第1話 説明のない転生
刺された。
腹が痛い、というより熱い。
いや、熱いってなんだ。鍋か。俺の腹は土鍋か。そんなツッコミを入れているあたり、まだ意識はあるらしい。
目の前には包丁を持った男。ここ数年でやたら増えた通り魔だ。ニュースでは無差別殺人とか言うけれど、こいつはどう見ても女子供を狙っていた。無差別の看板を下ろせ。差別しまくりだろうが。
男がこっちを向いた。いや、正確には俺の隣にいた女子高生を見た。
その瞬間、体が勝手に動いていた。
別に正義の味方でもないし、自己犠牲が趣味でもない。ただ、目の前で女子高生が刺されるのを見たくなかった。結果? はい、俺が刺されました。最悪の等価交換である。
膝から力が抜ける。
アスファルトが近い。冷たい。あと地味に汚い。人生の最後に顔面から路面の質感を味わうことになるとは思わなかった。
周囲で悲鳴が上がる。誰かが男に飛びかかる。数人がかりで取り押さえられる通り魔が、かすむ視界の向こうに見えた。
あー、死ぬのか。
最後に見るなら女子高生のほうを見ておけばよかった。
無事だったかどうかだけでも確認したかったのに、見えているのは男の後頭部である。締まらないにもほどがある。
そこで、意識が切れた。
◇
まぶしい。
……いや、痛い。
光ってこんなに攻撃的だっただろうか。もっとこう、爽やか担当じゃなかったか。朝日の役割を一回見直してほしい。目が開かないのに、まぶしさだけは一人前に突っ込んでくる。
次の瞬間、肺が勝手に息を吸いこんで、喉から絶叫が飛び出した。
「ぎゃあああああああ!」
え、待って。今の俺の声?
高い。
めちゃくちゃ高い。
変声期どころか人生を逆走している。
状況を整理しよう。
体が小さい。
首が動かない。
視界がぼやけている。
手足が全然言うことをきかない。
そして自分の意思とは無関係に泣いている。
うん。これはあれだ。
死んで、転生した。
現代日本での記憶ははっきり残っている。通り魔、女子高生、包丁、そこで暗転。そして今。記憶喪失とかではなく、きれいに前世持ちである。
問題は、神様イベントがなかったことだ。
おかしくない?
普通あるだろう。白い空間とか。光の神殿とか。やたら美人の女神とか。
「あなたは選ばれました」とか、「残念ながら死んでしまいましたが、特別に第二の人生を与えます」とか、そういう説明パートがさ。
それがどうだ。
気づいたら産声だ。
雑。
転生処理、びっくりするほど雑。
「――――! ――――!」
誰かの声がする。たぶん女性。感情は伝わる。ものすごく安堵している感じだ。たぶん「よかった!」とか「元気ね!」とかそういうテンションだと思う。
でも意味は一切わからない。
英語じゃない。
日本語でもない。
知っているどの言語とも違う。
ああ、なるほど。
ここ、日本ですらないのか。
持ち上げられて、揺れる視界の向こうに石造りの天井が見えた。太い木の梁。壁に揺れる火。鼻に入るのは、土と煙の匂い。病院の消毒臭なんて文明的なものはどこにもない。
雰囲気だけで言えば、古いヨーロッパ風の屋敷だ。
映画とかでよくあるやつ。貴族がなんか陰謀に巻き込まれそうな家である。
とりあえず念じてみる。
ステータス、オープン。
……無反応。
スキル一覧。
……無反応。
言語理解、自動翻訳。
……当然のように無反応。
最低保証すらない。
チュートリアルなし、ヘルプ機能なし、サポート窓口なし。ゲームなら開始五分でクソゲー認定されるレベルである。
「――――、――――!」
優しく話しかけられているのはわかる。たぶん撫でられてもいる。温かい。ありがたい。だが意味がわからない。外国映画を字幕なしで見せられている気分だ。いや、赤ん坊だから視力まで怪しい。音声だけのほうが近いかもしれない。
「ぎゃあああああ!」
結局また泣いた。
今の俺にできる最適解、それがこれだ。交渉、説明要求、情報収集、全部不可能。泣くしかない。赤子、あまりにも社会的武器が偏っている。
◇
死んだと思ったら転生していた。
それ自体はラッキーと考えるべきだろう。路上で人生終了だったはずなのに、まさかの続行である。コンティニュー機能が現実に実装されていたとは知らなかった。説明書はなかったが。
そういえば、前世の大学でそんな話を聞いたことがある。一般教養の授業だ。世界には転生の報告がいくつもあるらしい。知るはずのない知識を語る子供とか、習ったことのない言語を話す子供とか。第一次世界大戦の特殊な作戦を知っていたり、タイから出たことがないのにイタリア語を喋ったり、そういうやつだ。
もっとも、詳しく調べると九割以上は理由があったらしい。
昔の乳母の夫がその作戦の参加者だったとか、近所にイタリア人がいたとか、そんな感じで。
しかも「イタリア語ぺらぺら」と言っても、実際は数語+でたらめを勢いでつないでいただけで、現地のタイ人には「なんかそれっぽい」と思われただけ、みたいな話もあるらしい。だいぶゆるい。そういえば、ダライ・ラマも転生するんだっけ?ダライ・ラマの転生は記憶をもったままの転生だったかな?
じゃあ残りの一割弱は何なんだ、という疑問はあるが、それはさておき。
今の俺はその“さておけない側”かもしれない。
五歳くらいになったら急に日本語を喋り出して周囲を驚かせ、ついでに出席日数が足りないとかいう理由で俺の単位を落としたあの教授をぎゃふんと言わせてやりたい。見たか教授、これが実例だ。反論あるならこの世界に来い。
この世界のことは何もわからない。
言葉もわからない。
自分が何者なのかもわからない。
ただ一つだけ確かなのは、俺は説明もなくこの世界に放り込まれた、ということだ。
◇
転生してから半年が経ったらしい。
正確な日付は知らない。カレンダーもないし、そもそも読めない。ただ、窓の外の空気とか、屋敷の人たちの服装とか、会話の断片から推測するに、そのくらいだと思う。生まれたのはたぶん初夏。今は秋が近い。
言語理解は体感で五割ほど。
単語は拾えるようになってきた。ただ、文章になると途端に霧の中だ。
一方で、俺の発声能力は「あー」「うー」、あとは空腹と不快を知らせる全力の泣き声で構成されている。脳内ではそれなりに考えているのに、出力が圧倒的に足りない。高性能CPUに対してI/Oが壊れているみたいな状態だ。
この半年で学んだことはいくつかある。
まず、赤ん坊は突然眠くなる。
本当に突然だ。何かを考えていても、次の瞬間にはもう眠い。思考が強制終了する。大人の自我があるぶん、「今いいところだったのに!?」という不満だけが積もっていく。極めて理不尽である。
次に、おむつ。
排出直後のぬくもりは、一瞬だけ「案外悪くないかも」と思わせてくるが、あれは完全に詐欺だ。そのあとすぐ不快感が本気を出す。冷えていく感触とともに、尊厳も冷えていく。
低く「うー……」と抗議すれば、しばらくして世話係が飛んでくる。
この世界の衛生事情、思ったよりかなりちゃんとしている。ありがたい。本当にありがたい。ここが雑だったら精神的にかなり危なかった。
授乳については……まあ、うん、ラッキーイベントであることは否定しない。
理性は若干複雑な顔をしているが、肉体はきわめて素直だ。抱き上げられ、ミルクをもらえば、おとなしく飲んで、飲みながら寝る。人間、最終的には栄養と睡眠に勝てないらしい。
そんな感じで、俺の異世界ライフは概ね「食う・寝る・泣く」で回っていた。
華やかなチート無双? ない。
運命の覚醒? ない。
あるのは睡魔とおむつと、たまに聞き取れる単語だけだ。
ただ、そんな生活の中でも、世界は少しずつ輪郭を見せていた。
俺の世話をしてくれるメイドがいる。若い女性で、栗色の髪をきっちりまとめていて、抱き上げ方がうまい。ベテランかと言われると若いのだが、仕事はてきぱきしている。名前はまだ聞き取れない。
そして、ある日の昼下がりだった。
俺は揺りかごの中で半分寝ていた。
部屋にはそのメイドが一人。彼女は空になった水差しを手に取り、小さく息を整えた。
その瞬間。
水差しの口元に、透明な水が現れた。
上から注がれたわけじゃない。
どこかに管があるわけでもない。
ただ、空間からするりと水が生まれて、そのまま器を満たしていく。
天井は乾いたまま。床も濡れていない。
何もないところから、水だけが“そこに出てきた”。
眠気が吹き飛んだ。
トリック?
いやいやいや。
それで済ませるには無理がある。
「うー……?」
思わず声が漏れる。
メイドは水差しを机に置き、ふう、と小さく息をついた。
その肩がわずかに下がる。額にうっすら汗。壁に手をついて、一瞬だけ体を支えた。
あれ。今ちょっと疲れたな?
彼女はすぐに姿勢を正し、何事もなかったようにこちらへ微笑みかけた。だが呼吸はほんの少しだけ荒い。
つまり、便利な自動機能ではない。
使えば消耗する。そういう力だ。
……これは、もしや。
魔法だ。
ここには魔法がある。
しかも、王宮の大魔導士とかだけが使える特別な奇跡ではなく、少なくとも屋敷勤めのメイドが日常的に使う程度には身近なものだ。
俺はようやく確信した。
ここは異世界である。
そして俺は、その異世界でまだ「あー」としか言えない、だいたい寝ているだけの赤ん坊である。
将来、大丈夫か俺。
いや、本当に。かなり真面目に。
◇
さらに半年が過ぎた。
体感だが、今の俺は一歳前後といったところだろう。
言語の聞き取りは七割くらいまで向上した。日常会話ならだいたい追えるし、ゆっくり話してもらえればかなりわかる。ただ、長文や難しい話になるとまだ怪しい。
こちらが発せられる言葉も少し増えた。
「まま」「みず」「だめ」。
この三つでしばらく生きていける気がする。たぶん気のせいだが、ゼロよりはずっといい。
最近になって、自分の部屋がやたら騒がしい理由もわかってきた。
この部屋、どうやら子供部屋らしい。年上の子供たちが頻繁に出入りしている。最初は近所の子かと思ったが、どうも違う。服の質がいいし、使用人たちの態度も妙に丁寧だ。そして何より、顔立ちに共通点がある。目元とか、髪の色とか。
兄弟だな、これ。
数えてみた。
男が四人、女が二人。合計六人。で、俺を入れて七人。
年齢順は完全には把握できていないが、どう考えても俺が一番小さい。となると、男の中で五番目の可能性が高い。
……五男か。
強いんだか弱いんだかわからないポジションである。
いや、家によるのか? でも長男が強いのはだいたいどこの世界でもそうだろうし、五男までくると「だいぶ下のほうですね」という感じは否めない。
兄らしき少年たちは木剣を振り回し、姉らしき少女の一人は読書、もう一人は剣を振り回している。おい、そっちも振るんかい。文武のバランスが独特すぎる。
俺はというと、部屋の端でつかまり立ちをしながらその様子を眺める観客ポジションだ。参加したい気持ちはある。だが現実は厳しい。足はまだぷるぷる震えるし、手を離せば即転倒コースである。
実際、何度も転んだ。
額をぶつけ、泣き、抱き上げられる。その繰り返しだ。
それでも最近、ようやく歩けるようになってきた。
おぼつかないながらも、一歩、二歩と前に出られる。
成功すると妙にうれしい。
人類が二足歩行を獲得した理由、今ならちょっとわかる気がする。便利だからとかではなく、たぶん「歩けた! すごい!」が最初にあったのだ。知らないけど。
「リュカ、こっち」
兄の一人がそう呼んだ。
自分の名前も、今でははっきりわかる。
リュカ。
それがこの世界での俺の名前だ。
「……あい」
発音はかなり怪しい。だが単語ひとつなら返せる。
兄たちが一瞬驚いた顔をして、それから笑った。どうやら俺の成長はわりと素直に喜ばれているらしい。
ふらつきながら一歩踏み出す。
二歩目でバランスを崩しかけ、慌てて手を伸ばす。兄が支えてくれた。
ちょっと悔しい。
だが、今はまだ甘えておこう。今の俺はプライドよりも重力に負ける。
周囲を見渡す。
兄が四人。
姉が二人。
たぶん末っ子の俺。
貴族らしき屋敷。
魔法が存在する世界。
情報が少しずつつながっていく。
うん。
これたぶん五男ポジションだな。
まだ正式に聞いたわけではない。だが、状況証拠はかなりそろっている。今後もし「実は六男でした」と言われても、まあ誤差の範囲だろう。いや困るけど。
歩ける距離が少しずつ伸びるたびに、世界も広がっていく。
部屋の外。廊下。階段の向こう。知らない場所がまだ山ほどある。
五男でもいい。
説明なしでもいい。
どうせ何もわからないところから始まったのだ。
ならせめて、この足で前に進もう。
まずは転ばずに十歩。
話はそれからである。




