弐
ゆらり、今日も小さな風に身を揺すられて私は目を覚ます。視界に映るのは、いつもと同じ、ひと枠だけ穴を開けた障子戸だけ。また代わり映えのしない一日が始まるのだ。
私を起こした彼に目を遣ると、彼の柴染の髪がぺたりと顔に張り付いている。その先から小さく、雫が垂れた。
「雨が降っているのね」
タマの頬に手を伸ばして、濡れた髪を掻き分けてやる。とんと忘れていた水の感触が指に触れた。
「雨は嫌いだよ。唯一僕の足留めをする」
「猫は雨が嫌いだものね、でしょう?」
自分の纏う白い襦袢の袖で彼の顔を拭うと、彼は赤い目を細めて気持ち良さそうに唇をゆるりと曲げた。
猫は雨が嫌い、それもいつだったか読んだ書物から得た情報だ。得意げに話してみたが、少し間違っていたのかも知れない。タマは小さく笑うだけだったから。
「私は雨、好きよ」
誤魔化すように口を尖らせると、タマは笑って頭を撫でてくれた。
雨は好き、夕暮れにならないから。──いつもと違う景色が見れるから。
障子穴から見る雨の景色は、まるで別世界だった。
岩は濡れててらてらと光っている。水溜りができてどろりと濁った水が跳ねている。濡れた岩はどんな感触なのか、濁った水はどんな手触りなのか、私にはわからない事だらけだ。
「出てみたいわ、触れてみたい」
知らない事に。タマだけが知る世界に。
言ってしまってから、はたと気付いた。思わず口走った言葉は、地縛霊の付喪神ならば絶対に言わない事だ。
舌を出して少しだけ肩を竦めると、タマはもう一度だけ頭を撫でて小さく言った。
「出たい、の?」
彼の声は少しだけ不満そうで、何故か否定しなくてはならない気がした。でも彼の赤い目が少しの揺らぎを含んでいて、私は口を噤む。
怒っている、のかも知れない。
「ご、ごめんなさい。そうではないの。ただ……」
「ただ?」
「雨に、触れてみたくて」
嘘ではない誤魔化しを告げる。障子穴を覗けば、糸雨の壁を打つ音が耳をくすぐった。
「触れてみたいわ。痛くないのかしら」
「触れてみればいいよ」
タマは自分の袖でごしごしと顔を擦りながら、顔を障子へ向ける。その目が見つめるのは三寸ほどの障子穴。
「手を伸ばすの? 此処から?」
信じられない思いで尋ねれば、タマはまだごしごしと顔を擦りながらこくりと頷いた。
「触れる、かしら」
「やってみなよ」
恐る恐る、障子穴から手を伸ばす。三寸ほどの穴は私の腕には小さいけれど、妖である私には穴の大きさなど関係なかった。ただ気持ちの問題で、破らないように慎重に肘の上まで手を通す。
「涼しい、けれど触れないわ。なんだかひやっとするだけ」
軒が邪魔をしているのだろう、腕を伸ばしたくらいでは外に手は届かない。口を尖らせながら後ろを振り返る。悪戯っぽく笑うタマを想像しながら。でも。
「……タマ?」
タマは居なかった。いつのまに、消えたのだろう。
慌てて手を引っ込めようとした私の指を、突然ひやりと風が撫でた。そして次の瞬間、ざあっと音がしたかと思うと指先が柔く冷たい感触に触れる。
思わず手を引くと、障子穴から中を覗くタマの赤い瞳と目が合った。
「驚いた、貴方いつの間に」
「触れたでしょう?」
赤い目が嬉しそうに細くなる。指先を見れば、小さな雫が手の甲に向かって筋を作って垂れた。
「触れたわ」
一瞬でも、外の世界に。少しでも、タマの世界に。
「タマのお陰ね。ありがとう」
私に雨を触れさせる、それだけの為にタマは再び外に出てくれた。さっきよりももっとびしょ濡れになりながら。だから嬉しいと、心から伝えたつもりなのに、タマは何故か赤い目を伏せて小さく零す。
「外に出たい、なんて言わないでよ」
タマの声が寂しそうで辛そうで震えていたから、私は思わずタマの首を掻き抱いた。纏う薄い襦袢がタマの雫を受けて肌に張り付く。
「言わないわ。タマがこうして教えてくれるもの」
雨が冷たい、とか外に咲く花の香りとか、光る虫の存在とか。全てはタマが教えてくれた。だから彼が居てくれたならば私は何も要らない。
どうせ、出られないのだから。
「貴方を悲しませたくないわ」
彼の耳元で呟いた私の声も震えていたかも知れない。タマが辛いのなら私も辛いから。
タマはこくん、と頷くと私の背に腕を回した。冷たい冷たい彼の身体が震えていて、何とか落ち着いて欲しいと私は彼の鼠色の毛束に手を伸ばして撫でていた。
□□□□
やがて雨が上がり、朝が来た。いつしか濡れて冷たくなっていたタマの髪も乾き、彼は風に姿を変え部屋を出て行く。
いつも繰り返すその一連だからこそ、いつもとの僅かな違いを私は感じ取ったのだと思う。
ちらりとほんの一瞬、タマは私の背の向こうに視線を遣ったのだ。忌むものを見るような僅かな憎悪の色を込めて。
ぶわりと風が出て行った後、背の後ろを振り返ってみたけれど何もなかった。ただ書架に書物が何冊か立てられているだけだ。それもその書物は、退屈していた私の為にタマが持って来てくれたものだった、筈。
一冊を手にとって頁をめくってみるが、特段変わったものでもない。ただの物語りだ。
首を傾げながら書をしまい、彼が出て行った障子穴に歩み寄り外を窺う。勿論既にタマの姿はない。
ただ雨上がりの土臭い匂いと朝の靄の湿っぽさが鼻をくすぐって、私は思わず障子穴に手を挿し入れた。
今はタマがいない。だから私の手に触れるものは何もないのだ。
「私ったら……」
自分の行動が可笑しくて、忍び笑いを漏らしながら腕を引こうとした、瞬間。
『何をやっているのだ!』
響いた怒号に、心の臓が口から飛び出す心地がする。無意識に頭を抱えてうずくまるけれど、その後に何の音も声も続かない。
徐に頭を上げ、胸を押さえてゆっくり振り返る、が。
「……誰、なの」
薄暗い四畳半の座敷牢には、誰の姿もない。タマの姿さえ。
「タマ……?」
小さく尋ねるが、違うと分かっている。彼は絶対にあんな恐ろしい声で怒鳴ったりしない。
きっと幻聴なのだ、と自分に言い聞かせ、落ち着かせるのだが何故か身体は震えだし落ち着くどころの話ではない。
「タマ、タマ……」
縋るように彼の名を呼びながら、私は無理矢理に目を瞑った。眠ってしまえば良い、そうすれば直ぐに黄昏になって彼が来てくれる。
震える身体をぎゅっと抱きしめ、目をきつく閉じて、私はなかなか来ない微睡みを待った。