Section1-2 ダンディ、噂を耳にする
ミリア電子工業の開発課の中にスパイの気配を感じてから、数日が経った。
あの時背筋に感じた寒気の正体――スパイ――の存在を、あれから毎日神経を尖らしながら探るも、未だ付き止められていない。
翌日以降、“匂い”を感じなくなったのだ。
――今考えれば、あれは気のせいだったかも。
なんて考え始めていた、矢先。
いつものとおり、難所を潜り抜けてやって来たミリア電子工業の企画開発課は、朝から活気に溢れていた。
最近流行りの“フレックスなんとか”というもので遅い時間の出勤をする人も多い課員たち(お陰で商売あがったりだ)が、なんと朝から全員集合していたのだ。どうやら、新任の課長の赴任日らしい。
俺がミクリル販売に勤しむ中、室内の一番奥に立った新任課長は10人を超える課員から注目の視線を浴びている。
「今日から企画開発課の課長として赴任しました、山崎・バーバラ・美香子です。よろしく」
爽やか系のフローラルな香りを振り撒きながらお辞儀したその姿は、昨日までの脂ぎった“おっさん課長”とは似ても似つかない。
歳は40前後か――。
スラリとした高身長の彼女は、見るからにバリバリのキャリア・ウーマンだ。黒のパンツスーツに、くるくると渦を巻いた茶髪がマッチしている。白くて日本人離れしたその顔つきは、美人の部類といえそうだ。
だがそれにしても、急に姿を消したあの“おっさん課長”――名前は憶える気もなかったので知らない――のことが心配だ。
企画開発課の準関係者とも云えるこの俺が知らないというほどの、突然の課長交代劇なのだ。余程の何かをやらかして左遷されたか、それとも――。
などと思いを巡らしていると、俺の記憶では大卒2年目の「田中」という男がすっと挙手して、質問の体勢に入った。やや背が低く、根は悪くないのだが、ちょこまかとうるさい感じがする男である。
「山崎課長、もしかしてハーフなのですか?」
「ええ、スコットランド人の父と日本人の母との間に生まれたハーフよ。生まれは日本、その後小学校から高校の時までロンドンで暮らして、また日本に戻ってきました。……それが何か?」
「あ、いえ……。なんか格好いいなと思いまして」
「へえ……。あなたの感想はその程度? そんな見た目で判断してたって駄目。問題は中身よ。――田中君といったかしら。あなたの中身は、これからじっくりと見させていただきますね」
「あ、はい……」
――ほほう。この女性管理職、なかなかのものではないか。
たじたじとなった男性社員に向かって、山崎課長は余裕たっぷりの笑顔を見せる。
そんな彼女に、俺は心の中で拍手を送った。
ならば、昨日までのあの課長は左遷ではなく、優秀な人材の課長抜擢で移動した――という可能性もある訳だ。それなら、この課長と親しくすれば顧客からの“仕事”もやりやすいことになるかも知れぬ。
「ところで……“まえの課長”は?」
「さあ……前野さんの事は、私にもよく分からないのです。そんなことより――」
明らかに、バーバラ課長は話題を変えようとしている――。
しかし、前の課長が前野さんとは、ややこしい。
ともあれ、さりげなくバーバラ課長に近づいた俺は、通常のミクリルより数十円高い「ミクリル100」を一本、彼女の机にすっと置いた。
「私、こちらの会社を担当させていただいている、“ミクリル・ダンディ”の中川と申します。これは、お近づきの印でして……」
「あら、これはどうも。それにしても、日本も変わったものね、男性の乳酸飲料販売員がいらっしゃるとは。でもここは、部外者立ち入り禁止区域の――」
眉をぴくりと吊り上げた彼女が、やや口を尖らせぎみに俺に云う。
だが、その台詞を最後まで云わせないため、俺は彼女の机の上にミクリル100をもう一本追加して、他の課員には見えないように右目のウインクをバッチリ決めた。途端、彼女の表情が緩む。
「まあ……いいわ。こんな緑色の可愛い服を着たおじさんが、何か“しでかす”とも思えないし……。では、くれぐれも目立たない範囲でお願いしますね」
「ありがとうございます、課長。では、今後ともお願いします」
――まだまだ、俺もイケるな。
灰色がかった彼女の瞳をじっと見つめた俺は、深々とお辞儀してその場から立ち去ろうとした。
だが、その瞬間だった。バーバラ課長が、再び口を開いたのだ。
まだ何か、彼女からの話は残っていたらしい。
「ところで、今日はもう一つお知らせがあります。今回のプロジェクトは、我社にとって大事な試金石。そこで、3か月の期間限定ではありますが、優秀な人材を一人、北陸支社からヘルプとしてお呼びしました。……“ごりうだろ”さん、こちらへ」
執務室入り口近くに視線を遣ったバーバラ課長が、聞き慣れない名前を呼んで、そこに居る人物に皆の前に来るように促した。
「……」
課長に呼ばれたのに返事もせず前に進み出たのは、やや大柄だがまったくオーラを感じない、不思議な男だった。歳は30代半ばに見える。
銀縁眼鏡の奥底にある、糸のように細い目。そこには、力を微塵も感じない。
――この俺が気付かないとは、なんて気配の薄い奴だ。
実は、彼の存在を名前が呼ばれるまで気がつかなかった、俺。
スパイ生活も長いこの俺が、そこに居ることすら気付かなかったほどの“か細い”オーラしか持たないのである。俺には、どうしても彼が優秀な助っ人と思えなかった。
だが、彼は思ったより落ち着いた動きを見せた。
体の前で手を組んだその男は、軽く一同の姿を見渡した後、よく聞き取れない小さな声でこう云った。
「北陸支社から参りました、五竜田路快人と申します。名字は、地元の新潟でも珍しく、五つの竜の田んぼの路と書いて“ごりうだろ”です。短い間ですが、よろしくお願いします」
優秀な人物ではないと考えたのは、俺の勘違いか。
淀みのない台詞を残した彼が、課員からの歓迎の拍手を浴びながら元居た場所へと戻っていく。
一瞬、細い目を見開いてこちらを見た気がした。
「……」
とりあえず「今日は退散」とばかりに足を進めようとしたが、ふと、知美さんのことが気になった。
見ると、相変わらず元気がない。思わず、声を掛けてしまった。
「まだ元気がありませんね。よければ、私に話してくれませんか?」
「まあ……ええ……」
新しいメンバーを同時に二人も迎え、ざわつく部屋。
そんな中、ようやく知美さんが俺に話す気になってくれたのだ。
「実は……私が新人の頃にお世話になった会社の社長さんが、行方不明になってまだ見つかていないんですよ」
「行方不明?」
「……ええ。ある日突然、いなくなったと、奥様が」
「わかりました。私、中川総一郎がその捜索をお手伝いいたしましょう」
「いえ、そんな。ご迷惑ですよ。といいますか、警察に任せるべき話ですわ」
「いやいや、私はミクリル・ダンディですよ? 人脈などいろいろありましてね、人の捜索も得意なのです」
「でも……」
「まあまあ。お任せください」
そう云って俺は、彼女に向かってばっちんとウインクを決めた。
だがそのウインクは、気もそぞろな彼女の心には届いていないようだった。
☆この物語はフィクションです。実在する人物や組織・団体などとは、一切関係ありません。