第4話 生活魔法を覚えよう
父――ギルベルト・フォン・ヴァルクレインは、夜明けとともに王都へ向かった。
重い外套を翻し、馬上から「留守を頼む」とだけ言い残す。
祖父も神官とともに自領へ帰っていった。
残された屋敷は、ほんの少しだけ静かになった。
……だが、その静けさは長続きしない。
なにしろレオン兄がいる。
戦士となったレオン兄は、さっそく闘気力の訓練を始めていた。
指導役はフリーデガルト母。庭の中央に腕を組んで立つ姿は、今日も今日とて威圧感がすごい。
「まずは感じろ」
低く、よく通る声。
レオン兄は目を閉じ、母と手をつなぎ、闘気力の流れを感じ取ろうと集中している。
(なるほど、感知から始まるわけか)
十一歳のレオン兄ですら、森でのレベル上げは許されない。
外に出て魔物退治? 論外である。
ならば、家の中でやれることは限られてくる。
――魔法の訓練だ。
異世界に魔法があると知ったときから、ずっと気になっていた。
使えるものなら使いたい。使えなくても、せめて仕組みくらいは知りたい。
俺はまず、水魔法を使えるメイドに目をつけた。
彼女の名はクラリッサ。
栗色の髪を後ろでまとめた、穏やかな女性だ。水差しに魔法で水を満たせるが、魔法力は少なめらしい。一日にせいぜい二回。
目を閉じて集中し、空間から水を生み出す。
その腕に抱かれながら、俺はじっと集中する。
ただ、それだけ。
レオン兄がやっているのと、本質的にはたぶん同じだ。
体内を巡る闘気を感じる代わりに、彼女の体を流れる魔法力を感じ取ろうとする。
クラリッサは事情など知るはずもなく、ただ俺の「みず」という拙い要求に応じてくれているだけだ。
一日二回。それでも十分ありがたい。
なぜなら、この家にはもう一人いるからだ。
風魔法を扱えるメイド、エミリア。
彼女は部屋の中に一定時間、そよ風を循環させることができる。魔法扇風機である。彼女もまた、一日に二回が限度らしい。
つまり俺は、一日に合計四回、
**「抱っこ状態で魔法を使ってもらう」**ことができる。
赤子の特権、フル活用である。
最初は何もわからなかった。
ただ水が出て、風が吹くだけだ。
だが二週間、三週間と続けるうちに、違和感が生まれた。
水が現れる瞬間、空間がわずかに“沈む”。
風が巡るとき、空気が“滑る”。
目には見えない。
だが、何かが確かに動いている。
一か月。
レオン兄は、すでに闘気力を感じ取れるようになっていた。今は自分の闘気を動かす段階らしい。さすが武門の血である。
一方の俺は、まだ何も感じられない。
だが、二か月目に入ったある日。
クラリッサが水を生み出した、その瞬間。
彼女の体内を流れる何か。
空間に走る細い筋。
体の表面をかすめる、ひんやりとした線。
それは風のときとも違い、水そのものとも違う。
だが共通しているものがあった。
“魔法力”だ。
(見えないけど……ある)
俺は初めて、魔法力の動きを感じ取った。
◇
さて。
魔法力を感じ取れるようになるまでの二か月、実は別件でも成果が出ていた。
レベルが三つ、上がっていたのだ。
最初の変化は、祈りを使い始めて十日後だった。
どうせ気絶するなら効率よく倒れよう、という発想のもと、昼寝前、夜前、夜中のおむつ交換時――一日四回、欠かさず「祈り」を使っていた。
効果は見えない。
何も起きない。
だが魔法力だけはきれいに抜け落ち、そのたび俺はベッドの上で失神する。
字面だけ見るとだいぶ終わっている生活だが、実際やっていることもだいぶ終わっている。
そして十日目の夜。
ふっと、内側で何かが“広がった”。
レベルが上がった。
そう直感でわかった。
次は二十日。
その次は二十一日。
ここで俺は気づいた。
必要日数が、毎回ほんの少しずつ増えている。
ざっくり計算すると、前回の約1.03倍。
つまり、上がれば上がるほど同じことを続けても伸びが鈍る仕様らしい。
……えっと、これでレベル40に達するのは?
筆記用具がないので筆算できないのが地味につらい。
だが時間だけはある。昼寝前、天井を見ながら必死に暗算する。
等比数列だ。
たぶん。
せっせと計算して、どうにか出した答えは――約1460日。
だいたい四年。
最後のレベルアップには、二か月ほどかかる計算になる。
……問題は、四年後の五歳児に「一日二回の昼寝+失神」が許されるのか、という点だが。
そこはまあ、そのとき考えよう。
先のことを心配しても、赤ちゃんにはどうにもならない。
◇
魔法力を感じ取れるようになったころ、新たな事実も発覚した。
火の魔法が使える人物がいたのだ。
厨房のおばちゃんである。
本名は知らない。
というか、皆ほぼ「おばちゃん」としか呼んでいない。だが竈に火を入れるときの動作が、どう考えても普通ではない。
指先で小さく弾くような仕草。その直後、薪がぱっと赤くなる。
水、風、そして火。
魔法力の動きは、それぞれ微妙に違う気がした。
水は“満ちる”。
風は“巡る”。
火は――“跳ねる”。
ただ、最初に狙うなら風魔法だ。
風は発動しても、部屋にそよ風が流れるだけ。
危険性が低い。
動きも比較的わかりやすい。
俺はエミリアに頼み込んだ。
もう一歳半。言語能力は以前よりだいぶ上がっている。
「かぜ、もういっかい」
拙いが、通じる。
エミリアは苦笑しながらも、三回目の発動まで付き合ってくれた。
三回目のあとは、しばらく座り込む。魔法力の少ない彼女には負担が大きいのだろう。
だが、それも「リュカの世話」の名目で休憩が許されている。
俺としてはありがたいが、若干の罪悪感はある。いや本当にちょっとだけだが。
抱っこされながら、必死に風の流れを追う。
感じられる。
だが、まだ動かせない。
外からの流れはわかる。
けれど、自分の中にあるそれは、まだ掴めない。
一方で、レオン兄は違った。
彼はすでに闘気力を動かせるようになったらしい。
庭で木剣を振るう姿は、もはや小学校高学年レベルではない。打撃音が重い。踏み込みが鋭い。フリーデガルト母の指導も的確だ。
「力を集めろ。腕ではなく、腰からだ」
低く、よく通る声。
レオン兄の体から、わずかに空気が震えるのがわかる。
俺の見様見真似とは、完成度が違う。
まあ、向こうが小学校高学年なら、こっちは保育園前だ。
焦っても仕方ない。そもそも今の俺に急ぐ理由もない。
のんびり進もう。
……いや、異世界なのでのんびりしすぎるのもまずい気はするが。
◇
毎日忙しそうにしていても、実際にやっていることは大したことではない。
一日四回の「祈り」。
一日三回の風魔法観察。
一日二回の水魔法観察。
以上。
しかも全部、抱っこで完結する。
気絶して、昼寝して、起きて、また祈る。
書き出すと本当にひどい。
努力しているのか、ただ寝ているだけなのか、自分でもたまにわからなくなる。
時間は山ほどある。
だから考える。
この転生は、なんなのだろう。
レベル制。
職業制。
スキルポイント。
どう考えてもゲームっぽい。
だが、思い当たるタイトルがない。
俺はそこまでゲームをやり込んでいたわけではない。知らない作品の世界に放り込まれた可能性は普通にある。
もしかすると俺は主人公かもしれない。
あるいはモブ。
いや、最悪ラスボスの幼少期という線もある。
魔王はいるのか?
いるならどこにいる?
そもそも、まだ誕生していないのか?
現状、できることは少ない。
せいぜい「魔王っているの?」と聞いてみるくらいだ。
だが一歳半児がそんな質問をしたら、それこそ本気で心配される。
今でもだいぶ怪しいのに、これ以上はまずい。
レベル制なんて、現実世界にはなかった。
この世界は“作られた”世界なのか?
そんなことを考えていた、その日の午後だった。
エミリアが風魔法を発動した瞬間。
風が巡る。
その流れが、いつもよりはっきりと見えた。
……いや、見えたというより、掴めた。
(今だ)
俺は意識を内側へ向ける。
風の流れを、真似る。
巡らせる。
押す。
すると――
ふわり、と。
俺の周囲で、空気が揺れた。
カーテンの端が、わずかに動く。
エミリアが目を瞬いた。
「……あら?」
ほんの小さな風。
だが確実に、俺が動かした。
魔法力が減る感覚はあるが、「祈り」ほどではない。
あと十回は使えそうだ。体感だが。
(エミリア、超えたな)
一歳半児、風魔法習得。
問題は次だ。
自然な流れなら、水魔法。
クラリッサに頼めばいい。
だがその先、火魔法となると事情が変わる。
厨房のおばちゃん。
いまだに本名を知らない。
接触もほとんどない。
二歳児になってから突然「だっこ」「ひ、ひ、ひ」と火魔法をせがむのは、だいぶ怪しい。
今は一歳半。まだ「物心ついてないから」で押し通せる年齢だ。
今なら、自然に距離を縮められる。
「だっこ」
「ひかり」
「ひ、あつい」
意味が通っているような、通っていないような単語でも、今なら“可愛い”で済まされる。
二歳を過ぎたら、誤魔化しが利かなくなるかもしれない。
これはタイミングの問題だ。
魔法の習得順より、人間関係の構築が先。
ゲームだと仮定するなら、これはもう“フラグ管理”である。
厨房に通う一歳半児。
……自然か?
まあいい。
明日は厨房に突撃してみるか。
「おばちゃん、だっこ」
戦略的赤ちゃん外交の始まりである。




