陸
空が白んでも、陽の光が差しても、起きていたのは初めての事だった。
決して黒猫の彼の言う通りにしようと思ったわけではない。いや、もしかしたら少しはそうかも知れないが、タマの『隠し事』を暴くつもりなどなかった。
だが私は一冊、一冊と物語りを書架から抜き取る己の手を止められないでいる。
たとえどんなに言い訳しても、私はタマの『隠し事』を知ろうとしている事に変わりはなかった。
頭に入らない物語りに一頁一頁目を滑らせ、ぱたんと閉じる。それを何回も繰り返していけばやがて私の周りには物語りの山が出来上がる。ぎゅうぎゅうに詰まっていた筈の書架はすかすかに歯抜けていった。
部屋に差し込む日が色を濃くして筋を長く伸ばした頃、私はふと気付いた。
ばさばさと数冊が私の手を擦り抜けて畳に落ちた時に、書架の向こうにあるものが見えたのだ。そして周りを見回す。
何故気付かなかったのか、理由は簡単で私はそれを必要としなかったから。部屋を出る事の出来ない私には必要のないものだったから。
──そう、この部屋には出入り口がなかった。
タマも黒猫の彼も障子の穴から出入りをしていたのだ。だから気付かなかった。
書架の向こうに見えたのは本来の出入り口である襖の戸だった。長い間ずっと書架の陰に隠されていた所為で黒く黴びている。
だが襖の紙に染み付く色は黴の黒だけではなかった。長い時間を経過して変色はしているが、その赤錆びた色と染みの形で何であるかは直ぐに分かった。
「……血、だわ」
わざと声に出せばその声は震えていて、自分の動揺を自覚する羽目になる。指先が落ち着かなくて、両の手を擦り合わせて溜め息を吐いた。
この先に何があるのか。知りたいような見たくないような、複雑な気持ちで私はじっと襖を睨みつける。どちらにせよ、実体を伴わない霊体のような私には書架をどけて襖を開く事は出来ないのだけれど。
落ち着こうと、もう一度指先を擦り合わせた時だった。
緩やかな風が部屋に吹き込み気付く。既に赤い光の筋はなくなり、辺りが暗くなっている事に。
いつもなら笑顔で迎えているところだが、今日はそちらを向く事すら出来なかった。思ったより私は動揺しているらしい。ずっと指先を擦り合わせ続けている。
やがて僅かな旋風と共に背後で息を呑む声が聞こえた。私はまだ書架の向こうの襖から目を離せないでいる。
「紫……」
「ねえ、タマ」
いけない、と頭の中のどこかで警鐘が鳴っている。それを尋ねればきっと、元には戻れない。私の望む通りの答えなんてありはしない。
でも私の動揺はそんな冷静な部分よりももっともっと大きかったのだ。嫌だと思うのに私の口は勝手にそれを紡ぐ。声を出す瞬間、黒猫の彼の三日月の口がふと脳裏に浮かんだ。
「何があったの、此処で」
もう一度、タマが背後で息を呑んだ。
きっと、元には戻れない。その覚悟を今、タマは決めている。やっぱり言わなくていいの、と言えば今なら間に合うかも知れないが、私の口はわなわなと震えるだけだった。
そして僅かのしじまの後、タマはふう、と息を吐く。それが私たちの繋がりを揺るがす、はじまりの合図だった。
□□□□
「僕はヒトを殺したんだ。此処で、この部屋で」
それはきっと、私の中で一抹存在していた不安だった。その証拠にタマの言葉を、辛い、悲しい、苦しいと思うのに、驚きはない。
ただ胸が痛んだ。
「あなたが殺したのは……私、なのね」
もう、知らない振りはしなくていい。だから私は真っ直ぐに問うた。言葉を選ばずに。
もう知る前には戻れない。私とタマの繋がりは揺らぎはじめてしまったから。
「そうだね。ヒトだった頃の紫を、殺したんだ」
タマの声が後ろから投げられる。後ろにいる彼の顔は見えないから、どんな表情かなんて分からないのだけれど、何故か分かる気がした。
彼は今きっと、怖い顔をしているだろう。赤い眼をぎょろつかせて。タマのそんな顔など見たこともないし見たくもなかったから、私はまだ襖を見つめたまま動けなかった。
「どうして、殺したの」
「好きだったから」
間髪入れず、タマは言う。愛の言葉を、とても冷たい声でとても利己的に。
大好きなタマの愛の言葉に、私の腹は冷えてゆく。やはり私ももう知る前とは違っていた。
「随分と残酷な愛し方なのね」
嫌味を言う唇が震える。怒りの所為か哀しみの為か理由は分からないけれど、唇の震えと共に涙が頬を伝った。
座敷牢の様な部屋でただ座って時を過ごしてきた。妖が生きる長い長い時間を。
それが出来たのはただひとえにタマがいたからだった。なのに妖になったのはタマの所為だという。
とても非道い話しだ。
「勝手だわ。私は死にたい」
どうして生きていなくてはならないのか。タマの勝手な理由で。
ふつふつと湧き上がってくる様々な感情の中で一際大きくなったのは、怒りだった。
「ねえ、タマ」
くるり。私は振り返る。タマがどんな表情をしていても、もう関係はなかった。
そして私も。涙を流して、でも恐らく今までした事のない冷たい表情をしているだろう。酷い顔だろうが、関係なかった。
穴の開いた障子のすぐ側に立ち竦むタマに、ゆっくりと近付く。タマの赤い眼が、惑うようにゆらゆらと揺れていた。
「あなたの口を塞いで、殺してしまおうかしら」
タマの肩に両の腕をかけて顔を寄せる。彼の口に唇を近付け、目を薄く閉じた。少しでも怖がればいいのに、タマは身じろぎもしない。表情を窺おうと見上げるが、ぼやけて何も見えなかった。
涙を流しながらでは脅しにもなりやしない。
「駄目ね。あなただけ楽にしてしまっては」
そう言って腕を解く。彼を許せない、許したくない。だったら尚更殺せない。
死は救いなのだ。
私が狂おしい程に求めるものなのだ。それを与えたくはなかった。
「あなたが憎いわ。どうして私だけが苦しんでいるの」
死にたいのに、死ねない。
殺したいのに、殺せない。
──愛しているのに、愛せない。
「好きならば、どうして苦しめるの」
ぽろぽろと、涙が落ちる。胸が痛くて、息が出来ない。
苦しさか、愛しさか、憎しみか。もう分からない。ただ涙だけが溢れて止まらない。
「……紫」
優しく穏やかないつもと同じ声で彼が私の名前を呼びながら、ゆっくりと手を伸ばす。それだけでまた愛しさは募る。彼がいたから、ずっと笑っていた事も事実だから。
ただ僅かな強がりで彼の手を叩いた。
「やっぱりあなたを死なせないわ。私の方が先に朽ちてあげる。あなたは一人で過ごすのよ、妖が生きる長い長い時間を」
そして消える間際、言ってやるのだ。
妖として生きた長い長い時間はとても辛かったと。
憎んだり殺したりして、彼に救いなんて与えてやらない。ただただ哀しんでやろう、憐れな私の憐れな人生を。
タマはじっと黙っている。言い訳も何もせずに、黙って赤い眼で私を見つめ続けている。その眼を見ていたらやっぱり感情と共に涙が溢れた。
だから私はゆっくりとタマから離れるのだ。
愛しさが勝っても、憎しみが勝っても、彼に口付けてしまいそうだったから。