脱出計画
フリッサの牙から垂れる液体がポツンと肩に落ちる。その粘着性のある液体は肩から背中に流れて、克之の服に染み込む。
しばらく時間が経過したが、なぜか噛まれない。
「…お願いを一つ聞いてくれる?」
お願い?
「聞いてくれたら、噛まない」
きつく押さえつけられていた顔の筋肉が突然緩み、口だけだが喋れるようになった。
「私…ここから脱出して外の世界を見に行きたいの。だからあなたに協力してもらいたい」
「断ったら?」
「噛む」
もうこれ答えが決まっているようなもんじゃないですかね?断ったら噛まれて一緒に吸血鬼ルートじゃないか。自分は血を吸ったり、人食いになんてなりたくないぞ。
「わ…わかった。お願いを聞くから離してくれないか」
「…」
フリッサは克之の言葉を聞くと、口を閉じ、克之の肩から離れて両手で自分の乱れた髪をたくし上げて髪型を整える。
「本当に?本当に手伝ってくれる?」
「あ…ああ」
「ヤッタ!!」
フリッサは何回もジャンプして大喜びする。
「…手伝ってくれということは脱出する方法を知っているということだな?」
「はい!」
「実はこの下に広がる迷いの森を抜ける地図が地下室にあるんです。それさえあれば簡単にここから脱出できますよ!」
これは地下室にある地図はなにか理由があって自分では取りに行けなくて、それで自分に取ってもらおうということだろうな。まぁそこを考えるよりも先にだな…
「まずこの動けなくなる状態をなんとかしてくれないか?それからその地図のことについて話したい」 「あっ、ごめんなさい。今すぐ解くから」
フリッサの口から「解く」という言葉が出てくると同時に自分の体に自由が戻ってくる。
固くなった身体がだんだん緩んでいく。腕をゆっくり上げ、10本の指でグーを作ったりパーを作ったりして感覚を確かめる。しかしなんだ。他人に自由を奪われるなんて碌なことじゃないな。このままだといざという時にいいように自由を奪われてこっちが有利にことを進められん。なんか対策を考えておかんとな…
「大丈夫?体に異常はない?」
「えっ?ああ。大丈夫ですよ」
「良かった。ちょっと危険な魔法だから障害が残ってなくて」
「おい。そんなに危険な魔法なのか?」
「あー、そのー、下半身不随とか、全身麻痺とか起こしたり?」
チョー!!危な過ぎるでしょ!
心の中でそうは思いつつも口から出る言葉は冷静であった。
「あー、そのような魔法はもう二度とかけないでもらいたいのですが?」
「もう大丈夫ですよ!さっきのは初めてだから不安だっただけで、二度目以降は失敗しないから!!」
フリッサの顔といい、仕草といい、自信満々そのものである。しかし、克之はそうではない。
二度目以降ってまたかける気かよ!しかもさっきのが初めてで自信がないのに強行したのかよ!!これは本当に何かしらの対策を考えないと…
「そうじゃない。君が自信満々でも失敗するリスクがある以上、その魔法をかけてほしくないんですよ」
「大丈夫失敗しないから!!」
「本当だな!本当に失敗しないんだな?」
「もちろん!!」
フリッサの顔を見ていたが、不安な表情をみせることがなく、自信と余裕で顔が満ちている。何を言っても「大丈夫!」しか返ってこなさそうだ。
「で、脱出計画なのだが…どうすればいいのだ?」
「お父様が地下室の宝物庫に私だけが入れない結界を張っているの。でも私以外なら取りに行けるから取ってきて?取ってきたらすぐさま脱出するの」
「いや待て。脱出した後どうするつもりだ?」
「世界中を歩き回る予定だけど…」
ふむ。言いたい事が少しでてきたな。
「…まず、吸血鬼は人間に嫌われている存在だ。そんな簡単に歩き回れるとは思えない」
「次に食料はどうするのだ。野宿する道具とか必要なのではないのか?」
「食料は大丈夫。吸血鬼はごはんを食べなくても生きていけるの」
「食べるものが不要でも、人の血は必要なのではないか?」
「その点は大丈夫。私は特別な吸血鬼だから」
「特別?」
「そう、普通の吸血鬼なら血を啜らないと理性がなくなってところ構わず人に襲い掛かるけど、私は特別な吸血鬼だからそんなことは起こらない。ってお父様が言ってたわ」
特別な吸血鬼…ねぇ。
「特別なんだからほかにも特徴があるんだろ?」
「そうよ。日光なんかへっちゃらだし、ニンニクも聖水も効かないわよ」
「へぇ。でも弱点は残っているんだろ?」
「銀の杭を心臓に打ち込むのはさすがに効くってお父様が言ってたわ」
この娘疑うということを知らんらしく、ベラベラと喋ってくれるな。そっちの方が楽だからいいけど。しかし、銀の杭か。いざという時のために取得しておいてもいいかもしれない。ただ、打ち込む勇気も度胸もないから、なんかしらの切り札として使うだろうな。
「最初の質問はどうするつもりなのだ?吸血鬼は見つかったらすぐさま殺されてしまうのではないか?」
「そ、それは…」
自信満々だった顔がだんだん曇ってきて、完全に考え込んでしまう。というかそこ一番重要だと思うぞ。
「そうよ!」
そして何か思いついたらしく、曇った顔が晴れていく。
「あなたが言いくるめればいいんだわ!」
「は?」
「?」
「ちょい待ち。それは自分が一緒について行くということか?」
「そうよ?」
フリッサはそれが当然という顔をしている。
「いあー実はですね。ここから脱出したら別々に行動しようとこちらは計画していましてね…」
「どうして別々に?」
人食い娘と一緒にいたくないなんて言えない。口が裂けても言えない。ここで彼女の悪いツボを刺激してしまったらどうなるかわからない。なにせ、自分の命は今この娘が握っているからだ。さっきの魔法で自由を奪われたらもうそこで終わりだ。何もできない。殺されることに抗うこともできない。それは非常にまずい。
「…いや、よく考えたらそれはいいかもしれない。なにせ自分はこの地域について何も知らないし、旅の途中で助けを求めようにも信頼できる人は誰もいない…」
まぁこんな感じで賛成しておくか。嫌だけど。
「そうでしょ。そうでしょ。野党とか魔物とかに襲われも私がいれば『ちょちょいのちょい』よ」
村の自警団とか軍隊にも追われるかもしれないが、頼もしいものだな。
「あなたも外に出るんだから言葉と文字を覚えなきゃいけないわね…」
文字!そうかこうして喋れているけどこれは魔法のおかげで喋れているだけで、文字に関しては一から勉強しなければならないのか。実に面倒くさいことだ。でもこうして言葉は喋れているから、高望みしなければ生きていくにはそんなに困らないはず。慎ましく生きていればそんなに面倒なことはしなくていいはず。いや勉強なんてしたくないぞ。
「でもこうして喋れているんだから日常的なことは問題ないはず、文字の勉強は後回しでいいのではないか?」
本当は勉強する気なんてからっきしもないが、いきなり勉強したくないなんて言ったら「生きていくのに必要だから勉強しなさい」とか言われるはず。だからここは「後で勉強する」と回答してごまかして、結局勉強せずにズルズル引きずる選択をしよう。
自分はもう大学に入学するのに一生分の努力を使い果たしたんだ。これからは必要最低限の努力しかしないからな!!
克之は自分の心の中で強く誓う。
「でもその魔法2週間くらいで解けちゃうよ?」
「んん?」
「まだ言葉が通じる内に勉強したほうがいいんじゃないかしら?」
「……」
なんという欠陥魔法!それしか持たないのか!
「それに外にでるなら身を守るために…うーん…そうだ魔法!魔法使いの素質があるから身を守るために魔法を覚えないと」
「魔法に関する本はいっぱいあるから言葉も覚えようね!」
ニッコリ。
フリッサは笑顔である。
ゲンナリ。
自分はこれから勉強まみれなことが確定し、今すぐ自分がいた世界に戻りたい気分である。
とりあえず何か月か勉強する時間がほしいところだ。言葉も文字も魔法も最低限覚えるには何か月かかるんだろうか。中学生英語だけでも覚えるのに3年かかっているのに数か月でなんとかなるのだろうか?
といっても週に3,4時間の勉強で3年だから、数か月にまとめることは可能なんだろうなぁ…勉強したくないなぁ…
「とりあえず勉強期間として何か月か欲しい。それから先のことはその時話すといのでどうだ?」
「わかった。期間は1か月でいいよね?」
ちょ!短すぎるよ!それじゃあサボる時間を確保できないよ!というか無理でしょ!
「いや、自分そこまで頭が良いわけではないので…」
「でも大学に入学はできるほど頭はいいんでしょ?」
「大学には入学できたけど、それとそれは別」
「何が別なの?」
くっ!なんて純粋な瞳で質問してくるんだ。やりたくないからごちゃごちゃ言っている自分が嫌な気分になるじゃないか!
「いや、その、大学に入学するための努力とその努力は違うじゃん」
「どこが?」
「…何かに受かるための努力と、何かを身に着けるための努力は違うじゃん」
「どうして?」
「……」
ググググググ…苦しい。この質問攻めは苦しい!今すぐパソコンとインターネット環境と自室を用意してくれ!逃げるぞ!逃げたいぞ!
だがしかし、自分がどこにいるのかしらわからない状況。逃げることはできない。
「わかった。とりあえず1か月勉強するよ。ただし、1か月である程度身に付くとは思えないから、もう何か月か追加すると考えてくれ」
「1か月を目安に勉強するだけだから、勉強が足りないなら伸ばす予定だから大丈夫よ?」
「…わかった。とりあえず1か月は勉強期間ということで」
「交渉成立ね」
交渉?…まぁ交渉と言えば交渉みたいなものか。
フリッサが手を差し伸べる。克之も手を自然と差し伸べる。そして握手する。フリッサの手は冷たかった。
「しかし、性格が突然変わったような」
「えっ?」
「最初にあった時はかなりオロオロしてなかったか?」
「それはその…接し方がわかなかった…から?」
「あなたこそなんか喋り方が変わったような気がするわ。なんか図々しいというか」
ず…図々しい!?自分が?
「…私とあなたって似たもの同士なのかも。なんかそんな感じがする」
「……」
引きこもっているという点ではそうなのかもしれん。
「あのね。怒らないで聞いてくれる?」
「?」
「…私、誰かと話す時ってなんか壁を作っているような気がするの。なんというか本当の自分のことを知ってもらいたくないというか。連れてきた猫のように警戒しているというか…」
「……」
「あなたのことも最初はそうやって付き合う予定だったけど、こうやって話す内に何故か許してしまっているというか…その…ごめんなさい…」
「…似たもの同士だからお互い素の状態で喋れているのかもしれない。正直こんなに自分のことを隠さないで喋る自信なんて、自分の両親相手でもないよ」
「私も…」
不思議な感じだった。目の前に隠し事なくなんでも喋れる人間がいるということが。そしてよくわからないけど嬉しかった。自然と顔が笑顔になる。フリッサもまた笑顔だった。
「それじゃあ。おやすみなさい」
フリッサはそう言うと、台車を引きずりながら部屋を後にした。
「おやすみ」
自分が返事を返すと同時に扉が閉じた。
さぁ明日からだ。明日から地獄の勉強期間だ。果たして勉強が続くのだろうか?自分に自信がない。しかし、不安にはならなかった。穏やかな気持ちというか、そんな感じだ。