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格子の向こうの花菖蒲  作者:
風の章
14/14

 紫はもうきっと、命の終わりを迎えたのだろう。

 衣擦れの音も呼吸の音すらしなくなった庵の前で、僕は立ち尽くしていた。

 彼女の死から逃げ出してもう数日。しでかしてしまった事の結果を認めるのが怖くて、僕はまだ一度も庵の中を確かめられないでいる。

 だってもし彼女が妖になれていなかったら、この庵の中でひとり、今も取り残されている事になる。死してもまだ庵の中でひとりぼっちだなんて、そんな事は許されない。

 彼女に残酷な死を与えた、僕が言えることではないけれど。


 でももしかしたら。戸を開いたら彼女は待っているかも知れない。毎夜婚約者を待っていた時のように、真正面に戸を見つめて。

 待たせていたとしたら、早く行ってあげなくては。待つのはとてつもなく長く感じるから。

 僕は重い足を引きずって庵の戸の前まで向かった。


 黒く黴びた花菖蒲の絨毯を跨いで、庵の戸に手をかける。

 ──お待ちしておりました──

 そう言ってこちらを向いて笑う彼女の姿を思い出して、僕はまた手を引っ込める。やっぱり現実を認めてしまうのが怖くて。



 そんな心の葛藤を破ったのは、ある一つの物音だった。

 ちりん。小さく硝子が鳴る音が響く。


 風では鳴るはずのない、音。何かが庵の中で動いた音だ。


「……紫?」

 思わず、声を掛けてしまったが、当然返事はない。

 でも確かに何かが、部屋の中にある筈だ。そう思ってしまえば一瞬だった。

 がらりと音を立てて、庵の戸を開く。勢いよく飛び込んだ部屋の中には、何もなかった。所々に血の跡が残る、死臭が漂う部屋。だがそこに彼女の姿はなかったのだ。


 ただひとつ。硝子の音の元だけが、僕の知らない部屋の異変として残されていた。

 ある筈のない、瑞々しい花菖蒲。それは風に揺れて、小さな一輪挿しを撫でて音を立てた。


 死を覚悟して寂しさに耐えて、それでも命の際に泣き叫んだ紫。彼女はやはり待ち続けていた。

 訪れることのない婚約者の来訪を。

 そしてこの世の未練として残し、花菖蒲となって留まったのだ。


 ぽろりと涙が落ちた。安堵ゆえか罪悪感からか、それは分からないけれど。

 薄墨を塗ったくったような、死の世界に片足を突っ込んだようなこの部屋で、一輪だけ色鮮やかに咲く花菖蒲が悲しくて。

 顔を覆って、止め処なく溢れる涙を堪えていたら、ふわりと花の匂いが鼻を掠めた。


「……泣いているの」


 掛けられた声に驚いて顔を上げると、突然目の前に戸を背にした後ろ姿が現れていた。

 黒く長い濡羽の髪を背に流して、障子をじっと見つめている。


「……私もね、涙が止まらないの」


 恐る恐る正面に回って顔を覗き込めば、大きな瞳を濡れさせて格子を見つめ続けていた。

 ──紫だ。

 僕が知る彼女の顔より幾分か肌の色も良く、唇も頬もほのかに色づいている。白い襦袢の袖からは、白く細い腕が覗いていた。


「どうして」


 どうして泣いているの。そう尋ねると、彼女はゆっくりと首を振った。


「分からないの。なにも」


 生まれおちた(・・・・・・)ばかりの彼女には、恐らく生前の記憶はないのだろう。だからきっと、僕のことも分からない。死に囚われて、ただひたすらに外に焦がれて泣くことも、もうない。

 紫は今やっと、自由になったのだ。

 そう思うと不安や罪悪感といった胸のつかえが取れたようで、代わりにただただ彼女を愛おしいと思う気持ちだけが溢れだした。

 言葉に出来ないそれは、ただ頬を伝って垂れてゆく。


「あなたは、私を知っているの」


 ゆっくりと、彼女が僕に目を移す。涙で濡れた瞳はきらきらと、何かを期待するように輝いていた。


「知っているよ」


 答えれば、更に彼女の瞳が色付く。反対に僕の涙は溢れて止まらない。

 恐る恐る手を伸ばして彼女の髪を撫でれば、紫は小さく身体を強ばらせ、それでも拒みはしなかった。


 やはり僕と彼女が今まで過ごしてきた時間は、彼女の中には残っていない。でもそれがどうした。

 彼女はもう何に怯えることもないし、僕は僕として彼女に接することができる。マガイモノの名前で呼ばれることも、正体を間違えられることもないのだ。

 きっとこの先、紫は僕と共にあってくれるはずだ。

 そうすれば、僕らは正しい時間をやり直すことが出来るのだから。気の遠くなる程の長い長い時間を。


 抱きしめたい気持ちを抑えて、彼女の手を取る。彼女は戸惑いながらもなされるがままだ。

「君は、外に出たいでしょう?」

 にっこりと笑って軽く手を引く。逸る気持ちを抑えながら、僕は彼女の顔を覗き込んだ。

 外に出ればしたい事が山ほどあるんだ。先ずは綺麗な花畑を。僕が紫を想って摘んでいた、あの花が根付いているのを真っ先に見せたいんだ。

 でも彼女の手が力を無くしたように、僕の手の中をすり抜けていった。驚いて顔を見ると、紫の目は焦点の合わない所をぼうっと見ているだけだった。

「いいえ」

 そして信じられない彼女の返事。あれほど外に焦がれて泣いていたのに。あれほど辛いと訴えていたのに。

 もう外に出られるのに。どうして。



「……何故?」

「私、此処で待っていなければ」

 そう言って彼女は小首を傾げる。そして自分の言葉に自分で問い掛けるのだ。

「……誰をかしら」


 失敗したのだ、とすぐに分かった。

 彼女が思い残したのは、決して婚約者の存在ではなかった。それよりもずっとずっと強い念いを残してしまったのだ。

 ──この場所で、待つことに。


「……ここにいたいんだね」

 そう問い掛けると、彼女はゆっくりと頷いた。小さな声で、何故だか分からないけれど、と口にして。

 正直なところ、僕は彼女が妖となりさえすれば何だってよかった。彼女の無念が幻の婚約者であったって、孤独死の寂しさだったって、なんだって。それが例え彼女が永遠に外に出られないことだって、いい。

 だって彼女はここにいて、僕は今面と向かって触れられるのだから。


 彼女の隣に腰を下ろして、嵌め殺しの格子に目を向ける。彼女の死を目の当たりにした時に開けた、障子の穴から薄く月光が差していた。


「それが、どれだけ長い時間でも?」

 妖となる程の強い思いが、そう簡単に昇華するとは思えない。ならばきっと、彼女はここで生き続ける。この部屋から出ない限りの、妖が生きる長い長い時間を。

 彼女がまた小さくこくんと頷いたのを、横目で見て僕はゆっくり口を曲げて笑った。

「じゃあ僕も、君といるよ」

 その為に、僕は手を汚したのだから。

 三人の人間の命を奪い、生前囚われていたこの部屋に再び彼女を縛りつける死に方を与えたのだから。

 何も知らない彼女は初めて、僕という存在を疑問に思ったらしい。涙に濡れた目をいっぱいに開いて、暫く僕を見つめていた。

「あなたは、誰なの?」

 小さく不安げに尋ねた彼女にゆっくりと手を伸ばして、また彼女の髪を一房手に取る。何の隔たりもない彼女との触れ合いに、胸がぎゅっと切なくなったけど、堪えて僕は笑った。

 そして答えるのだ。


「僕は、タマ。ただの猫だよ」

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