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ハイライト  作者: にしおかナオ
3/18

2.イチョウの木

『稲嶺の不死鳥』


稲葉真人の高校時代の二つ名だ。


どれだけ長いイニングを投げようと、連戦連投であろうと衰えない驚異の持久力、球威は、相手チームの打者を驚愕させた。


三振を取るたびにけろりと笑う姿に、ベンチの選手も肝を冷やした。


しなやかな右腕から放たれる150キロを超える剛速球は、打者の目の前でさらに速度を増して迫るように見える、いわゆるノビる速球だ。


打者はタイミングを見計らってスイングしても打てない。


ストレートだと分かっていても当たらない。


気付いた時には三振を食らってベンチに引き返している。


それに加えて打者の直前で視界から消えるフォークボールが織り混ざった日には、並みのバッターではボールの軌道を目で追うことすらできない。


三年の夏に記録した1試合20奪三振は未だ破られない県予選記録となっている。


その大半が見逃し三振で、打者は手すら出ていない。


「真人が調子のいい時の内野のヒマさ加減といったらなかったぜ」


香川翼がハイライトでの宴会で言っていたことを一人は覚えている。


「何言ってんの、外野なんて一球も飛んでこなかったよ」


それにカウンターで料理を作る井上道が苦笑しながらこたえて、


「いやしかし、フォアボールで塁は埋まるんだがな!」


すっかり出来上がった武田優が笑いながら付け加えた。


そう、速球で打者を圧倒した真人だったが、その分荒れ球でもあった。


一試合辺りの平均与四球は4.7と多く、ひどい時は初回からノーヒットで失点することもあった。


「おかげでランナーのいない場面でマウンドに上がったことがないよ、俺は」


ワイングラスを磨きながら坂本丈二が言う。


あまりにも制球が定まらないときにリリーフとしてマウンドに上がったのが彼だ。


この沈着冷静で肝が据わったセットアッパーがいなければチームとしての安定感もなかっただろう。


「オレが打席のときは、よく入ったのになぁ」


別の強豪校にいた光との勝負では調子が良かったらしい。成績自体は完敗だが。


「うるせぇよ、いいんだ。命がけで投げてるんだよ。一球たりとも後悔はない」


どれだけおちょくられたり、皮肉られても、父は笑っていた。いつでも彼は迷いなく投げていたのだろう。



もちろん不死鳥へのプロからの視線は熱かった。


弱小高校を三年で強豪に変貌させたエースの活躍に複数のプロ球団が注目し、是非ともドラフトで指名したいと真人に声をかけてきた。


提示されていた契約金は1億円を超える球団もあったという話だ。


しかし、真人はその誘いを全て断って、稲嶺ブラックキャッツを立ち上げた。


ドラフト上位の有力候補が指名を蹴って社会人野球へというニュースは、当時のスポーツ紙をしばらくにぎわせた。


そして、真人を中心に常勝軍団へと成長するブラックキャッツに熱心な野球ファンも注目し、それは図らずも稲嶺商店街が地域内外の客で賑わう起爆剤となった。


試合後、ハイライトへ足を運んだファンや記者の問いかけに、真人はいつもこう答えていた。


「オレはこの仲間と商店街と一緒に野球がしたいんです。オレが命がけで投げられるのは、このチームだけなんです」




午後1時、一人は雑貨屋へ向かっていた。グラウンドの土地の所有者である矢野双葉、通称ふたばぁの店だ。


ふたばぁがグラウンドを売ってしまうなんて、一人には信じられない話だった。


ふたばぁの一族はかつてはこの地方随一の有力者だったとかで、界隈の土地を多く持っている。


商店街の一部の土地も彼女が所有しており、借地によって経営している店舗も多い。


実際、江戸時代の希少な木造建築として重要文化財に指定されている旧矢野邸、商店街入り口にかかった石造りの橋、矢野石橋など、地域の各所に矢野の名字が刻まれている。


かくいうグラウンドの名前だって、矢野春吉やのはるきち記念グラウンドという。


春吉はふたばぁの夫の名で、この商店街の創設者でもある。


そんな夫の名前の入ったグラウンドをなくして、現に商店街を苦しめているショッピングモールを増設させるふたばぁの一連の所業は何かが乗り移ったとしか思えない沙汰なのだ。


そして一人が信じられない理由はもう一つある。


ふたばぁは大の野球好きだった。稲嶺ブラックキャッツ一のファンといってもいい。


いや、ファンの域を越えたオーナーともアドバイザーともつかない存在だった。


「肉屋、お前は考えなしにバットを振っているから三振ばかりなんだ。特に内角に弱い。弱すぎる。もっと体を柔らかく使って球を巻き込まんか」


肉屋の優が豪快にバットで空を切ってベンチに引き返してくると低くよく通る声で応援席からげきを飛ばした。


優が苦笑しながらヘルメットを深くかぶりなおしていたのが目に浮かぶ。


「八百屋、お前は打撃ばかりやらんで守備をやれ。お前が三塁に居ったら居らんのと同じじゃ」


八百屋の光が後ろにボールをそらすたびにぶつぶつ言うと、わりぃなばぁちゃん!と光は三塁から笑って手を挙げて応えた。




「パン屋、お前は好きに投げすぎだ。今にそんな速い球放れなくなってカモにされるんだ。もっと頭を使わんか」


父、真人にもこう言った。真人が社会人野球の有力選手として周りからちやほやされていた時期からふたばぁは言っていた。


実際、昨今父の速球はなりをひそめ始め、相手打者に甘い球を痛打されることが多い。ふたばぁの予言どおりになった。


実によく見ていた。


ブラックキャッツのメンバーの長所短所(主に短所だが)を的確に突き、絶妙な”ヤジ”を飛ばすその姿は、ブラックキャッツの名物であり、試合を観に訪れる人たちのもう一つの楽しみだった。


もともと若いころは人を見る目に長け、ずば抜けた商才で夫である実業家春吉の秘書を務めていたという。


それが今は権力も大きなコネとも無縁な雑貨屋で、独りひっそりと暮らしている。


もう商売は飽きた。今面白いのは野球だけだというのを、一人はよく聞かされていた。そんなふたばぁが、なぜ。


「ふたばぁ、いるんだろ?入るよ」


一人は矢野雑貨の戸をゆっくりと開けた。立てつけが悪い。引いてもがたがたと何度もつまる。


明かりがついていない。


商店街の天窓から届く光がほんのりと店内に差し込んでいるのみ。


『全品言い値!』と書かれた張り紙の横にかかる大きな振り子時計の音だけが小気味よくカチ、カチと音を立てていた。


この見た目から、開いていると思う一見はいないだろう。


店の奥に進むと、カタカタと小さな音が聞こえて、ぼんやりと青白い光が見える。


その横でふたばぁは老眼鏡をかけながら何かをじっと見ていた。


「ふたばぁ、返事くらいしなよ」


一人が呼ぶと、カタカタという音が止まってふたばぁはゆっくりと彼を見た。


「あぁ、パン屋のかず坊かい。あんたら親子の名前はややこしくて困る」


名前は似てるが、かず坊と呼ぶならややこしいも何もないのだが。ふたばぁお決まりのセリフだ。


老婆とはいえ、すっとした背筋だ。


着るものもしっかりとしていて、いつも白いブラウスを好んできており、一番上のボタンまでしっかり留める。


長い白髪は結んできっちりまとめ、これから商談にでもいくのかという雰囲気すら漂う。


目つきは厳しくはないが鋭い。人の内面を見透かすような眼光が目の奥で光っている。


「またパソコン?こんな暗い中で。目悪くするぞ」


言いながら一人が洋間の明かりをつけると、部屋中のアンティークな調度品が姿を現す。


ふたばぁはその中心のテーブルでひとり、パソコンのディスプレイに向き合っていた。


「なにもうあと何年使うかだ。かまやせん」


ふたばぁはコーヒーをすすりながら言った。


「なにこれ」


画面上には、数種のグラフや数字の表、外国人と思しき男の写真、難しい文章があふれている。


「三鷹商事のじじいがね、ミャンマーでの新プロジェクトに助言がほしいと言ってきた。取引のあるあちらさんの社長が信用いく男か調べて意見がほしいと。まぁそんな面白いもんでもない。相談役なんて名ばかりの仕事を引き受けるんじゃなかったと後悔していたところさ」


三鷹商事という名を知らない日本人がいるだろうか。日本産業の各所にパイプを持つ巨大企業の重役が、意見を求める老婆が一人の目の前にいる。


「まぁ座りな」


一人はふたばぁの向かいの椅子に腰かけた。


「81だ」


「えっ?」


「81、この数字がなんだかわかるか。この商店街にまつわる数字、わかるかい」


ふたばぁはくわえた煙草に火をつけながら一人に尋ねる。


「稲嶺商店街の総店舗数…」


「正解だ。では7200。これは一度教えたことがあるね」


「商店街の平日開業時間における延べの平均交通量…」


「正解。ふん、やるじゃないか。面白くない。じゃあこれは、38000」


「38000?」


「そうだ。この数字は何を意味している」


ふたばぁはよく突拍子もない問題で一人を試した。


それは一人が小学生のころからずっとだ。並みの中高生では到底知らないであろうことを、この老婆はふっかけてくる。


今日の円相場始値は?『誰がために鐘はなる』の著者は?まばたきの多い人間の心理状態は?


――最近、たいていのものは答えられるようになった一人だが、これにはピンと来るものが思いつかない。


「わからんか。最近できた例のショッピングモール、一日の延べ平均来店者数だ」


「なるほど」


特別多いとは思わない。


開店セールに伴って平常営業ではもう少し数値は落ちるだろうが、年間1200万人の来場を見込むだけの規模を、あのモールは持っている。それは一人も同意した。


「では、232。これは」


「察するに、モールの中に入ってる店舗数だな」


「よろしい。そうだ」


乾いた表情で質問を振るふたばぁの口から白い歯がにやりとこぼれる。いったい、何が言いたい。


「では次、16。これはヒントをやろう。先ほどの232に関連する」


「じゃあ一つ質問」


「なんだ」


「モールは今完全開店?一部まだ準備中?」


「ふん、後者だ」


「ならわかる。これから完全開店までにさらに増える店舗数だ」


「今日はつまらんな。当てよるわ」


ふたばぁはにたりと笑いながら、くわえたたばこを灰皿で潰し、次の一本に手をかける。


「あと二つだ。43」


「それもモールに関連する?」


「いや、違う」


「情報が少ない。これはお手上げ」


「すぐ諦めるなばかもの。こいつは、商店街の赤字経営店舗の数だ」


きいて背筋がぞくりとする。劣勢という評判からある程度一人も想像はしていたが、半分以上の店舗が赤字ときくとその数字は現実味を帯びていて胸を刺される思いだ。




「最後だ。17」


「それ、当てるよ」


「ほう、言ってみろ」


「今年新しく赤字経営になる店舗の数だよ」


一人が言うと、ふたばぁは低い声でくっくと笑って口から煙を吐き出し、二本目をぐいと潰した。


「かず坊、お前さんはまだ甘い。楽観的だ。無意味な寄り合いを続ける馬鹿どもよりはずっと利口だがな、それでもわかっちゃいないよ」


ふたばぁは自身後ろの棚から一冊のクリアファイルを取り出し、それを一人の前に広げて見せた。


乾いて骨ばった手に金色の指輪が光っている。


「ここに書類が17枚ある。何の書類かって?私の土地の借地権解約申し入れの為の書類だ。もうサインもしてある」


それが何を意味するのか、考えるだけで一人の手はブルブルと小さく震え出している。


先ほどの赤字経営店舗の数字のことなど取るに足らないことのように思えてくるものだ。


「もともと赤字経営の店に、モールができたせいでいない客がさらにいなくなる。結果たったの一ヶ月で尻尾を巻いて逃げだそうとした奴らの数だよ。これが」


「これじゃ、寄り合いやってる役員たちの方がまだマシじゃないか」


「今はそう思うだろうが、いきつく先は同じだ。この17店舗が順にシャッターを閉めれば、みんな我先にと逃げ出すよ。無論、八百屋も、肉屋も、魚屋も、お前のパン屋もだ」


「そんなことはない!」


一人はテーブルをばんと叩いて立ち上がる。


ふたばぁは動じるどころか、三本目の煙草に火をつけながら、依然低い笑い声を響かせている。


「私はこの商店街に失望した。まぁ前から大した期待何ぞしてなかったがな。それでも元は同じ商売人だと思って土地の借地料もタダ同然にしてやった。それがどうだかず坊、臆病な連中は何百万もの客を飲み込むサメを前に戦うこともせず逃げ出し、残った者は自分のことしか考えない烏合の衆と野球バカどもに過ぎん。お前がそんなことはないという街は現に消えかかってるんだ」


剛腕でパンをこねる父、BLTサンドにかぶりつく光、豪快な声を張り上げてコロッケを揚げる優、切れのいい冗談を言って魚をさばく翼、カウンターで皿を磨く道、シェイカーを軽快に振る丈二の姿が脳裏を過ぎて、一人はうつむきながらくちびるを噛んだ。


「グラウンドは売る。あんなもの、もう必要ないんだ」


一人が今日、ここに来た理由など、とおに見透かされている。


矢野双葉は、一人の野球の師匠であった。


彼に最初に手とり足とり野球を教えたのは父真人だったが、野球の何たるか、特に捕手の何たるかを伝授したのはこのふたばぁだった。


「お前、なんであそこでランナーが走ると分かった」


一人がまだ小学校六年生で、少年野球チームのキャッチャーをやっていたときのことだ。


少し大きな大会の決勝、一人は相手チームの盗塁を二回、そしてスクイズを一回見破ってピンチを見事に切り抜けて見せた試合がある。


春吉記念グラウンドで行われたその試合を見に来ていたふたばぁが、一人に声をかけた。


「簡単だよふたばぁ。相手の監督、あんなに太ってただろ、普段は両手を膝の上に置いてどっしりしてるのに、チャンスになるとよく足を組む。あんな不自然な脚の組み方、わざとじゃなきゃしないよ。あれ、ランナーが走るサインだ。それに、みんな走ろうとすると慌ててリードして、その距離が二歩分くらい大きくなるんだ」


「ならけん制でもよかったろう?」


「それじゃ確実じゃないもん。うちのエース球速いけど、一塁へのけん制はよく反れるし、一回失敗したら次は走ってこないかもしれない。一球で走らせて、自分で刺すほうがよっぽど確実だと思う」


「スクイズはどうやった」


「あれはちょっとラッキーだったんだ。バッターが構えたときに見たんだ、バットグリップを持つ手を。全然しっかり握ってなかった。あれじゃあのまま振ったって飛ばない。すぐにバントの構えに移るために軽く持ってたんだと思う。それに――」


「震えてたんだ、バッターの足が。緊張してるな、これはスクイズ来るなって、わかったよ」


これを相手の監督に聞かせてやればきっと青ざめて言葉も出ないだろう。


小学生の見事な洞察にふたばぁは笑った。同時に思うのは、これはモノになるという確信だった。


「かず坊、お前には他の誰にも教えん、特別を教えてやる」



「お前ならどうする」


ふたばぁの野球に関する教えの中で、彼女が一人に問うのはこの一言だけだ。


プロ野球稀代の名勝負のVTRを並びたて、大砲、巧打、俊足、あらゆる打者との勝負を想定して、第一球の入り方、釣り玉、ランナーの処理、自分ならどうするのかを繰り返した。


罵倒されることもあったが、一人の考えが妥当だと判断すれば決まってにやりと笑って何か上等そうなお菓子を出してきたものだった。


一人の采配は、配球は磨かれた。


中学でレギュラーを張るころには、監督も口を出せないほどに緻密な采配を披露してみせる。


稲嶺中学史上初の県大会優勝、全国大会ベスト4の快進撃に、商店街をはじめ周りは一人を天才とはやし立てた。


しかし、彼の天賦の才をいち早く見抜き、世間に天才だと言われるまでに育て上げたのは、このふたばぁだった。


「だんなからの、遺言ってのがあってね」


ふたばぁは四本目の煙草に火をつけながらつぶやくように言った。


「矢野の財産はしかるべきときにしかるべき処分をせよ。それは決して、商店街の者たちにとって最大の利益をもたらすものでなければならない」


「だったら全くの逆じゃないか。グラウンドもイチョウの木も、なくなることはオレたちにとって不利益しかない」


「今、すぐのことを思えばそうだろう。しかし、犠牲によって考えざるを得ない所に追い込まれることもまた、利益の種だ。こうして毒抜きにもなっている」


言いながら17枚の降伏書類を見下ろす彼女の目は鋭く冷ややかだ。


「みんなの生きがいを奪って、そこに何が残るっていうんだ。そこには絶望しかない」


「生きがいか。そんな仰々しいものか」


ふたばぁは嘲笑う。


「勝てもしないチームになり下がって、試合を自己満足に消費する野球バカどもになど、もう何の価値もない。負け試合を繰り返すことが生きがいだというのなら、現実の社会でもこの街はモールに決して勝てんだろう。もともとあのグラウンドはだんなが死んだときに売るつもりだったんだ。そこに見込みのあるヤツらが現れて、グラウンドを有効に使うからこそ残したまでのこと。見込みがなくなればもうそれまでのことだ」


「勝つよ」


それは一人本人にも思いがけない一言だった。


「今日、試合がある。18時からグラウンドで。相手は林原重工」


「ふん、大きく出たもんだね。最後の最後まで惨めな姿をさらすのか」


「だから勝つんだ。まだみんなやれるってところを、証明してみせる」


口から勝手に言葉が出る。半ばはったりをかましてでもグラウンドの存続に望みをつなげるしかないと思っていた。


「面白い。私と賭けをしようっていうのかい」


「そうだ。もし勝ったら、グラウンドの売却は待ってほしい。負けた時は、グラウンドもイチョウの木も、ブラックキャッツもそこまでだ」


ふたばぁは煙草をぐいと吸って潰して立ち上がると、先ほどファイルを出してきた棚から違う書類を取り出した。


「いいだろう。もし勝てばここにある売却の契約書は破棄しよう。ただ一つ、条件がある。この賭けの内容は、私たちだけのものだ。他の誰にもこの賭けのことを話すな。もし話せば、賭けは無効だ」


「やる気は自分で引き出せってことか」


ブラックキャッツにとって、これは最後の記念試合の意味合いしかない。


勝敗は真人の意気込みは別として大きな意味を持たないものだ。


グラウンドの命運がかかっているともなれば、みんな死に物狂いでプレイするだろうが、これではその要素を削いだ上で賭けに臨まなければならない。


「そうさ。見せてもらおうじゃないか。お前なら、どうするのかを」


勝敗はやる前から決しているのか、考えようによっては、あるいは。




根元から見上げても、イチョウの木の梢は見えない。


秋には黄金の衣に身を包む大樹も、この季節は春を待ちながら、じっと風の吹くままに任せて小さく身を揺らすのみ。


40メートルを超えるその全容を捉えるには、大きく離れて眺めなければならない。


ちょうど良くその姿が見えるのは、マウンドの上である。


一人はマウンドに立ってイチョウを眺めた。紅く染まった空に天高くその手を伸ばすように大樹は立っている。


切り倒され、地に横たわる運命を前にその指先は何か救いを求めてさらに高く伸びていきそうにも思えた。


投手はこのマウンドから、イチョウに対峙しながら9回を投げる。


繰り返し繰り返し、幾人もの投手をこの木は見てきた。


どっしりと構え、時折その陰で投手を日差しから守り支える姿はまるで、彼らの思いを受け止めるもう一人の捕手であるかのようだ。


グラウンドができるずっと昔の時代から、大樹はこの場所に立ち続けている。


しかしこの木が今立つ場所はまるで最初から決まっていたかのように、正面にマウンドができることを待っていたかのように、不思議と思えてくるものだ。






林原重工を抑え込むために一人が目をつけたのは、三人。


一人目はショートを守るオールラウンドプレイヤー、田村。


25歳と若く、長打も打てる抜群のバットコントロールと広い守備範囲が持ち味の選手だ。


守備の穴を狙って上手く打ち返すキレ者で、今季の県内社会人リーグ首位打者。


さらに右打者が多いブラックキャッツにとって堅い遊撃手は脅威だ。


二人目はエースの木島。


正確なコントロールと大きく曲がるカーブが持ち味の技巧派右腕。こちらも28歳と脂が乗り切っている。


急速は130キロ半ばだが、緩い球との織り交ぜ、いわゆる緩急を使って打者を打たせて取るスタイルだ。


一人は見学に訪れた際、彼と会話を交わしたが、中学生なんて、エースの球速けりゃ全然勝てるだろ?オレが中学生のころはオレのワンマンチームだったよと、やたら自慢話の多い人だったことを覚えている。


自分のピッチングを過信するタイプだ。


そして三人目、キャッチャー有馬圭司。

一時はプロでもプレイした経験を持つ37歳のベテラン捕手。


足の故障を理由に連戦の続くプロでは大成しなかったが、その冷静なリードには定評がある。


事実、若手が台頭する林原でこの歳になるまでレギュラーを守り続けるチームの要だ。


そして何より、彼はブラックキャッツメンバー高校時代からの因縁の相手でもある。


三年の夏、県予選決勝で父が敗れた相手がこの有馬率いる蒼城館高校であったからだ。


父たちの甲子園への夢を打ち砕いた相手が、今度は商店街の命運を握っているというのは何とも皮肉にも思える因縁ではないか。


稲嶺高校はあの試合、蒼城館になんと8対0で敗れた。


世代一の投手であった真人を擁し、決勝まで快進撃を続けてきた稲嶺が、こんなワンサイドゲームの大敗を喫するとは誰が予想したであろうか。


敗因はいつも以上にたび重なる四球、甘く入った変化球を狙い撃ちされることによる自滅だ。


この日自慢の剛速球も唸ることはなかった。


この稲葉真人、謎の大乱調はスポーツ紙でも取り上げられ、初戦からの連投による疲労のピーク、ワンマンチームの限界、商店街からかかった重圧などの憶測が飛び交った。


しかし、真人の無尽蔵のスタミナがいきなり決勝でパタリと途絶えることは現実的ではなかったし、稲嶺高校は決して真人のワンマンチームではなかった。


この”事件”について、当時のメンバーは未だ誰一人として口を開くことはない。


実力の差だったんだよと一人も笑いながらはぐらかされてきた。


なぜあれだけのタレントを擁しながら甲子園への道は閉ざされたのか、それは今回相まみえる有馬の采配がずば抜けていたからでは決してないはずだった。


今のブラックキャッツには、打者のバットにかすりもしない剛速球もなければ、起死回生の一発を放てるスラッガーもいない。


しかし、勝算はある。


バスケットボールやテニスなど他の球技と違い、たとえ能力では絶対的に劣るチームであっても勝機が見出せるのが野球というスポーツだ。


そのカギは一重に、常に互いを行き来する流れと戦略にかかっている。


そして根拠はないが、グラウンドのご神木が何か力を貸してくれるように、一人は思った。


「なーに突っ立ってんだよ、かずちゃん!」


一人声がする方へハッと振り向くと、ベンチには声をかけた光をはじめ、ブラックキャッツのメンバーがそろっていた。


「なんだなんだ、助っ人が一番乗りとは、親子そろって勝つ気満々じゃねぇか」


真っ先にグラウンドへ駆けて飛び出した翼が、テンポよく伸脚をしながらたしなめると、バカ野郎、本当に勝つんだよと言いながら真人がベンチを出てきた。


「いいか、これは記念試合じゃないんだ。オレたち黒猫の集大成だと思ってやる」


「じゃなきゃ、真人がわざわざ息子に頭下げてまで頼んだ意味がないからの!」


優が真人の背中をバンと強く叩いて言うと、父は恥ずかしそうに頭をかいた。


「なんだか、わくわくしてくるね。試合がこんなに楽しみなのは久しぶりだよ」


道が目を輝かせながらいうと他のメンバーの表情からも活き活きとした雰囲気が感じ取れた。そうだ、まだこのチームは死んではいない。


「みんな、勝とう。オレがみんなを勝たしてみせる」


一人の言葉はもう、はったりではない。たとえグラウンドの命運など知らずとも、彼らは全力を出すと確信したからだ。






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