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格子の向こうの花菖蒲  作者:
風の章
13/14

 その日も僕は正面の戸から彼女の部屋を訪ねていた。手元には、あれから欠かさず彼女に贈り続けている花菖蒲を携えて。

 もう少しで花菖蒲の季節が終わってしまう。そうしたら、何を贈ればいいだろう。彼女との繋がりは花菖蒲が良いから、別の花をという訳にもいかない。

 そんな事を考えながら、彼女の部屋の戸をゆっくり開く。


 僕を心待ちにしている彼女は、いつも正面戸に顔を向けて待っていた。

 だがこの日初めて、彼女は僕の来訪に布団に横になったまま顔を上げていなかった。期待に満ちていた筈の大きな瞳は半分閉じられて、意識があるのか無いのかさえはっきりしない。

 驚いて駆け寄り彼女の傍に膝をつく。すると彼女が唇を震わせながら、ゆっくり手を差し出してきた。

「……お待ちしておりました」

 かさかさに割れた唇で掠れたようにそう口にして、彼女は小さく笑った。


 話すことすらもう、厳しくなっているのだろう。それだけの言葉を話すだけで大きく息を吐いて眉宇を寄せた彼女は、目蓋を閉じて苦しさに耐えているようだった。

 もう時間がないと分かった。誰も世話をしなくなった彼女の部屋は血の匂いが充満して、ところどころに喀血の跡が見られる。まさに死の足音の感じる部屋だった。

 彼女の終の瞬間が間もなくなら、僕にはしなくてはいけないことがある。


「すみません、遅くなってしまって。

 ほら、今日もお持ちしましたよ」

 そう声を掛けて、僕はいつもの一輪挿しに花菖蒲をいける。取り除いた方の花菖蒲もまだまだ色鮮やかで、僕はそれを見ながら震える口を開いた。


 僕は今から、ひどく残酷なことを彼女に告げる。

 ただひとえに僕の利己的な願いのために、彼女がずっとずっと以前から願っていたただ一つの事を拒むのだ。

 彼女に、僕という──いや、婚約者という未練を残してもらうために。


 妖となってもらうために。


「明日より暫く、此処には来られません」

 堪えたけれど、声が震える。彼女の父親たちを殺したときにすら覚えたことのない、とてつもない罪悪感が涙となって溢れて、彼女の顔を見られなかった。

 自分のものとは思えぬほど震える指が、いけてあった花菖蒲をぎゅっと掴んで、その花は苦しげに萎れていった。うなだれた花弁にぽたりと涙が落ちる。

「……泣かないで」

 僅かな身動ぎの後、彼女が苦しそうに口を開いた。

 驚いて振り返ると、彼女は穏やかに笑っていた。

「……泣かないで下さい。二度と来てくれないのではないのでしょう?」

「当然です!」

 がばりと彼女に覆いかぶさるほど近くに駆け寄って、僕は彼女の手を取る。涙で濡れた顔を隠すことなく、彼女をじっと見つめて言葉を続ける。

「きっと、貴女を迎えに来ます。そうしてずっとずっと、共に過ごすのです。だから」


 ──僕を置いていかないで、ください。


 辛さに声を詰まらせながら、僕は本心から彼女に縋った。

 これから死にゆく彼女には、とても辛い言葉だっただろうと思う。心からの僕の吐露はどんな言葉よりも切実で、彼女の強がった笑顔をどんどんと崩してゆく。

 僕を見つめる彼女の唇の端が堪えるように震えるのを見て、僕もまた耐える事をやめた。彼女に未練を残して欲しい、などはもう関係なく、ただただ僕は彼女との時間を乞うて泣きじゃくった。

「わたしも、あなたを置いていきたくない」

 そう言って、彼女も涙を溢れさせる。青白い頰にしずくが伝い、じんわりと熱を広げて、彼女がまだ生きていることを実感させてくれた。


 ひとしきり二人で泣き合った後、僕は袖で涙を拭うと安心させるように笑った。そして、最後の仕上げに取り掛かるのだ。

「明日より次までの間、毎夜花だけは届けさせます。ですからそれをよすがに、僕の訪れを待っていて頂けますか」

 彼女はこくん、と一度だけ頷いた。その瞳はまだ涙に濡れて、心細さに揺れている。

「必ず、また来ます。それまでどうか、僕を置いていかないで。必ず、待っていてください」

 そう言って彼女の手を強く握った。白く、細く、小さく、冷たい手だった。手の甲に唇をひとつ落として、僕は庵を後にする。

 戸を閉める間際に、彼女が掠れた声で何かを言った気がしたけれど、僕は構わずぱたりと戸を閉めた。

 彼女の泣き顔を見ていたら、決心が鈍りそうだったから。彼女の最期まで傍にいて、彼女を見送ってあげたくなってしまうから。

 これだけの酷いことをしておいて、それはもうきっと許されない。


 庵の戸に背中を預け、暫くの間僕は声を上げないように泣き続けていた。彼女を失う怖さに、自分の罪深さに、彼女への愛しさに。


□□□□


 この日以来僕は彼女の部屋に向かうことが出来なくなった。それはもう、彼女が生きている間に会うことは叶わないという事だ。

 あとは運命に身を任せるしかない。

 彼女は婚約者を未練として、妖となってこの世にとどまってくれるのか。

 僕は毎日もどかしい思いのまま、彼女の庵の庭に向かう障子の前に座り続けていた。


 だが一つだけ、僕には仕事があった。

 庵に花菖蒲を贈ること。

 ヒトとしての姿も狸の姿も見られる訳にはいかなかったから、僕は部屋の正面戸の前に花菖蒲を一本ずつ置いて帰ってくることにした。

 彼女の容態では見ることは叶わないかも知れないけれど、そうするしかなかった。彼女を目にすれば、僕はどんな姿であれ、彼女に駆け寄ってしまいそうだったのだ。


 贈り続けた花菖蒲は、やがて青紫と緑の小さな絨毯になり、下の方のものが枯れて色が抜けていった。

 やがて花菖蒲は終わりの時期になり、この贈り物も最後かと考えた。そんなある日の事だった。


 部屋の中から断続的に聞こえていた咳が、突然ぴたりと止んだのだ。そして続くのは何度聞いたか分からない、喀血の声。

 だがそこからが、いつもと違った。

「……あぁ、あぁ、あぁ」

 乱れた呼吸と共に嗚咽が聞こえる。

 泣くことも苦しいのだろう。声も出さぬ彼女の泣き声はまるで悲鳴にも聞こえて、僕は無意識に痛む胸を掻きむしった。

 やがてひとしきり泣き続けた彼女は、突如として布団から出たらしい。ずりずりと身体を引きずる畳の音が聞こえる。時折血を吐きながら荒い呼吸をして、最後の力を振り絞って一心に這いずっていた。


 だが僕はずっと障子の前から動けなかった。本当ならすぐに駆け寄って彼女の手を握ってやりたかったけれど、ここで動けば全てが水の泡だと自分に言い聞かせていた。だって──。


 彼女には一人で逝ってもらわなくてはならない。

 未練を残したまま、一人で寂しく死んでもらわなくては、彼女は妖にはなれない。


 とても残酷だ。傍にいるくせに。彼女に優しい言葉をかけて楽にしてあげられるのは僕しかいないくせに、僕はそれをしないのだ。

 それがただ一つの彼女の願いだったのに。


 やがて彼女は目的の場所へたどり着いたらしい。大きく一息ついて、彼女はゆっくりと襖を開けたらしかった。

「あぁ……」

 彼女の泣き声はやがて吐息だけの掠れた悲鳴となった。

 彼女が見た光景は間違いなく、僕が毎夜届け続けた花菖蒲だ。彼女の終の瞬間に傍にいることの出来ない婚約者からの贈り物だ。

 血の音と彼女の悲鳴の息が交互に聞こえる。苦しい、寂しいと口にすることすら出来ない彼女の動きを、そのまま聞いている事が辛くて、僕はゆっくりと彼女の庵を離れた。


 愚かなことに、無責任なことに、僕は彼女の最期の瞬間から──逃げたんだ。目を逸らして、彼女の泣き声も悲鳴も聞こえぬ場所へと離れて、目と耳を塞いで過ごした。


 僕が、彼女に、一番辛い死に方を与えたくせに。


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