。フォアボール。


この日初めての四球だった。


真人はマウンドでグラブをぱくぱくとさせながら笑う。


笑うな、笑えないだろその右手は。


気丈に振る舞う父が痛々しかった。


前の回より涼しい顔をして投げる真人の姿に反比例して、内容は悪化する。


一転ストライクが入らないのだ。球威は衰えないけれども、明らかに威力を維持しようと体中に無理出始めている。


続く9番打者にもフォアボール。


一人は両肩を揺らしてラクに、威力を抑えろとジェスチャーをする。


しかし真人は力を弱めようとはしない。


そして打たれた。全力で腕を振った直球だったが、ついに指の痛みで球に回転がかからない。


すっぽぬけの直球を林原の打者は見逃さなかった。


センター前に堂々とはじき返された球でランナーがひとり、生還。


これで6対4。





ノーアウト、ランナー1、2塁は変わらず。


なんとかダブルプレーが欲しい。でなければ3番の田村だけでなく怖い怖い有馬に回してしまう。


それだけは何としても避けたかった。


ダブルプレーのためには内野ゴロだ。ゴロを打たせたい。ゴロを打たせるためには変化球が欲しい。


真人が投げられるのはかかりのイマイチなスライダー、ゆるゆるのカーブ、そして元伝家の宝刀、フォーク。


しかし指に大きな負担をかける変化球をこの状況で要求することは――




「できない」





ついに直球の威力に陰りが見えた。


バシンと捉えた球から骨を伝う電流がこない。


直球の鼓動が、消えかけている。


一人が受けたボールを見ると、もう血の上に血が上塗られて、どんなに拭き取っても一番下のどす黒い血痕はとれなかった。


なんとかならないのか、なんとか。


「ストライクツー!」


打者の苦手と思えるコースを突いて、なんとかカウントを稼ぐ。


しかしボールが先行し、一つコントロールを間違えばまたフォアボールだ。


何とか、内野ゴロを!


そう思い要求した直球は、打者の手元で急激に、大きく沈みこんだ。


放たれたのは要求とは違う球だった。


元伝家の宝刀は、打者の自信たっぷりに振り抜いたバットをかすめることなく地に落ちた。







『投げるからには命がけだ』


野球で命をかけるようなことがあるものかと、笑う者もいるかもしれない。


しかし命がけなのだ。それ以外に彼の覚悟を表現する言葉を一人は知らない。


父の投じた一球のフォークボールから、一人はその覚悟を掴みとった。


意図しない変化球を必死に身体で抑え、すぐさま走ろうとするランナー2人を交互に睨みつけると、大の大人は蛇に捕捉されたねずみのように血相を変えて塁に戻る。


三振。ワンアウト。


しかし父の疲労は相当なものだ。血と油汗が身体からグラウンドへ滴り落ちていく。


それでもニヤリと口角を上げながら投げ続ける彼を突き動かすのは何だ。


3番の田村が左打席に入る。


「いいお父さんだね、羨ましいよ」


打席に入るなり田村はつぶやくように言う。


一人はただの野球バカですよとだけ返すと、田村は一打席目のように笑っていた。







球威は落ちたが、なんとかストライクゾーンに入れようと真人は踏ん張る。


正直なところリリースの瞬間叫んで誤魔化して、あとは笑ってでもいなければ、痛みで意識が飛んでしまいそうな状態だった。


1球目外角にストライク。


2、3球目高く外れてボール。


4球目、外角の球を上手く運ばれたがレフト線に切れた。


5球目に一人が要求したのはフォークだった。


球を2本の指で挟みこんで目一杯腕を振ると、打者の手元で球が一瞬にして潜る。


田村は体勢を崩しながらもバットに当てた。ファウル。


一球の変化球でも今の真人には負担だ。これで抑えるという緊張の糸が、粘られて切れそうになるのを必死でこらえた。


続く直球はストライクを狙うもボール。


鼻先の汗をぬぐうフリをしながら指の血をなめとると、口に鉄の生臭い味が広がって視界がくらりと揺れた。


いよいよやべぇ。






もう一球、フォークを要求したい局面だ。


しかし、不用意な多投はまた失投を痛打されるリスクがあるのも確か。


おそらく父はこれ以上ファウルで粘られるのが心身ともに痛いと、一人は察する。


何とかゴロを打たせることしか、今の父にしてやれる配球はない。


外角の低めに直球を要求。


放たれた球はコースどおり一人のミットにめがけて放たれた。


しかし、


「そうはいかない!」


田村は思い切り右足を踏み込んで外の球を真芯で捉えてきた。


「サード!!」


ゴロだ!確かにゴロだがライナーともとれる強烈な打球がサードを襲う。


光の目の前でショートバウンドした球はグラブをはじき、転がる。


守備下手も災いしたが、光にはもう強烈な打球を処理できるだけの握力が残されていなかった。




これで満塁。4番、有馬を迎える。


「おいおい満身創痍じゃないか、公式戦じゃないんだぞ」


有馬は白々しく心配そうな声色をほのめかしながら打席に入る。


「お父さん、ありゃ相当やばいだろ、なんで誰も止めない。キャッチボールも満足にできなくなるぞ」


おそらくもう後ろを守るメンバーは真人の異変に気づいているだろう。


しかし、みんな思いは同じなのだ。


「おいおいパン屋!もうへばったか!」


翼が笑う。


「かず坊だけ信じて放らんかい!」


優が促す。


「また得意の四球ショーか?」


光が皮肉る。


「かまわないから外野に飛ばせ!俺が刺す!」


丈二が叫ぶ。


「大丈夫!絶対捕る!」


道が励ます。


「わーった、わーった、全くうるせー内外野だな」


止めるどころか、後ろに控えるメンバーは真人の背中を押している。





『あの人、ああやって強がってるけどね、グラウンドがなくなるって武田の優くんに聞いた日の晩、一人で隠れて泣いてたんだから。ちくしょう、ちくしょうって。やっぱり悔しいのよ、みんなと同じ様に』


弘美からきいたことを、ふと思い出す。


翼だけではない。今この瞬間、外向きには強がって、泣きたい気持ちで戦っているのは、みんな同じなんだ。


「あなたには、わかりませんよ」


一人は内角に構えた。ノビ満点のストレートがミットを鳴らす。ワンストライクだ。


「しかし君のお父さんには、感謝してるんだよ」


ワンアウト満塁、確かにブラックキャッツのピンチだが、裏を返せばここを抑えれば勝負は決すると言っていい。


社会人野球屈指の強豪を、終わりかけの老兵集団が破るという大金星が目の前に迫っている。


老兵を嘲笑いにきた林原にとってはこれ以上ない屈辱のはずだ。


だがこの緊迫の場面にも関わらず、有馬は落ち着き払っている。最後の力を振り絞る真人の球を見送って、なお泰然と構えて話す。


「真人くんが決勝で調子を落としてくれて甲子園に行けた」


もう一つ、同じコースに決まる。ツーストライクだ。


「おまけにドラフトを蹴ってくれたおかげで、俺の指名順位も、株も繰り上がったんだからな」


こいつは何を言っている。





「プロがそんなに偉いのか」


「偉いさ、大金をもらって、いい車に乗って、いい女と寝る。こんな商店街でパンを焼き続けて、ヒマを見つけてキャッチボールするよりずっと偉い」


マスクをかぶって、ミットを構えていなければ、飛びかかってやるところだった。


商店街のみんなの誇りを傷つけるやつを、一人は許せない。


父は、みんなはこんなヤツに、甲子園の夢を砕かれたのか。


どうして、


どうして、


この、


この――


「下衆が!」




真人の風を切る直球を、有馬は振り抜く。一人の背筋を凍りつかせる快音だった。


「勘違いするなよガキ、オレは元プロだ。ちょっと出来のいい中学生と旬を過ぎたおっさんのバッテリーなんざ、1打席も見りゃ十分なんだよ」


この日一番の大飛球はレフトの端へ徐々に切れて、場外に消えた。


首の皮一枚つながっている。いや、つながれている。


その事実が、一人の鼓動を、呼吸を速くした。


マウンドの真人も、いよいよひざに両手をついて肩を上下に揺らしている。


限界か。


「パン屋のクソバカ親子!何をへばっとるか!!」


バックネットから、しゃがれた声が耳をつんざくように聞こえる。


思わず振り返ると、叫んでいるのはもちろん彼女だった。


「そんなド三流のどこがプロだと言うのだ!打たれる理由がどこにあるというのだ!」


目つき鋭く、バッテリーを鼓舞するようにふたばぁは叫ぶ。


遠目ではあったが、その目は涙で光っているように見えた。


「戦え!その腕二度と上がらなくなろうとも、戦え!そして勝て!」










「一流のパン屋が、プロ崩れのド三流に負けることなど私は許さん!」





ふたばぁの叫びに呼応するように、イチョウが揺れてマウンドの影も踊る。


季節外れの金色の葉が一枚、真人の足元にそっと落ちた。


「来い父さん!」


一人は一回、ミットをばしりと叩いた。


目視、140キロの速球がよみがえって有馬を襲う。


ド三流とののしられた元プロはそれに必死に食らいつく。


1球、1球、また1球、振り抜いた打球は前に飛ばずにバックネットへ突き刺さる。


真人の球は全てど真ん中から急激なノビをもって金属バットをへし折らんばかりに食ってかかる。


また、追い風が吹いている。


そして15球目だった。


一人のサインに真人はこの日初めて首を横に振る。


ストレートは、投げない。


スライダー?違う。


カーブ?違う。


フォークだ。


フォークのサインを出すと、真人は大きくうなずく。


これで決める。


二人ともそう思って投じた、1球。


流れるオーバースローから放たれた球は、ストレートを打ち気満々で待つ有馬の手元で潜り、どん詰まりのゴロからのダブルプレーで終わりだ。


そう、終わりだ。


有馬の手元まで球が迫る。もらったぞ。









しかし球は――









沈まない。


真人の両指は限界だった。


挟み込んだ球には落とすために必要な回転がかからず、気の抜けた直球になってしまった。


棒球だった。


2回と同じ、球をしばき倒すような轟音が、親子の意識を遠のかせる。


直球を待ち構えていた有馬の打棒は迷いなく、差し出された力ない深紅の直球を捉えた。


目前で響く無情な音を聞いた刹那。


あぁ、ごめん。







みんな、ごめん。


まだ、9回表で、これでも多分6対8で、まだ逆転のチャンスはあって、打順は2番の道からで、きっと絵里や弘美はまだ応援してくれて、ふたばぁも負けるなと叫ぶから――


必死につなぎ止めようとする意識が遠のいていく。


勝たなければ、未来はないんだ。みんなも、このまちも。





視界の奥で天を仰いだまま崩れていく父が見えた。


力なく両膝をつこうとする父が見えた。


『勝つんだ、勝つ!』


父の熱意をたぎらせた目が、脳裏をよぎる


何が天才だ。


何が采配だ。


結局自分は、何の役にも立たなかったじゃないか。


まだ、9回表で、これでも多分6対8で、まだ逆転のチャンスはあって、打順は2番の道からで、きっと絵里や弘美はまだ応援してくれて、ふたばぁも負けるなと叫ぶから――


必死につなぎ止めようとする意識が遠のいていく。


勝たなければ、未来はないんだ。みんなも、このまちも。





視界の奥で天を仰いだまま崩れていく父が見えた。


力なく両膝をつこうとする父が見えた。


『勝つんだ、勝つ!』


父の熱意をたぎらせた目が、脳裏をよぎる


何が天才だ。


何が采配だ。


結局自分は、何の役にも立たなかったじゃないか。


ごめん、父さん。
















ごめん。






静かに目を開けたとき、そこには誰もいなかった。


一人はバックネットの裏、イチョウの大樹にもたれかかった状態で意識を取り戻す。


グラウンドの照明は消えて、ベンチにも何者の気配もない。


さわさわと、優しく大樹が揺れている音だけが、空間を占めていた。


見上げれば、大樹が差し伸べる手の合間に、幾多の星くずがしんしんときらめく。


そんな空にかざした一人の手の袖は、ブラックキャッツのユニフォームではなく、いつも着る銀のランニングウェアだった。



「試合、どうなったんだっけ」



一人の記憶は崩れ落ちる真人の姿を最後に途切れていた。






試合はどうなったのだろうか。


みんなもう家に帰ったのだろうか。


なんであんなところでひとりでいたのか。うたた寝じゃあるまいし。


どれくらいの間、ああしていたのか。今、何時だ。


様々な疑問が頭を回る中で、一人は足早に商店街へ戻る。


その道中、やたらと黒いセダンや高級そうな車を見かけた。


商店街へ続く道、いや商店街の中にまで車の赤いテールランプが列をなして、黄色いハザードランプが奥へ奥へと波打っている。


なんだ、夜にこんなたくさん。


その列からスーツを着た中年の男性たちが物々しく出入りしたり、近くで話しこんでいる。


「おいどうするんだ、こんなことになって」


「資産の配分は全くの白紙らしいじゃないか」


通り過ぎざまに男性たちの会話が漏れ伝わる。


他にも跡取りがどうだとか、連結企業の損失がどうとか、プロジェクトの進捗に関わるとか、よく分からない会話が飛び交っていた。


車の大名行列をたどる。



その終着点は、矢野雑貨店だった。





店舗の入り口には白黒幕がかかっていた。


その周辺に、数えきれないほど男たちが群がり、ひっきりなしに出入りを繰り返している。


横を過ぎ去る男たちの体から薫る線香の匂いが、一人の鼻を突き、足をがたがたと震わせた。





そんな、まさか。



「ふたばぁ!」




気付けばスーツの男たちの海に無理やり飛びこんでいた。


男たちをかき分け、ぶつかりながら店の中へともぐりこんでいくと、奥でろうそくの火がぼんやりと光っていた。


「ふたばぁ!」


なんだこのガキは!


邪魔だ抑えろ!


乱暴な言葉が飛び交って、男たちに押し戻されそうになるが、必死にこらえた。


「離せ!何なんだお前たちは!」


腕や髪を強靭な力で引っ張られ、痛い。それでも前へ進もうともがくと、耳をつんざく一声が場を静めた。


「お前こそなんだ騒々しい!」





それは紛れもなく、矢野双葉その人だった。店の奥の間から、いつものように清閑な服装に鋭い目つきで一人を見据えた。



「……ふたばぁ、これはいったいどういう――」








「誰だ」




「えっ?」






「お前は誰だときいているのだ」







第1部 完




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