近くて遠い
手が届きそうに見えて、もうどうしようもないものは意外と多くあると思う。月とか星空なんてロマンチックなものじゃなくても、一日遅れのバーゲンセールの広告とか、ぎりぎり期日を過ぎてしまったクーポンみたいな、そんな……関係。
「おはよう」
「ん」
午前七時、いつも通り幼馴染の雪枝が部屋を訪ねてきた。
雪枝は幼馴染で――、高校時代に付き合っていた恋人だ。大学に入ってしばらくして別れたけど、高校三年の時にはまだ付き合っていたので、同じ大学へ進学し、しかも、同じアパートに隣り合って入居していた。
その因果なのか、別れたいまでも朝は俺の部屋へと訪れてくる。
幸か不幸か?
……そんなのは訊かないで欲しい。
俺か雪枝に新しい恋人が出来れば、また、見方が変わってくるんだろうけど――。
「朝ごはん、なに?」
「少し待ってろよ、すぐに焼くから」
どこかまだ眠そうな顔の雪枝に、フライパンにマーガリンを落としながら答える。
そんなに手の凝った朝食じゃない。
起きてすぐ――六時頃に卵ふたつと牛乳、砂糖を混ぜ、それに食パン三切れを浸していた。さすがに卵を常温に置くことは憚られたし、冷蔵庫に入れてパンにじっくりとしみこませつつ、その間に朝の準備を済ませている。準備に抜かりは無い。朝食という意味でも、それ以外の意味でも。
……元カノに会ったとして、恥ずかしい格好とかじゃない。きちんと顔も洗って、軽く髭も剃って、大学へ行く格好に着替えているんだから。
マーガリンが充分に溶け、フライパンが熱されたのを確認してから、付け沖しておいた食パンを乗せる。
水気のせいで油が弾いた。
バチバチという音の中「朝から油っぽいのは嫌だよ」なんて、どこか無責任な声がダイニングから聞こえて来た。
軽く視線を向ければ、今日はセミロングの髪を内巻きにした雪枝の横顔が見えた。
セミロングって、女性にとって都合の良い髪型なのかなって、雪枝を見ていると思う。だって、日によってポニーテールにしたり、両耳の後ろでツインテール――結う位置が低いので『ふたつゆい』という旧称の方があっている気もするが――にしたり、ゆったりなサイドテールにしたりとアレンジがしやすいから。
雪枝は、今で手鏡を見ながら、化粧の最終確認をしているようだった。
フレンチトーストを焼き上げ、適当に更に盛り付け――流石にそれだけでは寂しい絵だったので、冷蔵庫の野菜室からレタスを取り出し、何枚か葉をはがして水洗いし、買い置きのトマトとあわせて簡単なサラダも付け合せた。
ドレッシングは……丁度いいのが切れていたので、マヨネーズを適当にかける。
「いつもの、柚子胡椒ドレッシングがよかった」
雪枝が、食事の前の手洗いついでにそんなことを言ったので――。
「今でも、朝飯たかりに来るんだから、自分で買って来い」
と、返した。
でも……。
今でも、の部分が引っ掛かったのか、俺と雪枝の間に、一呼吸分の沈黙が入ってきてしまった。そして、それはすぐに二呼吸になり、三呼吸。
海外では、こうした沈黙を天使が通ったから、なんて表現することもあるみたいだけど、別れてまだ一年も経たない俺達には、そういう表現はし難いような気がした。
もし天使がいるなら、この近くて遠い――恋人から幼馴染に戻った距離をどうにかしてくれるのが当然に思えてしまって。
「前にも言ったけどさ……」
「うん」
「私は、知也のこと、嫌いになったわけじゃないんだよ?」
「……うん。わかってる」
そう、俺達は、あくまで幼馴染だった。
踏み出した一歩は、最初は上手く言っているって思っていた。
でも、多分、それがいけなかった。
付き合っている時間が、一週間、一ヶ月、一年と過ぎていくいにしたがって、擦れ違うことが増えていって、梅雨が始まった時には俺達は恋人じゃなくなっていた。
でも、俺達は幼馴染の距離を解消しなかった。
誰よりも近くにいるのに、恋人じゃない距離。
近くて遠い、傷付かない、居心地の良い関係。
手を伸ばせば――。
「知也?」
届くのに、その先が果てしなく遠い。
右手で皿を持ち、雪枝の頬に向かって伸ばしていた左手。
苦笑いで俺は左腕をエプロンのポケットへと押し込んだ。
「出来たよ。今日はフレンチトースト」
「おいしそう。知也、女子力高いよね」
少しだけ無理したようなハイテンションで雪枝が告げ、俺は曖昧な笑みで応じる。
「雪枝も、出来るようにならないとな」
んう? と、首をかしげた顔。
南窓のせいか、朝日で輝く瞳は夜の色を残している。
移りこんだ自分の顔に苦笑いをして俺は軽く顎を突き出して皮肉を纏った。
「俺がいなくなった時、食事で困らないようにな」
「……いつまでも、一緒でいいじゃん。幼馴染なんだから」
どこか拗ねたような雪枝の声に、俺は返事をしなかった。
近くて遠い距離をいつまでも詰めようとしたり。咲かない花に水をやり続けることなんて無理だと思っていたから……。