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ハイライト  作者: にしおかナオ
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8.栄冠への条件

「部員を増やす!」


新学期9月、放課後の練習前の部室で、スパイクやグラブの手入れをする部員たちに向けてマネージャーみちるは言い放った。


いきなりの発表に、部員たちは当然あっけにとられている。


「いきなり何を言い出すんだよ」


昼買い置きしておいた焼きそばパンにかぶり付きながら真人がめんどくさそうに言う。


「部員が半分に減ったちゃったのよ?頼りない先輩たちだったとはいえ、戦力がダウンしたことに変わりはないわ。戦力補強が必要よ」


「プロチームじゃないんだぞ、はいそうですかって強力な助っ人が入って来るわけないだろ、なぁカズ」


「いや、みちるの言うことももっともだ」


チームの参謀である一人が珍しくみちるの提案に同意すると、部員たちはぎょっとした目で彼を見た。


「これだけ部員が少ないとこれまでやって来たメニューも大幅に変えなくちゃならない。それに、競争意識を常に持つことは大切だと思うんだ」


「そうそ、さすがひとりくん分かってるね!」


これまで松野の機嫌と都合だけに支配されてきたこの部に決定的に欠けているもの、それはお互いに切磋琢磨しあいながらポジションを争う競争心だ。


松野に媚びなければ試合に出れないと諦めていた彼らにとって、必要なのは新鮮なライバルの登場であった。


それに、これは未だ野球部の門を叩こうとしない残された稲嶺黄金世代たちを部に引き入れる、千載一遇のチャンスだと一人は考えていた。


「でもよ、そういうの最終的に決めるのはキャプテンだろ?」


真人が言うと部員たちの視線は一転黙々とひとりストレッチをする考に集まる。


考は、視線をきょろきょろと見回すと、あそうか自分がキャプテンだったと慌てて言葉を返した。


「僕個人としてはいいと思うよ。純粋に競い合える相手がいるっていうのはいいことだと思う」


努力の人の賛同はやはり説得力が違うのか、他の部員たちも納得したかのような表情だった。


「ただ、今から勝手に部員募集なんて先生たちが許してくれるのかな。まだ新しい顧問の先生も決まってないし」


寺崎の転勤によって、野球部顧問は未だ不在のままだ。何か話を通すには顧問のパイプが欲しいところではあるが――


「既成事実を作ってしまえばこっちのものよ」


マネージャーの強硬姿勢には毎回皆腰が引ける思いがする。


「張り紙の掲示とか、そういうのがダメなら直接スカウトして回れば良いじゃない。引き抜きよ!」


それこそ先生だけでなく、他の部からも反発を食らうだろうに、みちるの勢いはおさまりそうになかった。


「そうと決まれば、明日から休み時間を使ってスカウト開始よ!」


「あのー、すみません」


血気盛んにスカウトの作戦を練ろうとするみちるの声にかぶさって、馴染みのない遠慮がちな声が聞こえてきた。


女子かと思ったその声の主に、一人は見覚えがある。


「ここが野球部の部室で、あって、ますよね」


おそるおそる入口から中を覗き込むのは、くりくりと巻いた茶髪のクセ毛が可愛らしい少年、もとい青年。


未だ変声期の来ない声と同じく幼い表情は、新聞で盾やトロフィーを持ちながら笑顔を作っていた顔。


将来喫茶ハイライトのマスターとなる男、井上道だった。


「あの、その、入部――」


「え、何?」


ごにょごにょと恥ずかしそうに話す彼の言葉をみちるが強く聞き返すと、道はびくりと震えた。


「えっと、野球部に入部したいんです!」


やっとのことで絞り出した声が部室に響くと、部室はしんと静まり返った。


「ふっ、ははは。おいマジかよ、そんなひょろっちい体で入部――」


誰かがびくびくと引け腰の道を笑ったかと思うと、みちるがそれにげんこつを食らわす。


「こら、せっかくの入部者でしょうが!そうよ、ようこそ野球部へ」


一転優しい表情でみちるは子犬のように怯える道を部室に引き入れた。



部員を増やすと言った直後に入部希望者とは、この女は何か人智を超える神通力でも持っているのではないかと真人や優を含めた多くの部員が言葉を失う中、考は良かったね早速入部者だと手放しで喜んでいる。


おいおいあなたは不思議じゃないのか。


「名前は?」


「井上、道っていいます。B組です。出席番号3番です」


「井上道?ってもしかして天才美術少年の井上道か?」


一人は出来るだけわざとらしくないように調子を合わせると、道は恥ずかしそうに顔を赤くしながら苦笑した。


「お詳しいんですね、そんなことを新聞に書かれたこともあります」


「絵が得意なの?」


「はい、得意というか、好きなんです。昨日まで美術部にいました」


「それがどうして野球部に?」


考が一人が聞きたい方向に話を持っていってくれた。


「その、本当は春から野球部に入りたかったんです、だけど勇気がなくて……」


道はおどおどと不安そうに答える。一人が知る未来の道はもっと柔らかくもはきはきした印象があったものだが、目の前の彼にそんな印象はない。


「ってことはこれまで野球の経験があるの?」


みちるが続けて尋ねた。


「いえ、全く、ないです。だから挑戦してみたかったんですけど、野球部って皆さん小中と経験者の方ばかりじゃないですか、勇気がなくて」


「なるほどねぇ」


真人を始め、大半の部員がこれは使えないなと肩を落としている半面、みちるの表情は活き活きとしていた。


「野球部って、練習きついのよ?そこんとこ分かってる?」


「もちろんです!僕、ルールくらいしかわかりませんけど、必死で練習します!雑用だって何だってっ、皆さんの足を引っ張らないように頑張りますからっ!だから――」


「よし、採用!」


意気揚々とそれだけ言い放ってみちるは部室を出ていこうとすると、部員たちがおいおいおいと突っ込みを入れた。


「おいみちる、いいのか、ケガさせたって責任持てないぞ」


「何で、責任持ってあげなさいよ。本人にこれだけやる気があるのよ、拒む理由なくない?」


「でもよ」


「そのかわり――」


みちるは道を指さして言い放つ。


「いのちゃん、あなたは今日からあたしの指定強化選手よ!たっぷり特訓に付き合ってもらうから覚悟なさい!」


「はいっ!ありがとうございます!皆さんも、どうぞよろしくお願いします!」


線の細い体でぺこぺこと頭を下げる道に、部員たちは半ば同情する。


みちるの指定強化選手、ということは彼女の培われた野球理論をその体に一から叩きこまれるということだ。


理解が難解な上に下手をすれば関節や筋肉を傷めかねないスパルタな練習メニューやフォーム矯正は、素人にとって酷なものだと想像しただけで寒気がする。


「これで今まで試せなかったことをたくさん試せる被検体が出来たってものよ」


そうつぶやくみちるを前に、道の加入を歓迎すると同時に幸運を祈る部員一同であった。


翌日から、みちるのヘッドハンティングが決行された。


朝誰よりも早く来て各部活の朝練をチェック、何やら怪しげなボードを持って書き込みを続けながら鋭い目で選手の品定めを続ける。


「ひとりくんの目、確かでしょ?」


何の根拠もない抜擢によって一人もまた、この早朝からの偵察に付き合わされている。


自分も野球部の朝練で汗を流したいのにと思いながら、みちるのあの人は?この人は?という問いにアドバイスを加える。


「こら、適当なこと言わないでよね」


面倒くささから適当に回答するともちろんバレた。


こんな日が丸三日も続いて、さすがに一人の煩わしさもピークに達する。


「なぁ」


「なに、次はテニスコート、早くしないと朝練終わっちゃうでしょ」


「こんなこと本当に意味あるのか」


「あるに決まってんじゃない、大体目標が絞れてきたの。瞬発力抜群の卓球部水野くん、爆発力が魅力の砲丸投げ松本くん、あとバスケ部の――」


「香川翼はダメなのか?」



「あいつはダメ」


「なんでだ、逸材だろ?」


「ダメなものはダメなの!」


適当に回答する一人にだって、めぼしい選手がいないわけではなかった。何を隠そうサッカー部期待の新星、香川翼だ。


黄金期のメンバーだからという単純な理由だけでなく、一人は実際に自身の目から見ても彼の運動の才能はずば抜けているように思われた。


「惜しいな矢野、学年2位だぞ!」


5月に体力テストがあった。50m走で自己ベスト6.3秒を出した彼は、体育教師からの一言を覚えている。


1位は誰ですときくと、1位はちょっとずば抜けてる、B組の香川だよ、記録は5.9秒だ。まぁあの日は追い風もあったがな。


50メートルを5秒台で走ると言うのは、驚異的な速さだ。日本記録でさえ5.7秒だというのに、彼はそれに近い記録を持っている。


さらに練習中の彼の動きを見ていても、彼の突出した能力ががスピードだけでないことは明らかだ。


立ちふさがるディフェンスを巧みな動きで惑わすフットワーク、小柄ながらタックルを食らっても決してゴールへの姿勢を崩さないフィジカルの強さ。


身体能力であれば、自分や真人ですらしのぐであろうと考えていた。


そんな彼を、一人はヘッドハント初日から前面に推しているのだが、敏腕マネージャーは決して首を縦に振ろうとはしなかった。


「何がそんなに気に入らないんだよ」


「あいつ嫌いだもん」


「はぁ?」


これはひときわ何の説得力もない理由に一人は肩をすくめる。


「何があったかは知らないけど、マネージャーが自分の好き嫌いでチーム編成するのかよ」


「あんな野球を目の敵にしてるやつ、誘うだけストレス溜まるって言ってんの!」


「そんな都合でダダこねてるようじゃ、お前だって松野先輩と同じじゃないか!」


一人がそう言い放つと、みちるはハッとしてうつむいた。しまった、言い過ぎたと思ったが遅い。


「ごめん、もういいよひとりくん。私が悪かった。あとはあたしだけで探すから、朝練行っていいよ」


早口でぼそぼそと言ったかと思うと、みちるはそのままテニスコートへ早足に去って行った。




「ううん、参ったな」


実質これまで野球部の内政面を支えてきたみちるだったが、松野糾弾の一件で彼女だけに権力が集中しすぎてしまうのも問題だと一人は考えていた。


優秀であるに越したことはない。しかし、彼女と自分、二人の優秀な参謀がいるが故に他の部員たちが卑屈に陥ったり、主体的な思考を止めてしまうのではないかという危惧もある。


第三者の意見が欲しい。


顧問も未だ決まらぬ今、一人が本当に欲しいのは怪物的な助っ人ではなく内政面をとり持ってくれる中立的立場の存在だった。


そんな今後の野球部について頭の中をぐるぐると様々な考えがめぐると、朝練どころではなかった。


一人はひとり、静まり返った朝の校舎の廊下を歩く。


夏の刺すような日差しもここのところ陰りを見せ始め、朝窓から校舎に差し込む光は柔らかさも感じられる。


そんな光が静かに降り注ぐ廊下で鳴る一人のゆっくりとした足音は、校舎中にしみ渡っていくように心地よく響いていた。


一人はある部屋の前でふと足を止める。


図書室。


そうだ、最近周りに振り回されてばかりで本を読めていない。


自分のペースで何事も進むときというのは、いつも傍らに読書の存在があったと一人は思い出し、図書室の戸を開けた。


『名将の配球論』

『チームプレイのすすめ』

『一歩先の野球』


ほう、こんなマニアックな本が学校の図書館に置いてあるというのは意外だった。


この三冊は、一人が未来の世界でもお世話になった野球の名著だ。この時代ではまだ新刊扱いになっている。


選書担当はよほど野球、いやスポーツのセンスもあると見た。


『瞬間の集中力』

『高校は部活動をやれ!』

『すき間時間の帝王学』


なかなかユニークなセンスもある。


図書室、図書館、蔵書室、紙で覆い尽くされ、支配された世界というものには、独特の空気感がある。


そこに固定されたかのような静かな空気感は、紙一枚一枚の長年にわたる呼吸によって染められた安息の空気。


何億、何兆という文字の大河の中、誰かに拾いあげられ、出会うのをただひっそりと眠り待つその姿は、けがれのない乙女にも例えられよう。


いざ本を手にとった人にもたらされるのは胸を踊る冒険か、背筋の凍りつくサスペンスか、新たな世界の扉を開く知識のカギか。


この大河には、数えきれないほどのドラマが眠っているのだ。


「開放時間はまだですよ?」


本棚をめぐる一人に、後ろから女子の声がかかる。


振り返った一人は思わず息を止めた。


両手に山積みの本を抱えて一人に声をかけた少女。


肩までの黒髪は二つくくりで、黒ぶちの眼鏡の奥の瞳が清く輝く。


少女は固まる一人を見て、どうかしましたか?と心配そうに首をかしげる。


一人の目の前には、若き頃の母、絵里が立っていた。




「いや、ごめんなさい。知らなかったもので」


「いえ、こちらこそごめんなさい。びっくりさせちゃったみたいで」


「いやそんなこと――」


「実際、そんなこといいんですけどね。こんな時間に入ってくる人なんて滅多にいませんから」


絵里は持っていた本の山をおろし、ゆっくりと本棚におさめながら笑った。


「図書委員の、方ですか?」


「ええ、そうですよ。とはいってもこんな朝早くからモノ好きに本の整理をしてるのなんて私だけ。好きなんです。本の虫っていうんですかね」


さっぱりとしながらも優しい口調は昔からのようだ。


「あなたも本、お好きです?」


「あ、はい。最近なかなか読む機会がなかったんで無性に読みたくなって」


「それわかります、テスト期間中なんて特にむしゃくしゃしますよね。やらなきゃならないことがあるときに限ってどうしてこうページをめくりたくなるんだろうって何度も――あ、ごめんなさい」


本のことになると彼女は熱く早口で語る。急に我に返ってほおを赤くした。


「借りたい本があったら言ってくださいね、検印、押しますから」



『リーダーシップの賜物と功罪』


一人はカウンターに本を置く。


「難しい本を読まれるんですね、キャプテンされてるんですか?」


「いや、まだ1年ですから」


一人が苦笑して言うと、絵里は私もですよと何故か嬉しそうに笑って図書カードを差し出す。


「こちらに名前を」


しかし矢野一人と書きいれると一転して――


「矢野くん?あなたが有名人のあの矢野くん?」


どの矢野くんかは知らないが、1年に矢野はひとりしかいない。


「有名、ですか?」


「そりゃあもう、成績学年トップで運動もできて、あの矢野家の御曹司なんて、有名になりますよ」


最後の矢野家の御曹司というのがうわさに飛びきり箔をつけている気がした。


しかしそんなうわさ話が他人事であるように自分に接してくれる未来の母に、一人はホッとする。


「きっとご両親もすごい方なんでしょ?」


「いや、いたって普通ですよ。特に母はね」


嘘は言っていない。それがおかしかった。


「そういえば、矢野くんって野球部でしたよね」


「そうだけど」


「マネージャーの募集なんて、やってませんか」


「えっ」


これは願ってもないチャンスだった。史実、どういったきっかけで母が野球部のマネージャーになったかは定かではないが、何とか引き入れたいメンバーのひとりとして、この母絵里も欠かすことはできないのだ。


「いや無理ならいいんですけど」


恥ずかしそうな絵里の言葉を拾いあげて一人は言う。


「いえ、ちょうど今新規で部員の募集をかけようとしていたところなんです。新しいマネージャーもきっと歓迎です」


「本当ですか?」


「でも文芸部はどうされるんです」


「えっ、矢野くんがどうして知ってるんです?」


しまった。




「あ、いや、そこの文芸部名簿、ちらっと見えたんです」


慌ててカウンターの横に貼られた文芸部の名簿を指さす。


「でも私の名前、ご存知でしたっけ」


しまったしまった。


「黒田絵里さんですよね。黒田さんも有名ですよ、図書室の名物委員だって」


はったりだ。


「えっ、そうなんですか。やっぱり図書委員と文芸部なんて、ここに貼りつきすぎなんですよね。だから何か違うことしたいと思ったんです。それを聞いて踏ん切りがつきました。私マネージャーやりたいです」


何やら話が結果オーライの方向に行ったようだ。一人はほっと胸をなでおろす。


「本は好きならいつでも読めますから」


こうして、新マネージャー黒田絵里が誕生、しそうな瞬間――


「絵里ー!やっぱりここにいたー!何してんの、授業始まっちゃうよ!って、矢野のおぼっちゃまじゃない!」


そこに現れたのはこれも未来で見覚えのある顔。


未来で香川翼の妻となり、絵里と商店街の二枚看板娘と呼ばれる女性、旧姓、浅田弘美だ。


長い髪を頭の上で結ったポニーテールには馴染みがなかったが、きりりとした眉と小ざっぱりとした声色は香川鮮魚店を訪れるたびに見聞きしたなじみ深いものだ。


「なんで?なんで矢野のおぼっちゃんと一緒にいるの?」


初対面でこのなれなれしさは少し面食らうものがある。


「ただ本を借りに来てただけよ。ですよね」


「え、ええ」


「そんなことより、授業、始まっちゃうから行くよ」


「うん、待ってすぐ行くから。じゃあ矢野くん、マネージャーの件はまた」


「はい、お待ちしてます」


苦笑する絵里はあれよあれよと急かす弘美に引っ張られ図書室を出て行った。


もう少しというところで話の腰を折られ、たたずむ一人。


マネージャーということで、いいんだよな、多分。


*


「そういえば絵里、あの話考えてくれた?」


「あの話?」


「前にお願いしたじゃない!サッカー部のマネージャーの話!1年生私しかいなくて困ってるって」


「ああ、それね、それなんだけどもう決めてしまって」


「決まった?ありがとーう。助かるよ!」


「いやそうじゃなくて、決めたっていうのはやきゅ――」


「可愛いマネージャーが増えるんだからみんな喜ぶぞー、特に翼のアホが」


「いや、えっとそうじゃなくて――」


*


この日の練習後、二週間後に行われる秋季大会の抽選を終えた考が戻って来た。


稲嶺高校のある県の秋季大会は、トーナメントベスト16を選ぶ前に3つの地区に別れて総当たりのリーグ戦が行われる。


東、西、そして北のブロックのうち、稲嶺は東ブロックのC組。


各組4チームの総当たりで、組の1位チームだけがベスト16に駒を進めることができる。


戻って来た考の表情は硬かった。組み合わせ結果をみればそれも納得である。


東ブロックC組

1.私立総陵学園

2.私立桜蘭高校

3.県立稲嶺高校

4.県立笹川高校


考が引き当ててしまったのは東ブロックの中でも、1,2を争う熾烈なグループであった。


県立笹川は、稲嶺ともよく練習試合を行う近隣の高校で、近年の実力は拮抗しているライバル校。ここ1年間の対戦成績は、3勝3敗の五分。


しかし厄介なのは残りの2校。私立桜蘭は、昨年の秋季大会でベスト8に残った県内の中堅校。堅実なつなぐバッティングと守備が持ち味。


そして私立総陵は複数回の甲子園出場経験を誇る県内屈指の強豪だ。現在第一線で活躍するプロ選手も数多く輩出する今大会の大本命。


この組み合わせを見れば稲嶺など上位争いのカヤの外、2強の争いが濃厚な組と見られている。


この厳しい抽選の結果を聞いて大半の部員が肩を落とす中、期待に胸を高鳴らせる者たちがいた。


「ついに来たわね、まーちゃん」


「おー、きたきた。こんなに早く対戦できるなんて願ったりかなったりだぜ」


真人とみちるは示し合わせたかのように目を輝かせている。


それもそのはず。考が引き当てた不運な対戦相手の一つ私立総陵学園には、真人の球を早く打ちたいと電話でいきり立っていた男、みちるの双子の兄である秋山光がいるのだ。


「きっと今ごろ光のやつも飛びはねてるぞ」


「総陵のレギュラーで兄貴が試合に出られればの話だけどね」


一喜一憂が渦巻く円陣の中で、一つ、腑に落ちないことが思い当たった一人は考に問う。


「先輩、抽選のとき、代表顧問の名前にはなんて書いたんです。新しい顧問は誰か代理の先生が?」


問われた考はその質問が来ることを察していたようで、苦い顔をしながら答える。


「それなんだけど、市村先生の名前を書くように言われたんだ」


「「市村!?」」


誰もが予想だにしない教師の名前の登場に、全員が目を丸くした。


「市村って、あの音楽の市村かよ!?っていうかあいつ吹奏楽部の顧問だろ、なんでそうなるんだよ!?」


「僕だっておかしいと思ったさ、けど出発直前に教頭先生が市村先生を当面の顧問にしたから、抽選会ではそう書くようにって」


「なんでよりによって市村先生なのよ、ホントにテンで素人じゃない!」


市村弘康いちむらひろやす、稲嶺高校の音楽教師にして吹奏楽顧問。ぼさぼさに伸びた白髪と、何故か整えられた口ひげで一部の生徒からはモーゼの愛称を持つ。


外国人のように深いほりと灰色の目が放つ迫力から、ハーフなのではと噂されているが真相は定かではない。


稲嶺への赴任初年から稲嶺高校吹奏学部を地方ブロック大会奨励賞に導き、今年も同大会で銀賞を獲得するなどその指導力には定評がある。


しかし授業や部活のとき以外はもっぱら音楽準備室を私物化し寝泊まりするなど、稲嶺の中でもひときわ破天荒な素行の教師として知られている。


そんな市村が、なぜ野球部の顧問など――


「何だ、何なんですか教頭、僕はね、まだ引き受けたとはいっとらんのですよ」


「そうは言っても仕方がないでしょう、こうでもしないとあなたをここに置いておくわけには――」


グラウンドに騒々しい声が近づいて来て、次第にその姿が見える。


それはうわさの音楽教師市村と、彼を無理矢理グラウンドに引っ張ってくる教頭だった。




「おい、うわさをすればだぞ」


「本当だったんだ。吹奏楽部はどうしたんだ」


近づいてくる二人に聞こえないように部員たちがざわつく。


呼吸を乱した教頭が集まった部員たちの前に立って事情を話し始めた。


「今回、諸君には寺崎先生が転勤されたことに伴って、野球部にはしばらくの間顧問がいないという不安な状態をさせてしまった。本当に申し訳ない。しかし、今回ようやく新しい顧問が決まった。みんなもよく知っていると思うが、音楽の市村先生だ。今後は先生が君たちの面倒を見てくれることになる。ではあとは市村先生、よろしく」


教頭が話す間、市村は後ろで手を組んだまま苦虫を噛みつぶしたような表情をこらえていた。


手足の長い細身の体にグレーのカッターシャツ、そして黒いジーンズという装いはベンチャー企業の経営者のような鋭利な雰囲気がある。


早足で去った教頭のあと、ゆっくりと部員たちの前に立った市村は、頭をかきながら部員たちを見回して、一言。


「キャプテンと、マネージャー、あとこの中で一番頭の切れるヤツは誰だ」


考とみちる、そして皆の視線が集まった一人が一歩前に出る。


「お前らに全部任せる。僕は大抵音楽準備室にいるからよ、書類のサインとか、必要なことがあったら呼べ。以上」


それだけ言って立ち去ろうとする市村の進路をみちるが塞ぐ。


「どういうことです!それじゃ丸投げじゃないですか」


「そうだが?」


みちるはハッとして黙る。


「お前たちだって、こんなドがつく素人の顧問なんて迷惑なだけだろう?だから僕はお前らに干渉しない。だから、お前たちも僕に干渉するな。勝手にやった方がお互いのためだよ」


「そんな――」


内心そう思う節があっただけに、みちるはそれ以上言葉を返せなかった。


「とりあえず来週にはメンバー登録なんだろ?キャプテン!」


「はっ、はい!」


「それまでにメンバー表だけ持ってきてくれや。僕は音楽準備室から出ないからな」


白い口髭からニヤリと歯がのぞいて、市村はそのまま去って行った。


「どうすんだよ、これ」


「どうするも何も、俺たちのやることは変わらんということだな」


キョトンとする真人の背中を優がバンと叩いて苦笑した。


これも史実通りなのか、否か。


これからどうなるんだと部員たちが不安を口にする中、自分の予想の範疇を超えて走り始めている時間を前に、一人は気がかりだった。


翌日も翌々日も、当然と言えばそうだが、グラウンドに新顧問市村の姿はなかった。


部員たちはいつもと全く変わらぬ練習メニューをこなして汗を流す。練習方針が変わることなどない。


ただ最近変わったことといえば、みちるに指定強化選手として指名された道のことだ。


「こらいのちゃん!顔がそれてるのよ!目を合わせなさい!」


まだキャッチボールすらもともにすることができない道に対して、みちるはスパルタ練習を数多く課した。


バックネットを背中に立たし、他の部員に頼んで全力投球を超近距離で受けさせる練習をさせる。


近距離で迫る硬球のほとんどを受け損なってはじく彼には腕のあちこちに青あざができていた。


そして両の手首に2キロの重りを付けたまま、みちるの差し出す小さな発泡スチロールに向かって素振りする練習を延々と続ける。


「キミの覚悟はそんなものか!」


腕が垂れ下がり、体ごとバットに振り回されていたとしてもみちるはバットを振れと道に檄を飛ばした。


多くの部員がもうやめてやれとみちるを止める中、道は決してそれを拒みはしなかったし、やめなかった。


その目は練習に打ち込む誰よりも燃え、息を切らして倒れ込みそうになろうとも、その目の輝きは失われることがなかった。


そんな無茶な練習がグラウンドの片隅で繰り広げられる中。


「矢野くん、いますか?」


姿を現したのは先日一人にマネージャーの希望を話した図書委員、絵里だった。


その後ろには、何故か友人の弘美も伴っている。


「あぁ黒田さん、お待ちしてました。今キャプテンの武田先輩を――」


「いえ、ちょっと!そうではなくて」


自分を呼び出した絵里はてっきりマネージャーのことについて話すのだと思っていたのだが、当の彼女は申し訳なさそうに視線を地に向けている。


「本当にごめんなさい!」


「えっ?」


絵里は一人に向けて深々と頭を下げた。なんだ、何も謝られることなどされた覚えがない。


「この前、野球部のマネージャーをしたいってお話したことなんですけど、忘れてもらえますか?」


「どういうことです」


「実は野球部よりも先にサッカー部のマネージャーを頼まれていて、私本当は――いえ、やっぱり先約を優先することにしたんです」



私本当は、野球部に行きたいんですけど――


のどまで出かかった言葉を、後ろのサッカー部マネージャー弘美の手前、抑えたのを一人は察した。


「だから、期待だけさせてしまって本当にごめんなさい」


「私からもごめんね。サッカー部、人数多くてさ、私だけじゃ仕事が回らないのよ」


そろって頭を下げるふたりに、一人はダメだということもできなかった。


「いやそんな、もともと勢いで決まってしまいそうになってたものだし」


しかしこれは困ったことになる。


絵里がマネージャーにならないということはチームそのものにとってマイナスであるだけではない。


このまま下手をすれば真人と絵里は出会わずに高校生活を終えてしまうことだってあり得る。


真人とみちるがどういう経緯でこれから破局に向かうのかは分からないとはいえ、この絵里が真人と近づいてくれないことにはそこに生まれるはずの息子に未来がない。


自分が、稲葉一人が生まれなくなってしまう。


「じゃあ私たちこれで」


「あの!」


最悪の事態が脳裏をよぎったとき、背を向けて立ち去ろうとするふたりに一人はとっさに声をかけていた。


この瞬間を逃すことは死活問題になり得る。




「黒田さん、あなた本当は弘美さんの誘いの前から野球部のマネージャーになるつもりだったんじゃないですか?」


「えっ、それは」


「そうなの絵里?」


はったり半分、推測半分。


しかし先ほど言い淀んだ言葉は明らかに野球部への未練を示すサインだったと一人のなかで確信があった。


弘美には悪いが、ここは力押しさせてもらう。


「確かに、野球部がいいとは思ってました。でも――」


「残りの高校生活の大部分を決めることです。先約どうこうだけで決めることでもないと思うんですが」


立ち去りかけた絵里は再びつま先を一人のほうに向けて、悩む。


「なんだ絵里、最初から野球部が良かったならそう言ってくれたらよかったのに。私に気を遣わなくて全然いいんだよ」


「弘美……」


弘美は意外にも絵里の肩にそっと手を置いてにっと笑った。さすが、理解がある。


「じゃあ弘美ごめん、私やっぱり」


「うん、かまわないよ」


一人は内心ホッと胸をなでおろす。


彼のとっさの引きとめによって事態はもとのさやに戻ろうとしていた、が。


「ちょっとまったぁぁぁ!」


三人のもとに全速力で走り込んできた小柄な青年は、サッカー部の超新星。


「おいおい絵里ちゃん、野球部のマネージャーになるだって?冗談いっちゃいけないぜ!野球なんかよりサッカーだろ!」


「翼!あんた黙ってなさいよ、話がややこしくなるでしょ」


意外にも弘美が翼の言動に釘を刺す。しかし彼はおさまらない。


「弘美はなんとも思わないのかよ、甲子園なんかより国立のピッチを目指した方がよっぽど燃えるんだ」


「バカ、それはあんたが決めることじゃないでしょ。絵里がしたいようにするのが一番なの」


「絵里ちゃん、騙されちゃいけないぞ!こいつは矢野家の御曹司でずるがしこいやつだ!どうせ入ってからこき使われるに決まってる!」


「そんな、矢野くんは親切な人ですよ」


「こういう優男でクールなやつに限って表裏が激しいんだ。誰にも言えない秘密とかあるに決まってる」


「翼!言い過ぎよ!」


なぜか流れの中で自分までこけにされていることが一人は気に食わない。しかし未来人という誰にも言えない秘密はあるのであながち否定も出来ないのがおかしかった。


「大体野球部のマネージャーっていったらあの血の涙もない女がいるじゃないか。絵里ちゃんみたいにピュアでデリケートな女子、あいつにいじめられてすぐやめちまうぞ」


「誰が血も涙もない女よ。魚屋!」




いつの間にやら翼の背後にまわっていたみちるが背中に強烈な蹴りを食らわして、彼はばたんと正面に倒れる。容赦がない。


「ウチに入ろうとしてくれてる人を搾取するような真似、やめなさいよ」


「出やがったな暴力女!ほらみろ、すぐにかっとなって手が出るんだ!」


出たのは手ではなく足なのだが。


「誤解よ秋山さん、私たちは絵里の思いを尊重したいだけで――」


「この魚屋の出来損ないはそうじゃないみたいだけど?」


何とか場を仲裁したい弘美の言葉もそこそこに、みちるは倒れた翼を見下ろす。


その目はいつもになく冷たく生気がない。どうやら本当に嫌いらしい。


話題の中心であるはずの絵里は、弘美に助けを求めるような視線を送ったり、みちると翼を交互に見遣って動揺したりおろおろと不安そうに体を揺らしている。


「何言ってやがる、絵里ちゃんだってこんな暴力がはびこる部なんか入りたくないはずだ!」


「相変わらずバカね、あんたが口で言っても理解できないイワシ並みの脳みそだからこうするしかないんでしょうが」


顔を真っ赤にして息を切らした翼はようやく立ち上がってみちるを指さす。


「いいかい絵里ちゃん、こんな奴らに騙されちゃいけない!野球部なんかよりサッカー部が絶対いいんだ!」


「野球よりサッカーが優れてるとか、あんたの論理は成り立つ前から破たんしてるのよ。下らない話はいいから、さっさと練習に戻りなさい」


「なんだとこの――」


「ふたりとも、少し静かにしようか」


堂々巡りにおちいりそうな話に見かねた一人が語気を強くして仲裁に入る。


「弘美さんの言うとおり、大事なのは絵里さんがどうしたいかだろ。その結論はもう出てる。自分たちはこの話の主役じゃないんだ」


双方ともまだ何か言いたげにしていたが、みちるはぐっと抑え、翼も弘美にほおをぐいとつねられて黙る。


「私は――」


動揺して話に入れなかった絵里がようやく口を開いた。


「野球部に行きます!」


「1年A組の黒田絵里と言います。この度野球部のマネージャーを務めさせてもらうことになりました。よろしくお願いします」


絵里はみちるにすすめられるまま、その日のうちに部員たちと顔合わせをした。


絵里の落ち着いた口調と柔らかい雰囲気の自己紹介に、部員たちはどこか安堵したような拍手が起こった。


やっと普通の可愛いマネージャーが入って来た。


部員たちの総意をまとめるとこんなところだろう。


全員が凍りつく衝撃的な自己紹介をしたみちるのときとは大きな違いだ。


黙っていれば可愛らしいみちるも、部員たちにとっては容赦ない練習を次々と打ち出す鬼教官でしかない。


その練習の甲斐もあって彼らの実力は確実に伸びているが、優しいのはノックでファインプレイを繰り出した時くらいのもので、いつもは絶対的な迫力がある。


絵里が彼らのオアシスとなり得ることは今から明白だ。


一人にとっても嬉しい中立的な第3者の登場だった。


「矢野くん、ありがとうございました。あのとき声をかけてもらわなければ私、自分を押し殺すところでした」


練習後、グラウンド整備をする一人に絵里が声をかけた。


「いや、黒田さんは僕が言わなくてもきっとあとから野球部を選んだ気がしますよ」


「そんな、私、昔から人に何かものをはっきり伝えるのが苦手で、何かと損をしてしまうんです。今回もそうなるところでした」


一人の知る芯が強い母からすれば、目の前の引っ込み思案な女の子はとても意外な真実だった。


「どうして、野球を?」


「えっ?」


「図書室を抜け出して、マネージャーをするだけなら野球でもサッカーでも、どちらでもよかったはずです。何か野球にこだわる理由があったんですか?」


一人が尋ねると絵里は一瞬目を伏せてからふっと笑う。


「大したこだわりとかじゃないんですよ。それに、ちょっと恥ずかしい話になるんですけど」


「恥ずかしい?」


「”野球部のマネージャー”っていうのに憧れがあったんです。私の父が昔高校球児で、母はそのマネージャーだったんです。二人はそのまま結婚して私が生まれたんですけど、母はいつも目を輝かせながら言うんです『毎日声を出して練習頑張るお父さんが本当に素敵だった』って。そんな母を見ていると、私もその感動がどんなものなのかって知りたくなってしまって」


一人の祖父母にあたる二人の話は、彼も母から一度聞いたことがあった。


まさかそれが母のマネージャーになるきっかけだったとは知らなかったし、祖父母と同じような道をたどることになろうとは、めぐり合わせというのは面白いものだ。


「ごめんなさい、もっと何か高尚な理由かと思いました?」


「いえ、素敵じゃないですか。そんな夫婦のもとに生まれるっていうのは素敵なことです」


「本当に、だから憧れてしまうんですよね。ふふ、おかしいでしょ?マネージャーになったからって母の気持ちが分かるとも限らないのに」


このとき、一人は絵里がちらりとマウンドを整備する真人を見遣ったような気がした。


しかしその確信を得る前に絵里はまた目を一人に向けていた。


「そういえば矢野くん、そろそろ敬語もやめにしません?」


「そういえばそう、だね」


「一人くんって呼ぶから、一人くんも絵里で構いませ――いいよ?」


敬語のほうがどこか板についている絵里は、眼鏡の奥の丸い瞳をきゅっと三日月に細めて苦笑した。


「わかった、よろしく絵里。うちの現マネージャーは何かと突っ走るから、君がいてくれると助かるよ」


「もう何でも知ってるみたいなくちぶり。面白い人ね」


微笑む未来の母を、呼び捨てにするというのは何ともくすぐったい思いがする。


しかしこれで稲嶺はやっと、みちると一人だけで回してきた部のパワーバランスを調整する天びんを得た。


「突っ走るマネージャーで悪かったわね。絵里ちゃん!明日からよろしくね!」


一人の背後にみちるが気配なく立った。恐るべき地獄耳。


はいよろしくと元気よく返事をする絵里は、これからの野球部での出来事に心から期待を持っているようだ。


勝気なみちると柔和な絵里、バランスの取れた良いコンビになる気がする。


しかしもしかするとこれから、ふたりが真人を取り合って三角関係になるかもしれない、とてもじゃないが一人には想像はできなかった。


*


あたしとしたことが大事な助っ人をひとり忘れてた!


練習後、そういうなりみちるは一人を連れてある場所に向かった。


そこは稲嶺商店街の一角。


坂本酒店。


日が落ちて、店の明かりと街灯のぼんやりとした光が街路の石畳を冷たく照らしている。


晩になると少し肌寒い風が吹くようになった。


「ジョーくん!野球しない?」


みちるは店先で酒がいっぱいに詰まったケースを運ぶ坂本丈二に声をかけた。


丈二はこちらを一瞥したかと思うとまたケースに視線を落として黙々と作業をしている。


「今、新入部員募集してるんだけど」


「悪いなみちる、賭け野球は廃業したんだ」


相変わらずジーンズ革ジャンの元通り魔は、歯切れ悪く答えた。長い髪は後ろで結われている。


「賭けじゃなくて野球、普通の9回までやる野球よ。ジョーくんの力が必要なの」


「不登校の問題児が野球だけやりに学校へ行けと?」


丈二は未だに学校に復帰してはいなかった。松野の不正を暴いた一件のあとも丈二は依然として学校に姿を見せず、その席は空いていた。


確かに丈二の操る鉄のように重い直球と強肩は、真人の控えにするにはもったいないほど強力な戦力になり得る。


しかし今の状態で部活動にだけ参加というのは難しい。


だがみちるも手ぶらでここに来たわけではなかったようで、自信ある表情を崩さず言った。


「ふん、ジョーくんあたし知ってるんだからね、ジョーくんが土日や平日の放課後にこっそり学校に来てること」


丈二のケースを取ろうとしていた手がピタリと止まった。


「補習、受けてるんでしょ?」


それは一人も知らない驚きの事実だった。


「だからなんだ」


「学校来ようとしてるんじゃない」


「気休めだ。それでも単位は全然足りてない」


再び丈二がケースに手をかけると、奥から丈二、客かと彼によく似た低い声が聞こえた。しかし丈二は気にするなと返す。


「無理なんだ。普通に学校に行くことも、部活をすることも。少なくとも今は」


「復讐のためか」


一人はあえて切り出した。すると丈二は一瞬ぎろりと敵を睨むような鋭利な目を一人に向けた。


が、一度ゆっくりと目を閉じて小さく息を吐くと、その鋭い眼力をおさめた。


「復讐?なんのことよジョーくん」


「復讐はやめた。する気力も失せた。今学校に行けないのは家庭の事情ってやつだ」


「それって、小学校で引っ越したことにも関係あるの?」


丈二は合わせようとしなかった目で一度遠くを見遣り、店の奥をうかがってから二人を見据えて言った。


「場所を、かえよう」


*


小学5年のときに両親が離婚した。もともと仲が悪い夫婦だったから、子ども心にいつ別れるのだろうと思っていた。


親権はおふくろが持った。ここでしがない酒屋をやっている親父よりも、おふくろの実家のほうが稼ぎが安定していたし、酒に酔ってよく暴れる親父のもとには俺を置いておけなかったのだろう。


俺には2つ上の兄がいる。みちるも皆も知らないだろう。一足早くおふくろの実家で暮らしていたからな。


兄さんと俺は父親が違う。おふくろが親父と結婚する前に作った息子、それが兄さんだった。


親父は兄さんが嫌いだった。違う男との間にできた子ども、そんな理由だけで小さいころから兄さんだけが殴られていた。


だからおふくろは、兄さんを実家に逃がしたんだ。


兄さんは優しくて野球が上手かった。たまに休みの日におふくろがこっそり実家に兄さんの様子を見に行くとき、決まって俺もついて行って、キャッチボールから何から教えてもらったよ。


兄さんはめきめき上手くなって、リトルリーグのエースになって、シニアリーグでも活躍した。


試合で相手の打者をばたばた三振にとる兄さんの姿を自分のことのように嬉しく思ったよ。


俺は引っ越してから兄さんと同じシニアチームに入った。兄さんの背中を見て、自分も野球が上手くなりたいと必死だった。


一方で兄さんは実力が認められ、甲子園常連の創英学園高校に野球推薦が決まった。


そのときのおふくろの喜びようといったらなかったさ。丈二もお兄ちゃんみたいになりなさい。俺もそんな兄が誇らしかった。


兄なら甲子園を制し、深紅の優勝旗を俺たちの前に掲げてくれるものと信じて疑わなかった。


兄さんは入部してすぐに頭角を現した。


熾烈なレギュラー争いが常の創英の中にあって、兄さんは1年生で背番号をもらい、秋には中継ぎで何度も投げ、2年の夏にはエースとして甲子園のマウンドも踏んだ。


順調だった。何もかもが。おふくろは俺と一緒に兄さんの応援にいくたびに、嬉しそうに声を張り上げていた。


自慢の兄が甲子園を制す、そんな夢のような話がもう目の前までせまっていた。


そんな矢先だ。夏の大会が終わって、休日に兄さんとキャッチボールをした。何気ない軽いキャッチボールだった。


しかし俺は不可解だった。兄さんの投げ方がいつもと違う、手元に来る球はいつもと変わらない。なのに、投げ方に違和感があった。


今でも忘れない。まるで、肩をかばうかのような、そんな投げ方だ。


俺はきいた。どうした、どこか悪いところでもあるのか。


しかし兄は笑って言ったよ。今フォーム矯正の真っ最中なんだ、だから少し変にうつるかもしれないと。


その場でそれ以上問い詰めることは出来なかった。しかし、俺の悪い予感は的中した。


ちょうど1年前、秋季大会の地方予選、先発のマウンドに上がった兄さんは7回無死ランナー1塁の場面で、球を投げ込もうとした瞬間、肩をおさえて叫びながら倒れたんだ。


「兄さん!兄さん!」


叫ぶ俺の横で、おふくろは茫然としていた。


「おふくろ、兄さんが!」


俺が肩をゆすっても、おふくろは口をぽかりと開けたまま兄さんを見つめていた。


俺はフェンスに張り付いて叫んだ。肩を抑えたままピクリとも動かない兄さんに向けて。


兄さんは常々言っていた。『甲子園で優勝して、プロになって、俺を親父から守ってくれた、ここまで野球をやらせてくれたおふくろに恩返しがしたい』


俺は全てを悟った。気負った兄さんは俺たちに黙って無理な練習で力をつけていた。火がついて、刻一刻と導線が短くなっていく爆弾にも構わず、肩を酷使し続けていた。


恩返しがしたい。その一心が、兄さんを盲目にしたんだ。


だが俺が本当に衝撃だったのはそのあとだ。


審判が駆け寄って、担架が運ばれてくる。兄さんは苦しげな表情でグラウンドから去る。


そのさなか、誰一人としてマウンドに駆け寄らなかったんだ。チームメイト、監督、誰一人だ!


俺は目を疑った。信じられなかった。


マウンドで倒れる兄さんを内野の連中も、キャッチャーも、ただ冷たい目で見降ろしていたんだ。


駆け寄るどころか、声をかける人間すらいない。


そして監督は何事もなかったかのように投手の交代を告げ、内外野はボール回しで時間をつぶす。こんなことがあっていいのか!


「お前ら!なんでだ!兄さんがっ!エースが倒れてるんだぞ!なんで、どうして!」


フェンスを揺らし、暴れた俺は球場からつまみ出された。


兄さんが抜けた創英はそれでもその試合に勝ち、あっという間に秋季大会の優勝を決めた。


兄さんはもともとチームに必要なかったとでも言いたげに、打線は兄さんがマウンドを降りた直後から大爆発した。そのあとの試合も同様だった。




兄さんは投手として再起不能の状態だった。


左肩を大きく脱臼し、その時の衝撃で上腕骨にはらせん状のひびが入った。


投手、野球選手としてはおろか、日常生活にも支障の残るけがだった。


たび重なる連投、ローテーション※を無視した起用法が、兄さんを追いこみ、そして壊した。


しかし創英野球部とその監督は、こんな大けがの要因を放置し、最悪の結果を招いたにも関わらず、なんの処分もなかったんだ。


『創英悲運のエース坂本、マウンドで陥落!』


『終盤打線大爆発!エース無念の思い引き継いだ!』


兄さんのことが取り上げられたのはこの程度。それも面白おかしく書きたてられただけで、創英ナインはむしろヒーロー扱いだった。


連日紙面を踊るのは創英の快進撃と羽振りのいい監督のコメント。ひとりの球児の選手生命をどぶに捨てたことを糾弾する見出しなんて、ひとつもなかった。


それ以来兄さんは変わってしまった。俺がシニアリーグで兄さんのあとを継いでエースになったとき、自分のことのように大喜びしてくれた笑顔は、二度と見れなくなった。


肩にギプスをつけて、学生カバンだけを背負って学校へ行く兄さんの背中を見るたびに、俺は怒りがこみ上げて仕方なかった。


兄さんを生きがいにしてきたおふくろも、めっきり口数が減ってしまった。野球の話自体、口にするのも嫌がった。




※ローテーション…ひとりの投手に連投の負担が集中することを避けるため、通常1チームには3人程度の投手が控えていて、交替で投げ分けること。2日連続長時間で投げるだけでも投手にとっては大きな負担。


俺たち家族の会話から野球が消えてしばらくした時だ。3人で晩飯を食べていた時、おふくろがぽつりと言った。


「なんで拓実なの?なんで丈二じゃなかったの?」


うつむきながら言ったおふくろは涙を流しながら震えていた。


兄さんはその言葉で何かを悟ったのか俺に向こうに行っていろと言った。だがおふくろは言ったんだ。


「なんで拓実はもう野球がやれなくて、丈二は続けていられるのよ!丈二!あんた兄ちゃんと代わりなさいよ!」


「おふくろやめるんだ!」


ご飯の入った茶碗と箸を俺に投げつけるおふくろを、兄さんは片手で押さえこんで倒れた。


「なんで!どうしてよ!なんであの人との間の子がまだ野球出来て!拓実はもうできないのよ!」


おふくろが兄さんびいきなのは分かっていた。だけどそれをこれまで露骨に見せようとはしなかった。


「丈二!その肩兄ちゃんにあげなさい!今すぐ!さぁ!」


「だめだ!だめだおふくろ!」


よろめきながら台所の包丁に手をかけようとしたおふくろを、兄さんはギプスを巻いた腕で無理矢理殴って止めた。


俺はその間動けなかった。ピクリとも。


この肩を、差し出せるものなら切ってでも兄さんにやりたい気持ちは俺だって同じだった。


代わってやりたかった。代われるものならな。


おふくろは床に手をついてごめん丈二、拓実とむせび泣いていた。俺はこの瞬間を忘れることができない。


「どうして坂本拓実を止めなかった。兄さんがオーバーワークだったことをあんたは分かっていたはずだ」


俺はひとりで創英の野球部に乗り込み、監督の仙崎に直談判した。


まだ30代半ばくらいの若い監督だ。野球をやるようには見えない、理知的でずるがしこそうな面をしていたよ。ずれた眼鏡をかちゃかちゃ触るのが目障りなやつだった。


「だからなんだというんだね君は」


やつは眉ひとつ動かさずに淡々と言った。


「創英がやる野球は仲良しごっこでも生ぬるい教育の一環でもない。勝つための野球なんだよ。ここにいる人間はそれを皆理解してやっている。競争社会を受け入れているんだ。全ては自己責任、使える者を使い、使えない者は使わない。非常にシンプルだ」


「そんなことが許されると思っているのか!」


「君は勘違いをしている。この創英の部員であるということは同時にこの競争社会を受容しているということなんだよ。君のお兄さんだってそうだ。こちらは野球をするために県下最高の環境と指導者を用意している。その環境で自分を活かすも殺すも自己責任、お兄さんが望んだものが、不幸な結果に終わったに過ぎない」


「不幸だと?予見できた結果が不幸の一言で片付けられるものか!」


「なんとでもいいたまえ。君のお兄さんは2年生で背番号1を背負った。その背中には、3年でありながらその番号を付けられなかった先輩、同輩、その座を耽々と狙う後輩がいる。お兄さんだって彼らを踏みつけ、のし上がってきただけのことだよ」


「兄さんの気持ちも知らず――」


「そう言う君は、坂本拓実にエースの座を奪われた者たちの気持ちも知らない」


「それは――」


「代わりはいくらでもいる。それを理解し、勝利至上主義を突きつめたものこそ創英のレギュラーだ。部外者は去りなさい」


俺は相手にされなかった。


選手を使い捨ての駒にすることが常識の世界に、俺の知る野球が、倫理が入りこむすき間がなかったと言っていい。


帰り際に部員たちの話し声がもれ伝わった。


「坂本がいなくなって清々したよなぁ、俺あいつのこと嫌いだったんだよ。レギュラーのクセに善人づらして励ましてきたりしてさぁ」


「あ、それわかる。いっしょに頑張ろうとか、お前ならできるとか、偽善だよ。上から見下ろす優越感ってやつ?ほんとにそう思うならそこどいてくれよって思ってたら本当に壊れちまうんだから、傑作だよな!」


気付いた時には俺はそいつらに掴みかかって、気絶するまで殴り倒していた。


拳についた血の跡で我に返ったときにはもう遅かった。俺は責任を問われ、自宅謹慎、シニアリーグも最後の大会を前にして辞めた。


「丈二、お前は悪くないんだ。何も、何も」


兄さんは口癖のように俺に言っていた。勝手に仙崎へ直談判したことも、決して怒らなかった。




俺は野球を憎んだ。兄さんをこき使い、夢を目の前でちらつかせておきながら、絞り取るだけ絞り取って捨てた野球を心底な。


その後こんなやり方をしているのは何も創英だけではないと知った。選手同士の淘汰とうたは全国の強豪校とよばれる高校はどこも大なり小なりやっていることだとな。


そんな争いの果てに優勝旗を勝ちとって何になる。負け犬と呼ばれ、夢断たれた者の背を踏みつけて進んだ先に何があるというんだ。


そんな無為を知ったとき、俺は自分の知る野球をとことん汚してやりたいと思った。俺のできる野球への復讐はそれしかなかった。それが賭け野球の始まりだ。


そんな時、親父が腰を悪くして入院したって知らせが届いた。


俺たち以外に身寄りのない親父に、面倒を見てくれるやつなんていない。


俺は、親父をおふくろと兄さんから距離を置く口実にして、家を出た。


そうしてこのまちに戻った俺は、腰が悪くて今まで通り仕事のできない親父を手伝いながら、賭け野球にのめり込んだ。


連戦連勝、何に使うでもない金だけがたまった。俺は地元の奴らで腕を馴らし、創英の部員や指導者に賭けを挑もうと思った。


でもそんな矢先、矢野のぼっちゃん、お前に負け、そしてみちるたちに迷惑をかけてしまったと知った。


虚しくなったよ。結局俺がやってきたことは復讐でも何でもなく自己満足に過ぎなかったのだと。


そして思った。もう野球とは関わらない。野球が俺たち家族を不幸にしてきたんだ。これ以上続ければ傷口が開くだけだと。


どの道、親父を手伝いながらではまともに野球を続けることもできないからな。


*


春吉グラウンドのベンチで、一人とみちるは丈二の話を黙って聞いた。


一人はよく知っていたはずのマスター丈二の壮絶な過去に言葉が出ない。


『中途半端な覚悟で、野球を汚すな!』


松野たちの口封じから丈二が自分たちを救ったとき、彼が松野たちに言い放った言葉、それは誰よりも野球を憎んだ者だからこそ言える悲しみのこもった言葉だった。


「気が済んだか?とにかく俺はもうグラウンドに立つ気はないんだ」


全てを告白した丈二はどこかすっきりとした表情で2人を見遣る。


そうか、そんな過去があったのか。なら無理に引きいれることなんてできない。軽率なことを言って悪かった、どうか心の傷を癒してほしい。


普通の感覚なら、ここまで野球を憎んだ男に食い下がろうなんて考えは浮かばない。これくらいの慰めが関の山。


しかし、彼女は違う。


「ジョーくんってバカ?あたし、ジョーくんはもっと賢い人だと思ってた」


おいおいと一人がみちるの肩を押さえようとするのも構わず、言う。


「ほんと自己満足よ、そんなので復讐になるわけないじゃない。仮に創英の関係者と勝負して勝ったってそんなの仇討でも何でもないわ!」


丈二はというと、一方的にさげすまれても表情一つ変えず、みちるの言うことをその通りだよと聞いている。


「なんで?なんでしかも諦めちゃうのよ。結局それって野球からだけじゃなく、過去からも逃げてるだけじゃない!何の解決にもなってない!」


みちるは立ちあがって、丈二を睨みつける。


「勝利至上主義の野球が一番強いの?一番偉いからもうどうしようもないの?だから野球とはもう関わりたくないって?そんなの間違ってる!」


身長の低いみちるは立っても腰掛ける長身の丈二の目線程度の高さしかない。しかしその迫力は彼を圧倒して、ひとまわり大きく見える。


「日陰でこそこそ隠れてないで、正々堂々日なたで勝負して勝ちなさいよ!勝利至上主義にも勝る力があるってことを証明しなさいよ!あたしはそのチャンスを、あなたにあげるって言ってんのよ!」


そう言うとみちるはカバンから、今日決まった秋季大会の組み合わせ表を丈二に突きつけた。


「あたしたち稲嶺は東ブロック予選C組!ここを1位通過できればベスト16!そして、ベスト8をかけてぶつかる相手が!」


驚くべきことだが、それはおそらく、いや確実に創英高校だ。


東ブロック予選C組の勝者とぶつかるのは、西ブロック予選C組。この組に属する創英にかなう高校はおそらくない。


丈二の事情を全て知って、みちるがはかったのではないかというほど、ここに”復讐”の舞台は整えられていた。


「ジョーくん、あたしと賭けをしよう」




「賭けだと?」


「そうよ、賭けはお好きでしょ?」


本当に、彼女の野球にかける情熱と執念には頭が下がる。


「ジョーくん、あなたは秋季大会が終わるまで稲嶺野球部に期間限定で入部してもらう。その代わりあたしたちはあなたを、創英学園高校との試合、復讐の舞台まで連れて行ってあげる。もし見事創英を稲嶺が負かして、あなたが復讐を完遂できたらあたしの勝ち、ジョーくんはそのまま野球部にいてもらうわ」


「その他の場合は?」


「もし創英に負ける、もしくは創英戦までたどり着くことすらできなかったときは、ジョーくんの勝ち。その先は自由にしてもらって構わない。そして――」












「あたしはマネージャーを辞める!」



「おいまてみちる、そんなこと勝手に決めるなよ」


一人は焦った。彼女がその勢いを押し通すことでこれまで難局を乗り越えてきたことは分かっているが、今回はリスクが大きすぎる。


「何言ってんのひとりくん、ジョーくんの話聞いてたでしょ?これだけ背負ってきたものに張り合う対価って言ったらそれくらいしかないでしょ」


みちるはむしろ楽しそうに言った。その表情に不安の曇りはない。自分の首がかかった賭けを楽しめる女子高生がこの世界に幾人いることだろう。


「大体こんな賭け、丈二になんの得もないじゃないか」


「いいだろう、乗った」


押しとどめようとする一人の説得も虚しく、丈二は乗ってくる。なぜ。


「すまんなぼっちゃん、損得勘定じゃないんだ。目の前で腹をくくられて、男が逃げられると思うか。こちらも覚悟を決めなきゃならない。やるからにはな」


「そうこなくっちゃね」


「まさかみちるに根性を叩き直されることになるとは思わなかった。小さいころから真人の尻を叩いてるのがお似合いだと思ってたんだがな」


「それどういう意味よ!」




みちると丈二は軽々しく話しているが、この賭けの内容は途方もなくみちるの勝算が低いものと思われる。


少なくとも通常の感覚からすれば。


稲嶺高校のある某県では、甲子園出場のために乗り越えなばならない三つのソウ、通称「三層」があると言われている。


現在賭けでやり玉に挙がっている私立”創”英学園高校。


予選C組で稲嶺と同組、秋山光の所属する私立”総”陵高校


そして未来の世界で一人が進学するはずだった高校であり、史実、真人たち稲嶺黄金世代を夏の決勝で破ることになった私立”蒼”城館高校。


創・総・蒼、この三つの強豪校の層を打ち破らぬ限り、甲子園はありえないというのがこの県の高校球児たちの通説だ。


実際、県の過去の甲子園出場実績の7割以上を三層が占めているという現状に、もう甲子園を諦めている高校も多い。


かく言う稲嶺高校も、甲子園を鼻から諦めているうちの一校だったのだ。黄金世代の台頭までは。


みちるは丈二との賭けで、この三層のうち二層を打ち破ってみせるという。




現時点で一人、真人、優、考、そして丈二を擁することになった稲嶺だが、道は未だ戦力としては勘定に入れられない上、リードオフマン香川翼も未だ不在。


栄冠へ近づくための条件がそろう一方で、不安要素も山積している実情の中、みちるに勝算はあるのか。


「選手は使い捨てじゃない。育ててなんぼよ!それを創英に思い知らせてやるわ!」


自信満々に言うみちるの裏で、一人は今から目の前の敵だけでなく創英という本丸を意識することを強いられた。


これで秋季大会は実力試しなどと悠長なことは言えない。勝たなくてはならない。何としても。


こんなところで、この有能かつ身勝手な参謀を失うわけにはいかないのだ。


一人はベンチに腰掛ける丈二の影をふと見遣った。


以前見たような鉄塊のごとく重苦しい気は心なしか弱まって、ベンチの蛍光灯に淡く照らされたそれは、自分たちの影となんら変わらないありのままを写しとっているように見えた。



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