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格子の向こうの花菖蒲  作者:
花の章
4/14

「え? 怒鳴り声?」


 次の夜、部屋にやって来たタマに夜明け前の一件を告げると彼はぎゅっと眉をひそめていた。その表情があの、書架を睨んでいた時の目と同じで、一瞬口を閉じかける。

「幻聴じゃないの? 此処に人は住んでいない筈だよ」

 だが次の瞬間タマは笑い飛ばすように顔を緩ませたから、ほっとして私も小さく笑う。

「そ、そうよね。でも私が言いたいのはそうではなくて……」

「何か、まだ気になるの?」

「ヒトとは限らないんじゃないかしら。もしかしたら近くに、何か別の妖が……」


 いたりしないかしら、そんな私の言葉が最後まで紡げなかったのは無理ない事だと思う。何故ならタマが、いつも笑っているタマが、とても驚いたように目を剥いたから。

 でも自分の発言を思い返してみても失言は思い当たらない。

「タマ? 私何か変な事を言ったかしら」

「……いいや。そうだね、もし紫が気になるなら僕が見て来るよ」

 自分のおかしな態度を誤魔化すように、タマはわざとらしく明るい声でそう言った。少し引っかかりはしたけれど、私にとっては幻の声の方が気になって仕方がない。

 ありがとうと頷くと、タマはくるりとその場で回って、一瞬で青年から茶色の毛むくじゃらへと姿を変えた。

 大きな涅色の尻尾がころんと床に引き摺る様にぶら下がっていて、全身の茶色の毛並みの中に鼻から尾にかけて一筋の鼠色の毛が生えていた。そして目の周りと足先の毛だけが僅かに黒い。

「貴方のその姿を見るのは久しぶりの気がするわ」

 獣姿のタマに手が届くよう屈んで鼠色の毛並みを撫でれば、タマは鼻をすんすんと揺らす。でも次の瞬間には、僅かな空気の揺らぎだけを残して姿を消していた。


「タマ……」

 小さく呟いた声が座敷牢の様な部屋に響く。

 何もいない筈だ、だって気の遠くなる程の長い時間をこの部屋で過ごしてきた。だが一度たりともタマ以外が部屋に近付いた事はなかった。だからあんな恐ろしい声を出すモノが近付く筈がないのだ。

 そう自分に言い聞かせるが一人きりになった部屋は思った以上に心細くて、両の手を擦り合わせる。落ち着かなくて、部屋をうろうろしてみたり立ったり座ったりしてみるけれど、不安が増すだけだった。

 唯一の窓である破れた格子からは薄く月の光がさしている。私は思わず格子の向こうを覗き込んだ。もう間も無くタマが帰って来るような気がしたから。


 先程も言った様に、一度たりともタマ以外が部屋に近付いた事はなかった。気の遠くなる程の長い長い時間を一度も。

 ならば今、私の目に映るものは何なのだろう。

 薄闇に浮かぶのは黄色く光るぎょくの様な両の眼だ。そして仰ぐ三日月を思わす白いもの、それは端が裂けんばかりに吊り上がった口だった。


 悲鳴は声にならなかった。ただ吸い込んだ息が胸を刺して思わず咳き込む。苦しさに一瞬目を伏せ、そして再び目を遣った次には。

 黄色く光る玉の眼と三日月の口は消えていた。音もなく、ほんの一瞬の間にだ。

「何なの」

 掠れるような震え声だが、声に出すと少し落ち着いたらしい。痛む胸を押さえて立ち上がると、ふわりと緩やかな風が舞い込んできた。


「タマ!」

 風から姿を変えるなり飛び付いた私に彼も驚いたらしい。少し上体を仰け反らせながら、でもすぐに私の身体に腕を回してくれる。

「大丈夫だよ紫、今この辺りを見てきたから。何もいなかったよ、だから安心して」

 宥めるように指先で背中を叩いてくれるタマの胸に頬を擦り付け、頭を振りながら全身で訴える。

「違うのタマ! 今、外に何か!」

 思わぬ言葉だったのだろう、頭上で小さくタマの息をのむ音がした。そして次の瞬間に彼は私を抱きしめたまま、格子から外を覗き見る。

「もう消えたわ、僅かの間の事だもの」

「何がいたか、見た?」

 彼もまた今までにない事に戸惑っているのだろう、心なしか硬い声でそう尋ねてきた。

 だが残念ながら私は姿を見ていない。見えたのは恐ろしい程に光を放つ眼と笑う口だけだ。ゆっくりと頭を振ると、タマは少し安心したように息を吐いた。

「なら気にしなくていいよ。僕が見つけておくから」


 見つけてどうするの、と聞く気もなかった。

 いくら私が無知とはいえ、稀にタマの風に混じる血の匂いには気付いていた。ずっとタマは私の部屋に近付く妖を消しているのだ。でなければ長い年月を近付く者なく過ごせようがない。

 そして今回もそうするのだろうと理解した私は、頷く事も出来ず目を伏せた。

「妖、なのかしら」

「どうして?」

「だって」

 私はヒトを見た事がない。ヒト型とはいえ、タマの姿はヒトとは違う。昔にタマが私はヒトの姿をしていると言っていたけれど、自分で自分の姿を見る事も出来なかった。

「見えたのは、黄色く光る眼と笑う口だけだったから」


 だからあれがヒトだったのかも知れない。そう言いかけて、やめた。

「タマ……?」

 逆立った鼠色の毛、目を大きく剥いてタマは小さくギリ、と鋭い牙を見せて鳴らす。今はヒト型の彼だが、その姿は今まで見た事のないものだった。

 思わずゆっくりと一歩後ずさると、彼は私を抱いていた腕を解いて姿を変える。大きな黒い尻尾の毛むくじゃらへと。

「紫、ここにいて。絶対に外を見ないで」

 それだけ言い残して、タマは破れた格子の隙間から外へと飛び出して行った。


□□□□


 タマが飛び出してから、僅かの事だった。

 一人でいる心細さに耐え切れず、なんとか眠ろうと身体を倒して目を閉じていたのだ。


「彼奴は行ったのか」


 そんな私に降りかかったのは、タマとは違う男の低い声だった。

 飛び起きて悲鳴を上げようと開いた口を、その者ががしりと押さえつける。長い黒い髪と身体を覆う黒装束が薄闇の中に溶けて、目だけがらんらんとして浮かんでいた。

「黙れよ、そんなに殺し合いをさせたいのか」

そう言って私を押さえつける彼の眼は、玉のように黄色く光っている。そして面白くもないのに口の端をいっぱいに持ち上げて笑っていた。

「黙るな? 悲鳴なんざ出してみろ、喉を掻き切るぞ」

 初めて向けられた悪意のこもった言葉に身体はかたかたと震え、考える間もなく私は首を縦に振っていた。

 すると彼は一層笑みを深くして口を押さえていた手を離すと、ゆっくりと後ろに一歩下がった。そして解放された安堵に息を吐いてその場にうずくまる私を見て、小さく鼻で笑う。


「貴方は、誰」

 喉を掻き切られないように小さく尋ねると、彼はまたニタリと笑う。光を受けて彼の口がまた三日月の様に白く浮かんだ。

「さてねえ、俺の名前は誰かに取られた様だし、あんたの好きに呼ぶがいいさ」

「取られた?」

 名前を取られたなんて変な話だが、もしかするとそういった妖もいるのかも知れない。ならば彼もまた可哀想な者なのだろうか。

「そうなの、気の毒だわ」

 小さく言えば、彼の黄色く丸い目が一層丸く剥かれた。そして再び小さく鼻で笑う。憐れむような嘲笑うような、そんな笑いだった。

「あんたに同情されるとはな」


 まるで既知の様な言葉遣いに、尤もな疑問が首をもたげる。その好奇心を抑えきれず、私はまた口を開いた。

「私を、知っているの」

 彼はまた、笑う。

 タマと違って彼の笑みは酷く不快だ、馬鹿にされているような気がする。

「何かおかしな事を言ったかしら」

「いいや、純粋培養だなと思っただけさ」

 浮かんだ三日月の口が彼の身体に合わせて小さく揺れた。

 意味のわからない言葉ばかり投げられて、少し私も苛立ってきた。

 だってタマはこんな物言いをしない。何も知らない、知る事の出来ない私に優しく教えてくれる。それを揶揄された様に感じてしまったのだ。


「だから、貴方は何者なの。何の用があって此処へ来たというの」

 半ば叫んだような私の言葉に、彼は右手をついと私に向けた。指先には掻き切る、その言葉に釣り合う長く鋭い爪が月明かりにキラリと光っている。

「喉を掻き切る気?」

 震えた声で、でも強気にそう言うと、彼は初めて声を上げて笑った。三日月の口が赤く歪む。

「端緒をやろうか」

 彼はそう言って徐ろに姿を変える。黄色の両の眼、三日月に笑う口はそのままに。

 薄闇の中にぼんやりと佇むのは黒い尻尾の毛むくじゃら、だがタマのそれとは全く違う。すらりと長い二本の尻尾、ピンと立った黒い耳、しなやかな体躯。そして、


「にゃあ」


と、彼は鳴いた。


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