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格子の向こうの花菖蒲  作者:
風の章
9/14

 格子の穴から伸びる手。それがひどくじれったくて、僕は彼女の手との逢瀬に夢中になっていった。ヒト嫌いの僕らしくないと自分でも思ったが、会いに行くのを止められなかった。

 理由は簡単で彼女が笑うから。僕の名前ではないものを嬉しそうに呼ぶから。

 呼んでいるのが僕ではないものだからこそ、余計に彼女に焦がれていったのだろう。いつしか彼女に会う事が、僕のすべてになっていった。


 彼女の白く、少しだけひんやりした手のひらが僕の鼠色の毛並みを撫でる。気持ちよくて目を細めれば、いつの間にか手を引っ込めていたらしい彼女が笑いを漏らしていた。

「タマったら。やっぱり猫って撫でられるのが好きなのね」

 そう言って彼女は嬉しそうに手を伸ばす。

 彼女が嬉しそうに僕を猫と呼ぶから、外の世界を知れて嬉しいとはしゃぐから、僕は薄く目を閉じて、精一杯猫らしく前足を伸ばした。

 彼女の勘違いに付き合おうと思ったんだ。そうすれば僕が彼女の呼ぶものになれるような気がして。

 鼻先を彼女の方に向けて見ると、ぼんやりと薄闇の中に彼女の白磁の肌が見える。手だけが覗くその穴から彼女の表情を窺える事は殆ど無い。

 ねえ、顔を見せてよ。

 心の中で彼女にそう呼びかける。猫の振りをしている所為で彼女に言葉が伝えられない事はひどくもどかしくはあったけれど、もし口をきいてしまえば彼女はきっと気味悪く思うだろうから我慢するしかなかった。


「ねえ、タマ」

 彼女が小さく声を出す。家の者に遠慮でもしているのだろうか、彼女の声は囁くような掠れ声だった。首を持ち上げて穴を見遣ると腕が引っ込められていて、珍しく中の様子が窺えた。彼女の白い顔がぼんやりと分かる。

 長く黒い髪が彼女の白い襦袢に散っていて、薄明かりの中でとても綺麗だった。僅かに濡れたような艶やかなそれに触れたい、と思った。

 そんな雑念を振り払ったのは小さな音だった。

 外で葉を揺する風の音にも消されかねない程に僅かな音に、僕は聞き違いかと思ってまた彼女の顔をじっと窺う。するとまた。

 ぱた、ぱた。

 畳を打つ僅かな音が耳に入る。それと同時に風に流された群雲の隙間から、月の光が差した。

 ぱた、ぱた。

 月光をうけてきらきらと身を照らしながら、その雫は畳に落つる。それを見ても、僕はやっぱり綺麗だと思ってしまった。

 彼女は泣いていた。唇を噛んで声も出さずに。声も出せない僕には、どうしたの、と聞く事も出来なくて、ただじっと彼女の涙を見つめるしかなかった。

 彼女はまた囁くような掠れ声を出す。濡れた目をじっと僕に向けて。

「私、外に出たかったわ」

 ぱた、ぱた。雫が止めどなく畳を打つ。まるで彼女の心の内を溢れ出させたように。

 出たかった、と彼女は過去の話みたいに言った。これから先も出られないと決まってしまった物言いに、思わず首を横に振る。

「不思議ね。タマには私の言葉が分かるみたい」

 ふふ、と小さく笑って彼女は腕を伸ばして僕を撫でる。彼女の顔が見えなくなって、でもまだ畳を打つ音は小さく聞こえていた。

「私ね、身体が弱いの。咳が出ると胸が痛くなって動けなくなってしまうの」

 彼女は僕の毛並みを撫でながら、掠れた声でそう言う。

 驚きはなかった。小さな少女が離れの庵に閉じ込められている理由なんて、それしか考えられない。という事は、彼女が泣いているのは。

「あまり調子が良くないみたい。治らないかも、しれない」

 ぱた。畳が一際大きく音を立てた。

 はっとして障子の穴を見遣るけれど、腕が伸びるそこからは彼女の顔は見えない。

「ああ、外に出てみたかった。すぐそばの花畑でいいから触れてみたかった。タマを抱き上げてみたかった」

 掠れていた声は最後にはもう声にもなっていなかった。吐息だけで慟哭して、彼女は指先を震わせる。

 まるで彼女の胸の痛みを分けてもらったかのように僕の胸も痛んだ。苦しくなって、思わず言葉を発してしまいそうだった。

 ──出たいのなら、出てみる? と。

 首を持ち上げて口を開きかけた瞬間、彼女の腕がゆっくりと引っ込んでゆく。そして、

「でもね、私大丈夫よ。タマがいてくれるから」

と彼女は言った。頬に雫を光らせて。


 僕は、タマ。彼女のそばにいるだけの猫だ。


 彼女は、僕が猫だから彼女のことを外に出せないと思っている。だからこそ出たかったと本心をさらけ出しているのだろう。

 きっと僕が妖として彼女を外に出しても、彼女は心から笑ってくれない気がした。

 だから。

「タマ」

 彼女の震えた声を背後に聞いて、僕は庭に出る。

 花菖蒲の季節は終わってしまったから、今植えられているのは別の花だ。紫色のその花は確か桔梗といった。一輪の茎を噛み千切って、格子のそばに戻る。そして穴から桔梗の花を投げ入れた。

 彼女はぽろぽろと涙を流しながら僕をじっと見つめている。手のひらの中にある紫色の花にぱたぱたと雫が散った。

「タマ、タマ」

 衣摺れの音と共に、彼女はうずくまる。しっかりと手に花を握りしめて、僕の名前を何度も呼びながら。

 彼女の肩が震えるのを、僕はただそばで見つめているしかなかった。


□□□□


 その日も僕は格子の穴に向かっていた。

 今日は天気が悪い。ぽつぽつと身体を叩く雨がとても耳触りだ。僕自身は雨が好きでも嫌いでもないけれど、濡れた身体ではあまり彼女に撫でてもらえない。彼女のいる庵の軒下で身体を震わせて雫を落とす。何度も何度も身体を震わせていれば、幾分かましになった気がした。

「ふふ」

 彼女の笑い声がして後ろを振り返ると、

「猫は雨が嫌いなのね」

と嬉しそうに彼女は微笑んでいた。そして障子に身体を寄せた僕にゆっくり手を伸ばす。いつもと同じ光景の筈なのに、何処かが違う。それはすぐに分かった。

 僕に手を伸ばす時の彼女の表情を、僕は初めて見たのだ。

 僕の湿った身体を撫でながら、彼女は悪戯っぽく舌を出して口を開いた。

「破いちゃったんだから、一緒よね」

 障子の格子一枠がずっぽりと開いている。指先で千切り取ったのだろう、三寸の穴が今では手の平程の小さな窓になっていた。白い紙で蓋をされた格子が連なる中に、一つだけ歯抜けたそこがとても間抜けだ。

「これでタマの顔がちゃんと見れるわ」

 にっこりと笑う彼女にぎゅっと胸が掴まれた心地がする。彼女も僕と同じことを考えていたのか、と飛び上がりそうになった。

 彼女は僕の身体にゆっくりと手を添えながら、うっとりと外に目を移す。

「綺麗ね」

 どんよりと曇った空模様。月の光も差さない宵闇にただ、しとしとと雨音だけが響く。

 そんな光景を彼女は綺麗だ、と言った。愛おしそうに目を細めながら。

 同じものが見てみたくて倣って庭に目を遣るけれど、どうしても僕には分からなかった。

 じっとじっと見つめて、ふと思う。

 僕が初めて彼女を見て、彼女の手に触れたあの瞬間、世界が変わったようだった。きっと彼女も今、あんな心地なのだ。

 彼女が綺麗だと言う庭の景色に嫉妬しながら、僕もじっと宵闇を見つめ続けていた。

 響くのは雨音だけ。月の差さない宵闇は時さえも動かさないようだった。だからどのくらいそうしていたか分からない。でも突如空気を裂くように響いた襖を開ける音が、『綺麗』な光景を崩した。


「何をやっているのだ!」


 びくり、と彼女の手が震える。慌てたように彼女は後ろを振り返って小さく、お父さま、と呼んだ。

「もう夜半だ。十二の子どもが起きている時間ではないだろう!」

 ざりざりと畳の上を引きずる音が聞こえて、慌てて格子から中を覗くと、初老の男が彼女の腕を掴んでいるのが見えた。

「早く寝なくては病も治らん」

 そう言って彼女を布団の上に座らせた後、彼女の父親は障子の格子に顔を寄せた。慌てて陰に隠れる様子を窺うと、父親の呆れた様な溜め息が聞こえる。

「こんなに穴を開けて。外は毒だと言ったろう」

「でもお父さま……」

「口答えはするな!」

 ぴしゃりと彼女の反論を跳ね除けて、父親は怒号を浴びせ続ける。

「お前は死ぬまでこんな場所に居続けるのか! 人らしい生活をせぬまま、無為に人生を終える気か!」

 父親が言いつけに背いた娘を叱り付ける。それにしては余りに心ない言葉だと思った。彼女が病であるのも、それ故外に焦がれるのも、彼女の所為ではないのに。

 あんまりな物言いに格子に足をかけて部屋に飛び込もうとした、瞬間だった。

「明日には塞ぐからな」

 かたり、と硬い何かが立てかけられ、中の様子が何も窺えなくなった。前足で押さえてもびくともしない。思わずヒト型になり、硬い何かを手の平で押しかけた時だ。

 襖を閉める乾いた音と共に、父親の気配が遠ざかってゆく。そしてすぐに、彼女の掠れた声がかけられた。

「タマ、そこにいる?」

 いるよ、と口を開きかけて止めた。指先でカリカリと硬い何かを引っ掻くと、安堵の吐息と共に、いるのね、と聞こえる。

「びっくりしたわよね、ごめんなさい」

 辛いはずなのにこうして優しい声をかけてくれる。それがあまりにいじらしくて、胸に鋭く痛みが刺す。


 この硬いものをどかして、彼女のところへ行こうか。そして外に出してやるのだ。手を引いて、花畑や水たまりを歩いて──。

 そして彼女の最期の時に、妖にしてやるのだ。そうすれば彼女は、長い長い時間を『外』で過ごす事が出来る。小さな庭だけじゃない、もっともっと広い景色を見せてあげられる。

 どんなに素敵だろう。でも。


「タマ、また明日も来てくれる?」

 彼女が優しい声でそう言う。だったらまだ、僕は猫でいるしかない。猫の僕が求められている間は彼女の勘違いに付き合うと、そう決めた。

 僕は小さく鼻を鳴らす。それが別れの合図だ。

「おやすみ、タマ」

 ヒトである彼女は夜を眠って過ごす。僕はその夜陽が顔を出すまでずっと、ヒト型のまま軒下の障子のそばに膝を抱えて座っていた。


 次の夜。やっぱり格子の窓は塞がれていて、彼女が穴を開けるかと思ったけれど、白い薄い紙は僕らを別つようにそこにある。少しでも力をいれれば破れてしまうその紙が今は高い高い壁のようで、どうしてか破れなかった。

 唯一の触れ合いだった穴を失くした僕たちは、触れる事も相手を見る事も叶わないまま、日々を過ごした。

 薄い障子紙越しに声をかけ合って。

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