肆
にゃあ、と鳴くモノ。いくら無知な私でもそれは知っている。
薄闇に溶ける漆黒の体毛、らんらんと浮かぶ黄色い目、すらりとしなやかな身体、それらは全て私の予想が真実だと告げていた。
「貴方は、なに」
「分かったくせに」
彼は震える私の唇を見咎めるようにして嫌味に笑う。咄嗟に口元を隠すと、彼は一層それを深めた。
そう、私は知ってしまった。気の遠くなるほどの長い長い時間ずっと、気付かなかった間違いに。
「貴方は猫……なのね」
彼は猫だ、私の少ない少ない知識でも分かる。彼を構成するもの全てが、そうであると言っている。
ならば、タマは?
タマと彼は似ても似つかない。彼が猫であるならば、タマは猫ではない。何故そんな勘違いをおかしていたのだろう。
そんな思考を突如遮ったのは、目の前にいる黒猫の揶揄するような冷めた声だった。
「可哀想な紫、死んでも尚彼奴に縋り付くしかない哀れな地縛霊だ。だがそれ以上にお前は危うい」
「なんですって」
「このまま永遠に朽ちた座敷牢の中で過ごすか、全てを知り真実の死を受け入れるか、今ならまだ間に合うのさ」
全てを知れば、楽になれる。
彼はそう言った。今全てを受け入れれば、私は死ぬ事が出来るのだと。
淀んだ座敷牢の中だけで、外に焦がれながら過ごす日々は酷く退屈だった。それこそ気が狂いそうになるほど。それから解放される、なんて素敵な事だろう。でも。
「嫌よ、タマをおいていくなんて」
これまでの退屈な日々を笑って過ごせたのは、タマのおかげだ。そんなタマをおいてはいけない。
──外に出たい、なんて言わないでよ。
そう言った時の彼を思い出す。柴染の髪から滴を垂らして目を伏せていたタマは、酷く辛そうで寂しそうだった。
「私はタマがいれば、何だっていいわ」
朽ちた部屋で永遠を過ごす事になったとしても、彼がいてくれれば耐えられる。それに。
「約束したの。タマは私が枯れて朽ちるまで傍にいてくれるって。だから私は」
「彼奴の傍を離れない、か?」
私の言葉を先読みして、彼はそう言った。からかうような声色はそのままに、ただ少しだけの不満を顔に表して。
だがそんな事は関係ない。彼の言葉が、存在が、私とタマの繋がりを揺るがす何かにはなりようがないのだ。絶対に。
「そうよ」
「どうするかはお前の勝手だ、俺が強要する事じゃあないさ。だがお前は今日知った筈だ、彼奴の嘘を」
そう、彼は猫だと私に名乗った。私が妖として生まれ落ち、彼に出会ったその時に。何故? 私は彼が猫だったって犬だったって何だってよかったのに。
だがそんな事は些細な事だ。そんな小さな嘘は、今までの長い時間を揺るがす事にはならない。
「タマが猫ではなかった、それが何だって言うの」
心もち強気にそう言った時、初めて目の前の黒猫は言葉を詰まらせた。私の言葉に戸惑った訳ではない、ただ何かを言い淀んでいるようだった。
「何か、言いたい事があるなら言って」
そう促すと、彼はゆっくりと姿を変える。長く黒い髪をさらりと揺らして立ち上がった彼の口は、三日月ではなかった。
「彼奴に尋ねてみれば良いんだ、何故嘘を吐いたのか。どうして……猫のふりをしたのか」
「理由があるの。貴方はそれを知っているのね」
彼は答えなかった。ただ黄色く丸い目だけを光らせて、じっと私を見つめる。その視線は鋭く、彼の心の内が見えるようだった。
「教えてやらない。俺はお前が……嫌いだ」
やっぱり、そう素直に思った。揶揄する様な口調にも鋭く光る目にも、彼のその感情は隠されていなかった。
「でも貴方には何か考えがあった。だからこうして、私を訪ねて来たのでしょう」
少しだけ彼が感情を表した事で、私にも余裕が生まれる。彼の真意を確かめたい、と思ってしまったのだ。
何故私を知っているのか。
何故私に死を促すのか。
だがいつの間にか、彼の口元には最初と同じ白い三日月が張り付いていた。こうなってしまってはきっと、彼から答えを窺う事はできないだろう。
「だから、教えてやらねえ」
やはり彼はそう言って再び黒猫に姿を変えると、破れた障子の穴から飛び出していった。三寸ほどの小さな穴も、しなやかな身体をもつ猫には充分な出入り口だったようだ。
音もなく、まるで幻だったかのように彼は消えてしまった。
長い長い間一度たりとも揺るがなかったタマの言葉に、一点の『嘘』という染みを残して。
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タマの顔をどんな表情で見ればいいだろう。そんな心配は無意味だった。
何故ならタマが、部屋に帰るなりすぐに叫ぶように言ったから。
「あいつはどこ」
「あいつって?」
とぼけるような返答をしてしまったのは、あまりにもタマが焦っていた所為だ。いつも飄々とした様子の彼は、あまり怒りや焦りといった激しい感情を表に出さない。言葉に詰まってしまうのは致し方なかった。
本当ならすぐにでも部屋に来た黒猫について話をしたかったのに。
タマも私の反応が予想外だったらしい、少しだけ眉根を寄せて、それでも有無を言わさず硬い声で言う。
「とぼけなくていいよ。あいつが来たのは分かっているんだから」
「黒猫の、妖ね」
「何か聞いたの」
タマの声が緊張の為か一際高くなる。
何を聞いたら都合が悪いの。今まで一度も彼を疑う言葉など浮かんだ事はないのに、ふと口をついて出かけたのは彼の嘘を責める言葉だった。
彼が何の妖でも、然したる問題ではない筈だ。だからタマの嘘を私は問い詰める気はなかった、のに。
「やっぱり、何か聞いたんだね」
彼は気付いてしまった。いつもの表情で何もなかった、と告げられなかった私を見て、彼のついた嘘を知った事に。
「ええ。貴方を……私を知っているようだった」
ふう、とタマが腰を下ろしながら息を吐く。ちらっと彼を窺うと、彼の赤い瞳にはぐらぐらと怒りの感情が見え隠れしていた。
その表情のまま先を促すように彼が頷いたから、私は俯きながら彼の嘘を告げる。重い口を開きながら、タマの顔は見られなかった。
「タマは……何の妖なの」
淀んだ座敷牢の中の空気が、ひやりと冷えた気がした。
タマは私の全てだった。その彼の嘘を暴く事が、とても酷い事のように思えた。
だが彼の口から出された言葉と声は、いつもの──いや、いつも以上に優しげなものだった。
「もう紫に嘘はつかないよ」
はた、と顔を上げる。彼の柔らかい手が私の長く黒い髪を一束すくっていった。
「誓うよ。これから先、何があろうと僕は紫に嘘はつかない。だからお願い、僕をおいていかないで」
最初から責める気はなかった。彼が吐いたのは小さな小さな嘘だ。だが彼は重罪を犯した罪人のように私に許しを請い、縋っている。
座敷牢に囚われた私よりもタマの方が囚われているみたいだ。そう思ってしまって、思わず私はタマの頭をかき抱いた。
「信じているわ、最初から。貴方は私の全てだもの」
彼の頭に鼻先を埋めれば、鼠色の柔らかな毛束が頬をくすぐった。
タマが大切だ。彼をおいていかない。
今一度覚悟を決めた私の胸の中で眼を閉じているタマは、何故か未だ辛そうだった。
そうして夜明けを迎えようとした時だった。
タマの髪を撫でながら微睡みかけていた私の腕を、彼が掴んだのだ。
「タマ?」
「やっぱり、伝えておくよ。僕が何の妖か」
気にならない訳ではなかったが、もう過ぎた話の筈だ。今再びタマが嘘をついた事実を蒸し返したくはない気がした。
「もういいのよ」
「いや、あいつの口から聞かれるのは嫌だ。自分で説明しておきたいんだ」
そう言って、タマは徐ろに腰を上げる。そしてゆらりと、僅かな風をおこして獣の姿へと変わった。
やはり黒猫の彼とは全然違っている。大きな涅色の尻尾も、目の周りの毛色も、鼻から尾にかけての鼠色の毛並みも何もかもが猫の彼とは似つかなかい。
小さく頷いてタマの言葉を待つ。暫しの沈黙の後、タマはくーん、と一声鳴いてゆっくりと話し始めた。
「僕は、狸なんだ。『風狸』という妖だ」
「風狸?」
聞きなれない名前に、おうむ返しに尋ねると彼はこくりと尖った鼻先を振って頷いた。
「風を操る狸だと思ってもらっていい」
「狸、だったのね」
類に洩れず、私は狸も見た事はなかった。だから彼が狸だと聞かされても、あまりピンとはこない。
やはりふつふつと湧き上がるのは、純粋な疑問だった。
「何故、猫だと言ったの」
するとタマは、少しだけ困ったように俯く仕草をして見せる。言い辛い事があるのかも知れない、それを暴く気はなかった。
だが彼は意を決したように首を持ち上げて、真っ直ぐ私の目を見つめる。赤い眼が真剣な光を帯びていた。
「風狸はね、死ねないんだ。斬られても撃たれても、口に風を当てると直ぐに生き返る事が出来る」
「そうなの……」
妖の中にも、強いものと弱いものがあるのだろう。そしてタマは死なない、といった意味でとても強いのだ。だがそれは良い事だ、嘘をつく要因にはなり得ない気がした。
タマは更に言葉を続ける。それが一番大切な事だと、声色を聞けば直ぐに分かった。
「唯一、風狸を殺せる方法があるんだ。それはね──」
口を菖蒲でふさぐ事なんだ、と彼は言った。小さな、でも覚悟のこもった重い声で。
それで分かってしまった。彼が嘘をついたのは、私の為でもあったのだ。
「菖蒲で口を……」
そう言いながら自分の口を押さえる。そこが切なく痛んだ。
「だから嘘を、ついたのね」
私はタマに触れられない。私が彼の口を塞げば、彼は死んでしまうのだから。
花菖蒲に身をやつす地縛霊だから。
タマは小さく頷く。その赤い目は伏せられて、見る事が出来なかった。