壱
破れた障子の隙間から、赤い西日が差す。無人の部屋の傷んでささくれ立った畳に小さく一筋の道を作って。
その破れた障子の隙間から、僅かな音を立てて風が吹き込んだ。柔らかな風はゆっくりと、床の間に飾られた一輪の花菖蒲を揺らす。
暮れ六つや誰そ彼時。
それはヒトならざる者たちの目覚めの時間。
柔らかな風に揺らされて、私もゆっくりと目蓋を持ち上げた。そうすれば四畳半の小さな部屋の真ん中に座している。
夕日に照らされて赤く染まる障子に目を遣って、一度だけ深呼吸すれば、寝起きにぼんやりしていた頭が少しだけすっきりした。
ゆっくりと床の間を見遣ると、先程まで小さな一輪挿しに生けてあった花菖蒲の姿はなく、代わりにいたのは。
「タマ……」
呼びかけた声は起きがけの為に掠れ、だが狭い部屋に小さく響く。呼びかけられた彼──タマはぴくぴくと耳を動かして笑っていた。
空の一輪挿しを突く指も、気怠そうに組む足も、悪戯っぽく笑う顔も、ヒトと変わらないのに、彼の耳は頭の天辺で茶色い毛に覆われてぴんと立っている。そして細められた目は夕日の色よりも赤く光っていた。
彼もまた、ヒトではないのだ。
「お早う、紫」
悪戯っぽく笑う彼に、私はちらと視線をやって頬を膨らませた。
「いつも言っているでしょう。私夕暮れが嫌いなの。起こすならもっと日が暮れてからにしてって」
そんな私の苦情にも、タマは可笑しそうに笑んで髪を揺らすだけ。ちらりと夕日を受けて、彼の髪が赤鈍く光った。
彼の毛並みは独特だ。柴染の髪の中に、一筋鼠色の毛束がある。そこの毛だけが妙に柔らかくて、私はそれを撫でるのが好きだった。
「紫? 怒った?」
いつの間にかタマが私の顔を覗き込んでいる。少し面食らって、身体を仰け反らせるとタマはまた笑った。
怒った、なんて尋ねる癖にタマは笑っている。そう、彼はいつでも笑っていた。何故かとても楽しそうに。
「怒ってなんかいないわ」
それが私にはありがたい。彼は私の世界、全てだから。
私は所謂、地縛霊というものらしい。何故かこの場所に囚われ、動けないでいる。そしてその魂を思い入れのある『花菖蒲』にやつし、妖として存在しているのだという。
何も知らない私に、そう説明してくれたのはタマだった。彼は妖として生まれたばかりの私の面倒を見てくれている。
タマは名前が表す通り、猫の妖らしい。何か教えられた所で私は妖の知識を持たないから、よく分からないのだけれど。
顔を覗き込むタマににっこりと笑いかけて、彼の鼠色の毛束を指で掬った。柔らかい髪が指の間を撫でて落ちてゆく。少しだけくすぐったい。タマは気持ち良さそうに赤い目を細めてされるがままになっていた。
やがて日が沈む。赤い光が差し込んでいた部屋はいつしか、濃藍の闇に閉ざされた。唯一破れた障子の一枠から薄っすらと月の光が差す。
そうしても私はずっとタマの髪を撫で続けていた。いいえ、月が沈み朝日が顔を出すまでずっと、私はこうし続けるのだ。障子の一枠から覗く外の景色を見ながら、ただ畳の上に座して。
「退屈ではない? タマ」
貴方まで私に付き合う必要はないのよ。一日に一度は尋ねるその言葉に、タマは少しだけ顔を上げて笑って見せた。
部屋に囚われ縛られた私と違い、タマは外に出られる。風となって外を駆け、様々なものに触れる事が出来る。
それが少しだけ、羨ましく寂しい。私の世界の全てはタマなのに、タマの世界の全ては私ではない事が。
「紫が此処にいるから、いいよ」
目を細めながら、タマは言う。少しだけ窺う様な表情で。
私は書物を読んだから知っている。猫は放浪家で気紛れなのだという。タマも猫の妖だから、もしかしたら外に出て歩き回りたいかも知れない。
「そう……」
でもそれを突いてしまったら、きっとタマはもうこうして時間を共にしてくれなくなる。気が遠くなる程の時間を私は一人で過ごさなくてはならない。座敷牢の中で一人無為に時間を過ごして、いつしか朽ちてゆく。誰にも知られず。そうなる事が何より恐ろしい。
さら、さら。彼の鼠色の毛束が月光を受けて白く光った。
「外に、出たいの?」
ずっと黙って頭を撫でられていたタマが、小さくそう言った。赤い目はこちらを向いてはいない。
「どうして?」
「出たいのなら、出てみる?」
一瞬だけ、言葉に詰まった。
だって想像してしまった。月の下をタマと手を取り合って歩く、自分の姿を。なんて素敵なのだろう。
でもそれが不可能な事くらい、私にだって分かっている。だから、
「地縛霊の付喪神を連れ回すなんて、常識はずれよ」
と笑い飛ばしてやるのだ。そうすれば、タマは私の顔を見ないまま同意する。
「そうだね。おかしな事を言ったね僕は」
「本当よ、おかしなタマ」
おかしくなんて、ない。それが実は何よりの願いだ。私もタマの見える世界を、少しでも見てみたい。
でも叶わない。
「心配いらないよ、紫。僕は君の傍にいてあげる。君が枯れて朽ちるまで、離れてあげないよ。だから出られなくても、不安にならないで」
「熱烈だわ」
嬉しいくせに素っ気なく一言で返せば、タマは全部分かっているみたいに目を細めた。
こうして私の日々は過ぎてゆく。狭い座敷牢の中で。ただ一つ、タマという存在に依存しながら。
ヒトには考えられぬ程の長い時を過ごすのだ。
「少しだけ早いけど、眠ろうか」
うとうとと微睡みかけた事に気付いたのか、タマがゆっくりと身体を起こした。膝に置いてあったタマの頭の重みと温もりが離れ、寂しさを手でさすって誤魔化す。
ぼんやりと障子の穴に目を遣ると、少しだけ白い色が射し込んでいる。日の出の刻だ。
「ええ、おやすみなさい。タマ」
「おやすみ、紫」
小さく挨拶を交わして、タマは地面を蹴った。そこに小さな旋風が生まれて、タマは身を消す。風に姿を変えたタマは、一度だけ私の髪を掬って障子の穴から外へと吹き出していった。
後に残るのは無音。と鼠色の毛が数本。いつもの彼の置き土産だ。
「寂しくないわ」
指先でそれを掬って、私も目を閉じる。ぼんやりとした微睡みは、いつしか私の意識を底まで沈めていった。
やがて障子の穴から射す光は、日の色を帯びてゆく。誰もいなくなった部屋──いや、最初から誰一人居なかった部屋。
朽ちかけた床の間には一輪挿し。そして草臥れた部屋に不釣り合いな程に鮮やかな青紫の花菖蒲があった。