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格子の向こうの花菖蒲  作者:
花の章
6/14

 タマ、大好きなタマ。

 大切な彼に触れられない、そう聞いた時に私の中に浮かんだのは切ない痛みだった。

 閉ざされた小さな部屋の中で唯一触れる事の出来る相手がタマだった。大切だと思うのは当然だろう。

 だが今私の胸を刺す痛みはそれだけでは説明がつかない。触れられない事がとても哀しい、それはつまり。


「私は貴方の事が好きなんだわ」

 突然の告白に、タマは驚いたように赤い目を剥いた。そして慌てた様にしてヒト型に戻る。

「そんなに驚く事かしら」

 口を尖らせれば、タマの手が恐る恐る伸びてくる。だがその手は躊躇いがちに触れる事なく下りていった。


 下りてゆく彼の手に触れようとして動かした指を、私も震わせながら引っ込める。今更だとは思うがそれでも、自分が彼にとっての毒だと知った今、以前のように触れられなかった。

「どうして、今気付くのかしら。今までにも時間はあった筈なのに……嫌というほど」

 もっと前に気付いていれば、この抑えようのない愛しい気持ちを素直に表せていただろうに。目の前で目を伏せる彼を抱きしめてあげられたのに。

 触れたくて、胸が痛くて、それを抑えようと思ったら独りでに涙が溢れた。抑えきれなかった感情の雫は、筋をつくってポツリと畳へと落ちる。

 タマは驚いたように私の顔を見つめ、口惜しそうに歯を噛んでいた。彼といて涙を流したのは、初めての事だった。

「泣かないでよ。僕には涙を拭わせてくれないくせに」

「当たり前でしょう。知ってしまったらもう、戻れないわ」

 あんなに無邪気に触れ合っていた頃には。その言葉を言いかけて止めた。自分の指先で涙を拭い、私は精一杯の笑顔を作る。

 彼に触れられない、それだけで彼を手放したくはなかった。たとえ自分勝手な欲望であっても、彼には側にいて欲しい。だったら、私がすべき事は泣くことじゃあない。


「貴方が好きよ、タマ」

 だからこそ笑っていましょう。笑って過ごすの、この永遠にも似た時間を。愛しい貴方と過ごす悠久の時を。


 私の熱烈な言葉は、彼にも届いた。タマは赤い眼を潤ませ小さく何度も頷いていたのだ。

 結局、何も変わらない。私たちは今までと同じように過ごす。ただ、触れられないだけだ。

 彼が吐いた嘘はやはり、私たちの繋がりを揺るがす何かにはなりようもなかった。


□□□□


 彼を猫だと思っていた時と変わらない日が続く、と思っていた。触れられない事など些細な事だと。だが私を本当に苦しめたのはそちらではなかった。

 変わったのは、私だった。彼を愛しい、と自覚してしまった私の方だった。


 部屋の中で座す私とタマの間には、腕を伸ばして少し触れられるくらいの距離があった。

 彼は大丈夫だと言ったのだが、私がそう提案した。愛しさに堪えられなくなりそうな、気がしたから。

 でもやはりどうしても、彼に触れたいと思う気持ちが湧き上がるのを止められはしなかった。

 彼の頭が膝の上にない、彼の鼠色の柔らかな毛束の感触が恋しい、そう思う度に胸が鈍く痛むのだ。そして私の物欲しそうな視線に気付き、タマもまた辛そうに眼を伏せるのだった。

 そんな風に過ごす事数日は、今まで過ごした長い時間よりも長く感じた程だ。


 そんな時だった。

 夜明けの空の白みがぼんやりと山の端に見えた頃にいつものようにタマが部屋を後にした、それからすぐの事だ。

「へえ、まだそんな風に過ごしていたのか」

 からかう、という言葉で表現するにはあまりにも鋭い声が障子の向こうから聞こえたのだ。

 タマではない、ならばこの声の主は。

「猫さんね」

「猫さんだと?」

呆れた表情を隠しもせず、黒猫の彼はするりと障子の小さな穴から部屋の中へと滑り込んできた。許可も得ず部屋に上がりこむ猫に少し眉をひそめかけるが、言っても無駄だと思い直しただじっと彼の眼を見つめる。

「今日は騒がねえのか、張り合いのねえ奴」

「もう貴方の事を怯える必要はないもの」

 彼がもたらしたのは、タマの小さな嘘という事実。だがタマはもう二度と私を欺かないと誓った。だからもう、私は彼の話に怯えないでよいのだ。


「残念ながら、貴方と話す事はないわ」

 私の事を嫌いだ、と明言する者と仲良く談笑など出来る程、私は広量ではない。勿論彼もそのつもりなどないのだろうけれど。

 案の定彼は私の言葉に気を悪くしたらしい、黄色い眼をギラリと光らせて一鳴き威嚇の声を出した。

「俺は理由なくお前を訪ねるほど暇じゃないんだが」

「ならば用件をおっしゃって。私にとって良い事では決してないでしょうけれど」

 つん、と鼻先を彼とは別方向へ向けながらそう言うと、彼は興味深そうにじろじろと私の表情を窺ってくる。面白くなくて、彼の視線から逃れるように瞳を閉じた。

「珍しい。お前が強気な事を言うなんてな」

「あら、私の何をご存知なの。それに私だって機嫌の悪い時くらい」

「彼奴に触れられないから、か?」


 彼の直接的な言葉は鋭い刃物のように強がる私の胸を刺す。声を出そうとして、でも胸が痛んで、代わりに出たのは涙だった。

「貴方が言った……所為よ」

「俺が悪いのか」

 彼はく、と小さく笑う。私を馬鹿にしているようにも、何故か自嘲しているようにも聞こえた。はたと顔を上げると黄色く光る玉と眼が合う。それをじっと見つめれば、堪えきれずに噴き出したのは嗚咽だった。

「分かっているわ、誰も悪くない事くらい。貴方が教えてくれなければいつか、私はタマを殺してしまっていたかも知れない。だから貴方も悪くないのよ」

 ぽろぽろと溢れ落ちてしまう涙を襦袢の袖で拭いながら、叫ぶように言った。タマには決して言えない、泣き言だった。

 黒猫の彼は音もなくヒトの姿に変わると、ゆっくりと私に歩み寄る。そして目線を合わすように屈み込み、小さく言った。

「可哀想な紫。お前だけが何も知らない。だからお前ばかりが傷付く」

 慰めにも聞こえる憐れみの言葉、それを彼は三日月の口から放つ。その表情は決して、私を憐れんではいなかった。


「何を知らないから傷付くというの。これ以上何を知らなくてはいけないの」

 溢れ出る涙はまだ止まらない。彼の口が、まだ笑っている。まだ何かあるのだとその楽しそうな顔が言っている。

 だから私も自分に言い聞かせるのだ、彼が私に誓った事を。

「タマはもう、私を欺かないと誓ったわ」

「彼奴が吐いた嘘は今も昔も一つだけ、奴の正体の事だけさ」

「なら、もう!」

 悲鳴にも似た私の叫びはやはり彼の冷たい声にかき消される。笑いながら言う、表情とは相反した憐憫の言葉に。

「可哀想な紫。全てを知れば良い。そうすれば楽になれる」

「もう……知らなくてもいいわ。これまでで充分だったもの」

 そう、私は幸せだった。たとえ外に出られなくても、たとえ永遠にも似た時間を生き(・・)なくてはいけなくても。

 だからこれまでと同じ日々を過ごしたい、それだけなのだ。

「貴方はどうしてそこまで、私に知る事を求めるの」

「言っただろう、俺はお前が嫌いだ」

「そうね。そうだったわ」


 だからこそ彼が告げることは私にとって辛い事なのだろう。つまり、私が知らない事は私にとって都合の悪い『真実』なのだ。

「貴方は嘘を言っていない、だから厄介なのよ」

「へえ? どうして俺が嘘を言っていないと分かる?」

興味深そうに、猫の彼は髪をさらりと流して立ち上がる。視界が彼の黒装束で埋まり、余計に陰鬱な気分になった。

「タマが……貴方から話を聞くのを嫌がるからよ」

 確かにタマは私に嘘はつかないと誓ったが、それは隠し事がないのと同意ではない。彼には何か隠したい事があるのだ、それはわかっていた。

 だからこそ、私は尋ねなかったのだ。嘘をつかないと誓った彼に『何を隠しているの』と。


「知らなくても良いから、聞かなかったのに」

「それで? お前だけが辛い思いをし続けるのか。彼奴の所為なのに」

「さっきも言ったわ。誰も悪くないのよ」

 ふう、と息を吐いて、私は立ち上がる。彼の黄色い眼をじっと見つめれば、彼はすっと三日月に笑っていた口を引き結んだ。

 やけに真面目な顔をして、彼は思い切ったように口を開く。『隠し事』について話が及ぶのだと、私は僅かに半身を引いて身構えた。

「辛いのなら知ればいい。知ればお前が……楽になれるんだ。悪い事じゃない」

「例えそうだとして、彼に尋ねろというの?」

「知る方法は一つじゃねえよ」


 そう言って黒猫の彼はぐるりと一周部屋の中を見回し、黄色い眼を壁の一部で止めた。そこにあったのはぎっしりと書物が詰められた書架だった。

 ただの書架だ、と思うのに私の胸はいやに重く痛くなる。何故なら──タマは一度、見たこともない様な目で書架を睨んでいた事があったから。

「そうだな、本でも読めばいい。出来るだけ一気にな。なんなら今から読んでもいいぞ」

 彼の声色はとても軽く、まるで冗談を言っているようにも聞こえる。

 だがそれが冗談でないのは彼の表情を見れば分かった。最初の揶揄するような冷たいものではない。それはまるで。

「変ね、まるで貴方が願っているみたいだわ。私が全てを知る事を」

「さあな」

「嫌いだから知らせたい、それだけではないのでしょう」

 いささか調子にのってしまっただろうか。黒猫の彼は今までで一番不機嫌そうに眉をひそめて私を睨みつける。そして小さく、耳打ちをするような声で言ったのだ。

「黙れよ、喉を掻き切るぞ」

 やっぱり。最初に凄んで見せたあの時と同じ言葉なのに、彼の声には余裕がない。それはきっと私の言葉が正解だったからだろう。

 少しだけ笑顔で彼に微笑むと、彼は驚いたように目を見開き、次の瞬間には黒猫へと姿を変えていた。そしてまるで逃げるように障子の穴へ身体を向ける。


「待って」

 思わず呼び止めてしまった。

 一つだけ、聞いておきたい事があったから。

 すると黒猫の彼は首だけを捻って振り返る。その眼は怪訝そうに細められていた。

「貴方の名前を聞いていないわ」

 私の言葉が余程意外だったのだろうか、彼は身体を正面に向け直し、じっと私を見つめている。私もじっと見つめ返せば、先に諦めたのは彼だった。

「好きに呼べと言った筈だぞ」

「でも貴方には名前があるわ」

 そう言って、じっと彼の返答を待つ。自信はあった、彼は恐らく本当の名前を教えてくれる筈だと。


 そして根負けした黒猫の彼は、僅かに目を伏せた。黄色い眼が小さく光る。それが今から彼が本当の事を言う、合図に思えた。

 そして彼は口を開く。私の方を見ないまま。

「……タマ、だ」


 驚きはあまりなかった。そうだろうな、と予感はあったから。

 反応の薄い私をちらりと見遣って、黒猫の彼──タマは障子の穴へと身体を滑り込ませていった。

 それで気付く、いつの間にか部屋の中には明かりが差していたのだ。もう眠らなければ。

 だがどうしても眠れそうにはない。私は小さく息を吐いてゆっくりと部屋の中を歩く。そうして手にとったのは書架に並んだ物語りだった。

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