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格子の向こうの花菖蒲  作者:
風の章
11/14

 明くる日も眩ゆい程の月夜だった。

 僕は普段と同じに庵の格子の前にいた。でもいつまでたっても障子の桟を擦れないで、ずっと座り続けている。

 時折血痰の絡んだ咳が聞こえる部屋に背を向けて、足を踏み出そうとしては戻して、躊躇ってを繰り返していた。


 彼女を妖にするなど、やはり僕にはできない。

 ならば僕がすべき事はきっと、彼女の生の終わりを寂しくないようにしてあげる事だけなのだ。

 彼女の望んだ通りに。


 そう理解はしていても、僕の足は動かない。彼女の容態を確認する事が──彼女と共に過ごせる時間の少なさを実感する事が、とても怖かった。

 だが断続的に聞こえる彼女の咳はとても苦しげで、僕に覚悟を迫る。残り時間はとても少ないのだ、と。


「タマ……いるんでしょう?」

 そんな僕の迷いを知ってか知らずか、彼女が身動ぎの音と共に掠れた声を上げた。びくりと肩を震わせただけで返事が出来ないでいる僕に、続けて彼女の言葉が掛かる。

「あなたは賢い子なのね……。私の身体を気遣ってくれているのでしょう」

 迷い続ける僕の弱さを、彼女は優しさと受け取っていた。ただの猫の気紛れかも知れないのにそう言って自分を慰める彼女がとてもいじらしくて、僕は思わず首を捻って障子戸を振り返る。

 すると、

「ふふ、やっとこっちを向いてくれた……」

と言って彼女の含み笑いの声が聞こえた。だが昨夜開けた穴からは彼女の姿を見る事は出来ない。

 何故彼女には僕の姿が見えているのだろう、と視線を彷徨わせた僕に、彼女からまたくすくすと小さく笑う声が聞こえてきた。

「月が明るい所為ね、障子にあなたが映ってそばにいるみたいに見えるわ」


 ありがとう、そばにいてくれて。

 そう言って血溜まりの中で笑った彼女を見たのはつい昨夜の事だ。

 障子戸に映る僕の影を拠り所に彼女は笑っているのだと思うと、胸が握り潰されたように苦しくて、細い息を吐く。獣姿で言葉を話せば気味悪がられるだろうから、自分にだけ聞こえる程の小さな吐息で、僕は初めて彼女の名を呼んだ。


「紫、いかないで」


 ぽろりと、普通の獣ならば流さない涙を、僕は抑え切れなかった。一度流してしまえば、それは堰を切ったように溢れて止まらない。それが尚更悲しかった。

 きっと僕は今、彼女が死ぬのを覚悟してしまったのだ。


 凛と首を上げて月を見上げる影を映しながら、僕は隠れて吐息だけで彼女の名を呼び続けた。届かぬ言葉と知りながら、愛を囁き続けていたのだった。


□□□□


 だからといって僕は彼女との残り時間を諦めた訳じゃなかった。出来る限りの時間を彼女の傍に居たかった僕は、初めて一つ疑問を持ったのだ。

 その日眠い目を擦りながら獣姿で向かったのは、彼女の過ごす庵ではなかった。まだ日暮れとも呼べぬ陽の高い時間に、僕は彼女の家の母屋に向かっていた。


 何故彼女の父親は、彼女をあんな所に閉じ込めておくのか。


 彼女に身体を治せと酷く叱るくせに、父親はまともな治療を彼女にさせていない気がする。人間世界の事情など僕は詳しくは知らないけれど、少なくとも小さな庵に一人閉じ込めて何年も外に触れさせない事が異常な事くらいは分かる。


 僕は僅かな悪い予感と共に父親が居る部屋を探して家の周りを歩いていた。

 そして、やはり運命とはあるものだと思った。


「ではそのように進めさせて頂きます」

「いやはや、申し訳御座らん。不出来な拙女故、其方にも迷惑をかける事になろうが」

「いいえ、その様な。我々にとっても願っても無い話で」

 聞き覚えのある老年の声にぴたりと足を止めて耳をそばだてる。外に向かう障子戸は閉まっていたから、僕は無遠慮にその側まで寄って中の様子を窺った。どうやら数人部屋にいる様で話し声はまだ続いていた。

「しかしご子息は立派になられましたな。幾つになられたかな」

「十九になります」

 そして新たに聞こえてきたのは、若い男の声だった。悪い予感は、もやもやと形を成して僕の中でとぐろを巻く。それでもまだ僕は堪えて、じっと続きを聞いていた。

「いやいや、見目ばかり育ちお恥ずかしい。まだお目にかかってはおりませんが、ご息女こそきっと麗しくお育ちになっている事でしょう。奥方様も大層お綺麗な方であられましたから」

「それこそ見目ばかり。いや母親の身体を受け継いだと言えばその通りかも知れぬが」

 忌々しそうに吐き捨てた父親の声に、かっと腹が熱くなる心地がする。あれだけ懸命に生きる彼女に、実の父親が吐いて良い言葉ではない。


 あと一言でも父親が毒を吐いていれば、僕は後先考えずに部屋に飛び込んでいただろう。

 だが突然父親が、

「少々失礼を致す」

と言って部屋を出て行ったのが分かった。

 父親の様子を見ようと思って足を踏み出した僕に聞こえたのは、部屋に残された親子の押し殺した忍び声だった。

「お前にも思う処はあろうが、今少し堪忍致せ。

 あの娘と婚姻を結べば、お前はこの家の婿養子。我らも安泰というものよ」

「ですが、娘がすぐに死んでしまえばそう言っていられるでしょうか。すぐに追い出されてもおかしくはないのでは」

「あの男も元は婿養子の立場。そう悪い様にすまい。いや……我らの真意を分かっていて黙認するやも知れぬな。

 とにかく我らにとってこの婚姻は良い事尽くめよ」

 ──母親の様に、亡くなるのならば子を産んでからにして貰うが有難いがな。


 そこまで聞いて、正に反吐が出た。

 ぐるぐると渦巻いていた黒い感情はもう抑えきれず、僕は意図せずに人型になる。普段なら制御している風は荒くれ、僕の逆立った髪を更に靡かせ、周りのものを押し倒して暴れる。

 大きな音を立てて、障子戸が破けて倒れた。

 そうして戸が倒れた先にいたのは、驚いて目を見開く初老の男と、そして。

 精悍な顔立ちの若い男だった。

 その男の顔を見た瞬間、僕はえも言われぬ感情が湧き上がったのが分かった。先程までの憎悪とは違う、もっと激しく狂おしい程の熱情──今思えば、あれは嫉妬だったのだろう。

 初めての激しい感情の渦に、僕は一瞬で正気を失ったらしかった。不確定な言い方になってしまうのは致し方ない。何故なら、気がついた時には既に僕の両手は人型とは言えぬ程の爪が伸び、そこから鮮やかな赤が大量に滴っていたからだ。

 だが後悔はない。懸命に生きる彼女をモノとしてしか見ない奴らなど、生きている価値はない。

 足元で首元からまだ血を溢れさせている男を見遣って、僕はまだ正気に戻ってはいなかった。だからそこで口から出た言葉はきっと、僕の本音だったのだろうと思う。


「紫は、渡さない。彼女は僕のものだ」

 どうやら僕が決めた覚悟は、酷く脆いものだったらしい。未だに未練がましくそんな事を口走った自分に驚いた程だった。

 そしてやはり、運命は僕の決心とは逆の方へと回っていた。

 全身に浴びた生温い血を気持ち悪いと思いながら拭った時に、間が悪く彼が戻って来たのだ。

 人型でありながら、ヒトとは全く別の姿──頭の天辺で毛に覆われた耳、赤くぎょろついて光る目、そして信じられぬ程に鋭く長い爪、そこから滴る赤い鮮血──それらを見て、父親が悲鳴を上げ腰を抜かす。

 その声さえも不快で、僕は迷いなく父親に向かって足を踏み出した。荒らげる風が僕の身体を後押しして、その一歩で父親の眼前まで迫る。

 驚き慄く父親の見張った瞳を真近に見て、僕はどこか恍惚とした心地だった。だって。


 これで彼女の穏やかな最後など、あり得なくなってしまった。

 ならば、もう、我慢しない。

 一度赤に染めた手なら、二度も同じだ。


 彼女を縛り続けた父親の首元に爪を立てて、指先に軽く力を入れれば、ぷつりと何かが弾ける感触がする。すれば視界は噴き出す赤に染まって何も見えなくなった。

 目をゆっくりと閉じながら、僕は今度こそ心に強く決めた。


 この先もきっと、僕はまた手を血に染める。とても残酷な方法で。

 愛しい彼女を、妖にする為に。

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