序
ずっとずっと、一人だった。
変わり映えのしない部屋でただ座って時を過ごしていた。
お父さまが一日に一度様子を見にいらしてくれていたから、それが楽しみで、ずっと襖の方を見て座っていた。だって窓はあるけれどはめ殺しの障子の所為で外を見る事すら出来やしない。
ひどく退屈だった。
だからそれは偶然だった。
叱られると分かってはいたけれど、思い立ったら居ても立っても居られず、その夜私は指先で障子に小さな穴を開けてしまった。
穴から外を覗くと、目の前に月の光に照らされて紫色の何かがゆらゆらと揺れていた。薄く風が吹くたびに頭を揺らすそれは、薄闇の中で光を受けてちらちらと色を弾く。
綺麗だと思った。この世のものではないのかと思った。
『外』にはあんなに綺麗なものがあるのかと思うと、いても立っても居られなくなった。欲しくて堪らなくなった。
覗いていた穴に再び指を突っ込む。二本、三本と指を増やしていけば、穴はどんどんと大きくなっていく。指で足りなくなれば手首まで突っ込み、その穴は三寸程にまでなってしまっていた。
外を覗くと、ざあ、と葉の騒ぐ音と共に紫色の花が頭を揺らして、おいでおいでと手招きしているように見える。月光が筋を作る紫の花畑は、まるで別世界の入り口だ。
ああ、行けるのならば行きたい。
此処ではない、どこかへ。
その欠片でも良いから欲しくて、私は肘の上まで穴に腕を通す。風が腕を撫でて、ひんやりと冷たい。その冷たさが外へ大分出た証拠のように思えて、小さく声を出す。
「んー……もうちょっと」
もっと破れそうになる障子に気をつけながら、指先をいっぱいに伸ばした時だった。
指先に触れたのは、みずみずしくざらざらとした感触。初めての手触りに思わず私は手を引いてしまった。
はらり、と紫色の欠片が部屋の中に一枚落ちる。
それは紛れもなく、私が欲した花の欠片だった。
でもどうして触れられたのだろう。だって本当は分かっていた。私の手では、あの花には遠くて触れられない事を。
恐る恐る外を窺うと、月光が薄闇の中にふわふわの黒い何かを照らし出す。じっと見つめていれば、唐突に赤く光るものが此方を向いた。
ふ、と目が合った。
薄闇の中できらりと光る赤い眼と。
しばらくどちらも動かなかった。初めて見る外の生き物に目を奪われたからかも知れない。薄闇に浮かぶ黒い身体と赤い眼は、月光に照らされた花の中でこの世のものではないほど美しく見えたのだ。
この貴重な瞬間を、逃せない、と思った。だから思わず私は口を開く。言葉など通じないと分かっていたけれど。
「あなたは、猫さん?」
当てずっぽう、だった。だって私は外に生きる動物を知らない。だから唯一知っていた、物語りに出てくる動物の名をよんでしまった。違うのかも知れないけれど、それ以外に動物なんて知らなかったから猫だと思うようにした。
赤い眼は動かない。ただ何か言いたげに、じっとこちらを見つめ続けている。
好奇心を抑えきれず、私はもう一度障子穴に手を差し込んだ。逃げてしまうかも知れない、そう思ったけれど、焦がれた外の世界が直ぐそばにあるのに我慢なんて出来なかった。
ざらり、と予想に反してそれは手に触れる。思った以上に硬くて、私は二、三度撫でる手を往復させた。そして毛並みの中に一筋、柔らかい毛束があるのに気づく。それが妙に心地よくて、しばらくそこを撫で続けていた。
猫はいつまでも逃げない。それがまるで、私の為のように思えた。
ゆっくりと腕を引き抜く。さっきより大きくなってしまった穴を窺えば、また赤い眼と目が合った。
「ありがとう、猫さん」
そう言ってにっこり笑う。猫はまだ逃げない。
「ねえ、私たち友だちね」
まだ猫は逃げない。じっと、物言いたげな瞳で見つめている。
嬉しくて、嬉しくて、私はもっとにっこりと笑って言った。
「名前をつけてあげなきゃね」
どんな名前がいいかなんて分からないけれど。なぜか、猫といえばこの名前だと反射的に思い浮かんだ。
「猫さんだから、タマ、ね」
猫は、タマは、尖った鼻先を一度下へ向けた。それが頷いたように見えて、私はまた嬉しくなる。声がひとりでに弾んだ。
「タマ。ねえタマ、また来てね。私たち友だちよ」
そう言うとタマはゆっくりと障子の格子から離れてゆく。言葉なんて通じている訳がないのに、タマの動きはまるで私の言う事を理解しているみたいだった。
ぶわり、と一際大きな風が吹く。
いつの間にかタマの姿はなかった。でも。
「寂しくないわ」
指先に光るのは月光を受けて煌めく鼠色の毛。私が初めて手に入れた、外の世界のもの。
「寂しく、ない」
ぎゅっと握って、格子の外を窺う。月明かりに照らされて紫色の花がゆらゆらと揺れていた。