9-2.進撃【後編】
スタンドに届くかと思われた大飛球は、フェンスの金網に直撃してじゃらんと大きな打音を響かせた。
あと1メートル伸びていればという打球だった。
「中継!セカンド!」
即座に切り替えて指示を出す一人だが、笠原は悠々と二塁をおとしいれた。
一人は、にわかに信じられなかった。脇の下めがけて差し込んでくる球を、奴は差し込んでくる前の段階、体の前のポイントではじき返してみせた。
内角攻めの理想的な攻略法だ。しかしこの芸当ができる打者は一流と呼ばれる一握りの人間と言っていい。
負けた。負けたのだ。
ヒットを打たれることこそこれまでの試合では幾度もあった。
しかしそれはまぐれ当たり、内野安打、守備のもたつき、そんな外部要因が重なった結果であって野球ではつきものな話だ。
今回のように、真人のベストなコンディションを引き出し、自信を持って組んだ配球が真っ向から打ち負かされるという現実を、親子はこのとき初めて突きつけられた。
自分たちの実力は圧倒的なものではない。拮抗する者はいるし、あるいは一枚上手な者がいる。
そんな現実を目の当たりにして、ホームベース上に立ちすくんだ司令塔は、小さく笑った。
これが”三層”の一角、打の総陵か。
一人はマウンドの父を見る。
一番打者にいきなり長打を浴びるという久しく経験していない事態に、ショックを受けているかと思いきや、一人と同じく口元にうっすらと笑みを浮かべていた。
真人は気合を入れ直すかのように帽子をとり、再びしっかりとかぶり直す。
強い相手と試合ができる、それは彼にとって勝ち負けとは別の次元での楽しみなのだろう。
バッテリーは続く2番打者を見逃し三振、3番打者をセカンドフライに打ち取り、ツーアウトを奪って体勢を立て直す。
その間当然、二塁上の笠原は釘付けで動けない。
絶対的なスラッガーがいようと、後続に仕事をさせなければ済むだけの話だ。
一人は切り替えて配球を組み立てる。
ただ、それが次の打者にも通用するか、否か。
右打席に入ったのは、県下屈指のスラッガー、4番篠田。
着たユニフォームで隠されていても、その上半身の盛り上がった肉体は並みの高校球児のそれではない。
打席で一度大きく反りかえってバットを天高く突きあげるその様は、バッテリーだけでなく守備陣全体を威嚇して縮み込ませようとしてくる覇気を感じる。
これに怯み、気押されてしまうことで多くの投手は実力を発揮することなく彼の打棒の餌食にされてしまうのだろう。
とにかく、こちらのペースに。
笠原のときと同じく、一人は強気であろうと自分を奮い立たせた。
一人が決め込んだのはインコース。
1球目、篠田の懐を刺す直球がストライクを奪う。
それを篠田は豪快に空ぶった。振り切った怪力の反動で、一度くるりと回った体が戻って来る。
笠原と同じく、踏み込みの土の音がした。
しかし、笠原ほどの繊細さはそこには感じない。
本当に、感性のままボールを追っているという感じだ。
それなら――
2球目、篠田の視界の隅からすべり落ちてくるカーブで、上手くタイミングをずらして空振りを奪った。またも懐近くを過ぎ去る球に、篠田は対応しきれない。
140キロ半ばの速球を見せられたあとに、110キロ弱のカーブを投げられると、人間の目は、脳は、その体感速度の落差に混乱する。
篠田は体に近い球に対して、物怖じしない泰然とした構えを見せているが、感性のままに振れない球相手では体の反応が追いつかない。
3、4球目と、外角へのボール球で篠田の空振りを誘おうとするが、まだ力んだ真人の球はコントロールが定まらず大きく外れる。
球種はいずれも、カーブ。
カウント、2ストライク2ボール。
5球目、一人が勝負に選んだのは1球目と同じ、相手の懐へ飛び込む直球だった。
カーブのサインの時と違い、真人は直球のサインのときには満足そうに首を大きく縦に振る。
気付かれるから、あとで直そうと一人は思う。
「ストラック!アウト!」
放たれた直球は、篠田渾身のフルスイングのハードルを飛び越えて、ミットへしっかりとおさまった。
遅いよ、手を出すのが。
一人は得意に思った。
速い球、遅い球、遅い球、遅い球、そして速い球。
最初に放たれた速球と、最後の速球、その球速差はほとんどない。
物理的なスピードに差はなくとも、人間の脳の体感速度は、その直前に体験する感覚を作為することで、コントロールすることができる。
重い荷物ばかり運んだ後に、そこまで重くない荷物を運んだりすると、普段より軽く感じるというような経験は誰しもあるはずだ。
一人の配球、いわゆる緩急を用いた配球は、この脳の錯覚を応用したに過ぎない。
直球の後に立て続けにカーブを挟むことによって、目を遅い球に慣れさせ、知らず知らずに意識づけさせる。
そして最後は最初と同じ直球でとどめを刺す。
打席に立つ篠田からすれば最初の直球は物理速度どおりの140キロでも、最後の直球は体感速度でいえば150キロを超えるような超速に見えたはずだ。
証拠に、最初の空振りと今の空振りでは、明らかにスイングの出だしのタイミングが違って、彼は振り遅れていた。
なぜだという表情でバットを見つめながらベンチへ引きあげていく篠田を確認してから、一人もベンチへ戻った。
矢野一人の配球術、それは意識付けの魔術だ。
「矢野くん、稲葉くん!すごかったです!何だか僕、本当にすごい瞬間を目の当たりにしてる気がしました!」
ナインがベンチに帰ってきたとき。道がバッテリーに向けて興奮しながら声をかけた。
部員が17名の稲嶺は、登録可能人数18人に満たないため全員がベンチに入ることができる。
結果、現在ではまだまだベンチ入りできる実力とはいえない道でも登録メンバーに名を連ねる。
みちるは初戦からベンチ入りメンバーを存分に駆使して戦っているが、まだ彼だけは一度も出場していない。
やはり試合に出すにはまだ未熟な部分が多すぎるからだろう。
しかしそれでも道はベンチでグラウンドの選手たちに向けて、線の細い声ながら積極的に励ましを叫び、こうして守備から戻ってきた選手にはドリンクをそれぞれ手渡すなど、自ら多くの雑用を引き受けていた。
「ま、当然だな。命がけの球はそう簡単にあたらねぇさ」
真人が親指をグッと立てて得意げに言う。
それに一人がまぁ笠原には打たれたけどなと釘を刺すと、あれはまぐれ当たりだとむきになった。
あれがまぐれではないことぐらい、打たれた本人が一番よく分かっているだろうに、負けず嫌いで素直じゃないなと息子は笑った。
「しかし見てみろ真人、総陵ベンチの光の顔を」
優が苦笑しながら三塁側ベンチを指して言う。
見ると、光はベンチの最前列に陣取って身を乗り出しながら守備につく総陵ナインを鼓舞している。
何だ特におかしいところなんてないじゃないか、と思ったが――
声と声との合間、光はなんとも歯がゆそうな表情をしながら飛び跳ねたり体を揺らしたりしてそわそわとしている。
「ははぁ、ありゃ俺と勝負したくてたまらないって顔だ。光のやつ相当たまってるな」
自分の目の前で笠原がライバルからツーベースを放った。
未だ自分がまったく攻略できない球をわずか2球で見切った光景に、光は自分もという思いが抑えられないのだろう。
そして片やライバルは打たれっぱなしではなく自分たちの主砲を上手く手玉にとってみせた。
グラウンドで生き生きと躍動する幼なじみを見て、かつ自分はまだお預けという状況が彼には何より耐え難いものなのだ。
みちるを甲子園に連れて行くのは真人じゃない、自分だ。その思いは離れた反対側のベンチからでも容易にくみ取ることができた。
1回ウラ、稲嶺の攻撃はスムーズだった。
1番一人は三遊間の深いところへ高いバウンドのゴロを転がし内野安打。
続く2番考にみちるが出したサインはヒットエンドラン※。
打球がサードへ転がり考はアウトになるも、一人は2塁へ。
そして3番丈二はセンター前に素直に弾き返して一人を生還させた。
さらに4番優がライト前ヒットでランナー一塁三塁。
最後は真人が犠牲フライを放って2点目を入れた。
総陵は打撃こそ一級品だが、守備はそうではない。
一人の内野安打も、優のライト前も、守備陣が固ければ防げたかもしれない打球だった。
何よりバッテリーは並で、投手の球速は出て130キロがやっと。
打撃練習で真人の球を見慣れた稲嶺からすれば、実に打ち頃な球と言ってよかったのだ。
※ヒットエンドラン…バッターのスイングと、ランナーの盗塁を同時敢行する奇襲策。バッターはどんな球でも食らいつき必ず前に転がすことが要求される。
1回終わって2対0。
観衆は稲嶺が難なく先手をとったことにも驚愕したが、その後強力総陵打線を沈黙させる稲嶺の守備に目を疑った。
0、0、0、0。
ここまでの試合、2桁の得点と毎回途切れない打線が売りであるはずの総陵のスコアには6回が終わるまで大きな丸が並んだ。
片や稲嶺はじわりじわりと得点し、4対0。
強打者笠原は相変わらず真人の球を捉え、ヒットを飛ばしてはいるが、後続が続かない。
何より4番の篠田が不発だ。
緩急をつけ、内角をぐいぐいと攻め、バッテリーは彼の頭を混乱させていく。
1打席目よりも、2、3打席目と回数を経るごとに明らかにスイングの歯切れが悪くなっていく。
普段センスで振っていたバットだが、慣れない頭を使うことを強いられ、本来の良い部分すら殺されていく。
「ああぁっ!」
3打席連続三振の直後、篠田は叫びながらバットをグラウンドに叩きつけた。
親子の術中。それも回数を経るごとに彼はその深みへとはまっていった。
7回表、総陵ベンチ前で円陣が組まれている。
「貴様らには失望した!」
「あんな弱小公立相手に、先輩たちが築いたわが校の伝統に泥を塗る気か!」
その中心で監督が必死の形相で選手たちに檄を飛ばしている。
時折こちらが耳をふさぎたくなるような暴言まで届いてくる。
その中心で肩をすぼめているのは篠田だ。あれだけ隆々としていたがたいが小さく縮こまっているのが見える。
初回にこちらを威圧してきた迫力は微塵も感じられない。
強豪の悪しき習慣を目の当たりにし、一人は真人の球を受けながらどこか申し訳ない思いがした。
真剣勝負なのだ。内容に関して同情することはない。しかし、だからと言って監督が選手をあそこまで罵倒する権利があるだろうかという思いだ。
片やウチの監督は大大金星が近づいていることにも無関心に、ベンチの隅でうとうとと首を傾けている。
むしろウチのエセ指揮官にその熱の10分の1でも分けて欲しかった。
「弱小とは失礼なやつだな」
相手の円陣の間、稲嶺も内野陣がマウンドに集まる。
漏れ伝わる罵声の中身に、真人は怪訝な顔で言った。
「つい最近までそうだったんだ、仕方ない」
相手監督の剣幕に流石の優も苦笑する。
「今はリードしてるけど、ここで油断したら足元すくわれるぞ。俺達はあくまで挑戦者なんだ」
一人は真人が勢いに身を任せないように定期的に釘を刺す。
もう聞き飽きたよと頭をかく真人を、いつもの真人くんでいいんだと、考が柔らかくフォローいれてからそれぞれ守備に散った。
この回、総陵は1番笠原からだ。
1打席目、センターへのツーベース
2打席目、ライト前ヒット
3打席目、フォアボール
総陵をここまで完全に沈黙させていながら、この笠原だけには全く抑え込めていないというのが現状だ。
色々な手を試したが、彼は当ててくる。粘って来る、そして読んでくる。
何とかしたいという思いもあるが、正直ホームランさえ打たれなければ当面問題ないというのがキャッチャー一人の見解だ。
しかし、この対戦に関していいところなしの彼は違う。
「ファウルボール!」
勢いある打球がバックネットに当たって金網の鈍い音が聞こえる。
サインは打球の勢いを殺すためにボール気味のアウトコースを指示した。
しかし父は息子の意に反してど真ん中近くに直球を放り込む。
コントロールミスか、そう思いまた同じ場所を要求。
しかし、真人はまたも真ん中近くに向かって直球で勝負をかけた。
「ファウルボール!」
飛距離の出ている打球はライトファウルグラウンドに切れる。
球速147㎞/hは今日最速。
やはり、これはコントロールミスじゃない。
ど真ん中に狙いをすまし、笠原に真っ向勝負を挑もうとしている。
自分のサインを、無視して。
あのバカ親父め。調子に乗るなとあれほど。
一人はタイムをとってマウンドに駆け寄ろうかと思ったがやめる。
ここでバッテリーの不調を相手チームに気取られるというのは避けたい。でないと、この打席だけで済むものが後続にも波及する。
一人は真人の意図に気付かないフリをしたまま、落ちつけと肩を揺すってジェスチャーした。
それに白々しくニヤッと笑ってグラブを掲げる父、まったくこの人は。
一人はならばと思いカーブのサインを出して真人の意図を遮ろうとした。
意外にも真人は素直にうなずいた。そうだ、直球は投げてくれるな。
そう思ったのだが――
真人の放った球の軌道は、直球。
待て待て待て。それはないぞ。
脳の感覚について言及したが、それは打者だけでなく捕手も同じことだ。
遅い球を要求したときに、前もってイメージした軌道と全く異なる球が来たとき、どんな捕手であろうとそれに反応するのは簡単なことではない。
しかもその球速差が30キロ以上あるとなればなおさらだ。
慌てて脳内の予想軌道を修正する一人、しかし球はさらに彼の予想とは違った動きを見せた。
球の回転が、直球ではない。くるくると回る白球の縫い目が見える。
そして球は、かすかに沈む。
全くもって不十分な回転だがこれは、フォークだ!
一人の頭にその結論がよぎって、さらに捕球のイメージを書き変えようとしたときだった。
球は、しばかれた。
これ以上ないというほどの快音を残してライトスタンドを一直線に目指す。
今度は、フェンスすれすれで肝を冷やすこともない。
打った瞬間それと分かる大飛球だった。
これまで葬式じみた空気が支配していた総陵ベンチの勢いを復活させる特大ホームランは、文字通り起死回生であった。
一人は打球を目で追うことをしなかった。打たれた瞬間に見なくてもわかったからだ。
代わりに見つめたのは、ぽっかり口を開けたまま打球を見送る父の表情だった。
バカ親父、これで満足か。
それ見たことかという言葉が、一人の頭の中を100ぺん、いやそれ以上ぐるぐる回った。
真人はまたもサインを無視した。
投げたのは、現在練習中のフォークだった。
後に伝家の宝刀と称される切り札だが、この時期は決して実戦で使えるような代物ではなく、もちろんサインも存在しなかった。
それを負けず嫌いの意地からか、好奇心からか勝手に投げ、勝手に打たれた父を見て、一人は肩をすくめる。
練習でも十分に投げられない中途半端な変化の球が、どう考えればこの状況を打開してくれるというのか。
百戦錬磨の相手からすればそんなものは格好の餌食でしかない。
野球漫画みたいに、そうそう奇跡は起こらない。
そういえば、2013年で有馬にホームランを打たれたのも似たような状況だったなと、息子は父の頑なな姿勢に頭を抱えた。
これで、4対1。
1点確かにまだ1点だ。しかしこれは泥臭く、仕方なくくれてやった点数ではない。
ここまでコツコツと稲嶺が積み上げてきた流れを、全て相手に献上するような値千金の1点だ。
勝負ごとでは、こういった場面での1点が命取りになる。
そう思うからこそ釘を刺し、万全を期してきたというのに。
一人はベンチのみちるを見た。
しかし、いつもベンチの前に乗り出している彼女の姿はなく、奥でうつむいたままじっと動かなかった。
これはこの場を乗り切っても、その後が怖い。
そんなみちるの静かな怒りを知ってか知らずか、真人は乱調した。
ここまで難なく抑えてきた2番に対してストレートのフォアボール(ストライクが一球も入らないフォアボールのこと)、そして3番には甘く入った回転不足の直球を痛打されてレフト前に運ばれた。
今度のは決してサインを無視しているわけではない。単にコントロールが定まらないだけだ。
前の回まで調子よくミットめがけて投げ込んでいた真人の覇気が今はない。
サインを確認してにやつきながら頷くしぐさは相変わらずだが、見るからにその口角は引きつっている。
笠原との真っ向勝負に敗れて、明らかに気持ちで調子が左右されてしまっていた。
ノーアウト、ランナー1、2塁。
打順は4番、篠田。
一発で同点の局面。
しかし、篠田はここまで完璧に抑え込んできている。ここでもう一度篠田を三振にとれば、真人も調子を取り戻すのではないかと一人はこの打席に希望をつなげる。
はずだった。
『総陵高校、選手の交代を申し上げます。バッター、篠田くんに代わりまして、秋山くん。4番、サード、秋山くん』
親子が耳を疑う伏兵の登場は、光自身の志願によるものだった。
この試合不甲斐ないバッティングを続ける篠田に見切りをつけた監督と、光の真人への執念が合致した起用であった。
篠田との勝負で、こちらに流れを引き戻せる局面であると思って疑わなかっただけに、一人はやられたという思いだった。
「景気よくやってるみたいじゃねぇか、御曹司くん。活躍は見てるぞ」
光と話すのは、過去にやって来た翌日ぶりだった。
光は特に敵対心をむき出しにするでもなく、からりとした様子で右打席に入った。
「久しぶりだね、まさかこんなに場面で出てくるなんて」
ご勘弁願いたい。そう後に続く言葉は伏せた。
「もう我慢できなくなってな、先輩方より、俺の方がよく知ってるんだ。あのジャガイモボールの打ち方はな」
過去の対戦成績で言えば、圧倒的に真人が有利。光は彼の全力投球をまともにミートできた試しがない。
しかし――
『15打数8安打だった!』
という父。
『馬鹿いえ!9安打だ!一本はホームランだぞ!』
という光。
一人は知っているのだ。未来の世界で真人と光、2人の昔を懐かしむ会話を小さいときから聞かされ、彼らの対戦成績が高校入学から徐々に徐々に逆転していくことを。
光が確実に力をつけ、確実に父の球を捉え始める未来を。
思いがけない顔なじみの登場に、真人も先ほどまでの気押された表情を立て直して、歓喜の笑みを浮かべる。
やっときやがったか、大根バッター。そんな言葉を、マウンドから今にも叫びそうだ。
さて、これは歴史の再現か。
史実をただハイライトするだけの舞台なのか。
否、予定になかった役者が今ここにいる。
異物を孕みながらも、時はあるべき姿を選択するのか。
異物の意思を含みながら、変化の道をたどり続けるのか。
一人にとって、最初の試金石が訪れた。
1球目、一人は篠田の時と同じく、内角にミットを構え、揺さぶりをかけにかかる。
セットポジション※から素早く体重を前へとかけて直球を放つ。前の打者たちへの悪球が嘘かのように、ミットめがけて球が来る。
だが、光はそれにかすらせた。
かすかにバットの上側に接触した程度のもので、球はそのままミットにおさまったが、笠原も一球目は空振った球を彼は一球で当てて見せた。
おっ、と真人は口と目をぱっと開いて意外そうな顔をする。それもそうだ。真人の全力投球を光にかすりでも当てられたのはこれが初めてなのだから。
片や光は初めてライバルの球を捉えた自らのバットを見つめてこくこくと小さくうなずいた。
いける。
練習で積み上げてきたものが、努力してきたものが形となり、確信になった瞬間だった。
一人は次に内から外へと逃げるカーブを要求。
真人の球はまたも要求通りの軌道を描いて光の視界を滑り落ちていく。
しかし光はこれにも当てる。
体勢を崩されながらもつんのめることなく上半身を残し、ホームベースに倒れ込むようにして変化を拒絶する。
※セットポジション…塁上にランナーがいる場合の投手の投げ方。体の面を塁と平行にし、牽制するだけでなく素早く動作に移れる。
はじかれた球はひょろひょろと稲嶺ベンチの上のスタンドへと上がった。
体と手首の使い方が柔らかい。光の意外なバットさばきに、一人も感心する。
普通なら見送るか、振ってもなかなかミートしづらい体から離れたコースだ。
それを反射的に難なく当ててくる。体にこの動作が染みつくまで、何度も何度も練習を重ねた証しだ。
運動の精度を決める重大な要素の一つに、この柔軟性がある。
体が柔らかければ柔らかいほど、関節の可動域は広く、投手なら微妙なコントロールの精度や変化球の質を、打者なら打ち返せるリーチの長さが変わってくるなど、その効果は言及しきれないほどに様々である。
そして何より故障の原因を作りにくい。
マウンド上の真人もこの柔軟性においては類いまれな素質を持っているが、打席に立つ秋山光も相当なものだ。
これはおそらく、小さいころから2人を無意識のうちに育ててきた彼女の影響だろうとその共通点を思いやった。
3球目、カーブをまたも外へ逃がす。しかし光はつられない。先ほどのファウルでこちらの意図を読んだか。
では――
篠田と同じ手、緩い球で目を慣らした後の内角への直球。
空振りを取りにいった。
しかし光は当てる。タイミングがずれ、深く差し込まれながらもバットの根元ぎりぎりのところで球を捉えてファウルグラウンドへ切らす。
篠田が対応できなかった球にも、光は食らいついた。
やはり、一筋縄ではいかないか。
篠田よりもよっぽど対応するじゃないか。バッテリーのみならず総陵の監督も光のセンスを評価していることだろう。
体を鎧のように筋肉で固め、柔軟性を失った上半身では、今の球には追いつけない。
剛と柔、二つの要素を巧みに織り交ぜながら作られたフィジカルが、この意識付けの魔術を破るためのカギとなるのだ。
父さん、こいつは笠原並みか、それ以上に厄介だぞ。
一人は額にこれまでと違うじっとりとした汗が浮き上がるのを感じた。
5球目に選択したのは外角高め、ストライクゾーン。
緩急がダメなら、内外の投げ分けで揺さぶりをかける。
真ん中外からせり上がって来る直球は、空気を切りさいてしりしりと鳴く。
この球に、何度追いついてくる。
光はそれを芯で捉えてきた。
たいていの打者が振り急ぐか、全く手の出ない外角の剛球を、いっぱいまで引きつけて見事に流し打つ。
まさか、これも打つのか!?
――やられた!
しかし打ち返された球はスピンをかけながらライト線をわずかに右に切れた。
148㎞/h。自身最高の一球が、打ち返される。
ライバルへの手向けのつもりで投げた一球を、ファウルとはいえ見事の打ち返された真人は、目を大きく見開いて打席の光を見る。
信じられない。つい最近まで振り返っても全く姿が見えないほどに開いていた実力の距離、しかし今振り返るとすぐ後ろに彼はピタリとはりついているではないか。
そして虎視眈々と狙っている。自分に並走し、追い抜くそのタイミングを。
光の目は殺気立ってもいなければ、前のめりにいきり立ってもいない。
ただ冷静に目の前の好敵手を見つめ、澄んだ瞳でその剛球を射ぬこうとしている。
長年練り込まれた闘志の触媒に、確信が織り込まれたそれは化学変化を起こして、絶対優位であったはずの真人を逆に威圧する。
親子は同時に、細く小さく息を吐いた。
そして6球目、一人はもう一度内角に直球を呼びこむ。
外角は打たれても、内角は差し込んでいる。振らせてフェアグラウンドに落とせれば、ダブルプレーも狙えるはずだ。
目の前のストライクゾーンの立方体を、頭の中で何度もシュミレートさせながら一人は結論を導き出した。
これで、勝負。
力いっぱいに引き絞られた弓の力を、二本の指の点に圧縮させて真人は渾身の一球を放つ。
「エイヤァ!」
リリースの刹那、心の底から出た叫びはこれから彼の代名詞ともなる叫び声だった。
これ以上にない絶好の球が、一人の視界に大きな点となって迫る。
そして光のバットがそれを迎え撃つべく前へと出る。
だがこれは、打てない!打てるものか!
一人がそう確信した時だった。
聞こえたのは、ミットの乾いた捕球音ではない。
それは、バットの冷たい打撃音だった。
「ショート!!」
当てた。差し込まれずに?
バットの勢いを殺されずにか?
どうやって!
放たれた打球は決して正直なライナー性の当たりでも、ホームラン性の大飛球でもない。
マウンドの手前で一度バウンドし、真人の足もとをスッと抜いていく、痛烈なゴロ。
ショートの考が、身を投げ出して打球を止めるべく飛び込むが、勢いが強い。
間に合わない。
打球はセンターへとしぶとく抜けた。
深く守っていた丈二は外野へ抜けた途端に転がりを弱める打球のせいでバックホームができない。
タイムリーヒットでランナーがひとり、生還した。
総陵のベンチは湧き立ち、客席からは大きな歓声と拍手が起こった。
この試合を支配してきた流れを完全に断ち切り、総陵側へと奪い返す一打。
笠原から打たれたホームラン以上に、この1点は大きな意味を持っていた。
「うぉぉぉ!」
光は一塁上で吠えた。これまで、一度も勝つことが出来なかった相手に、初めて勝ったのだ。
あいつには勝てない、そんなコンプレックスを全て脱ぎ捨てたことを宣言するように、光はベンチに向けて拳を高々と突き上げた。
4対、2。
大根切り。
せり上がってくる球をドアの要領で迎え撃っても、それはただのハードルとなって飛び越えられる障害でしかない。
しかし光はそれを逆手にとった。
目の錯覚上、せり上がる球を待ち伏せるために、バットを横ではなく、角度をつけて縦に近い形で振った。
まさに大根切りだ。
結果、通常であれば差し込まれるはずである角度の球を、柔らかい手首を使って上手く真芯で捉え、勢いを殺さず前に飛ばせて見せたのだ。
泥臭い。確かに泥臭く、格好の悪いバッティングではあったが、これが馬鹿にされ続けた大根バッターなりの借りの返し方だったのだ。
この光の奇策を理解した一人は、光の真人への執念の深さを思い知った。
これほどまでに打ちたいという思いの乗ったスイングを、一人は知らない。
光が長年の影を払しょくした一方で、真人は動揺を隠しきれなかった。
彼の野球人生において、ここまで「負け」というものを大きく意識させられる出来事はこれが初めてであっただろう。
全力を出し切りっていながら笠原に負け、そして勝つと信じて疑わなかった光にも負け、まだ2点のリードがありながら、真人の中で今日の試合はサヨナラ負けを喫したも同然の心理だった。
そんな、仮想敗戦投手が投げる球には、もはや覇気も何もない。
燃えつき、折れかかった自信の中で投げる球を、総陵の打線はもちろん見逃さなかった。
5番にライトへタイムリーを打たれ、4対3。ランナー1、3塁。
続く6番は強烈な当たりをファーストに向けて放つも、優が巨体を盾にしてなんとか抑え、ようやくワンアウト。
みちる、何してる。父さんはもうダメだ。早く丈二さんに――
一人は気を切らさず父をリードするが、焦る。
どんなに苦手なコースを選ぼうと、もうコースを狙えるほどの集中力が真人にない。
しかし、監督代行は動かない。相変わらず腕を組んだままベンチの奥でうつむいたままだ。
7番打者が放った三遊間へのゴロがレフトへ抜けそうになるのを、考がダイブして今度は何とかつかみファーストへ送球、ツーアウトを奪う。
しかしこの間に三塁ランナーが生還し、ついに同点に追い付かれてしまった。
4対4。ツーアウトながらなおもランナー2塁。
それでも、みちるは動かなかった。
そして真人の球は8番打者にまで捉えられる。
肩で息をし、集中が切れた途端に疲労が一気に押し寄せた腕から放たれる直球は、130キロ前半まで落ち込んでいる。
回転も、伸びも、並みの投手のレベルにまで落ちた彼の球を打つことは、もはや容易なことだった。
打球はセンター前へと悠々とはじき返され、総陵のベンチが騒がしくなる。
前に乗り出した誰もが腕をぐるぐると回してランナーを急かしている。
還れば、逆転。
ランナーは勢いよく三塁を蹴った。
クロスプレイ(ランナーと守備の交錯)になる!
転がったボールは、センター丈二が前へと全速力で走り込み、片手で処理する。
「バックホームッ!」
一人が叫ぶとすぐさま、セカンドが中継に入ろうとするが――
「どけぇっ!」
丈二の低くどすの利いた声がグラウンドに響き渡ると、セカンドのみならず、総陵ベンチで腕を回す選手たちまで縮みあがった。
捕球からすぐさま送球のフォームに入った丈二は、その左腕からホームベースを射抜かんばかりの低弾道で送球を放つ。
実に45メートルはあろうかという距離を、球は鋭利な気をまといながらノーバウンドで突き抜けた。
審判が思わずストライクと叫んでいまいそうだ。
見事な返球は一人の膝の高さにノーバウンドで届いて、相変わらずの球の重みがミットを伝う。
走り込んできたランナーは滑り込むことも出来ず、見事なストライクボールに唖然とするしかなかった。
本塁3メートルほど手前で、一人は逃げようとするランナーの背中に難なくタッチする。
「アウトォ!」
クロスプレーに持ち込むことすら許さない丈二気迫の返球が、がけっぷちの稲嶺を救った。
これぞ俗にいうレーザービームというやつか。
全盛期の丈二の強肩を初めて体感した一人は、その衝撃に内心打ち震えていた。
点こそまだ並んだだけだが、チームを支配する勢いは逆転してしまった。
大きな掛け声とともに足取り軽くベンチを飛び出していく総陵ナインに比べ、引きあげてくる稲嶺ナインの表情は暗かった。
「さぁ!ここからだ!取り返すしかないぞ!」
こんなときでも考は気丈にベンチの中を左右に歩き回りながら、選手たちを鼓舞している。
先ほどの守備でのリカバリーと言い、一人はこの人に頭が上がらない。
一方の真人はベンチに帰って来るなり、ベンチの端にどしんと体を預けてぐったりと全身で息をしていた。
帽子を深く被り、顔を隠している。
一人はそんな父を見遣ったあと、そこから一番遠い位置に座ったみちるに声をかける。
「おい、どうして代えなかった。あの流れではもう今日の真人は立ち直れないことぐらい分かってただろう」
みちるはうつむいたまま答えない。一度肩をすくめながら大きく鼻で息をした。
「お前のマネージャー生命かかってるんだぞ、そこんとこ――」
「違うわよひとりくん、全然違う」
みちるはゆっくり立ち上がると、一人を見上げ、鋭い赤茶色の両眼を向けて言った。
「甲子園かかってんのよ」
そう言うなりみちるはずかずかとベンチの中を足早に横切っていく。
行く先はもちろん――
「おい、稲葉真人。キミは何様だ」
鋭い目つきの切れ味をさらに研ぎ澄まし、みちるは真人の前に立つ。
まーちゃんなんていつもの甘い呼び方はそこから想像もつかない。
しかし真人は黙ったまま。大きな呼吸を体全体で繰り返すだけ。
「ねぇ、答えなさい!」
みちるは目の前にある真人の胸ぐらをぐいっと掴み、帽子で隠れた顔を目の前に引き寄せる。
「キミひとりの満足のために、ここにいる全員のこれまでの頑張りをどぶに捨てようと――いや、もう捨てたのよキミは。満足?笠原さんと、兄貴と、真っ向勝負できて満足?違うわよね、満足できると思って疑わなかったのに、期待と違った結果にふてくされてるだけよね、そうでしょうが!」
考と優が慌てて2人を引きはがそうとするが、みちるは離れない。視線を左下におとして口をつぐんだエースに言葉を浴びせ続ける。
「そのために支払った4点がどんなものか分かる?少しずつ少しずつ、みんなが必死の思いで積み上げた4点でしょ!ここを破れば、甲子園が見えてくる、違うの稲葉真人!そんな思いの詰まった点を、命がけで守るのがキミの仕事でしょうが!」
そして強烈な張り手が真人の右のほおをえぐった。
「キミの命がけは、何の中身もない、カッコつけの嘘っぱちよ!」
『稲嶺高校、守備の交代を申し上げます。センター坂本くんが稲葉くんに代わってピッチャー、ピッチャー稲葉くんが坂本くんに代わってセンターに入ります』
8回表、マウンドに上がったのは丈二だった。
本大会、いや高校野球での彼の初登板は、エースの失態を挽回するという何ともしょっぱい機会となった。
もちろん稲嶺の控え投手の情報などない総陵は、この選手交代に意表を突かれた。
もはや攻略したとも言っていい真人の球をここからさらにたたみかけようとする彼らの意図を、丈二と一人は見事断ち切って見せた。
鉄球はもちろん健在だった。130キロそこそこの直球と甘く見た総陵打者はバタバタと内野ゴロの山を築いて倒れる。
あの笠原でさえ、丈二はぼてぼてのセカンドゴロにしとめてしまったのだ。
一人が初めて丈二の球をインパクトしたときと同じ様に、ファウルボールでその衝撃を体感した打者たちはバットから手を離し、手のひらをぶんぶんと振る。
この直球のメカニズムを理解し前に飛ばすことは、そうそう出来はしない。
一人が見据えたマウンドの延長線上には、ポツンと流れに取り残されたかのようにセンターにたたずむ真人が見える。
その体は小さく、守備をしているというよりはそこに追いやられているという格好だった。
一人はあえて、ベンチでも父に声をかけなかった。
中途半端な叱咤や文句よりも、今の彼には沈黙が何よりの薬だろう。
それに言いたいことの大半はみちるの口を借りてもう届いているはずなのだから。
9回表まで、丈二は9、1、2、3、4、5番と、全ての打者を内野ゴロに打ち取って総陵の動きを完全に止めた。
まさかの伏兵に、驚かされる総陵ベンチでは、まさかこっちがエースじゃないのかという話が出る始末だ。
丈二とも幼なじみである光が打席に立ったが、丈二が投手であるという情報を持たない彼も、他の打者と結果は同じだった。
一人の好リードもこのシャットアウトの大きな要因であったが、やはり一番は丈二の強心臓だろう。
総陵が押せ押せの悪い流れを全く意に介さず、涼しい顔色を全く変えることなく安定した鉄球を投げ込んでいく。
おそらく、その前のバックホームで総陵の選手が丈二に若干の恐怖を覚えていることも幸いしたのではないかと一人は思う。
しかし変化球を使わず、直球だけで相手を抑え込めるというのはなかなか痛快なものだと、一人は鉄球を受け切った左の手のひらを振りながら笑った。
捕り方のコツ、つかまないとな。
9回表終わって、4対4は変わらず。
最終回の稲嶺の攻撃が始まる。
しかし稲嶺は攻め手を欠いていた。
一度失った流れというのはなかなか取り返せないもので、こういう時に限って絶妙にインパクトした打球も守備の正面に飛んだり、相手選手のファインプレーが飛び出したりする。
この調子だけ見ていれば、勝つのは明らかに総陵だろうと客席で戦況を見守る観衆の目にも映るはずだ。
この回も、稲嶺の攻撃は6番から。一人たち得点源に回すためには延長戦も視野に入れなければならない。
しかしこの延長戦が厄介なのだ。12回まで設けられてはいるものの、リーグ戦規定で引き分け、同順位で2チームが並ぶ場合、得失点差で順位付けがなされる。
無論、強打総陵がここまでの2試合で積み上げた点数は稲嶺のそれよりもはるかに多い。
延長引き分けはすなわち、稲嶺の敗北を意味している。
丈二は好調を維持しているが、長い回をまたぐロングリリーフでその安定感を持続できるかどうかは一人にも未だ未知数だ。
早く、早く得点して勝負を決めなければならない。それが稲嶺の総意だった。
しかし思いが空回りしてか、打線はつながらない。6、7番はあっさりと内野フライを打ち上げ、早々にツーアウト。
これは延長戦か、それを誰もが覚悟したときだった。
「なんだなんだ、やっぱこんなもんかよお前らの実力は。情けねぇなぁおい」
ベンチの入り口で声がして、皆が振りかえる。
「ったく名門総陵に稲嶺が金星上げるかもって聞いて来てみれば、飛んだ茶番を見せられてるぜ。まぁ、俺はそれでも今日の飯が旨いけどな」
それは多くの者が予想だにしていない人物。
見慣れない彼のユニフォーム姿に、誰もが目を疑う。
背中の番号は、18番。
「やっと来たわね、どうせこうなるタイミングを狙ってたんでしょ」
真人を怒鳴り散らしたときとはまた違った威圧感を持って、みちるは彼を見据える。
「そうそ、ヒーローは遅れて登場するもんだろ、冷徹女。俺が助けてやるっつってんだよ、お前らを。ただ、その代わり――」
「この試合終わったらお前ら、サッカーしようぜ?」
自信たっぷりの笑みを浮かべながら、彼は言った。
稲嶺高校登録メンバー最後の段、背番号18として登録された選手の欄には、彼の名前が確かに書かれている。
香川 翼と。