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格子の向こうの花菖蒲  作者:
風の章
10/14

 顔を見られない事など、僕が彼女のもとに通わなくなる理由にはならなかった。例え触れてもらえなくてもただ彼女の声が聞けるだけで、名前を呼んでもらえるだけで、僕は満足だった。


 夜半軒下に着くと、薄い障子紙を破らないように気をつけながら、格子の桟をかりかりと爪で引っ掻く。すると彼女が小さな囁き声で、タマ、と呼ぶのだ。

 そんなやり取りが、習慣を超えて当たり前に感じる程の月日が経っていた。僕にとってはほんの短い時間だったけれど、ヒトである彼女には長い時間だった筈だ。

 高く透き通った幼さの残っていた彼女の声は、いつの間にか丸みを帯びた女性の声になっていた。顔を見ればきっと彼女の成長をはっきり感じる事が出来ただろうけれど、僕だけが彼女のことを見てしまうのは狡いような気がして我慢をしていた。

 そして変わらない障子紙越しの逢瀬が物語っているように、彼女の体調も芳しくないようだった。初めて会った頃に比べ、彼女が咳き込む事が増えたような気がする。その度に障子の格子越しに狼狽えるだけで、何も出来ないでいるのだけれど。


 その夜も僕は日が暮れて直ぐから彼女のいる庵の軒下に座っていた。今宵空に浮かぶのは珍しい赤銅色の満月で、その大きな身体に木々の影絵を映している。顔を上げると月光を受けた白い障子紙が光を放っているように見える程明るい夜だった。

 僕の目にも珍しいその光景を見せたいと思って、格子の桟をかりかりと爪で擦る。少しくらい穴を開けたっていいのに、彼女は障子紙越しに声をかけるだけだった。

「タマ、いらっしゃい」

 彼女ももう幼子ではないから、父親に遠慮する必要もないのだろう。はっきりと出す声は艶のある滑らかなものだ。

 僕は目を閉じて彼女の音に耳をすます。彼女の挙動を僅かも漏らさないように集中した。

 彼女は畳を這うようにして障子まで近付き、窓枠に肘を立てた。かたり、と障子の木枠が微かに軋む。

「わあ赤い光。もう日暮れは済んだのではないの」

 彼女は赤い月光を夕暮れの赤と勘違いしたらしい。珍しい赤銅の満月など彼女は見たことがないだろうから、仕方がないかも知れないけれど。

 だからこそ、見て欲しい。

 かたかたと爪を立て続ければ、彼女が薄く笑う声がする。

「タマったら、ちゃんと見ているわ。綺麗な夕暮れね」

 そんな陳腐なものじゃない。長く生きる僕だって珍しいと思うその光景をどうしても見せたくて、ただ爪を立て続ける。

「どうしたの、タマ」

 彼女も僕の行動を不審に思ったのだろう、彼女が かたかたと格子を揺すった、その時だった。


「かは……っ」

 小さく吐き出した様な掠れた声。いつもの咳とは違う彼女の吐息に、僕は思わず引っ掻いていた手を止める。そして慌てて耳をすますと、続いて聞こえたのはぱたぱたと水が畳を打つ音だった。


 咄嗟にヒト型になり、辺りを見回す。

 何処かに隙間でもあれば、風になれる僕ならば部屋に入る事が出来る。でも外を毒だという彼女の父親がそんなものを作る筈もなくて、僕は一つ、覚悟を決めた。

 また狸の姿に戻った僕は小さく後退りをしてから、格子へと頭を突っ込んだのだ。僕らを別ちていた薄い障子紙は小さく音を立てて呆気なくその身に穴を開けた。

 前足で畳の上に着地して彼女の方を振り向くと。


 ぱたぱたと畳に落つるは赤。

 彼女の口を覆う指の隙間から筋を作って肘へと垂れ、畳に溜まりを作っている。彼女の白い襦袢の襟や袂が、鮮やかな程の赤紅に染まっていた。

 そして。

 幾日も見る事の叶わなかった彼女はやはり、もう幼さの残る僕の知る彼女の姿ではなかった。長く伸びた濡烏ぬれがらすの髪を赤の散る襦袢の背に流して赤銅の月光を浴びる彼女は、絵画から抜け出したもののように美しかった。

 その今にも儚んでしまいそうな彼女の姿に、思わず動きを止める。


 もしも今、彼女の傍から動かなかったら。彼女はこの世に未練を残すだろうか。──妖となりはしないだろうか。


 僕は今でも、いや今まで以上に彼女に焦がれていた。彼女の生を終らせてヒトならざる者としてでも、そばに置きたいくらいには。

 家の者を呼ぼうと襖に駆け寄りかけた足をゆっくり戻す。その間にも彼女は苦しそうに肩を上下させていた。

 そろそろと彼女に歩み寄ると、彼女は赤に染まった顔をゆっくり僕へと向ける。呼吸の音が歪に聞こえた。

「タマ、来てくれたの」

 時折血痰が絡んだ様な濁り声で、彼女は僕に笑いかける。血に濡れた手を伸ばそうとして、でもその手を躊躇いがちに引く。血に汚れても構わないから触れてもらいたくて、僕はわざと彼女の手に擦り寄った。すると彼女は、

「ふふ、タマったら」

と小さく微笑んだ。


 本当に、いいのだろうか。

 このまま死なせてしまっても。


 そんな僕の迷いは、彼女を慮ったものではなく、もっともっと利己的なものだった。

 妖になる為には強いおもいを残さなくてはいけない。外に強く焦がれた彼女が満ち足りて死ぬとは思わないけれど、それでも危険な賭けには違いなかった。だってもし失敗すれば、二度と、彼女に会えない。

 かは、と息を吐いて再び彼女が喀血した。時間はもうない。僕が今、決めなくてはならない。でも足はまだ動かなかった。

「タマ」

 彼女の声が僕の意識を引き戻す。ふと顔を見遣れば、彼女は笑っていた。

「ありがとう、そばにいてくれて。一人はやっぱり寂しいわ」


 いけない、と思った。咄嗟に僕は襖の戸を爪で引っ掻く。数回擦れば襖戸は僅かに開き、そこへ身体を滑り込ませた。

 彼女は笑っていた。まるで一人で死ぬ事を覚悟していたように。あのままではきっと彼女は妖にはなれない。外に焦がれながらも、その生の終りを受け入れただろう。


 母屋に繋がる石畳を駆け、そこにある戸に体当たりよろしくぶつかれば障子戸が派手な音を立てた。

「な、何だ!」

 彼女の父親の強張った声がして、障子戸が開けられた。客人が来ていたのだろうか、部屋の中にはもう一人いるようだった。

「何だこの獣は!」

「如何なされた」

「どうやら野良の獣が迷い込んだ様です。少々お待ちを」

 客人と言葉を交わした父親は、床の間にでも飾ってあったのか小太刀を鞘ごと取ると、ドタドタと床を踏み鳴らして僕の後を追って来る。赤に染まる彼女の姿を思い出し、僕は身震いしながら石畳の道を跳んで渡った。

 早く、早く。気が逸りながらも彼女のいる離れの入り口で後ろを振り返ると、父親が目を剥くのが分かった。

「よせ! 其処に入るでない!」

 父親が鞘から小太刀を抜き、初老とは思えない身のこなしで地を蹴る。その瞬間だった。

「……お、とうさま」

 僅かに開いた襖から漏れたのは掠れた彼女の声。力なくも、確かにまだ彼女は生きていた。

 間に合ったのだ。

「紫!」

 父親が慌てて襖を開け放つ。小太刀をその場に放り投げて、躓きながら彼女に駆け寄った。


 指先も胸元も夥しい赤に染めて倒れ伏す彼女は、苦しげに肩を上下させていた。長く黒い髪を広げて父親の胸で眉を寄せて目を瞑っている。

 死を予感させるような、赤銅の月光を浴びて。


 もう長くない、と分かってしまった。彼女と居られる時間はもう僅かなんだと。そんな覚悟は出来ない。僕はまだ彼女を諦めたくなかった。

 ならば彼女を妖にするのか。その決心さえつけられないでいるのに。そして死を覚悟する彼女を妖にする方法も持ち合わせていないくせに。

 それに。どうせ死んでしまうのだったら、彼女には穏やかに、幸せに、死んで欲しいと思う。苦しませながら死なせるのはきっと、辛いだろうから。


 彼女の幸せか、僕の望みか。それらはきっと両立はしない。

 彼女を染める赤に目をやりながら、僕はまだ迷い続けていた。


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