第三話 初ゲームオーバー
(……やっぱ出た)
その姿に彼は呆然とした。そこに姿を現したのは、猪でも熊でもない。それどころか動物といえるすら微妙な存在である。
それは大きな花だった。ラフレシアよりも巨大な花びらの、大きな花が、傘のように開いている巨大植物だ。
しかもその花の下にある茎も、何か変だ。その緑色の茎は一本の柱のように太く、蛇のようにしなやかに動いている。そもそも植物はこんな風に動かない。
そしてその茎から下に延びる根は、何故か地中に下ろしていない。全て地表に出ている。無数の細い根が、虫の足のようにカサカサと動いて、地表を歩いているのだ。
そしてその茎の各部からは、茎と同じ色の蔓が数本伸びており、それがタコの触手のようにユラユラと不気味に動いているのだ。
これはどう見てもまともな生き物ではない。異形の植物怪獣である。一番の特徴である花の中央には、雄しべも雌しべも、花粉すらない。
そこには円形に歯が立ち並んだ、化け物の口があった。そこから呼吸なのか、熱い息が吹き出ており、口から涎のような粘液と異臭がどんどん漏れ出ている。
またその怪獣は植物っぽい外見なのに、葉が一枚もついていなかった。これでは光合成できないのではないか? いやそもそも光合成する必要など、こいつにはないのかもしれない。その肉食っぽい口で、外部から栄養をとればいいのだ。例えばこいつの目の前にいる少年などだ。
これはまさにゲーム「鶏勇者」で主人公が最初に戦うモンスターである。
彼の記憶によれば、目の前のモンスターは、確かにこの植物の怪物は、ゲーム序盤で戦闘したモンスターグラフィックと酷似している。
鶏勇者の戦闘の始まり方は、シンボルエンカウントだ。キャラクターの歩行グラフィックが、スクリーンに表示されたフィールドを歩く。
そこにはプレイヤーのキャラだけでなく、赤い火の玉で表現されたシンボルモンスターのグラフィックが徘徊している。
それはプレイヤーキャラが接近すると、向こうから近づいてくる。それと接触すると、スクリーンの画像が切り替わる。
戦闘形式は、フロントビューのターン制である。画面に遭遇したモンスターの画像が、縦に並べられており、その下にプレイヤーが選択するコマンドが表示される。
プレイヤーはそのコマンドから「攻撃・スキル・防御」などを選び、敵に対する戦闘を行うのだ。
敵を攻撃するときは、キャラクターの攻撃方法や技の内容に応じて、敵に攻撃時のグラフィックが一瞬表示される(炎の魔法を当てれば、敵グラフィックが炎に包まれるアニメーションが表示される)。
こんな風に、ゲームではスクリーンに表示された、動かない敵の絵を標的にして、戦闘を行うのだ。
だが今目の前にいる敵は、ゲームの時の静止画で表現されたものではない。実に生物的な動きと、生々しい姿を見せている。
体格もかなり大きく、今ここにいる彼の小さな身体ならば、簡単に一飲みにされてしまいそうだ。というか、今まさにこのモンスターは、彼を見て(目が何処にあるか不明だが)、上手そうなご馳走を見つけたように、その異形の口を開けている。
ゲームの時は、この時主人公は、臆することなく武器を持って戦い、見事この植物怪獣を撃破する。主人公にとって、これは初めて彼が倒したモンスターになるのだ。
そして今、その時と同じ状況が、その時のプレイヤーだった彼の前で、確かな実体を持った形で再現されようとしている。この状況と、目の前の植物怪獣に対して彼は……
「ひっ、ひぃいいいいいいっつ~~~~」
勇敢に戦い……はせずに、背を向けて尻尾巻いて逃げた。
突然見知らぬ場所に飛ばされたり、自分の身体や身なりの変化に戸惑ったりしても、今まで実に冷静に思考・行動していたこの男。それが今初めて、落ち着きをなくし、泣き顔で逃走を図ったのである。
(あんなのと戦えってのか!? 冗談じゃねえ!)
どうか臆病者!と罵らないでいただきたい。パソコンの画面に映った怪物の絵と、リアルに動く生の怪物では、与える印象が全く違う。
首を紐で繋がれた犬とすれ違うときでさえびびる彼が、こんな本物の怪物を前にして、ゲームの主人公のように勇敢に立ち向かえるはずがなかった。
彼は逃げる。どこが安全地帯なのかは知らないが、とにかくあの植物怪獣から少しでも離れようと、全速力で駆け出そうとした。
ゴン!
「はぐっ!?」
だがその逃走劇は、百メートルも続かなかった。
突然彼は、何もないのいきなり顔面に衝撃を走らせ、その場ですっころんだ。彼の走った方向には、別に彼の移動を遮る物などない。その先には多くの木々が生えた、普通の森の風景があるだけだ。
「くそっ!」
彼はすぐに立ち上がり、再び逃げだそうとするが、それが叶わない。前を進もうに進まないのだ。
まるで見えない壁があるかのように、彼の進行を何かが遮っている。彼はその見えない壁に蹴りを入れてみるが、全く崩れる様子がなく、逆に彼の方が衝撃を受け返されて、また転んだ。
(どうなってる!? そうだコマンドだ!)
ここがゲーム通りの世界ならば、敵から逃走するときは、行動コマンドの《逃げる》の覧をクリックしなければならないはずだ。
試しに彼がさっきと同じように念じてみると、思った通りに彼の目の前に、あの不思議なウィンドウ画面が現れた。
そこには《防御・アイテム・逃げる》の選択肢が表示されている。普通ならばこれの他に、《攻撃・スキル》の選択肢も一緒にあるのだが、何故かそれがない。ともかく彼は迷わず《逃げる》の選択肢を押す。
(何も起きない!? 何でだ!?)
そこを押しても、ゲームのようにモンスターが消えたり、目の前の見えない壁が消えることはなかった。
よく見るとこの《逃げる》の選択肢。他の二つの選択肢が白文字で表示されているのに対し、こちらは黒文字で表示されている。この表示の差別の方法は、彼にも覚えがある。
《これはイベント戦闘だ。逃げれるわけねえだろうが》
「そりゃそうだろうけど! これはゲームじゃ……て、えっ!?」
彼はハッとして、コマンドの右脇に目を向ける。今一瞬だけ、何かおかしな物があったのだ。
コマンドとは別の、もう一つのウィンドウ画面が、彼の視界の右端に現れていた。そこにはゲーム的なコマンドの文でなく、明らかに何者かの意思で書き込まれた文面が、そこに表示されていたのだ。
恐怖で感情が乱れていた彼は、その文を見てすぐには突っ込まず、うっかり普通に会話するように言葉を返してしまった。
だがすぐに異変に気がつき、そちらにはっきり目を向けたときには、その謎のウィンドウ画面は消えていた。
「いっ、今のって……はぐぁあああああっ!」
突然彼は、天に顔を向けて叫ぶ。そしてさらに二度目の苦悶の声と同時に、彼は横に吹っ飛んだ。
彼が自分で飛んだわけではない。彼のすぐ後ろには、あの植物怪獣に既に迫っていた。強い力で弾き飛ばされ、数メートル飛んで一本の木の幹に叩きつけられた彼。
激突した木が、ピサの斜塔のように斜めになり、彼の身体が地面に転がっていく。
「うぐっ……いひっ……」
身体を土で汚した彼は泣いていた。その幼く可愛らしい顔で男泣きである。
そして地面に寝そべった体勢のまま彼は、さっき自分の背中に激痛を走らせ、そしてここまで吹き飛ばした犯人に目を向ける。
そこには植物怪獣の数本の蔓……というよりこれは触手と表現した方がいいだろう。それらの触手が、ウネウネと動きながら、こちらに近づいてくる。
「まっ、待って……やめて……」
どう見たって言葉が通じるように見えない植物怪獣に、命乞いをしようとする彼。そんな彼に構わず、その触手はゴムのように伸び、そして鞭のように鋭く高速で彼に迫った。
ビシッ!
「はぎっ!」
彼の身体に再び激痛が走る。触手の鞭が、彼の身体を勢いよく叩きつけたのだ。最初は肩に、次に足に、更に胸・顔・腹と、彼の身体の各部を、数本の触手が拷問のように叩き続けた。
あの鋭い音と同時に彼の悲鳴が聞こえ、そのたびに彼の衣服や皮膚が破れ、彼の身体からどんどん血が流れ出てくる。無抵抗の男に対する、完全なるリンチであった。
攻撃が十数発当たったところで、彼の悲鳴は聞こえなくなった。彼はもう目が虚ろで、口からは唾液と嘔吐が流れ、白い和装はかなりの割合で赤く染色されている。
右手の部分は変な方向に曲がっており、恐らく骨は折れている。彼は地面に伏したまま何も言わず、ただ呼吸音だけが荒々しく鳴っている。
そんな彼に、植物怪獣は触手の殴打を取りやめた。ここで攻撃を止めてくれるのかと思ったら、そういうわけでもなかった。
鞭のようにしなやかに動いていた触手が、今度はゆっくりと先端を突き出すような形で、蛇のように動き、彼の身体に巻き付いた。
一本の触手は彼の両足を、ロープで縛るように巻き付く。二本目の触手は彼の胴体を両腕ごと。三本目は彼の首に……
「ごげえっ!?」
三本の触手が、とてつもない力で、彼の身体を締め上げた。全身の骨が折れるような、凄まじい三つの圧迫。
特に首に巻き付いた方は、とりわけダメージが大きい。彼は最初にカエルのような醜い悲鳴を上げた後は何も言わない。というか何も言えない。何故なら彼の喉は、まともに機能できない状態だからだ。
首の骨と気管を締め上げられ、今にも彼の意識は飛びそうだ。彼の口から嘔吐だけでなく、真っ赤な液体が川のように流れ出る。
そんな地獄の拘束をしながら、植物怪獣は彼の身体を持ち上げる。そしたあの異形の口を大きく開き、彼の身体を頭から飲み込んだ。
飲み込んだ際に彼の身体から触手が離れる。これによって彼の拘束の圧迫からは逃れられたが、すぐに別の苦痛が彼を襲う。
最初に頭が生暖かいものに包まれたと思ったら、すぐに視界が真っ暗になる。そして自分の身体が、暗くて狭い空間に押し込められたことに気づく。
ヌメヌメした気持ち悪い液体が覆われた壁に挟まれ、やがて彼の全身が、熱湯にかけられたような痛みが襲う。
喉を潰されて、周りの状態を思考する余裕がなかった彼だが、この時になって初めて自分がどうなったかを理解した。自分はこの怪物に喰われてしまったのだと。
(いやだいやだいやだいやだ! 死にたくねえ! 死にたくねえよ!)
身体を動かすことはおろか、声を上げる力すらない彼が、思考の中でどんなに叫んでも、もう何も出来ない。
彼はもうこの世界が夢などと思っていない。夢の世界がこれほど苦しく痛い世界だなんてこと、あるわけがないのだ。
そして彼にはもう、この植物怪獣の腹から脱出する術はない。心の中で泣き叫びながら、全身に焼け付くような痛み=溶解液で身体が溶かされる苦痛に晒される。
だがその苦しみはすぐに終わるだろう。それは痛みという感覚能力すら消え失せ、やがて彼の身体は骨も残らず溶かされ、彼の血肉はこの植物怪獣に吸収されるであろうから……