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ハイライト  作者: にしおかナオ
18/18

13.トップダウンアプローチ

県立稲嶺高等学校


1.セカンド   香川 翼

2.ショート   武田 良

3.キャッチャー 矢野 一人

4.センター   結城 真哉

5.レフト    坂本 丈二

6.ファースト  武田 優

7.サード    武田 考

8.ピッチャー  稲葉 真人

9.ライト    井上 道    


他、ベンチ入り9名


夏の全国高校野球大会 県予選二回戦


県立稲嶺×私立興産 


3対0


7回ウラ、稲嶺の攻撃


2アウトランナー、2、3塁。





外野は一歩も動くことが出来なかった。


青々と晴れ渡る初夏の空を突き破って、打球が宙を舞う。


理想的な放物線を描いたそれは、ライトスタンドに掲げられた老舗和菓子屋の看板にぶち当たった。


試合を決定づける、スリーランホームラン。打球の軌道を見なくとも、インパクトの打音を聞いただけでそれとわかる完璧な一打。


一回戦、そしてこの二回戦と、二試合連続の特大アーチだ。


淡々とダイヤモンドを一周する4番結城真哉の表情は、ぴくりとも動かず、さも当然のことをしたかのような様子をみせる。


「すごいなぁ、結城のやつ。またコールドじゃないか?早く帰れて嬉しい限りだ」


これまでベンチ奥が指定席だった市村は、この大会から一番ホーム寄りの席にみちると並んで座るようになった。


相変わらずその発言は消極的だが、ここのところ試合中は部員たちとも普通に会話を交わすようになっている。


「バッティングに集中できてますからね。それが良い方向に向いているんだと思いますよ」


気を緩めることなくグラウンドを見つめるみちるは、もうすっかり監督が板について来ている。


「しっかしこの調子だと、また僕の休みはなさそうだな。あと何回試合すればいいんだ?」


「甲子園まではこの試合入れてあと6試合ってとこですね」


「長い。暑い。まったく夏にこの格好は暑すぎるって」


襟口をぱたぱたとあおぐ市村のユニフォーム姿は、相変わらず似合わない。


ホームベースを踏んでベンチへと戻って来た真哉を、選手は皆拍手で迎えるが、真哉の表情は変わらずだった。



「よっ、千両役者!まんじゅうの看板に当てたってことは、こりゃまんじゅう一年分進呈だな。俺にもちょっとわけてくれ」


市村はおどけた様子で真哉に話しかけるが、憮然とした彼に肩透かしを食らう。


「なーんだ、全く人付き合いに問題のある奴だ。大丈夫か?ちゃんと友だちいるか?」


それをあなたが言うか。ベンチに入る選手たちは一様に心の内で突っ込む。


まるで市村の軽口も聞こえていないように、真哉は口をつぐんだままベンチに腰かける。


ふてくされちゃってるなぁ、ここのところ。可愛いんだか生意気なんだか。


みちるは横目に真哉を見つめながら思う。そう、この夏の大会での背番号2は結局、変わらず一人が背負うことになったのだ。


大会を一か月前に控えた例の会議から、熟考を重ねたみちるは、稲嶺が目指すべき方向性として一人が持つ信条を支持した。


今現在の成績自体は、若干ながら確かに真哉に劣る一人だが、その伸びしろは真哉の野球よりも大きいと判断した。


真哉の野球は、どうしても真哉の個人の成長ありきでなければ進歩しないものだ。


それに対して信頼関係を重視する一人の野球は、たとえ一人が迷いを抱えたとしても、真人や丈二がそれをカバーする選択肢が多く残されている。そう考えたことも決め手の一つだった。


そしてみちるの期待通り、1年生ながら4番センターに抜擢された真哉はここまで破竹の勢いで活躍している。


2試合で10打数7安打、2本塁打、11打点。


相手が中堅以下の高校であるということもあるが、バッティングのみに集中した真哉の成績に部員は皆息を飲んでいる。


まぁ、単純にマスクをかぶれない鬱憤うっぷんをバットに込めてるだけなんでしょうけど。


自分のように頭は切れるけれども、それを自分のためにしか使うことを知らない真哉を、みちるはまだ手のかかる弟のように思って笑った。




7回終わって6対0か。一度交代させて見るかな、ご機嫌取りに。


戦況が安定した終盤、みちるにはそんな考えがふとよぎったが、やめた。


真哉のことだ、こんな緊張感のない場面で交代させたって、きっとこちらが機嫌をうかがっていると勘付いてさらに不機嫌になるに違いない。


さらに言えば、これだけ優位な状況であっても油断することはあってはならない。勝機の見えた試合とはいえ、夏の予選はトーナメント方式、一度負ければそこで終わりなのだ。


考ちゃんにとっては、最後の夏だもんね。


二年生が主体となっている稲嶺にとって、この大会が背水の陣といったような意識はどうしても他のチームと違って薄くなる。


自分たちにはまだあと一年残されている。そんな思いがどうしても頭の片隅にある。


しかし、キャプテン武田考にとっては、これが最後の大会。引退をかけた試合の連続なのである。


ご機嫌取りなんて下らない理由で、考ちゃんの夏を終わらせるわけにはいかないもの。


1、2年生のシーズン、松野の独裁によってほとんど自分たちの野球をさせてもらえなかった考にとってはむしろ、これが最初で最後の夏であった。


みちるだけではない。一人や優など、考の苦労を知る面々も同じ気持ちで今年の夏に臨んでいた。


来年ではだめ。何としても、今年甲子園を。そんな思いが稲嶺のベンチを熱くしている。


この試合、7対1で逃げきった稲嶺は、順当に高みへと駒を進めた。



*


【メークドラマ第二章 稲嶺ベスト16に進出】


【エース稲葉 三試合連続完投】


【総合力向上 今年も台風の目となるか】


稲嶺の試合翌日の地方紙スポーツ欄では、稲嶺の活躍をたたえる記事が明らかに目立つようになった。


プロ野球の結果、三層の結果よりも大きく扱う社もある。


「いやぁ、すっげぇ。一躍有名人だな、俺たち。なぁみちる、そろそろ喜んでもいいだろう?」


「まぁね、私たちの力がやっとまぐれじゃないってことが分かってきたみたいだし、写真も大きくなってきたしね」


「だけど、本当に大変になってくるのはここからだ。これで秋と同じベスト16。やっとスタートラインだよ」


「相変わらず堅いなぁカズは。あ、さては俺ばっかり写真に載って自分が映らないのが悔しいんだろ」


「写真は嫌いなんだ。映らなくてむしろ有難いよ」


「ちぇっ、面白くないやつだな」


相変わらず溜まり場な矢野雑貨店の居間。夏休みに突入して練習も激しさを増す中、久々の休日、真人、一人、みちるの3人はつかの間の休息をとっている。


「でも去年の今頃を思い出すと、ほんとに変わったよなぁ」


真人は畳にごろりと寝そべって、けろりと笑いながら天井を仰ぎ見る。


「そうだな、去年の今頃はみちるが寺崎先生の文句ばかり言ってたっけな」


「そうそう!『ふっざけんじゃないわよ!』ってな。いてっ」


真人が下手なものまねをすると、みちるの軽いげんこつが飛ぶ。


一年前、がけっぷちの状態から野球部を取り戻した際、決起をしたのはここに考と優を加えた五人だけだった。


それが今や、黄金世代の全員をそろえ、既存の強豪と肩を並べるまでのチームに成長している。


取り戻した野球部は、彼らの手によってこの居間に収まりきらないほどに大きく膨らみ、確実に新しい形へと生まれ変わってきたのだった。




「まさ坊、お前そんな呑気なことでいいのか?」


居間の三人を、台所で煙草をふかしながら眺めるふたばぁが言う。


「え、何がさ」


「次の相手、なかなか手ごわい相手のようじゃないか」


「なーに、俺だって秋より球も速くなったし、変化球もキレッキレだからな。恐れるるに足りるってやつだ。いって!またかよみちる!」


「足りちゃダメでしょうが。全く適当なこと言って!」


稲嶺がベスト8をかけて戦う相手、それは創英、総陵と並んでこの県で最も恐れられる高校の一つ。


「蒼城館高校、か」


一人のとなりにちょこんと座って、彼の顔を覗き込んだラルドのあごを撫でながら、一人は人知れずつぶやいた。


2013年において、本来ならば一人が推薦で入学するはずであった高校。


史実通りなら三年の夏、稲嶺黄金世代の甲子園の夢を決勝で破ることになる高校。


そして、ブラックキャッツ最後の試合に泥を塗った林原重工の捕手、有馬圭司を擁する高校だ。


次の対戦相手が、この切っても切れない因縁を持っていることを知るものは、まだ一人以外にいない。


父さんたちの、最も成熟した時期の力をもってしても勝てなかった相手だ、まだこの時期とはいえ、その片鱗を見せてくるに違いない。


浮かれる父を横目に、一人はいつも以上に警戒を強めていた。







【蒼い衝撃 蒼城館またも零封】


【連続無失点記録更新 97イニングに※練習試合含む】


打の総陵、変則の創英と、三層にはそれぞれ特徴があるように、蒼城館にもそれはある。


ずばり、鉄壁の守備と充実の投手陣による守り勝つ野球だ。


昨季の秋季大会から蒼城館の試合結果を並べてみる。


リーグ戦  3対0 2対0 3対0

ベスト16 1対0

ベスト8  2対0

ベスト4  4対0

決勝    0対1(対創英、延長10回サヨナラ負け)


夏ここまでの成績

一回戦  4対0

二回戦  2対0

三回戦  1対0


連続無失点記録の記事からも分かる通り、とにかく点を取られない。


大量得点によって試合を制すこと、それも確かにチームの強さを示す大きな指標であるが、この零封という実績を見逃すことは出来ない。


零封を積み重ねられるチームとはすなわち、どんなタイプの野球をしてきても点を取られないだけのリスク管理、状況判断が完成しているということだ。


証拠に、変幻自在の野球を展開する創英にすら、9回いっぱいでは失点を許していない。その堅実さを表すには十分すぎる実績だ。


正直言って、一人は今回の蒼城館戦がこれまでで最も厄介な試合になると読んでいた。 


「やぁ待っていたよ稲葉くん。今日からウチの一員として優秀なキャッチャーが加わるんだ、こんなに嬉しいことはない」


推薦入試で、他の生徒たちよりかなり早い時期に蒼城館への入学を決めていた一人は、冬休みに同校の練習に一足早く招待されていたことがある。


これは強豪校に入った選手であれば珍しいことではなく、一刻も早く高校の練習と雰囲気に慣れて即戦力になってもらうため、よく行われていることだ。


一人を熱烈に歓迎したのは、もうかなり年配の監督で、蒼城館の指揮をかれこれ30年以上務める老将だった。


名前は、木谷と言ったか。これだけの長いキャリアである。当然1993年でも蒼城館の指揮をとっている男だ。


蒼城館は監督の影響もあってか、実に伝統を重んじる気風があり、同じ野球のスタイルを守り続けている。


部室、グラウンド、選手のバックに至るまで、各所で目にする言葉がある。


堅忍不抜けんにんふばつ


我慢強くどんな困難にも屈せず耐え忍び、誘惑にも心を動かさず目標を見据えるという意味のある言葉だ。


厳しい練習にとにかく耐えに耐え、誘惑に目もくれず、とにかく高みを目指すというスタイルは、その守りの野球に直結している。


総陵と創英、どちらと比較しても対極に位置する三層守りの雄、それが蒼城館だ。


それゆえに、一人は自分がここに引き込まれ、歓迎されていることにも合点がいっている。


大型スラッガーはこの集団に必要なく、むしろ調和を乱す要素であるという考えすらあるのだろう。


彼らはいつでも、守りを最優先に考える。とりわけ守りの要である捕手には、最高の人材を欲している。


加えてコンパクトなバッティングと選球眼を持っているとなれば、のどから手が出るほどに欲しい人材なのだ。


そして自分は、きっとこのチームに向いているだろう。中学3年の一人には、そんな思いがあった。


ただ、彼も少し首をかしげた節がある。


「それでは稲葉くんには、入学までの間に一つ宿題を出そうかね」


木谷監督は、一人に分厚い冊子と使い込まれたスコアブックを渡してきた。


「その本にはこれまでのウチの戦い方の変遷が書かれている。そしてそっちのスコアブックは、今年のウチの全試合のスコアだ。これを入学までに読み込んできて下さい」


とてもじゃないが、一介の中学生がこなすような代物ではなかった。冊子には数々の危機的状況を乗り切るアイデアが記され、選手の特徴ごとの対処の仕方も載っている。一節読み切るだけで、日が暮れてしまいそうなほどにそのデータは膨大だった。


「くれぐれも、他の人に見せたり、口外しないようにな」


監督の声が、その一瞬だけこれまでの優しいものから、堅いものに変わったのを一人は覚えている。


まさに虎の巻ということだ。門外不出の秘伝書。これによって入学する前から選手を”蒼く”染めていくことがこのチームの長年続く伝統であった。


結果的に現在、一人はこんな夢のような理由で蒼城館ではなく稲嶺に籍を置いているが、あの秘伝書から学びとったアイデアは、彼の成長において非常に大きいものとなった。


もっとしっかり読んでおくべきだったな。そうすれば攻略のヒントも何か書いてあったかも。


まさか自分が未来の母校と戦うことになるなんて、想定できるはずもなく、一人は秘伝書を流し読みしていたことを悔やんだ。




「そういえば、今日って他のヤツは来ないのか?」


「久々の休みだし、暇じゃないのよ私たちみたいに」


「ふーん、優とか良とか、暇そうなもんだけどな」


「だめだめ、あそこはまだ兄弟げんか継続中なんだから」


「えぇ?まだやってんのかよ。なにでけんかすることがあるんだ?」


蒼城館戦を迎えるにあたって、一つ不安要素というか、気がかりなことがある。というのが、この武田三兄弟の兄弟げんか勃発の件だ。


「この前優ちゃんに聞いたんだけど、結構複雑な理由だったわよ。私たちが口出しできないような」


「なんだよ、晩飯の肉の大きさが違いすぎるとか?」


「まーちゃんそれ、冗談で言ってる?」


「大真面目だ」


みちるは嘲笑混じりのため息のあと、事情を話し始めた。


「三人の将来についての話なんだって。誰がこのまちに残って、誰が出ていくのか、それでもめてるみたい」


要するに、誰が武田精肉店を継ぐのか、その家族会議がもつれてしまったということだった。



「僕は、東京の大学に進学する」


子どももお年寄りも、幸せに暮らせるしくみづくりをするために。その夢を実現するために、三年生となった考は大学進学と同時にこのまちを出ていくことを希望した。


では、武田精肉店はどうするのか。これまで具体的に跡取りは誰なのかという問題が持ち上がってこなかった武田家は、この考の表明をきっかけに、将来を話し合う機会に発展している。


「俺は考兄の夢を応援するぞ。有名な大学に入ってほしい!」


「良いんじゃないの?考兄がそうしたいならそうすれば」


最初、優、良ともに考の進学に関しては何の異論もなかった。優は考の目標について前々から知っていたし、良はそもそも自分のしたいようにすればいいという考えだった。しかし、この後の良の一言で自体は一変する。


「んじゃあ、ウチの店を継ぐのは、優兄ってことでオッケイだよね」


長男考が跡取りの構想から外れたことで、良は店を継ぐのは優だと一方的に決めつけた。実際、史実でいえば店を継いでいるのは優ということになっている。しかし――


「おい待て待て良、どうして話し合いもなしにそういうことになるんだ」


優は反論した。


「だって優兄は考兄みたいに目標あったりするわけじゃないんだろ?だったら高校でたらウチの店手伝えばいいじゃんか」


「ばか野郎、俺だってやりたいことの一つや二つ――」


「へぇ、初耳。優兄もこのまちを出たいわけ?なになに、考兄が教授さんなら優兄は科学者でも目指すわけ?」


「おちょくるな!俺も――大学に行ってみたいだけだ」


それは優にとってささやかな夢であった。考ほどに高尚な目標をもって進学を希望するわけではなかったが、純粋に学びを広げてみたい、たくさんの人と会って話をしてみたいといった漠然とした夢を大学に持っていた。







そのかすかな夢は、本来であれば心の奥底にしまい込まれたまま、表見化することのなかった夢であった。しかし、そんな彼の思いを大きく変えた人物がいた。


「あぁ、わかった!優兄もしかして、最近よくお店にくるあの可愛い女の子と同じ大学に行きたいとか思ってるんでしょ」


「ばっ、ばか!そんなんじゃ――」


良はこういうところの勘が鋭い。その通りだ。優は学年のマドンナ、内海翔子と触れあう中で、大学への憧れを開花させてしまっていた。


大学って素敵、大学って楽しそう、大学生ってかっこいい、早く大学生になりたい。


一緒の帰り道で、翔子はここのところそんな話をすることが多くなった。


「私は白山学院大に行きたいんだぁ。武田くんは?」


「え?あぁ、偶然だな、俺もそこに行きたかったんだよ」


「本当?じゃあ一緒に受験勉強も頑張れそうだね、絶対二人とも合格しようね!」


勢いで言ってしまった言葉。けれどそれは見栄でも何でもなく、優の本心だった。


「良いじゃないか優。大学に行きたいなら頑張ってみればいい。父さんも母さんも元気一杯だし、跡を継ぐのはそれからでも遅くない」


考は優の背中を押してくれている。だがその一方で良は現実を突きつける。


「考兄も優兄も肝心のところが甘いなぁ。大学ってものすごくお金かかるんでしょ?二人ともが一気に行ったりなんかしたらウチはどうなんのさ。俺らは大金持ち宅のお坊ちゃまっすか、華麗なる一族っすか」


確かに、良の言っていることは正しい。大学の学費は国公立4年で800万前後、私立大学ならば1000万以上する。


考が目指している明応大学も、優が翔子と約束した白山学院大学も、共に私立校。そんな大金を捻出できるだけの余裕が武田家にあるかと言われれば、現実は厳しかった。


「それにさぁ、考兄は自分のやりたいこと決まってるからいいよ、だけど優兄は大学に行きたいってだけでしょ?卒業したらどうすんのさ、優兄がもしそれでウチを継ぐなら、やっぱりその4年間って無駄じゃない?」


「――どういうことだよ」


神経を逆なでするかのような良の口調に、優は声を荒げたいのをこらえる。


「だってさ、大学って良い会社に入りたいとか、それこそ考兄みたいに勉強したことを仕事にしたいって人が入るところでしょ?勉強したって結局ただの肉屋におさまるんじゃ、4年間なにしにいくわけ?ただ可愛い彼女といちゃいちゃしたいから?」


「この野郎!黙って聞いてれば!」


優は思わず良の胸倉を掴んで、ぐいと強い力で引き寄せる。しかし普段の軽い兄弟げんかに慣れている良は動じない。


「ほーら、図星だ。言い返せないからそうやって力で黙らせようとする」


「良、言い過ぎだぞ。それは優だけじゃなくて、ウチの店、父さんと母さんも馬鹿にしていることになる」


流石の考も良の言動には釘を刺す。だが――


「あぁ、馬鹿にしてるね。いいよそれで。子どもが夢叶えたいときに、いちいち金の心配しなきゃいけないなんて家、俺は馬鹿にするよ。俺なら子どもにそんな思いはさせない!」


「自分が何を言ってるのか分かってるのかっ!」


これにはいよいよ考も身を乗り出した。



「そんなにウチの店が大事なんだったら、やっぱり考兄が継げばいいじゃないか。優兄だって好きな大学に行って、どこかたくさん給料のもらえる会社に入ればいい。でも俺は絶対ごめんだね。こんなどこにでもあるような肉屋の主人なんかで終わってたまるか!」


「いいだろう、そんなに言うなら僕が進学をあきらめてウチを継ぐよ」


「考兄なに言ってる!そんなことで諦めちゃだめだ」


優は鋭い表情を崩さない考を思いとどめようとするが、そんな彼にも考は厳しい言葉を投げかける。


「優、そんなこととはなんだ。お前もウチを継ぐことを重荷に感じているのなら好きにすればいい。僕はお前たち弟を信じて大学に行こうとした。だけど、信じられないのであれば自分で継ぐしかない」


「考兄そうじゃないんだ。俺は――」


「優、自分のやりたいことを見つけるために行くのも大学だ。だけど、女の子について行くためなんて理由はどうかと思う」


「違うって言ってるだろう!」


話が三角にもつれ始めている。誰がウチを継ぐのか、その枠を飛び越えて兄弟げんかは過熱する。


「まったく、下らないことでこうやって怒鳴り合ってさ、だから嫌なんだよこの家は。俺は絶対この家を出てやる。プロ選手になって!」


良の表明に、熱を帯びていた考と優は、的外れの言葉を聞いたかのように肩をすくめる。


確かに兄弟の中でも最も野球の才能にあふれ、実力をもっているのは末っ子の良だ。しかし、ここまで荒れながらも現実的な話をしてきた二人にとって、それは一番漠然とした話のように思えてくるのだった。



「良、お前本気で言ってるのか?」


「大学なんかより、プロの方がずっと厳しい世界が待ってるんだぞ」


考と優が交互に良を諭すように言う。しかし良は首を横にぶんぶんとふってそれを拒絶する。


「まただよ、これだよ、兄ちゃんたちはいっつもそうだ。そうやって俺のことをいつだって子ども扱いして、何も知らないみたいに馬鹿にしてさ。俺は本気なんだ!絶対にプロ選手になってやる!」


それまでのへらへらとした軟派な口調を一転させて、良は言う。武田兄弟特有の覇気をもった言葉が、彼にもある。


「そしたらこんな店なんてすぐにたたんで、父ちゃんにも母ちゃんにも楽をさせてやる。兄ちゃんたちの学費だって全部俺が出してやるよ、有難く思え!」


過去一番に白熱した兄弟げんかはこの一時だけではおさまらず、さらに尾を引いていくことになった。


それは家庭の中だけではなく、練習、そして試合でも表れてしまっているのだ。


ショートゴロを良が処理し、ファースト優への送球が少し反れると――


「ショート、変にカッコつけるんじゃない!真面目にやれ!」


優が語気強く叫び、もし優が球をこぼそうものなら――


「おいおいファーストそれ落としちゃう?」


またけんか腰に良が言い、サードゴロの処理に考がもたつくと――


「サード遅いなぁ、遅いなぁ、何なら代わろうか?ショートの方が上手く出来るんじゃないの」


良も半ばやけっぱちになっている。兄弟とは言え、キャプテンに向かってそんなもの言いをする良に、多くの部員は耳を疑った。


練習どころか試合中でも似たような光景は続き、守備の連携は乱れる場面が増えている。


ファースト、サード、ショート。内野のほとんどを占める武田家の不協和音は、そのまま稲嶺守備陣への影響に直結してしまっていた。


「全く困ったもんよね。なんでよりによってこの時期なのよ」


守備の乱れは記録にも表れている。三回戦、1アウトランナー1、2塁の場面で、サードゴロを処理した考は、サードベースを踏んでひとつアウトを取った後、ダブルプレーを狙ってファーストに送球しようとした。


しかしその刹那。


「ばか兄!セカンドだ!」


二塁にベースカバーに入ったショート良が考に声を飛ばし、考は送球に迷ってしまう。


結局一塁の優に送球したが、迷いで送球が反れただけでなく、良のひと声に注意を奪われた優も捕球することが出来なかった。


ボールが反れた間にランナーが生還。ダブルプレーでピンチを乗り切れるはずが、三兄弟の連携が乱れることによって不要な1点を献上してしまった。


「何やってんだよ兄ちゃんたち!」


「お前が余計な指示を出すからだろうが!」


「やめないか二人とも!」


これ以外にも小さなミスを連発する三人は、試合を経るごとにその関係を悪化させていった。


「考ちゃん、最後の大会だって言うのに、優ちゃんも良ちゃんも、こんなことしてる場合じゃないでしょうに」


ちゃぶ台でほおづえをつきながら、曇り顔のみちるは深いため息混じりに言う。


その横で一人は内心、優にポケベルを手渡し、翔子との接点を作り出したことを少し悔やんでいた。


もし自分が優にポケベルを手渡し、使い方を教えなければ、翔子と仲良くなることはできなかっただろうが、同時に大学進学のことについて、ここまで兄弟に主張することもなかったのではないか。



相変わらず仮説の域を出ない話ではあるが、自分が兄弟げんかが拡大する要因を作り出してしまったことには確信があった。


優も、良も、きっと本当は、考を甲子園に連れて行ってやりたい、その一心で野球をやりたいはずなのだ。


しかしそれを邪魔する、将来への願望と、捨てきれない意地。


一人は人知れず責任を感じていた。


蒼城館の守りの野球に対抗するために根底として必要なのは、絶対的な攻撃力ではない。零の持久戦にも耐え、食らいつくだけの精神力だ。


その要となる武田兄弟の活躍が、次の試合では不可欠となるだけに、稲嶺の抱える病巣は大きく、早く取り除かなければならなかった。


*


夏の全国高校野球大会 県予選4回戦


稲嶺×蒼城館


0対1


4回表、稲嶺の攻撃


ノーアウトランナー、1,2塁




衝撃が走った。


稲嶺ベンチも客席も思わず息を止めてしまうようなプレイ。


外角の球を上手く流し打ち、三遊間を抜けると思われた、3番矢野一人会心の当たり。


それを蒼城館ショート玉置たまきは動物的な跳躍でダイビングキャッチしたのだ。


それだけではない。


すぐさま体勢を立て直した彼は二塁へ送球。


ヒットと思って疑わなかったランナーは、もちろん飛び出している。


あっという間に二塁ランナーを殺し、同じく飛び出した一塁ランナーも素早い送球で殺す。


トリプルプレイ。


チャンスがあっという間についえ、すぐさま攻守交代を突きつける、野球では滅多に起こることのないスペシャルなプレイ。


俊足ランナー、翼と良、そして打った一人も目をひんむいて起こったことを認識するのに時間を要す。


偶然?いや偶然ではない。計算されている。このトリプルプレイでさえも。


蒼城館秘伝書に目を通した一人には分かる。それが意図的に画策されたシナリオであったということが。


なぜなら、覚えているからだ。『トリプルプレイを狙う』という、通常なら考えられない手法の考察が、秘伝書にあったことを。


『ランナーが飛び出す程度にヒット性の当たりを打たせる。外角真ん中に緩めの直球。条件として、三遊間にはとびきりの攻守を置くこと』


同じだった。絵空事だと思っていた考察を、実践してみせるチームに、一人は戦慄した。こんなことがあっていいのか。


反撃の芽を摘まれるなんて、可愛らしい表現ではない。鎌で首をかっ切られるような衝撃。


まだ4回だというのに、稲嶺には息の根を止められたような心地が漂った。


「なんか強いみたいだな、今回の相手は」


「そうですね、飛びきり強いですよ。去年やった創英や総陵と並ぶ強さですから」


「そうか?僕にゃよくわからんが、こいつらが一番強いような気がするぞ。これまでで」


「そうですか、なら先生もだいぶ野球分かってきたんじゃないですかね。私も思ってたんですよ、それ」


三層で一番強い。その言い方で言えば、去年の秋季大会でこの蒼城館を破った創英が最強ということになるのかもしれない。


しかし、今ここでみちるがいうのは、相性の問題だ。ここまで三層それぞれと戦ってきたが、このチームが稲嶺にとって最も相性が悪い。


組しにくい相手だ。


それは、この回の稲嶺の守備からも読み取ることができる。


「ボール!フォアボール!」


この試合早くも4つ目の四球を献上した真人は、帽子をとってぶるぶると汗を払って、身体全体で息を大きく吐いた。


その様子を見た一人が、マウンドに駆け寄る。


「大丈夫か?」


「あぁ、疲れたとかそんなのはない。でも難しくてなぁ」


「いつも通りのピッチングはできてるんだ。気にするな。俺がなんとかする」


そう、真人は何も、今日に限って苦手な制球が輪をかけて悪いわけではない。むしろ制球はいつもより安定している。


一人が要求したコース通りに投げられていることが多いのだ。


にも関わらず、四球が多いのはなぜか。


それは、相手打者の選球眼に問題があった。


よく訓練されている。


一人がぎりぎりストライクを外れるコースを要求しても、振らない。釣られない。


ハーフスイングすらせず、淡々と見送ってくる。


審判によってはストライクをとってもいいだろうという、絶妙な球ですらスイングしてこないことがある。


おいおい、手が出なかっただけじゃないのか。本当にボールだと分かって見送ってるのか。


網膜にストライクゾーンの枠が焼き付いているんじゃないかと思うほど、蒼城館の選手の選球眼は正確だった。


まるで1番から9番まで井上道に近い目をもっているかのようだ。


一人自身も、選球眼には自信がある方だが、ここまで正確なのには舌を巻く。特に先ほどスーパープレイを見せた玉置と、有馬圭司はすごい。


1回、二つのフォアボールを奪われ、ランナー二人を置いた段階から、4番有馬にストライクを取るために緩く入ってしまった直球をセンターにはじき返され、1点を先制された。


新生稲嶺が先制を許すのは、公式戦では初めてのことであった。


必要最小限のヒットでランナーを返す。ホームランなんて、派手な打撃は必要ない。


それが、守りのチームが見せる攻撃スタイル。


攻撃にまで、守りの要素が垣間見えるまでに、その方針は徹底されていた。


「バット振ってこないってのが拍子抜けなんだ。勝負する気あんのかよ」


普段のんきな真人の表情にも、かすかないらだちが見える。無理もない。打者は勝負する気はあるが、相手をする気はないのだ。


真っ向勝負を生きがいとする男にとって、これほどまでに相性の悪い相手は、いない。


「――ボール!フォアボール!」


――入って、いないのかっ!


外角に決まった直球。


バッテリーが絶妙と確信し、一人がミットをじっと止めた球にも、審判は手を上げない。


真人は思わずマウンドの土を蹴った。これで5つ目だ。


稲嶺の守備の時間が長くなっている。初夏の日差しは鋭く、マウンド真人の肌と体力を焼いていく。


滴り落ちた汗も、途端に干上がってしまいそうな炎天下の中、エースは外気とは正反対の”寒さ”を目の前の打者たちに感じ続けている。


ノーアウト、ランナー1、2塁となって、一回と同じシチュエーション。


予想通り、嫌な攻め方をしてくる。


蒼城館にとって、一発で投手を打ち崩す当たりはむしろ邪魔と言っていい。このようにバッテリーも、内野も嫌がる状況を幾度となく繰り返し、守備の時間を増やすことで戦意を削ぎ、精神面から攻略を謀る。


こうなれば――


三番打者に対する一人の要求は――


「ストライク!」


インコースへの直球。


「ストライク!」


それも連続。


「ストライク!バッターアウッ!」


三連続。


きわどい球が使えない。それならば――


バッテリーは、力押しにかける。



一歩間違えば打者の身体に当ててしまうか、ド真ん中へ入ってしまうハイリスクな戦法。


それでも一人は父を信じてサインを送る。


4番有馬に対しても、変わらずインコースに直球のみを要求する。


見逃せまい、打ってみろ!


「ストライク!」


インコースしか投げてこないバッテリーに、当然有馬も狙い球を絞っている。


しかし、打てない。バットは伸びを持った直球に空を切る。


直球だと分かっているのに打てない。稲葉真人最大の強みを活かせるのが、この内角への直球だ。


強気の配球で、何度でも球が内角を突き刺す。


時折、打者の身体すれすれの場所を横切って、有馬も身をよじらせるが、バッテリーはお構いなし。


とにかく内角に剛球を要求し続ける。


相手をしてくれない蒼城館打者を無理矢理土俵に引きずりこむようにして、ペースを稲嶺に手繰り寄せていく。


「エイヤァ!!」


「ストラックアウッ!」


勝負に来ないなら、自分から勝負に行く。


真人渾身の一球は、初めての150キロの大台を突破した。





「無茶をするんですね。それも”信頼”あってこその配球というやつですか」


4回のウラを三者連続三振に打ち取ったバッテリー。ベンチに戻るなり、真哉がヘルメットをかぶりながら一人に問う。


「無茶じゃない。実際に出来ているんだから」


皮肉の混じった真哉の口調をするりとかわすように、一人は笑みをこぼしながら返す。


真哉は面白くなさそうな顔をしたが、一言。


「僕には考え付かない手です。勉強になりますよ」


無理矢理に真摯な言葉を絞り出して、打席に向かう。


その言葉と足早な後ろ姿が、嫉妬心を包み隠しているように見える。


まだ、幼いな。


昔、東京で出会った結城真哉と、目の前の彼では、物腰に大きな違いがあるように一人の目には映る。


全てを受け入れるように深い懐でありながら、締めるべき場所をわきまえた鋭い眼光。そんな達観したものを、まだ真哉から感じることは出来ない。


確かに実力では自分より勝る部分が大いにある真哉ではあるが、まだまだ潜在した能力を呼び覚ませないでいるという印象だ。


自分こそ正しい、自分こそ最も優れている、そんな思いが、左打席に入る背中からにじみ出す。


彼にとって、正捕手になれないというこの状況は、初めて感じる壁であって、自分の実力に対する疑問なのかもしれない。


『徳川家康はな、隣国今川への人質として召し出され、壮絶な幼少期を送ったものだ』


これがふたばぁの言う、帝王学に勝る教育だというのなら、なるほど合点がいきそうだと一人は納得した。


「ストライク!」


5回表、バッティングは好調を維持してきた真哉だが、彼さえも抑え込む好投手が、蒼城館にはいる。


ここまで稲嶺はわずか1安打1四球、稲嶺に反撃のきっかけを与えない男は、マウンド上で涼しい笑顔を浮かべている。


エース、東雲浩太しののめこうただ。


蒼城館守りの野球の立役者にして、難攻不落の超技巧派2年生右腕。


身長は投手として、いや野球選手としてもかなり低い167センチでありながら、どんなタイプの打者であっても手玉に取る多彩な投球技術を彼は持つ。


まだ少年のように幼さが残る表情と、常に笑顔を絶やさないその風貌からは想像もつかないマウンドさばきで、これまでも数多のチームを零封に抑え込んできた。


130キロそこそこの直球しか投げられない、一見すると平凡な投手であるはずなのに、打者は全くタイミングを合わすことができない。


「くそっ!」


一打席目に続いて、真哉は外角に落ちる遅球にバットの先をひっかけ、サードゴロに倒れる。


数ある配球を予測しているはずの真哉ですら、東雲の投球を読むことが出来ない。


バットには当たる。軌道も見える。しかしどうしても芯でインパクトすることが出来ない。


こんな大したことのない球なはずなのに。


この東雲と対戦した打者が皆頭を抱えるのが、この問題。


これこそ東雲と有馬の術中である。



東雲が他の追随を許さない武器とするものは、二つある。


一つは、変化球。


スライダー、カーブ、チェンジアップ、そしてカットボール。


これがエース東雲の持ち球だ。一見すると球種もそこそこで特別多くないと思われる。


しかし、彼の投げる変化球はただの変化球ではない。


一言にカーブと言っても、この変化球は基本的な投げ方以外に、微妙に握りや腕の振りを変えることで多彩に動きを変える。


腕の振りを緩め、90キロにも満たない超遅球となる、通称スローカーブ。


握りの変化によって斜めの変化を縦の変化へと変える、ドロップボール。


さらに、直球と同じ腕の振り方で投げることができる遅球が、チェンジアップ。直球が来ると思って疑わない打者のタイミングを完全にずらす。


そしてもっとも厄介なのが、カットボールという球種だ。これも直球と同じ腕の振りから繰り出される変化球で、チェンジアップと違って直球とほとんど変わらない速度のまま、微妙に落ちてくる。


結果、打者は直球と思い、真芯で捉えた感覚であっても、知らぬ間に芯を外され、凡打を打たされる。


打つ直前までどんな球が来るかわからない。ゆえに、狙い球を絞れない。


打者のタイミングを完全に読み切った変化球の妙技が、そこにある。





二つ目は、絶対的な制球力。


針の穴に糸を通すような――とコントロールに優れている様を形容することがあるが、この東雲の投球こそ、まさにそれを体現したものだ。


打者の裏をかく変化球も、言ってしまえばこの制球力が基礎にあるからこそ成立するものである。


直球であろうが変化球であろうが、有馬がミットを構えた場所から動かして捕球することはほとんどない。


要求したコースを、東雲は外さない。


ストライクゾーンのぎりぎりを突く球を連発し、打者にその境界を見極めさせない。


なるほど、この東雲の制球力ありきの、打者たちの選球眼か。


稲嶺の打者が次々に打ち取られるなか、一人は蒼城館打者たちが、いかにして選球眼を鍛えたかを察した。


少なくとも、一朝一夕に攻略できる相手ではないことは確かだった。


この回も、稲嶺の攻撃は零封。四回目の三者凡退。




力押しは続かない。


続けられないのではなく、続けさせてもらえない。


内角を狙った球に対し、蒼城館は次の手を打ってくる。


「何回来んだよ、ちくしょうめ!」


ノーアウトランナー、1塁。


守備位置へと戻る翼が思わず声をもらしたのは、7番打者への4球目だった。


バットを短く持ち、グラウンドにボールを叩きつけること、そしてセーフティバントを狙うことで、とにかく投手と内野陣を前へ前へと引きこんでくる。


打者がヒッティングから、瞬時にバントの構えを見せるたびに、内野は前へ走り込むことを強いられ、グラウンドを何度も往復する格好になっていた。


もちろん、ボール球であれば確実にバットを引いてくる。


じっとしているだけでも体力を奪われる気温と日差しの中、直接アウトに関係のないダッシュの連続によって、稲嶺の内野陣のいらだちは体力と反比例してつのっていく。


特に速いスタートを強いられるセカンド翼とサード考はもう、肩で息をしている。


そして、ミスは起こる。





5球目だった。


ようやくフェアグランドに転がったバントの打球。


それを捕球したのは、サードの考。しかし、


「セカンド!」

「ファースト!」


送球の指示が交錯する。


内野のほとんどがファーストを指示する中、セカンドと叫んだのは、ベースカバーに入った良だった。


どっちだ!?


一瞬判断に迷う考。中途半端に一塁送られた球は、優のミットを大きく反れて転がった。


同じ。三回戦でのミスと、同じ。


ランナーそれぞれ進塁で、2、3塁。


恐れていたことが起きてしまった。


「なにやってんだよ考兄!セカンドだって言ったろう!?」


「ばか野郎!どう考えてもファーストだろうが!」


両手でふとももをばんと叩いて、がっくりと肩を落とす良に、優の鋭い一喝が飛ぶ。


二人のあまりの剣幕に、相手のベンチまで異様な空気が漂うことが感じ取れる。


まずい。


一人には、化膿した病巣に、針が突き刺さるのがわかった。




続く打者が立て続けに狙うのは、サードの考だった。


真人の速球に食らいつきながら、地面に思い切り叩きつけて考のミスを誘う。


三塁線を切れるゴロ、バントの構え、とにかく考が打球を処理するよう意識した打者の姿勢に、一人は危機感をつのらせる。


なんとか、右側に――


右打者に対し外角を要求するが、今度は真人のコントロールが追いつかない。きわどいコースを突けず、ボールカウントが増える。


もう、要求できる手がない。


ストライクを取りに、甘いコースを構えざるを得なくなった直球。


それは予想通り、サード方向へと転がっていった。


「先輩落ちついて!」


一人には、声をかけることしかできない。


いつも通りゴロをさばきにかかる考、しかし身体が固い。


先ほどのミスを、引きずっている。


球は、グラブの中で暴れ、手に付かなかった。


一度痛みを知った病巣が、一気に考の精神を飲み込んでいく。


「ばか兄!バックホームだっ!」


もはや良の叫びも、焦る考には届かない。


普段通りならチームを鼓舞し、誰よりも堅実なプレイをするはずの大黒柱が、グラウンドでおぼれている。


そんな兄の傷口を、非情にも広げてしまうのは他でもない弟だった。


考のお手玉の間に、三塁ランナーが還る。


これで、0対2。





自分のミスが、自分が弟たちを抑えられない結果が、チームに悪影響を与えてしまっている。


足を引っ張っている。


キャプテンの自分が。


考の心中は、これまでになく混乱に満ち、責任を感じることでさらに傷口を広げる。


そしてそれを察している一人はもどかしかった。


どうにかしたいと思うものの、要求する手がもはや後手後手。


三塁に打たせまいとすることは、選択の幅を大きく狭めることを意味し、それこそ相手打者に狙い球を絞らせてしまう。


かつ、釣り玉には乗ってくれない洗練された選球眼。


もう、三塁に打たれること覚悟で、考を信じて配球を組み立てるしかない。


しかし、一人にはどうしても今の考を信じ切ることが、できない。


その迷いが、一人のミットを知らず知らずのうちに甘いコースへと誘った。


――しまった!


インパクトされた打球は快音を残して三遊間へ。


固まる身体を動かし、球に食らいつこうとする考、そこへ――


「どけよ考兄!」


覇気のある声で兄の足をピタリと止めさせ、その後ろへ瞬時に回り込む弟。


レフトに抜けようとする打球をバックハンドで抑え、倒れ込みながら二塁へ送球。


「よっしゃ、ナイス良!」


それを受けた翼はすんなりと一塁へ送球し、ダブルプレイを奪って見せた。


不幸中の幸いか、このコンビの息は、相変わらず合っていた。しかし――


「足がすくんでるなら、動くんじゃねぇよ!」


直後に弟の放った一言は、兄にとってとどめの一撃だった。


いつも稲嶺の守備で聞こえてきた大きな声が、止まる。


いつでも活気づいて止まることのなかった足が、止まる。


考の眼鏡が曇っていくのが、遠目にも分かった。


一人は、センターから自分に向けられた鋭い視線があることに気づいている。


あぁ、わかってるよ真哉。


君が言いたいことは。


俺の野球に、言いたいことは。




*


「外してしまえばいいんですよ。もう我慢ならない。今兄弟を内野に並べることはリスクでしかない。また無用な失点を増やすおつもりですか」


一人とみちるを相手に、真哉は間髪いれずに言い放つ。


「しかし、考先輩も優も、良も、本来の連携が出来るのであればそれに勝る内野の布陣はウチにないはず――」


「その”本来”が出来ないからこそ言っているんです。多少戦力が落ちるからと言って、この問題を見過ごすおつもりですか?」


「まぁまぁシンちゃん、落ちつきなさいよ。外すにしたって三人とも外すわけにはいかないんだから」


「最悪、僕はそれも辞さない考えです。試合に私情を持ちこむなんて、醜態も甚だしい。一度ベンチで頭を冷やして頂きたい」


真哉の口調は先輩に対して一切物怖じをしないものだ。自分の意見に絶対の自信を持っていた。


絵里の意見を採用した三者会談は、夏の大会が始まってからこうして練習後の部室で行われるようになった。


外は薄暗く、人の気配が辺りになくなった野球部の部室。


ぼんやりと光る裸電球が部屋の中心で揺れる中、一人、みちる、真哉の三人は頭を突き合わせている。


初戦から輪をかけてひどくなっていく兄弟の現状に、真哉は早い段階から三人をレギュラーから遠ざける、いわゆる懲戒人事を提案していた。


しかし問題の自然治癒を願う一人との間で意見が割れており、みちるがそれを仲裁する形で三回戦までを現状維持で乗り切ってきた。


しかしながら、三回戦に兄弟の連鎖的なミスから点を献上してしまった件で、真哉の堪忍袋は今にもはち切れそうになっていた。


「甘い。甘すぎる。なぜです、なぜ先輩方はあの三人に何の忠告もしないんです」


小中と、競争社会と実力主義の中で野球をやって来た真哉にとって、チームの輪を乱す行為は理屈抜きに懲罰の対象となるという認識だった。


それだけに、みちると一人の姿勢は弱腰であると彼の目には映った。


「何もしてないわけじゃないのよ?あたしと絵里ちゃんがそれぞれに事情は聞いてるし、他のチームメイトが不安に思ってることも伝えてある」


「だからそれだけじゃぬるいと言っているんです。試合は近々で迫ってるんですよ?改善が見られないなら、上からさらに処置が必要になるはずです」


また、”上から”か。


一人の頭にはどうしてもこれが引っかかる。


「キャプテンよりも上の立場がこの三人の中にいるっていうのか?」


「僕たち三人は、稲嶺の最終意思決定を任されているはずです。僕がここに呼ばれているのは、上級生のみに意見が偏らないようにするためであって、運営面での立場は場合によっては上です。相手が主将であっても」


株主総会の決定によっては、組織の最高責任者である社長がクビになるということもある。


練習面でのトップは言うまでもなく武田考であるが、こうした運営の方向性を決定するという意味では、自分たちの方が優位であると、真哉は言いたいのだろう。


この、ビジネスライクで情念まで飲みこんでしまおうとする、高校生離れした思考に、一人はついていけない。




「じゃあ仮に、誰かを外すとしてよ?誰を外せば事態がおさまると思うの?」


「武田良ですね。彼が明らかに事態を悪化させている。考、優両先輩はそれでも分別がありますが、彼は違う。機嫌のおもむくままの振る舞いは悪影響しかありません」


「まぁ、その良ちゃんが一番調子上がってるんだけどね」


真哉の言うとおり、兄弟げんかに油を注ぎ続けているのは良だ。練習中、試合でも関係なく兄たちに悪態をついて雰囲気を乱している。考と優はそれに耐える場面が多い。


しかしみちるの言うことも確かで、三試合終わって良は10打数5安打と当たっている。一番の翼との相性は相変わらず抜群で、攻撃面でこなすべき仕事はこなしている。


戦力的に見れば、彼に代わる要因というのは考えにくいというのが現実だった。


「それでも、彼がこのまま試合に出続けることは負の相乗効果を増幅します。彼は僕と同じ一年生ですし、一番懲罰を与えるリスクが少ない」


選手は兵隊か、学年は階級か。一人の心の内には煮え切らぬ思いが渦巻いている。本来口にしたい言葉をぐっとこらえて、一人は真哉に問う。


「しかし、考先輩は人一倍責任感の強い人だ。ただでさえ今の状況に悩んでいるだろうに、弟がスタメンから落ちたらどう思うだろう。また自分の責任でチームの輪を乱していると思いつめるに違いない」


「チームの輪を乱しているのは事実なんです。思いつめて当然なんです。キャプテンだからこそ、その責任は感じてもらうものです」


「考先輩は最後の夏だ。こんな思いで野球をしてほしくはない」


「負けてしまえばそんな杞憂きゆうもすべて水の泡です。終わりなんですよ」


相変わらず、全くもって情のない考え方だ。真哉は口をつぐんで、目をとじたまま鼻から大きく息を出して続ける。


「子どもだましが通用するのはここまでです。次の相手は三層なんですよ?これまでとは比較にならない厳しい戦いになる。それがわかっていながら、どうしてそこまで三兄弟にこだわるんです」


「そうねぇ、どうして?ひとりくん」


みちるがまるで他人事のように、質問を一人に受け流してくる。それに一人は少し憮然としたが、答えるべき言葉は決まっていた。


「信じているんだ。彼らを」


一人は真哉の目を射抜くように見据えて言った。


しかし彼は首を横に何度も振りながら嘲笑する。


「精神論ですか、あなたともあろう人が。そんなものに頼っているから、稲葉先輩の暴走を招いたり、今この状況が改善しないまま放置されているんです。結果だけ見れば、それは怠慢ですよ」


「真哉、君はまだこのチームに来て日が浅い。だから、彼らを信じるに値する理由が見当たらないかもしれない。けれどこれまで目の前を守る全ての者を信じてきたからこそ、俺の配球がある。今日の稲嶺がある」


「ふん、まるで昔から知っているかのような言いぐさですね、あなただって、去年このまちにやって来たばかりのはずなのに」


口には出来ないが、事実そうなのだ。商店街で生まれ育った一人に、彼らを信じないという方が難しい話だ。


「まぁ、それは置いといて、確かにひとりくんは皆のこと良く分かってるわよ、信用もしてるし、信用もされてるわ」


そんな一人の思いを代弁するように、みちるが付け加えた。


真哉は、一人とみちるを交互に見遣ってから、口を開く。


「もし――もしも信頼に応えてもらえなければ、どうするんです。裏切られれば、どうするんです」



重苦しく、目を反らしがちのその言葉を受けても、一人の考えは変わらない。


「それでも信じる。オレは彼らを、信じ続けることができる」


「宗教かなにかですか。実にもろい。裏切られれば、そこまでですよ」


「もろいかどうかは、君が決めるものじゃない。裏切られるのは、信じられないからじゃない。信じられないから、裏切られたと思うんだ」


「そんな詭弁を並べて!」


「ストォォップ!」


話が横道にそれそうになるのを、みちるが寸前で制した。


「とにかく、今は三人をどうするかでしょう?シンちゃんは、ひとりくんの意見を聞いて付け加えることは?」


「ないですよもう、何も」


途端にトーンダウンしてしまった真哉に、一人もみちるもきょとんと拍子抜けする。


「そんなに言うならやってみればいいですよ。少なくとも、僕はそんな不安定な状態でチームのマスクを預かることなんてできない。だから、勉強させてもらいます」


その口調は落ち着きがありながらも挑発的だった。やれるものならやってみろと言わんばかりに。


「ただ、これだけは言わせてもらいますよ」




「先輩、あなたは優しすぎる。その優しさは、いつか自分を殺しますよ」







*


稲嶺にとっては致命傷になりかねない3点目を防いだのは、センター結城真哉の身をていしたプレイだった。


ツーアウトランナー、3塁。


バットを短く、コンパクトな打撃を繰り返してくる蒼城館打者の当たりは、センターへしぶとく弾かれる。


これは――落ちた。


誰もが3点目を覚悟し、二遊間を見遣った。


そこに、まだ諦めていない男が飛びこむ。


相手の作戦を見逃すことなく、一人の指示よりもさらに浅い前進守備をとっていた真哉の判断が勝った。


「アウトォ!」


半ば独断のワンマンプレイで窮地を救った真哉は、これ見よがしな視線を一人に送りながらベンチへと戻った。


先輩、僕が何をしているかわかりますか。


わざわざしてやってるんです。


あなたの尻拭いを。


あなたの信じる野球から生まれた綻びの始末を。


一人は、そんな視線を背中で受けた。


決して目を合わせることはしなかった。


「良、今すぐ交代だ」


「はぁ?なんでお前がそんなこと俺に指図できるんだ。そういうの決めるのはみちる姉で――」


「2点目を誰のせいで取られたと思っているんだ!」


ベンチに戻るなり、真哉は真っ先に良へと詰め寄った。それでも、良は素知らぬ顔で目を合わせようとしない。


「はん、見たろ、そりゃ考兄のマズイ守備で――」


「まだこの状況を飲みこめていないのか――君は。僕が進言して、君を交代させる」


「おいおい、シンよぉ、お前も一年だろ?そんなことできるかって」


「秋山先輩!もう我慢の限界です!交代を!」


このチームならば、甲子園出場どころか、その頂点まで狙える。


そんなことを一時でも口走ったことを、真哉は恥じていた。


同時に、こんな私情の介入で緩んでしまうほどに地盤がぜい弱な集団であることを、見抜けなかった自分を悔やんだ。


こんな、こんな茶番劇をよしとする人たちが首脳だなんて、どうかしている。


荒ぶった真哉と、淡白な良の言葉が行き交う中、みちるは苦笑する。


「困ったもんねぇ。別に良ちゃんを替えたって、その場しのぎにしかならないんだけど?」


「この場をしのげればいいんです!後のことは、後から考えればいい!」


何ともビジネスライクとはかけ離れた発言に、沈黙を守る一人は肩をすくめる。


真哉、私情とは違うだろうけど、感情的になっているという意味じゃ君も同じだ。




そんな中、一本の腕が良の胸倉を強い力でぐいと引き寄せる。


誰もが、激高した真哉か、弟の身勝手にしびれを切らした優だと思った。しかし、その腕の主は、ネクストでバットを振っているはずの意外な人物。


「良、お前、なんのために野球やってるんだ」


「――まさ兄」


普段の、のんびりと優しさにあふれた瞳はそこにはない。ふらふらと軟派な態度を見せる良の性根を叩き起こさせる、鬼気迫った視線を真人は放っていた。


今までに見たことのない真人の厳しい顔つきに、思わず他の部員たちは手が出せず、息をのむ。


「そんなの――俺はプロ野球選手になるためで――」


「それだけか?」


「えっ?」


「お前は自分のためだけに野球やってんのか。違うだろ」


思わず反らした視線に、良の本心が垣間見える。


「よく見やがれ」


真人は良の胸倉を持ったままベンチの最前列に引きずり出す。


見えたのは、東雲に対して何とか食らいつき、塁に出ようと奮戦する打席の考だった。



「お前は、あいつのためにも野球してるんじゃないのか。よく見ろ、考はお前にどう言われたって、自分のやるべきことを果たそうとしてるんだ。どれだけ動揺してようが、必死にもがいてるんだ。命がけなんだよ。それがお前にわかるか」


良はぐっとくちびるを噛みしめて、考を見た。カウント2-2、追い込まれていながら、考は何とか紙一重のところでバットに球をかすらせて粘っている。


自分のせいで奪われた1点、そして、試合の流れ。


それを何としても、自分が取り戻す。キャプテンとして――


「お前に考の覚悟が分かるか。お前に、考ほどの覚悟があるか」


良はまだ幼さの残る丸い瞳に、涙をためていた。真人の迫力からか、自分の不甲斐なさからかはわからない。しかし、先ほどまでの軽薄な調子は、微塵もなかった。


「その覚悟がないなら下がれ。お前には、俺と同じ失敗をしてほしくない」


真人の行動の背景には、昨年の総陵戦で自分が犯した過ちがあった。


『キミの言う命がけなんて、カッコつけの嘘っぱちよっ!』


みちるに自らの暴走をとがめられたあの日の自分、自身の楽しみのためだけに腕を振るっていた自分。


弟のように、昔から可愛がってきた幼なじみが、今自分の目の前で、自分と同じ過ちをくり返そうとしている。


そんな光景を目の当たりに、真人は彼の目を覚まさせずにはいられなかった。






「俺は――」


良が口を開こうとしたときだった。


考に向けられて投じられた9球目、ついに考のバットは東雲のカーブをとらえた。


ぼてぼての当たりながら、打球は上手く三遊間の深みへと入っていく。


ヒットになる!ベンチが考の激走に湧いた。


しかし、ショートの玉置はこれに巧みにまわりこみ、手早く送球。


高校級を凌駕したその守備に、タイミングは――


――一瞬。


考は頭から一塁へ、大きく跳び込んだ。




「セーフッ!セーフッ!」


審判の腕は、横に大きく開かれた。


6回表、ノーアウトから久々のランナーが出塁。


これまで幾度となくチームを鼓舞してきた大黒柱が、反撃への橋頭保を見事確保して見せた。


決して綺麗ではない。泥臭く、それでいて地味な戦い方だ。


しかしそれこそ武田考の真骨頂であり、凡才でありながら、稲嶺のカリスマ性あふれるメンバーを束ねてこれた所以なのだ。


「兄貴は、覚悟を形にしたぞ」


真人は、掴んだ手をゆっくりと離しながら言った。


「俺たちが、それに応えなくてどうすんだよ」


良を威圧していた目をほどいて、真人は眉を上げながら優しく言った。


「良、いっちょ頼むわ。お前ら兄弟がいなきゃどうにもなんねぇ」


打席に向かう真人の背中が、良には大きく、大きく映った。




ごめん、まさ兄――




――ごめん、兄ちゃんたち。


続く8番真人は、東雲の変化球に苦心しながらも確実に送りバントを決め、ランナー2塁。


9番道も、得意の選球眼を駆使して東雲からフォアボールを選んだ。


1アウト、ランナー1、2塁。


「なんだかんだよ、あいつっていいところ持って行っちまうよな」


ネクストに入ろうと、ヘルメットをかぶった良に、打席へと向かう翼が言う。


「普段なーんも考えてなさそうなクセしやがって、なんかああいう風に言われると、こっちも何かせずにはいられなくなっちまう。不思議なやつだ。相変わらず俺はいけ好かねぇけど」


「――翼兄、ウソ下手すぎ」


言葉と裏腹に、全くいけ好かなそうな表情をしない翼に、良は吹きだす。


「う、うるせぇ!負けたくねぇんだよ、あいつにだきゃ!」


翼は慌てて打席へと小走りで向かう。


「あぁ、そうだ」


その足を止めて、最後に付け足す。


「今回はあいつの言ってることに俺も同感。だからよ、お膳立てしてやる」


「お膳立てって――」


ニヤッと小気味よく歯を見せた翼は、打席に入るなり、初球から仕掛けた。


送りバント。


いつもなら自分で決めたいと意気込む男が整えた、相棒ための舞台。


2アウト、ランナー2、3塁。


『良、またつまみ食いしやがって!売りものに手を出すなって言ってるだろ!』


『良、またテスト真面目にやらなかったろ、要領はいいんだし、お前はやれば出来るんだから』


『良、食えよ、腹減ってるだろう、俺はあれだ、ダイエット中だからよ』


『良、兄ちゃんが頼むのも変かもしれないんだけどさ、勉強教える代わりに、俺にバッティング教えてくれないか。ほら、お前の方がずっと上手いんだし』


「ストライーク!」


視界が潤んで、良は一球目を見送った。


はっとして、すかさず袖で涙をぬぐう。


左打席に立った途端に脳内再生されるのは、兄たちの時に厳しく、時に優しい言葉だった。


「良!頼む!考兄を還してくれ!落ちついて行くんだ!」


ベンチから飛ぶ、優の声。


「良!大丈夫だ!お前なら打てる。いつも通り落ちつけ!」


三塁上から励ます、考の声。




なんだよ、全く二人ともさ、相変わらず俺のことを子ども扱いしてさ。



さっきまで、俺にこれ以上ないくらいムカついてたクセにさ。



自分たちだけもう気にしてないみたいに励ましちゃってさ。



ずるい、ずるいなぁ。



あぁ、そうだよ。



分かってるんだって。




俺はまだまだ、ガキなんだって。



良は、ベンチへも、三塁へも、目を遣ることができず、返事をすることができない。


こういうとこが、こういう素直になれないところがさ――


――ガキなんだよね、要するに。


分かっていながら隠せない自分の幼さ、いつもなら悔しく思う部分。


でも今日は、それに甘えさせてもらおうと、良は思った。




東雲得意のチェンジアップにも、彼は釣られない。


速球か、遅球か、それをぎりぎりまで引きつけて見極める。


カーブに対しても体勢を前のめりにせず、カットボールに対しても上手く後ろにはじいて粘る。


それを可能にするのは、良特有の柔軟性だ。


全身を使った得意の守備で鍛えられた身体能力は、打撃に直結する。


普通の打者であれば待ち切れず、中途半端なタイミングで踏み出してしまう球や、バットコントロールの出来ない球でも、柔らかな手首の返しと腰の扱いができる彼は惑わされない。


ゆえに、遅い球を張っていても速い球にも対応することができ、逆もまたしかり。


この日東雲から唯一外野へとヒットを飛ばしているのが、この武田良なのだ。


そして、5球目だった。


遅球が2球続き、速球に狙いを絞っていた良。


そこに、注文通りの球が来た。




もらったぜ!兄ちゃんたち!



球種は、カットボールだった。


本来であれば、真芯で捉えたはずの球の勢いを殺す変化球。


しかし良はとっさに手首を返し、地面に叩きつけるようにして、力の軌道を微妙に変えて見せた。


打球は、一二塁間を鋭く抜いた。


「うっしゃあぁぁ!」


良は、ベンチに大きなガッツポーズを突きだしながら一塁に向けて駆ける。


その目は、ベンチでひと際大喜びする優と、確かに合っていた。


二塁ランナー道まで還り、これで2対2。


蒼城館の対戦相手のスコアボードに、0以外の数字が書き込まれることは、実に104イニングぶりのことであった。


一塁上で、良は生還した考を見る。


普段冷静な長兄が、このときばかりは腕を大きく突きあげて、弟の値千金の打撃を称えていた。


良は思わず視線を反らして、もう一度袖で目じりをぬぐった。




東雲が失点。


それは客席だけでなく、蒼城館ベンチ、老将木谷さえも動揺させていた。


ここまでベンチの奥で試合を悠々と静観してきた彼が、初めてマウンドに伝令を送る。


東雲は相変わらずその涼しげな表情を崩してはいなかったが、明らかに内野陣からは焦りの色がうかがえた。


崩すなら、今か。しかし――


3番一人は、一抹の疑念を抱いて打席へと入る。





「有馬くん、だっけ?」


一人は、ゆっくりと足場を整えながら、つぶやくように言った。


「さっきの2番打者の打席、どうして歩かせなかった」


稲嶺ベンチが歓喜に舞い上がる裏で、一人は疑問に思っていた。


どうして良を敬遠しなかったのか。


良との勝負を選んだ蒼城館バッテリー、いや、蒼城館ベンチの判断が、一人にはどうしても腑に落ちなかった。


一人の問いかけに、有馬は答えないまま、1球目が放たれた。


「ストライッ!」


外角低めに正確に決まる直球。球威、制球力共にまだ衰えていない。


「答える気は、ないということかな?」


再び問いかける一人、しかし有馬から返答はない。


淡々と、東雲の球は投げ込まれていく。


敬遠、しないのか。


真人、そして翼の”お膳立て”によって盛り上がりを見せていた稲嶺だったが、一人は全く別のところを見ていた。


2アウト、ランナー2、3塁。


バッターは東雲に手も足も出ていなかった稲嶺打線の中で、唯一ヒットらしいヒットを放っていた、2番良。


そしてネクストは、ヒット性の当たりこそあったものの、未だ今日ノーヒットの自分。


一塁は空いていた。


この状況下、いつもの蒼城館であればリスクを避け、必ず敬遠で満塁策をとって来るものだと一人は考えて疑わなかった。


当たっている良との勝負しないだけでなく、その方が守備的にも守りやすい。


しかしバッテリーの判断は、良との勝負。


なぜこの判断に踏み切ったのか、一人には理解できなかった。


1点奪われるだけの局面であればまだ理解できる。しかし、一打同点の場面で取るリスクとしては大きすぎる。


敬遠という選択肢がバッテリーの間に浮かばなかった?いや、そんなことはないだろう。


相手はあらゆる場面を想定し尽くしたデータベースを持つ、百戦錬磨の守りの雄。


そんな取りこぼしをこの局面でするなんて、考え難い。


意図的。良との勝負を意図的に選んだ。そうとしか思えない。

大きなリスクをとってまで、何か試したいことがあったとでもいうのか。


それだけに、一人は有馬に、その意図を聞かずにはいられなかった。


――だんまりか。


しかし一人の問いかけに、有馬は依然口を開かない。


4球目、ストライクゾーンに滑り落ちてくるドロップボールに、一人は思わず手を出す。


カーブの軌道を意図したスイングでは、ドロップのそれとはかみ合わず、三塁側ファウルグラウンドひょろひょろと上がった。


しまったっ!


「飽きたんだよ」


なに?


三塁手が追いつかんとする球を見上げていた一人に、声がかかった。


打ち上がったフライと、マスクをとってチェンジを確信する有馬の顔を交互に見遣りながら、一人はその意味を思案した。


「飽きた?」


「歩かせたら守れるに決まってるだろ、あんなもん。スリルだよ、スリルが足りないんだ」


意味は分かった。しかし意図が理解できない。


スリル?負ければ終わりのトーナメントで、自分たちからスリルを求めるというのか。


三塁手が難なくファウルフライを処理して、内野がベンチへと下がっていく。


その中で、一人は打席に立ちすくんだ。


「くれてやったっていうのか、点を」


一人はベンチへと下がる有馬の背中に問う。


「違うな、それでも守れてこそなんだよ」


そして、有馬は振り返ってつぶやいた。





「もうこりごりだ、マニュアルなんてな」




マスクでよくわからなかったその目は、暗く、濁っていた。


6回ウラの守備の際、一人は有馬がベンチで木谷監督に怒涛の勢いで叱責されているのを見た。


「なぜ指示に従わんのだ!」


「どうして勝手なことをした!お前のせいで取られた点なのだぞ!」


やはり先ほどの作戦は、ベンチの意図とは完全にかけ離れたものだったようだ。


そう、彼らのマニュアルに、あんな采配はない。


真っ向勝負など、それの孕んだリスクの前には考える余地もない選択。


どれだけ選手に確かな実力があったとしても、選手に勝負したいという意思があったとしても、そんなものは二の次。


マニュアルこそ、伝統こそ第一の野球なのだ。


叱責される有馬の背中は、決して反省の色に満ちたものではなかった。


むしろ、木谷の言葉に何も感じるものがないような雰囲気すら漂わせる。


マニュアルなんてこりごり――か。


自分が歓迎されつつ蒼城館の門を初めてくぐった日、木谷に”秘伝書”を渡された日。


きっと有馬も、自分と同じ様な待遇、処置を受けてきたはずだ。


彼の頭には、蒼城館が目指す野球が余すところなく詰め込まれている。


そしてわかってしまったのだ。このチームは、監督と選手の間に直接の信頼関係などはなく、全ては伝統という分厚い辞典を介在して行われるということを。


自分もあのチームで時間を過ごしていたならば――


一人は、ベンチで煮えたぎっている有馬の背中を、未来の自分と重ね合わせていた。


6回、7回、8回――それでもスコアボードにはそれ以後ゼロが並んだ。


相変わらず選球眼よくボール球を見送って来る蒼城館に対し、バッテリーは内野の守備を頼る投球を選択。


球速を落とすことで三振の数は減ったが、確実にアウトを積み重ねた。


「良!こっちだ!」


「まかせろいっ!」


7回にはワンナウトランナー2塁のピンチを招いたが、ショートゴロの間に進塁しようとするランナーを、良の送球で殺し、ランナーに手早くタッチした考の一塁への転送で、ダブルプレイを奪った。


考のとっさの気転に良が素早く反応した、兄弟本来の連係プレイが戻って来た証し。


6回以降ランナーを出しながらも、奪った併殺は3つ。ことごとく相手のチャンスの芽を摘み、エースの投球を兄弟が支えた。


しかし蒼城館バッテリーも同様。木谷の叱責から、不本意ながらも方針を修正した有馬は、変わらず稲嶺の打線を沈黙させる。


考のように粘りに粘ってランナーさえ出れば反撃の仕方もあるが、そのランナーが出れない。


絶対的なコントロール、そして審判のクセまで織り込み済みのストライクゾーン把握。


ここから四球を奪うにしても、道ほどの選球眼がなければ難しい相談だった。


試合は、2対2のまま9回へ。


「なぁ、前にも聞いたけどよ、お前さ、友だちいるか?」






「おいおい、仮にも教師なんだからよ、質問無視しなくたっていいんじゃないか?」


「教師という職業は尋問官の資格でもあるんですか?」


「また――お前さんはそういう考え方しかできないのかい?やっぱ友だちいないだろお前」


「いますよ、こんな低次元な場所ではできないような友だちが」


「はぁ、だからよう坊ちゃん。次元とかそんなこと言ってるうちはできねぇって。ダチはダチだろうよ」


「なんなんですかあなたは、人のプライベートに土足で入り込んでくるような真似をして!」


「たまにはそういうことも必要だと思うんだがな、この仕事はよ」


「勝手なものだ。普段教師らしいことなんて何もしていないクセに」


9回表、攻撃は1番翼から。


緊迫する試合の流れとは逆行するように、能天気な声色で話しかける市村が、真哉はとにかくうっとうしい。


となりに腰掛けた席を移ろうとするが、まぁ待て待てと呼び止められる。


「たまにはおじさんの話もきいとけや。終わったらアイスでもおごってやるからよ」


アイスにつられたわけでは毛頭ない。しかし、ここで離れれば後々しつこいと感じた真哉は、憮然としながら座りなおした。


「ふん、大体あなたは何なんです。顧問とは名ばかりで、練習にもほとんど顔を出さない。たまに来たと思えば寝てばかり。試合について来てもただのにぎやかし。なんのためにここにいるんです」


「さぁて、何でだろうな」


グラウンドではカチンと金属バットの音が響いた。セーフティバントを警戒する内野の頭を抜かんばかりに、高いバウンドの打球。


セカンドが処理したときには、翼は一塁に頭から滑り込んでいた。


ノーアウト、ランナー1塁。


「そりゃどうでもいいと思ったともさ。最初はな。野球なんて今でも鼻から知らねぇし、興味もわかない。俺は音楽室で変わらずマーラーと、チャイコフスキーと、ワーグナーさえ聴いてりゃいいと思った」


二番、良は当然ながらバントの構え。しかし翼の盗塁を気にしてか、バッテリーはウエストで様子をうかがう。


「でもなぁ、面白いんだよこいつら。ほっといても勝手に伸びてきやがる。『先生、練習試合組んでくれ、バスの予約してくれ』って俺の休みをひっかきまわしやがる。それでいて、どんだけごちゃごちゃ揉めてもちゃんと勝ちやがる。実に面白い。音楽室に引きこもってるのが、もったいなくなるくらいにな」


「なら、ノックの一つも練習すればどうです。僕たちを見て面白がってる今のあなたは、ウチのお荷物ですよ」


「ノックかぁ、柄じゃねぇからパスだな」


噛みついてかかる真哉の言葉を、市村はことごとくひらりとかわしていく。


「それに、秋山は言うだろうよ、『余計なことしないでください』ってな。俺は電話番、送迎係ってことでいいのさ」


「そんなもの――顧問じゃない。教師じゃない!」


「そうかね、じゃあよ真哉、お前にとって、そりゃなんだ。理想の顧問、教師とは」



おちゃらけた調子をやめて、真剣な声色と目で真哉に迫る市村。


それに意表を突かれながらも、真哉は返す。


「決まっています。手本です。何事においても生徒の模範となれる存在です。絶対的な知識や技量をもって、それを享受させることができる存在が、我々生徒には必要です」


「ふーん」


「なんです」


「つまんねぇ答え」


途端にあくびをしながらグラウンドに向き直った顧問に、真哉は拍子抜けして、一瞬でもこの男に気押されたことを恥じた。


「何が違うっていうんです。まぁ、あなたがつまらないのも無理ありませんね。あなたからは全く感じられないことばかりですから」


打席の良が送りバントを決めた。


球の勢いを殺し、一塁線にしっかりと転がす。ワンナウト、ランナー2塁。


ネクストの一人が打席へと向かうのに合わせて、真哉もベンチを立つが、


「まぁ待て。ちょっとくらいなら良いだろう」


市村はなおも真哉を呼び止める。


「こりゃ、今のお前には言い訳に聞こえるかもしれん。だがな、達観した教師なんざ、面白くもなんともないんだよ、少なくとも、子どもからすりゃな」


「子どもに上からモノを言おうと思えば、いつだって言える。でもそんな手段は、本当に最後の手段だ。すごいって言わせたきゃ、言わせられるくらいのモノを持ってる。そりゃそうだろ、俺らはその手のスペシャリストだ。っていうか、それは最低条件なんだよ」


ベンチの出口で足を止めた真哉の背中に、市村は問い掛け続ける。


「だが、僕らはお前らに受験に勝つ武器、試合に勝つ武器を装備させるロボットじゃねぇ。僕らだって人間なんだ、失敗もする。教師がお前らに一方的に何かを教えてると思ったら、そんなのは大きな間違いだ。毎日僕らはお前たちから学んでる。教師が生徒より偉いとか、そんなのはクソだ。下の下だ」


「反面教師になってますよ」


「それでいいんだよ、それで。真哉、お前は偉い奴が下のやつに全部をくれてやってると思ってるのかもしれん。だが、それは違うぜ。指示を下すヤツ、何かを決める権利を持つヤツってのは、同時に指示されたヤツらの声を全部受けとめる覚悟を持たなきゃならん。そんで、その声からわかることを全部掬い取ってやる覚悟もいる。指示して結果が出なきゃサヨナラじゃないんだよ」


何を言うか。行動に何の説得も持たないボンクラ教師が。


凝り固まった真哉の頭を、市村の言葉がトンカチのようにがんがんと砕きにかかる。


普段、猫じゃらしのようななりをした男のそれだけに、ダメージが大きい。


「上から理不尽なことを押しつけられる、無茶を投げつけられる、そんなことはこれから学校って温室を一歩出れば、いくらでも待ってるんだ。だからよ、せめて今の間は違うやり方を見つけてみてもいいんじゃねぇか?っていうかよ、青臭いことがまかり通るのは今だけなんだ。それを、わざわざ大人のまね事して無駄にすんな」


東雲と、一人の相性は悪い。この日4打席目の打球は、ヒット性でありながらセカンドの正面。一歩も動くことなくグラブにおさまった。



「先生には、友だちがいますか?」


打席に向かう真哉は、かぶったヘルメットを整えながら言う。


「おう、いるとも、音大時代のバカ野郎ども、オケ時代のクソ野郎ども。音楽以外は下らないことしかしてねぇ、みんな最高のダチだ」


「ふっ、あっははははっ!」


打席へと進める歩を止めることなく、真哉は大きく笑った。


「これで、生徒がダチだなんて言ったら、もう口を利かないところでしたよ」


凝り固まった層、そのうちの薄い一層であったかもしれないが、真哉はその積み重なった経験の煮凝りを一つ、脱ぎ捨てた。


そんな手ごたえを、市村はひとり感じていた。


「先生――か」


真哉は気付いていないだろう。


自分が初めて彼のことを、その名で呼んだことを。


市村が呼びこんだ一打。


そんな風に形容すれば、きっと真哉は顔をしかめるだろう。


しかし、ここまで全くタイミングを合わすことが出来なかった東雲の投球を、彼がミートすることが出来たことは、要らぬ緊張と猜疑心を取り払った市村の成果であった。


東雲の自信を持ったチェンジアップにタイミングを合わせ、真哉の放った打球は中央をざっくりと切り拓くように抜けた。


センターの決死のバックホームも関係なし。俊足、香川翼はもちろん二塁から軽快に本塁へと滑り込んだ。


9回表、1点を勝ち越して3対2。


塁上の真哉は、いつものように当然のことをしたまでといった様子を崩さない。


それでもわかった。これでもかというほどに、にやついた市村が自分に視線を送っていることを。


勘違いをするなよ。これは僕の実力だ。


目を合わせず、憮然とした教え子の背中に、市村は新しい楽しみを感じずにはいられなかった。


蒼城館が一試合3失点。


それはこれまでの彼らの試合運びであれば、決して考えられなかったことだ。


稲嶺の攻撃力が、これまで対戦したチームよりもすぐれていたということが理由ではない。


良と東雲の相性、そして真哉本来の打撃センスなど、確かに要所要所では稲嶺固有の力が発揮されてきてはいる。


しかし、この3点はなにも自分たちの実力だけで手にした点数ではないのだ。


9回ウラ、これまで試合を必ずと言っていいほどに”守り”によって終えてきた蒼城館は、この異例中の異例に動揺を隠せない。


いや、動揺しているのは選手というよりも司令塔である老将木谷のほうだ。


「お前たちはこれまでどんな野球をしてきたのだ!」


「今日は近年で見た中でも最低の試合じゃ!」


「蒼城館の野球を忘れたか!」


自分の知る野球とかけ離れた現実、伝統を真っ向から裏切るスコア。


長年一つのスタイルの中に安住してきた老人にとって、目の前に広がる光景はいきなり後ろから口をふさがれ、息をすることがかなわないような心地であった。


もっと冷静で、どんな局面でも対処できる指揮官だと思っていたんだがな。


敵将の思わぬ狼狽ぶりに、一人も落胆の色を隠せなかった。




「さぁーて、さっさと抑えて終わりにしようぜ」


最終回、この試合は丈二に継投せず、真人で行くとみちるは決めた。


本来スラッガータイプのいない蒼城館相手であれば、パワータイプの真人で最後まで押し切る方が良いとの判断だった。


加えて、一人のマスクであれば真人の集中力は最後まで落ちないと踏んでいた。


「四球だけはダメだぞ、絶対に」


マウンドで肩をぶんぶんと回して息巻く父に、息子は釘を刺す。


「だーいじょうぶだって!ど真ん中だって外野の前が精いっぱいだろ、あいつらは」


「油断するな、悪い癖だぞ。まったく、こういう場面でとんとんと終われた試しがないんだ」


「心配すんな、150キロバンバン出してやるさ!」


「ストライクで頼むぞ」


打順は、4番有馬からだ。


セミの鳴き声が聞こえた。


選手たちの掛け声や客席の歓声が支配した空間の中で、今に至るまで耳に届くことのなかった音が、すっと一人の耳にすべりこんできた。


しかしそれは、じりじりと恒常的なリズムを刻み続けるのではなく、じじっ、じじっと息が絶え絶えになるように不規則に耳をかすめていく。


他の多くのセミたちが蒼い空の下で待ちに待った夏の盛りを謳歌する中で、この音の主だけが一足先に命を燃やし尽くそうとしている。


最後の最後にグラウンドに迷い込んできたのだろうか、そんな試合とは何の関係もない思いが一人の頭をよぎる。


額を流れる幾筋かの汗をぬぐって、一人はマスクをかぶった。


「最後に一つだけ質問したい」


打席で足場を整える有馬に、彼は問うた。


「君は、いつも通りの野球をやっていれば、俺たち難なくに勝てたと思うか」


「エェイヤァッ!」


1球目、真人渾身の直球が、内角に突き刺さる。


――ストライク。


球速、150㎞/h


「俺がもし――」


低く大人びているが、覇気をもたない声がひっそりと一人に届く。


「お前のような選手だったらそうかもな。だが――」



「そのセリフ、口にするにはまだ――早い」


意表を突かれた。


打てたところで、外野の前という油断。


蒼城館の打者は決して長打を狙ってはこないという先入観が、バッテリーを盲目にしたために生まれた、一打。


ここまでコンパクトなスイングと、慎重な選球に徹してきた姿勢を一変させるその快音に、稲嶺の守備陣は目を見開いた。


――しまったっ!


高い弾道で放たれた打球は左中間を深々と破る。


センター真哉、レフト丈二が懸命に追うものの、それはもはや処理しきれない飛球であることが遠目の一人からも分かる。


スタンドに入るかと思われた打球、だがあと1メートル届かず。


大飛球はフェンスに当たり、鈍い音を立てながら跳ね返った。


有馬は悠々と二塁をおとしいれ、一瞬にして同点のための舞台を作ってしまった。


二塁上に悠然と立つ彼の姿は、自分たち稲嶺でなく、蒼城館ベンチに対して魅せつけているかのような皮肉な気風を漂わせていた。


証拠に、息を吹き返して歓喜する選手たちとは対照的に、木谷の表情は苦虫をかみつぶしたような釈然としないものであった。


無理もない。有馬はこの打席で、木谷からのサインを真っ向から無視する強硬打にチャンスを作ったのだった。


この窮地にあって、まだ守りの基礎を用いたスモールベースボールに徹しようとする木谷に対し、行動によってノーを突きつける有馬。


稲嶺の背後で、堅牢な牙城は内部から瓦解していた。


「打っていけっ!」


そう叫んだのは、もちろん木谷ではない。


二塁上の有馬が、渾身の思いを込めて叫ぶ。


ベンチからのサインは、バント。


1アウト、三塁の状況を作り出し、確実に同点に追いつかんとする采配を、彼は一蹴しようとした。


これに、いよいよ血相を変えた老将は、サインも忘れ――


「決めろ!何としても転がすんだ!」


有馬に負けじと声を上げる。


結果、二つの声に翻弄される打者が確実な結果を上げることなど、できない。


5番打者は、真人の直球をバントしたものの、その打球は転がるどころか、中途半端に内野に打ち上がる。


――ポップフライだ。


「サード!取れるぞ!」


前もって前進守備を敷いていたサード考の前に、打球が来る。


一人が叫ぶ前に、考はもうスタートを切っていた。


身体を前に投げ出すようにして飛び付く考。


狭まる地面と球の境界に、決死の思いでグラブをねじ込ませた。





「アウトッ!アウトォ!」


ほおをグラウンドに擦りつけ、眼鏡を吹き飛ばせながらも、考は球を受け切った。


崩れかかった蒼城館の牙城を一つ槌で叩くように、アウトの瞬間、客席がうなりを上げる。


「ぬおうっ!」


そのうなり声に混じって、塁上の有馬は嘆きの声を上げた。太い腕、大きな拳で自信の太ももを殴りつけながら。


対する木谷は、魂が抜けてしまったかのようにベンチにすとんと腰を落としてしまって、意気を沈ませた。


対する――


目の前の相手以外にこのように考えねばならぬ相手がいることが、有馬にはもどかしかった。


一つの集団にありながら、動と静の連続の中で二つの考えがぶつかり合い、自身を傷つける。


マニュアルを脱する。


伝統を守る。


有馬は自身のとった行動に後戻りをすることができず、木谷は自身の信じるもの以外に戦う術を知らず。


城は、真っ二つに引き裂かれつつある。







その全容が見えないながらも、一人は戦慄した。


一方的な上からの指示、教育を、疑いを孕みながらも享受し、強さを手にしてきた集団。


それが、下からの突き上げと造反によってこれほどまでに簡単に、その脆弱さを露見することになる様は、決して他人事ではなかったからだ。


真哉、君はこれを、オレと同じ思いで見ているか。


一つの集団に二つの相対する考えが生まれることによる、大きな弊害。


伝統を神聖視するあまり、集団の変化に盲目となってしまった名門。


これは決して、名門だから、伝統だからで片付けられる事例ではない。


みちる、絵里という仲裁者が自分たちにいなければ。


考という精神的柱がいなければ。


真人の、良への檄がなければ。


自分たちも、同じ末路をたどっていたかもしれない。


『俺がもし、お前のような選手だったら――』


直前の有馬の言葉が、一人の脳裏をよぎる。


そんな、そんなことはない。


自分も、君と同じだ、有馬。


1アウト、ランナー2塁変わらず。


一打同点の場面ではあるが、その危機感は先ほどのバント失敗で急速になりを潜めてしまっていた。


油断ではない。覇気がないのだ。相手打者に。


マニュアルに縛られてきた戦法、ルーティーンを構築した試合運びに慣れていた蒼城館にとって、この状況はあまりに長い時間忘れていた展開であった。


相手を追い詰めることは数あれど、追いつめられるという状況に慣れない彼らは、戸惑いを隠せない。


「ストライク!」


それでも、容赦なく自分たちに襲いかかる剛速球。一打で現状を五分に引き戻せるチャンスでありながら、真人のパワープレイを前に、戦意を削がれているというのが実情。


流れは、稲嶺だ。


一人は真人の球を掴むたびに、勝利への手ごたえも確実に手繰り寄せている実感があった。


そして、6番打者への3球目。


勢い衰えない直球に対し、苦し紛れに振るったバットが出会いがしらに当たる。


打球は三遊間転がった。


「任せろ!」


捕球に入ろうとした兄を制するようにして打球に回り込んだのは良だった。


このとき、彼は気負っていた。もう兄を困らせるようなことをするものか。その思いから、普通なら考が処理する範囲まで手を伸ばしていた。


それに気づいたのは、一塁へ送球し終わってからのこと。





「優!バックホームだっ!」


ショートゴロをさばき、二つ目のアウトを奪った直後、叫んだのは考だった。


予想だにしない主将の叫びに、一人は三塁を見た。


一人の瞳に映ったのは、三塁ベースを蹴り、こちらへ真正面から猪突猛進に突っ込んでくる有馬の姿だった。


馬鹿なっ!自分からアウトになりに来るのか!?


内野の油断を突いて、本塁を陥れようという意図か。しかし有馬の足でそんな芸当が出来るわけがない。


無謀だ!


「戻れっ!」


一人をはじめ内野陣が無謀と思うだけでなく、蒼城館ベンチでも誰ともなく血相を変えて叫んでいる。


そうだ、戻る場面だ。無謀だ。


それでも有馬は、暴走を止めることなく、本塁へ突っ込んで来る。


「優!」


一人が叫んだときには、優は転送のモーションに入っていた。


正確な送球が一人のミットにおさまる。


有馬は――


ホームまでまだ3歩、いや4歩。


――アウトだ。


この光景を見る誰もがわかる。


それでも有馬は、勢いを弱めなかった。




これで――終わりだ!


一人は完ぺきにホームをブロックし、ミットを抱きかかえるようにして有馬を待ち構える。


一瞬。


勝利を確信した瞬間、景色が止まったように見えた。


そして――


「カズッ!にげ――」


マウンドから聞こえた叫びは父のもの。


その刹那。


一人の視界はふっと後ろへ舞い上がる。


「えっ」


全身を襲う振動、回転する世界。


そして地面へと叩きつけられる衝撃。


その全てが頭の後ろ側へと流れていき、残ったもの。





「ぐわああああああああああああああああああああああああっ!」














それは、左の太ももを打ち抜かれたのかと思うほどの、激痛だった。


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