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格子の向こうの花菖蒲  作者:
風の章
12/14

 血の匂いが充満する部屋を出て、僕はすぐに庵へと向かった。いつもの庭に面する障子からではなく、母屋から続く石畳みをゆっくりと歩く。

 返り血は水桶で簡単にだけ洗い落としたから、恐らく大丈夫だろう。それ以上に僕は髪を撫で付けて、入念に自分の姿を改めた。

 今の僕の頭に獣の耳はない。長い爪もないし、特徴的な赤い目もない。人型ではなく、正にヒトの姿で、僕は初めて彼女の庵の正面戸から入ろうとしていたのだった。


 彼女を捕らう庵を前にして、一瞬だけ躊躇する。

 この扉を開ければきっと、彼女は笑ってくれるだろう。言葉を交わして、触れる事だってできる。もしかすれば恋情に頬を染める事すらあるかも知れない。

 でもそれら全ては、真に僕に向けられるものではないのだ。

 そんな躊躇いを、鼻で自嘲して振り切る。迷ってももう後戻りは出来ない。僕の背後には現実に、血溜まりの母屋があるのだ。

 震える指先で庵の襖の引手に手をかけて、一度だけ細く息を吸った。

「失礼します」

 そう初めて彼女にヒトの言葉で声を掛けて、引手に掛けた手をゆっくりと引いた。


 まず目に入ったのは、彼女の見開いた大きな目だった。布団の中で半身を起こして、白い襦袢の背に黒く濡れた長い髪を流して、見返った格好で彼女はこちらを見ていた。

 少し怯えたように眉を寄せて、それでもどこか期待した様に目はきらきらと光って見える。

「どちら様、でしょう」

 恐る恐る絞り出した彼女の声は掠れて、だがやはり僅かに明るく上擦っている様に聞こえた。その理由はきっと。

「貴方が先程お父様が言っていた方……?」


 自分をここから連れ出してくれる男の現れを嬉しく思っているからだろう。たとえそれが、見ず知らずの男に娶られる為だとしても。


「そうですよ。紫」

 優しくそう返事をすると、彼女の青白い頬がぱっと上気するのが分かった。怯えていた目ははっきりと期待の色を宿して、僕を見つめている。

 胸が痺れるほどに痛くなったけれど、僕は最後の我慢だと自分に言い聞かせて、彼女の傍に膝をついた。

「貴女と共にいたいと思っています。一緒に来てくださいますか」

 僕が差し出した手を数秒見つめて、意外や彼女は少しだけ迷う素ぶりを見せた。だが僕が小首を傾げて覗き込むと、彼女は意を決して小さく頷く。

「連れて行ってください。ここから」

 僕の手のひらに乗せられた彼女の手は白く、細く、小さい。握り締めれば折れてしまいそうなほどに儚い彼女の手をゆっくりと両手で包み込んで、僕もまた小さく頷いた。


 僕は彼女と交わした初めての言葉で嘘を吐いた。彼女と契りを結ぶ男だ、と。名も名乗らず、ただひたすら共にあってほしいと言い続けた。

 だが彼女を迎えに来る、それに嘘はない。

 きっとここから連れ出してあげる。妖となって死の苦痛のなくなった彼女と外へ出て、世界を見せてあげるのだと信じて疑わなかった。


□□□□


 その次の日から障子の格子を擦る事はなくなった。僕はヒトの姿で正面の戸を引いて、堂々と彼女に会いに来る事が出来るようになったのだ。

 彼女はただ純粋に、婚約者の来訪を喜んでいた。


「今日も参りましたよ。紫」

「毎夜毎夜、ありがとうございます。お忙しいのでしょう」

 戸を開いて声をかけた僕に、弾んだ声でそう返して、彼女は布団の上で身体を起こす。僕は彼女の肩をやんわりと押し留めて、再び彼女を横にならせた。

「無理はしないでください。大切なお身体なのですから」

 僕が膝をついて彼女の顔を覗き込むと、彼女は恥ずかしそうに掛け布団を鼻まで上げてくすりと笑った。


 面と向かって触れ合って、初めて目にする彼女の表情の数々。それが本当の僕に向けられていない事が苦しくて、だから余計に焦がれる。苦しくて胸を掻き毟りたい程のもどかしさを抱えたまま、僕は笑うのだ。きっと来る筈の、本当の僕に笑ってくれる日を夢見て、僕は殊更に優しく振る舞うのだ。


 白い布団にたおやかに広がる彼女の髪を大切に一房摘んで、僕は彼女に笑いかけた。

「今日はね、貴女に贈り物があるのですよ」

 彼女が布団からぱっと赤く染まった顔を覗かせたのを見て、僕は袂からゆっくりとそれを取り出した。

 贈り物といっても大したものではない。それはただ一輪の。

「あら、花菖蒲……」

「ご存知でしたか、この花」

 驚いて目を丸くした僕に、彼女が無言で微笑む。差し出したその花を愛おしそうに受け取って、彼女はゆっくりと花に顔を寄せた。

「好きな花です。でもお父様が外は毒だからと、触れる事は許されていませんでしたけれど」

 そう言って、彼女は花の香りをいっぱいに吸い込んでいた。初めての事だからか、彼女の目は赤く潤んでいる。


「花、いけましょうか」

 僕が声をかけると、彼女はゆっくりとした動作で床の間に飾ってあった一輪挿しを指差した。

「お願いしてもよろしいですか。せっかくですから、あれに」

 床の間に置かれた変哲もない一輪挿しはただの置物と化して、手入れもされず埃が溜まっていた。それがとても嫌な気分で、僕は手早くそれを洗い流して花を挿す。

 鮮やかな青紫色の花弁が、細い口の一輪挿しを途端に華やかにする。瑞々しい雫がぽたりと落ちて、殊更力強く見えた。

「綺麗ですね」

 ありがとう、と小さく言って、彼女が笑う。細く白い指が、宝物を抱える様に一輪挿しを掲げていた。


 昔は、渡せなかった花菖蒲。

 彼女が幼き頃に、戯れであろうが必死に求めていた、あの指を見た瞬間に僕はきっと心を奪われたのだ。

 やっと渡せた。


 ほんの少しの達成感を持って彼女を見遣ると、彼女も僕を見つめていた。何を思っているのかは分からないけれど、嬉しそうに瞳を潤ませている事だけは分かる。

 その笑顔を見ていたら堪らなくなった。命の灯が消えるまでの僅かな時間の中で、必死に幸せをかき集めている彼女が、切なくて、哀れで、愛しくて。

 こんな事をするつもりはなかったのに。

 僕の手はゆっくりと彼女に伸びて、白い頰を優しく撫でる。彼女は驚いたように一瞬身をすくめたけれど、思い返したように力を抜いていた。

 彼女の頰は柔く、温かかった。指先で撫でればそこが紅く熱を持って、彼女の命を感じた。


 徐ろに顔を寄せる。躊躇う気持ちはあったけれど、僕は自分に言い訳した。

 きっとこんな事は最後だ。

 もし次があるとすれば、それは僕が彼女と共にいられなくなるときしかない。だから。


 恐る恐る彼女の唇をついばむ。愛しくて愛しくて仕方がない彼女との口付けを、きっと初めてで一度きりの口付けを、僕はほんのひと時だけ感じる事ができた。

 それでいい。


「貴女を愛していますよ」

 嘘のない偽りを吐いて、僕はにっこりと笑う。上気した頰を手で押さえながら、彼女もまた笑っていた。


 穏やかな日々だった。邪魔も入らず、彼女の傍にいて、言葉を交わして、自由に触れる事が出来た。

 だがそんな時間の終わりは、すぐにやって来たのだった。

 

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