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ハイライト  作者: にしおかナオ
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1.変わる街、変わる人 2013年3月27日

稲葉ベーカリーの朝は早い。


朝8時の開店に間に合わすためには5時に起き、前日仕込んだ生地を焼きあげなければならない。


稲嶺商店街の入り口左手に構えた店には通勤通学の人々が慌ただしく朝食を求めて訪れる。


「やっぱり朝からこの匂いをかがないと目が覚めないよ」


パンを受け取るときこんな言葉をかけてくれる人もいる。


「当然っすよ。命かけて焼いてますから」


一人の父、真人はお客から褒められたり、励まされると決まってこう話す。


かつて150キロの剛速球を投げた腕でこねられる生地は並大抵の職人の技術とは違うものなのだろうと一人は勝手に納得している。


ただニカリと笑いながら得意げに言う姿からは、命がけというのやはりピンとこなかったが。


こうして稲葉のパンを食べて一日が始まる人たちのため、稲葉家は正月以外一日たりとも休むことなくパンを焼く。


しかし最近、一家を困らす事態が続いていた。


商店街の近くに大型のショッピングモールができたのだ。


食品スーパーはもちろん、雑貨、衣類、レストラン、娯楽施設まで何でもそろった超大型のやつだ。


連日テレビでは開店記念セールのCMが流れ、新聞にも大きなカラー刷りのチラシが挟まっているのを何度もみた。


ただこのモールの登場で稲葉ベーカリーの売上が落ちるのかといえばそうではない。


モールの開店からそろそろ一ヶ月が経つが、ベーカリーの朝7時の開店を待つ店の前の列の長さは短くならないし、売れ残りも少ない。


これは一重に、創業40年の稲葉のパンが大型チェーンのそれより旨いからだ。


では何が問題なのか。


問題はこのモールの進出に対抗するため、連日商店街の役員が集会を開いていることだった。


この集会は朝から夕方まで続き、なんとか商店街の魅力を取り戻すことはできないものかと話し合っている。


稲葉ベーカリーはこの集会の昼食の仕出しを請け負うことになり、受注があるたびに朝さらなる仕事を余儀なくされていた。


「何も決まりゃせんのだ。あんな石頭ばかり集まったところで」


初代店主の祖父が朝、サンドイッチ用のゆで卵を潰しながらぶつぶつと呟いていた。


一人も全くその通りだと思った。ベーカリーの売上は努力の甲斐あって落ちていないが、売上が激減した店も少なくない。焦っているのはそんな店の連中だった。


特に婦人紳士服の店主やカラオケ店の主人の焦りようはすごい。最近、モールの大きなチラシの裏に隠れて、彼らの店の二色刷りのチラシを見ることが多くなった。


婦人服3着購入で帽子をプレゼント!


3時間1000円で歌い放題!採点で100点出せば無料!


身も蓋もない宣伝が踊るチラシをみてため息を漏らすと――


「だめだよ一人、皆さんのおかげで私たちもご飯が食べれるし、パンも作れるの」


のんきな母、絵里はそう息子を注意するが、正直いつもより早起きを強いられるこの仕出しには参っているだろう。


そもそも自分の商店街の店に仕出しを頼むくらいなら、モールの弁当でも買って味や価格を研究して提案の一つも出すべきなのではないか。


いや、無理だろう。


彼らは商店街のためとは言うが実際のところ自身の店のことしか頭にはない。


弁当の考察が巡り巡って自分たちの利益につながるなんて思考は、持ち合わせていないだろうと思い返した。


そしてこの仕出しの弊害は一人にも降りかかる。


「一人、ちょっと配達いってくれない?」


仕出しが続いた結果、配達に追われる父の手が回らなくなった。


「いつものみんなへ昼ごはん、届けてきて欲しいの」


配達は、近くの幼稚園、老人ホーム、そして”いつものみんな”へのものがある。


みんなへは、父の車でなくても、自転車でいける。


母に渡された段ボールを自転車の荷台に縛り付けて、一人は商店街の一本道を奥へとこぎ出した。


三月中旬、寒い日と、暖かい日が交互にすぎる。今日は寒い日だ。


自転車をこぎながらすれ違う人はまだ厚着で、マフラーをする人もちらほら。


たまに薄着の人も見かけるが、表情からは「失敗したなぁ」という曇った気分が読める。


商店街の通りそのものが大きな筒になっていて、ここが風のいい通り道になっているというのも一つの理由かと思って、一人はマフラーに顔をうずめながら走った。


八百屋が見えてくる。


「おぉ、かずちゃん!今日は父ちゃんじゃないのか!」


一人が声をかける前に、八百屋の主人が気付いた。秋山商店の秋山光あきやまひかるだ。


「そう。例の仕出しのせいでね」


「またかい!あの石頭ども、時間も金も無駄にしやがって。そんなヒマがあればたまねぎ食って頭に血を巡らせ!」


どこかで聞いたようなセリフに秋山節が混じる。この人は何かと野菜が物事を解決すると思っている。あまりに真剣に言うから洒落に聞こえない。


光は一人の父、真人の親友だ。その関係に遠慮はない。高校時代は違う高校で、何度も対戦したと一人は光が家に飲みに来るたびに話を聞かされた。


真人はエース、光はスラッガー、話はいつも最後に二人の対戦成績でもめて終わる。


「15打数8安打だった!」


という父。


「馬鹿いえ!9安打だ!一本はホームランだぞ!」


という光。


「あれはサードの広瀬がエラーしたんだ!ヒットじゃない!」


どちらにしても父が圧倒的に打ち込まれてるじゃないかと、一人はいつも一本にこだわる父に苦笑したが、父の球を打てた打者はそういないはずだった。


「今日はBLTサンドだね」


「おぉ、さんきゅーな。やっぱうちのレタスとトマトがないとこいつは始まらねぇ!」


レタスとトマトは秋山商店が仕入れたものを使う。光が選び抜いたものを直接稲葉ベーカリーに卸し、このBLTサンドが出来上がっている。


光の言うことは決して誇張ではなく稲葉のBLTサンドは一味違う。看板メニューの一角を担っている。


待ちかねたとばかりにその場で袋を開けて口いっぱいにほおばる姿はまるで子どものようだ。


店は商店街役員から伝え聞く商店街の現状と違い賑わっている。夢中でほおばる光の代わりに奥さんがおばさんたちに愛想よく野菜をさばく。


「うまい。やっぱりうまいんだみんなよ!うちの野菜を使ったサンドは絶品だぜ!おい!」


光があまりに美味しそうに食べるものだから、集まったおばさんたちもごくりと唾を飲むのが聞こえた。


一人は未だうちのパンをいや野菜をこんなに旨そうに食べる人を知らない。


「特にトマトだトマト!うちのトマトは他のどこにも負けないさ」


この勢いにのまれておばさんたちがみんなトマトを買っていったことは言うまでもない。


「そういえば光さん、明日の試合父さんとバッテリーらしいね」


「あぁそうだ。久々に親父の雄姿だな!」


二人は商店街で結成した社会人チーム「稲嶺ブラックキャッツ」のメンバーだ。


創設以来常勝チームとして人気を集めたが、最近は37という年齢のせいか、真人の登板機会は減り、チームも勝てなくなった。


「代わってやろうか、かずちゃんのほうがいいリードするだろ絶対」


「何言ってんだよ。あんな荒れ球、配球考えてもストレス溜まるだけだよ」


光は違いねぇと豪快に笑った。


「まぁ試合は見に来い。代打出場頼むかもしれねぇ」


「考えとく」


商店街にも若手が少なくなっていた。



肉屋が見えてきた。武田精肉店だ。


店頭では今日も次男の武田優たけだゆうが自家製コロッケを揚げながら威勢の良い宣伝文句を謳っている。


「いらっしゃいね!いらっしゃいね!武田のコロッケ50円!創業今年で60年の変わらない味だ!」


周りのお客より二回りほど大きな体つきと、浅黒い肌は遠く離れていても目立つ。辺りにはきつね色に揚がった衣の香ばしい香りが立ち込めて、通り過ぎようとするお客の鼻をとらえて引き寄せている。


一人自身も、下校時によく立ち寄る常連だった。


「優さん、配達だよ。メンチカツバーガー」


「おぉすまないなかず坊。コロッケ食ってけ」


メンチカツに使うひき肉は武田精肉店のものだ。優いわく、ウチはパンに合う揚げ方をするらしい。


コロッケと交換にバーガーを渡す。がっしりとした太い腕だ。


「親父はどうした」


「例の仕出しだよ」


「あぁ、懲りんな役員も。かず坊、いっちょ乗り込め。お前のほうがよっぽど利口だ」


一人も連中より役に立つ自信はあったが、子どもなんて相手にしないよと苦笑しながら返す。


「だけど、優さんのとこは繁盛してるし、大して困ってないんじゃないの?」


光さんの所もそうだ。商店街が劣勢とはいえ、人気の店は衰えていない。


「肉は売れてるとも。スーパーとは味が違う。だがなぁ」


そういって優は口ごもった。表情が曇る。


「最近もう一つ面倒なことが持ち上がってる」


「面倒なこと?」


「グラウンドが潰されるかもしれないらしい」


「グラウンドが?聞いてないよそんなの」


「最近のことだ。双葉のばあさんが契約しちまったらしいんだ」


「そんな、ふたばぁに限って何の相談もなしに。っていうかなんでまだ土地が必要なのさ」


「今できてるモールの姉妹店が入るらしい。商店街との連携を期待してるなんて言ってるが、あんなのは嘘っぱちだな」


稲嶺商店街を出てすぐの所に、大きなグラウンドがあった。整備もさほど行き届いていないが、両翼90メートルある立派なもので、地元の小中学校の試合に使われている。


一人も小さいころから慣れ親しんだ場所だ。そして何よりそこは、稲嶺ブラックキャッツのホームグラウンドでもある。土地の権利は、商店街の雑貨屋の矢野双葉という老婆が持っていた。


「じゃあ、ブラックキャッツは?野球出来ないじゃないか」


「解散、だろう」


一人の胸がどくりと鳴って嫌な拍動が体全体に伝わる。一人が直接関わるチームではないが、生まれたころから自分に野球を教えてくれたチームが、商店街の看板チームが解散するという話はにわかに受け入れがたい話だった。


先ほど意気揚々と今日の試合を楽しみにしていた光さんはこのことを知っているのだろうか。


優は話すほどに肩を落とす。その落ち込みように無理もない。彼は高校時代に真人と共にプレーし、稲嶺高校の黄金時代を築いたメンバーだ。ブラックキャッツでもファーストを守る強打の選手。


「そんな、何とかならないの?ふたばぁを説得しないと」


「やったさ、真人とオレで昨日も行ったところだ。もう決めたことだの一点張りで何話しても聞かなかったさ」


「父さんも行ってた?」


父からそんなそぶりは微塵も感じなかった。一人ですらこうなのだ。常にチームの中心だった父の心中はいかばかりか。


「父さん、そんなことなにも」


「そうだろう、最後にかず坊にいいとこ見せたいんだよ明日は」


「最後って」


どんな答えが返ってくるのか、分かっていても聞いてしまう。


「明日の試合で最後にするらしい。マウンドに上がるのは」


あぁ、光さんは知っててそれとなく自分を試合に誘ったのだと、一人は確信した。


「悔しいよ。こいつを考と良はなんていうか」


考と良と言うのは優の上と下の兄弟のことだ。もちろん二人とも黄金時代のメンバーである。


兄の考は稲嶺でも名の知れた秀才で、現在は東京の大学で准教授をしている。内外野守れる器用な選手だった。


弟の良は俊足巧打の鉄壁のショートだと聞かされている。一時はプロからの誘いもあったと言うが、結局ドラフトにはかからなかった。優いわく、あいつのお調子者が災いしたのだというが、定かではない。


今は別の社会人チームで活躍している。


武田精肉店の奥には、高校時代の武田三兄弟が並んで写る写真が飾られている。


左でどっしりとした牛肉を抱えて微笑む優。


右には眼鏡をかけ、腕組みをしながら苦笑いする考。


その苦笑いの理由は中心で満面の笑みでウィンク、ピースサインを作る良だろう。なるほどこれはお調子者だ。


一人は優に、また自分からも双葉を説得してみると言い、次の配達に向かった。


かず坊なら双葉のばあさんも耳を貸すかもしれないと優は言ったが、どこまでそう思ったのか。



「翼さーん!翼さーん!配達!」


香川鮮魚店の奥に向かって声を張り上げるが、店主、香川翼かがわつばさの返事はない。


留守、なわけがない。店は開いているし、お客さんもいる。


『お代はこちらへ』と書かれたザルに小銭が投げ込まれ、お客は魚をビニールにつめている。


セルフサービスの魚屋なんて、日本でここだけだろう。


でもいつもこうではないのだ。セルフサービスが発動される時というのは――


『ゴォォォォォーーーーーーーール!!!』


「いよぉっっっしゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


店の奥からものすごい叫び声が聞こえてきて一人もお客もビクリとのけぞる。


そう、サッカー観戦に夢中になっているときだ。


「いやぁ、やったやった今日はもう勝ったね、あぁかずちゃんいらっしゃい」


熱気もまだ冷めやらぬ感じで店の奥から出てきたのは翼の妻の弘美だった。


「こんにちは弘美さん、アンチョビサンドの配達なんだ」


「今日は真人君じゃないんだね」


「忙しくてね」


「ごめんね、今あのバカ亭主呼ぶから。翼!翼!かずちゃんが来てるよ!」


弘美は気取りののないからっとした雰囲気の美人で、一人の母、絵里の幼なじみだ。商店街でも評判がいい。


「なんだなんだ、おぉ一人。今いいとこなんだよ」


奥からめんどくさそうに翼が出てきた。小柄でひょうひょうとした体つきだ。もっぱら紺色の作業着を着ている。


香川翼は稲嶺一の俊足で鳴らした二塁手だった。自称、「稲嶺のブルーライン」。理由はよく分からない。


しかし本人は大のサッカー好きだ。小中とサッカー部にいたし、県選抜にも選ばれる実力だったらしい。


息子は二人ともサッカー部にいるし、翼自身、今も地元の少年サッカークラブのコーチをやっている筋金入りのサッカー親父だ。ちなみに、弘美もサッカー部のマネージャーだったらしい。一人にもよく、


「一人、お前頭いいんだからボランチやれ。キャッチャーなんかよりよっぽど楽しいぞ」


と話している。ボランチというのはサッカーチームで言う舵取り役だ。


グラウンド全体の状況を把握、正確なパスを出す攻撃の起点。確かにキャッチャーの役割と似ている所がある。納得はしたが、一人にキャッチャーを辞める気はなかった。


しかしこれだけサッカーを愛するおやじが、どうして高校で野球をしていたのか。一人にとってそれは本当に疑問だ。


彼が目指すのは間違いなく甲子園より国立のピッチだったろう。それなのに未だ翼はブラックキャッツの二塁手だし、野球への文句も言う。わからない。


「そういや一人、お前野球推薦決まったんだって?」


「翼さん遅いよ。決まったっていうかもう来月には入学式だよ」


「ありゃ、そうかい。お前は絶対サッカーやった方が大成すると思うんだがなぁ」


一人は中学での全国大会ベスト4、大会首位打者、ベストナインの実力を買われ、県内一の野球強豪校への入学が決まっている。


というか一人の成績であれば推薦でなくても余裕で合格できるのだが、受験勉強の時間も練習に充てたいからと推薦を受けた。


「そういえば翼さんはグラウンド買収の話、聞いた?」


「そりゃ聞いたとも。別にグラウンドなんて無くなっちまえばいいんだ。みんな河川敷でサッカーすればいい」


翼は涼しい顔で言った。本気だろうか。彼にとっても思い出のあるグラウンドだろうに。


「新しいモールができたってウチの魚は天下一品だからな。何の問題もねぇ。このアンチョビだって、ウチのイワシじゃなきゃ作れやしないのさ」


そう言いながら配達したアンチョビサンドにかじりついた。香川鮮魚店のイワシを使ったアンチョビとたっぷりのレタス、バターコーンをライ麦パンで挟んだ一品。翼はうんうんとうなずき、目を閉じながら味をかみしめている。


店を出るとき、弘美さんが小声で教えてくれた。


「あの人、ああやって強がってるけどね、グラウンドがなくなるって武田の優くんに聞いた日の晩、一人で隠れて泣いてたんだから。ちくしょう、ちくしょうって。やっぱり悔しいのよ、みんなと同じ様に」


それをきいて少しホッとした。と同時に、やっぱり翼は野球も相当好きなのだと気づく。そうでなければ甲子園を選ばない。



最後は、喫茶店とバーだ。実はこの二つが一番の大口だ。昼食の配達ではなく、店の商品として出すパンの配達。


この二店舗は隣り合って建っている。一人が喫茶「ハイライト」のドアを開けるとベルの明るい音が店内に響いた。


「いらっしゃいませ。あ、一人くんじゃないか。配達かな」


「はい、イギリスパンとクロワッサンでよかったよね」


カウンターでにこやかに一人を迎えたのはマスターの井上道いのうえみちだ。


黄金時代のメンバーで、外野手だ。真人たちと同じく今年で37歳なのだが決してそうは見えないほど爽やかな顔立ちで、ベストに赤いネクタイが似合う。言われれば20代でも通りそうだ。


無論、お昼時は彼目当ての奥様方で店内は賑わっている。一人も道が作るホットチョコレートの大ファンだった。


「あぁそうだ、丈二くんもいるんだよ。丈二くん、一人くんが配達だって」


道が丈二くんと呼んだ先、カウンターの端でコーヒーに口を付けている男がいた。隣のバー「ハイライト」のマスター、坂本丈二だ。


「一人くん御苦労さま、ウチの分をあずかろう」


「バケットと、くるみパンだよね」


「あぁ、ありがとう」


大柄なながら細身の体格の丈二は、ビンテージジーンズに革ジャン、髪型はオールバックで口ひげを整えている。


見た目からはとても近づきがたい雰囲気だが、本当はとても心優しい聞き上手のマスターだ。夜は服装もスーツに蝶ネクタイへ様変わりする。


彼も稲嶺で外野を守っていた強肩の名手だ。控え投手も務めていたらしい。


隣り合った喫茶店とバーの喫茶店の名前が共に『ハイライト』であることは偶然ではないし、単に隣同士だからという理由でもない。


もともとは昼営業の喫茶店と夜営業のバーで変わるがわる明かりが灯っている二店舗だが、実は一つの空間を仕切って使っているのだ。


分厚い木製の引き戸が壁になっていて、それを開ければ二つのハイライトは一つになる。


商店街の仲間、ブラックキャッツの宴会などではこの壁が取り除かれて、左右で二人のマスターが料理を作り、酒を振る舞っている。


「外、寒いでしょ。これどうぞ」


そういいながら道が一人に差し出したのはホットチョコレートだった。


「ありがとう」


濃厚な甘みが口いっぱいに広がって、ずっと外にさらしていた一人の体をじんわりと暖める。一人は一つ、丸く息をついた。


「そういえば道さん、グラウンドのこと、きいてる?」


ここでも切り出してみた。道さんはフライパンで何か炒めながら苦笑して言う。


「一人くんも聞いたんだね、残念としか言えないよ。僕たちのお店以外の生きがいみたいなものだから」


手元を料理に集中させてはいるが、いつもよりフライパンを返す手に元気がないように見える。


「みんな試合がないと飲む口実がないからな。集まる機会も減るんじゃないだろうか」


隣で丈二さんが言う。


「商店街の役員さんたちは何か考えてるみたいだけど、あれはどうなんだろうね。売り上げの数字のことばかりだって聞いたけど」


普段のんびりとしているように見える道さんですら役員の寄り合いには疑問を呈している。奥様方の噂話から推測しているのだろうが。


「そもそも話し合いの内容が周りに公開されていない時点で、商店街全体の問題として考える気がないだろう。ウチに役員も良く飲みに来るが、あまり生産的な話はないよ」


「しかし困ったなぁ、じゃあこの店の写真も終わっちゃうよね」


「商店街の写真は終わらないがな」


カウンターを見上げると、大きな写真が額縁に入って並んでいて、その周りにもたくさんの写真が無造作に貼られている。それはずっと入り口の上まで続いている。


ハイライトに飾られているのは商店街の歴史であり、ブラックキャッツ、いや稲嶺黄金世代の歴史だ。


喫茶ハイライトには、現在の商店街の写真と、ブラックキャッツメンバーの高校時代の写真が並んでいる。


バーハイライトには、昔の商店街の写真と、ブラックキャッツ結成から現在までの写真が並ぶ。


ブラックキャッツ結成初期の集合写真では真人や光がトロフィー、賞状を掲げているものが多い。優勝旗が見える年もある。


最近のものでは、みんな手ぶらだ。しかし、メンバーの楽しそうな笑顔は、栄冠があろうがなかろうがいつでも同じ様に見える。


一人は全てをじっくり見たわけではなかったが、高校時代のメンバーの写真はよく見たものだった。


特に父、真人の投球モーションがコマ撮りされた写真は興味本位だけでなく、研究のために見入っていた。


振りかぶりからボールのリリースまでぶれない軸は鍛え抜かれた下半身によって生み出されるものだ。


そして185センチの長身から繰り出されるボールは150キロを超え、それでいてインパクトしても重い。


それはさながら力いっぱいに引き絞った弓のつるの力を、指先一点に集中して撃ち切るような壮大なものだ。キャッチャーのミットはきっと撃ち抜かれるような感覚があったことだろう。


たった十数枚の写真から今は受けることのできない大投手の球を幾度となく想像し、研究した。そして彼にとって、父のような大投手のボールを受けることは何よりの目標であった。


「丈二くんだって、お店に写真をかけるの楽しみにしてたよね」


「それは、そうだが」


道が笑いながらなじると、丈二はごもる。


商店街は終わらないがなと丈二は言ったがどうだろう。


あのグラウンドでプレイするブラックキャッツは商店街一番の輝きであって、象徴だ。


商店街の人たちも試合を楽しみにしていたし、かつての超高校級剛速球投手の雄姿を見に遠方から野球ファンがやって来ていたこともある。


一人はグラウンドが消えて、ブラックキャッツが消えてしまったら、一緒に商店街も消えてしまうような気がしてならなかった。


「また、お別れ会の日程、考えなきゃね」


そういいながら道さんは出来上がったオムライスをテーブルに運んで行った。お客さんにはいつも明るく接する道の笑顔に、陰りがあるように見えた。


酒はほどほどにしないと湿っぽくなるなと丈二さんが言う。残ったホットチョコレートは少し冷めてぬるくなっていた。



「ただいま」


「あぁ、おかえり一人。昼ごはんテーブルに用意してあるから適当にお願いね」


稲葉ベーカリーにもどると、母の絵里は棚に焼きたてのアップルパイを並べていた。香ばしい匂いの中で、にシナモンの香りが際立って漂っている。


「母さん、グラウンドがなくなるって話――」


一人が切り出そうとすると、絵里は手を止めて表情まで固まった。


一瞬何か思った以上にまずいことだったかと思ったがそうではなかった。


「あら、ばれちゃったか」


絵里はこぶしをこつんと頭にやって苦笑した。舌を軽く出すところがまだ若い。どうやらショックを受けないようにという母なりの配慮だったらしい。


「配達で聞いたの?」


「そう。優さんから」


「もう、優くんたらデリカシーのない」


どうせ遅かれ早かれ分かることだ。それと、デリカシーの使い方が違う気がする。


絵里は一人に並べるの手伝ってと言い、一人は隣でドーナツを並べ始める。


「真人くんが顔面蒼白で戻ってきたときは何事かと思っちゃったわよ。大事には変わりないけどね。みんなのカッコイイところ見られなくなっちゃうのは、残念だねぇ」


絵里は稲嶺高校野球部のマネージャーだった。もちろん、ブラックキャッツのメンバーとも昔なじみだし、彼らの野球もよく知っているから無念の思いも同じだ。それでも朗らかに、何でもないことのように話すのだから、母は強い。


「まぁね、みんな若くないんだし、やれてもあと2、3年!少しお別れが早まっただけよ」


本当に、強い。


「でも、あのイチョウの木も切っちゃうんだって。それは本当に残念よねぇ」


「あれも残してくれないの?」


人は思わずトングでつかんだドーナツを落としそうになる。慌ててトレイで受けた。


「あれはさすがに何か保護されるんだと思ってたよ。観光名所でしょ」


「この辺りではそうだけど、文化財とか自然遺産とかではないからね、名もなき古きものは駆逐される運命にあるのよ」


らしくないことを言う。絵里は小説が好きで、ジャンル問わず読む。らしくないセリフが飛び出す時は全てその受け売りだ。今度は伝記でも読んだか。


「毎年道くんが描いてくれるイチョウの絵が好きだったのになぁ」


「イチョウがなくなったらそれこそ――」


グラウンドのすみ、バックネットのま裏に、大きなイチョウの木がある。


樹齢150年を超える大木で、高さは40メートル近くにもなる。秋、黄金に染まる姿は見事なもので、さんさんと盛大に舞い落ちる葉の姿は黄金吹雪こがねふぶきと呼ばれている。


そんな姿を目に焼き付けようと、県内各地から写真撮影や写生に訪れる人も大勢いる。


そんな大樹が夏につくる影は長く、大きい。ネット裏で試合を観戦する人々の避暑地になる大きな影だ。


朝は朝日に照らされて商店街側に影を落とすが、午後からの西日になると、ホームベースからマウンドにかけてを影がすっぽりと覆い隠し、バッテリーを暑さから守る。


イチョウが秋に美しいことはよく知られているが、この暑さからバッテリーを守る光景は野球ファンの間でもちょっとした話題であり、野球のご神木という者もいる。


そんな”ご神木”が、いともたやすく切り倒されてしまうなんてことが一人には、にわかに信じられなかった。


「駅の改修工事、終わったじゃない?」


絵里がおもむろに切り出す。


「新しい知らないお店がたくさん入っててね、びっくりしちゃった。コマーシャルでしか見たことないお店がたくさん。あと、前に児童相談所があった場所、おっきなマンション工事してるよね。あと――」


「まちは変わるっていいたいんだろ。古きものは駆逐されてさ」


「私たちも、その中の一員なんだよ。悪いことばかりじゃないんだと思うんだ」


母は自分に言い聞かせていると一人は思う。彼女は強く、芯のある人だが器用な人ではない。


「好きなブランドが安く買えるかもって?」


「そうそ、おしゃれの幅が広がるよ。昔は結構いけてたんだから」


普段エプロンに三角巾の仕事着姿でVサインを決める母からは、往年のオーラは伝わらない。


父さんが喜ぶよと、一人は思ってもないこと苦笑して言った。


「さぁさ、昼ごはん済ましちゃって。片付かないから」


絵里は笑顔で一人の背中をポンと叩いてレジに向かった。


店の奥、ダイニングで真人がテレビを眺めながらトーストをかじっていた。


一人はぎょっとして一瞬立ち止まる。特に驚くことでもないのはわかっている。しかし色々な話をきいた直後で何をどう立ち回ったものか思案してしまった。


入口からの足音が止まったことに気付いた真人が一人の方を向く。


「おぉ悪かったなカズ」


「あぁいや、いいよ」


普段と変わらない父だ。カラッと明るく声をかけられる。一人は父の向かい側に腰掛けた。


テレビではワイドショーの特集が流れている。注目のニュータウン建設、セカンドライフを中堅都市で有意義に過ごすには。


テーブルには午前中の売れ残りが並んでいる。イギリスパン、あんドーナツ、マヨコーンパン。寒い日は温かい総菜パンやパイはよく売れるので少ない。


「いつまでだ、春休み」


「7日までだね」


「そうか、案外長いな。どうだ、どっか出かけるか」


「出かけるって、どこへ」


「たまには母さんと三人で飯とかな。駅に新しくできたところとか。気になってんだよ」


「悪くないね、オレ和食がいいよ」


そのあと一人の進学する高校出身の何とかというプロ選手がどうだとか、光がまたBLTサンドをほめちぎっていたとか、何気ない話が続いた。真人はパンを一口かじるたびに牛乳でのどをごくりとならす。明らかに牛乳が多い。


少し沈黙があって、テレビが明日の天気予報を流し始めたとき。


「明日なぁ――」

「明日さぁ――」


目を合わせ声が重なって、親子はお互いにぷっと吹きだした。


「なーんだ知ってるのか。光から聞いたか」


「あぁ、投げるんだって?」


「おう、気付かないうちに一ヶ月ぶりだ」


真人は白い歯をニッと見せながら嬉しそうに笑う。一ヶ月ぶりと言っても前の登板も二回きりの中継ぎ登板だった。3点ビハインド。半ば敗戦処理の。先発はいつぶりか、一人も覚えていない。


「相手は?」


「ふっふっふ、驚け。林原重工だ!」


「林原重工?なんでまた、よく取り付けたもんだ」


予想外の強豪に一人は笑った。林原重工は今年度の県内リーグ3位の常勝チームで切れ目のない強打の打線が売りだ。


稲嶺ブラックキャッツ全盛期にはよく優勝争いを演じたライバルだが、先方はとっくに世代交替して選手層も厚く、なにより若い。


今や草野球チーム並みの選手層である稲嶺とでは、少年野球と高校野球ほどの差があるのではないか。


「勝つ気あんのかよ。恥かくだけだぞ」


「うるせぇ、本気で勝ちにいくに決まってるだろうが」


「野球就職の猛者たちと、旬を過ぎたおっさん軍団じゃ試合にならないって」


「勝つんだ!勝つ!」


真人の気合はだだをこねる子どものようにも見えるが、目の奥は燃えていた。その輝きをみて一人まで武者震いする。


「そこでだ、息子よ」


父は突然テーブルを両手でトンと叩いてから、ぐいと頭を乗り出す。なんだよなんだよと、一人はさっきから勢いに押されっぱなしだ。


「お前の知恵を借りたい」



「はぁ?」


「お前の采配を聞きたい」


「そんな、1日そこらで何とかなるかよ」


「勝ちたいんだ」


真人が一人に野球について何か教えを請うのは初めてのことだった。


一人の実力そのものは早い時期から認めていた父だったが、こうして息子にアドバイスを求めるということは今までにない。


剛球派で打者をねじ伏せるスタイルが売りだった真人は、細かいことを考えながら野球をするタイプではない。


一人のように考えながら野球をする技巧派とは無縁であった。


それが自分の野球を後回しにしてでも勝ちたいと言う。その覚悟は並みのものではない。


「それは、オレにキャッチャーをやれということ?」


「そう思ってもらってもかまわない」


ブラックキャッツには戦略的司令塔がいない。


このチームの強さは、黄金世代のずば抜けた個人能力に頼ったパワープレイによって保たれてきた。


やってきた野球はセオリーにのっとったいわゆる普通の野球だ。


そこに技巧派の頭脳がいきなり加わる。そしてブラックキャッツ最後の試合で、一人は父の球を受ける。


果たしてそれでいいのか。ブラックキャッツが積み上げてきた10余年の最後のマスクをかぶるのが自分で。


「いや、オレは受けない。その代わりアイデアは出すよ」


そう言うと、真人は二度ゆっくりと頷いて頼むと言った。


一人は林原重工の野球を何度も見ている。


ブラックキャッツとの試合はもちろん、地域で最も高いレベルのチームには中学校単位で見学にも赴いた。


全ての選手の特徴を把握しているわけではないが、采配の傾向、バッテリーの配球、選手のクセも仮想強豪校として頭に入っている。


自信はあった。ただそれが、自分が手助けをすることが、みんなにとって本当に最良の選択なのかはわからなかった。


一人は一通りの傾向と対策、ポイントを伝えて、残りは試合前にナインが集まってから話すと告げた。


「父さん」


ダイニングから自分の部屋に戻る間際に一人はきいた。


「明日勝つことが、けじめになるの?」


全てを息子が察していることを知ってか知らずか、父は振り向かずに右手を挙げ、ぐっと親指を立てた。


試合は、明日の夕方6時から始まる。



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