プロローグ
その日の試合前、球場の外でキャッチボールをする親子を見た。
父親が優しく投げたボールを、子が両手でしっかりとつかむ。
まだ小学生になりたてに見える体を目一杯使って腕を振り、投げ返す。
大きなグローブだと思った。彼の小さな体には不釣り合いの。
父親は山なりのボールを下手で軽くすくって、また優しく投げる。
時折父親がいいぞ、ナイスボールと子をはやす。
そのたびに、子のボールは勢いを増していくように見えた。
稲葉一人にも、そんな幼いころの思い出がある。
父親の広い胸めがけ、懸命にボールを投げ込んだ思い出が。
良いボールだ。その調子。今のすごいじゃないか。
父のその言葉をきくたびにもっと速く、そして父のミットをバチンと軽快に鳴らしたくなったのを、彼は思い出す。
やがて一人のキャッチボールの相手は近所の友だちになり、少年野球のチームメイトになり、そして中学軟式チームのエースになった。
夏の全国高校野球大会 県予選
稲嶺×陽明館付属
1対0
9回ウラ、陽明館付属の攻撃
2アウトランナー、2塁3塁
「ストライーク!」
外角低めの直球。ワンナッシング。
バチンと軽く乾いた快音を響かしたのは相手のミットではない。一人のミット。
キャッチャーミットだ。
「ストライクツー!」
内角高めの直球に、打者は手が出ない。脇へと完全に差し込む絶妙なコースは、手を出すどころか打者の体をよじらせる。
打てないよ。そんな弱腰じゃ。
ランナー、二三塁、一打逆転サヨナラの場面でも、一人は強気だ。
こんな腰ぬけに釣り玉はいらない。三球勝負のサインに投手もうなずく。
素早いフォームから放たれたボールは、ど真ん中。
しかし、打者がここぞと食らいつこうとするボールはベース手前で軌道を変え、彼のひざ下へとすとんと落ちた。
フォークボール。
「ストライーク!バッターアウト!ゲームセット!」
今大会打率5割、4本塁打を誇る屈指の強打者は、ふがいない打棒で思い切り地面を叩いた。
相手が大会屈指のスラッガーだろうが、キレ者の安打製造機だろうが彼には関係ない。
彼が見るのは、打者としての能力ではない。人としての能力なのだから。
悔しがる打者を横目で見遣ったあと、一人はゆっくりとマスクをとる。
「おい、サイン通りになげろ。何のためのサインだ。勝手にフォアボールでピンチ作るな」
一人がマウンドから降りてくるエースをたしなめると、彼はばつの悪そうな顔をして鼻をかいた。
「いいだろ、勝ったんだから。オレの剛速球とフォークがあれば、このまま甲子園に直通だよ」
「それだけじゃだめだって何度言ったらわかるんだよ」
「わかったわかった、優等生。なんだよ、全部知ってるみたいにさ」
そうだとも父さん、オレは知ってる。あなたはこのままでは甲子園に一歩届かないんだ。
オレがあなたを甲子園に連れていく。そのために、2013年からここに来た。
グラウンドの熱気に暖められた小さな風が、彼らの汗で湿った頬を軽くなぜる。
1993年8月、稲葉一人は未来を変えるべく甲子園を目指す。
バッテリーを組むのは後に稲嶺の不死鳥と称される、父、真人だった。