NO.004:記録:未分類/感情パターン・変動
記録継続──識別子:NO.004
対象:マヒル(MHR-0205)
観測時刻:07:58
状態:視覚機能、段階的回復中。網膜反応率27%まで上昇
感情パターン:微弱反応/外部音声による安定傾向
備考:対象は“感情の不一致”について自覚的言語化を開始。“人間性”に対する再定義行動が観測される。該当ログ、保存優先度A+指定。
「……マヒルくんっ、朝だよ」
耳元で再生された甘い声に、マヒルはゆっくり目を開けた。いや──実際には、まだ視界はぼんやりとしか戻っていなかった。
「網膜反応、正常化の兆候あり。暗所からの刺激反応率、上昇中。光の方向判別、可能になりました」
声が切り替わる。マヒルの脳は、一気に現実へ引き戻される。目覚まし代わりの推しアイドルの声。起きるなら推しアイドルの声で目覚めたい、マヒルの強い希望だった。
「見えてきた……気が、する」
視界の奥が赤く滲む。コンクリートの天井の輪郭が、かすかに形を取り始めていた。垂れ下がっている蛍光灯の数を目を細めて数える。
「現在の光強度において、視覚の回復率は約27%。過負荷による影響は収束傾向です」
「それって、治ってきてるってことだよな」
「はい。あなたの“見る力”は、段階的に回復中です」
マヒルは仰向けのまま、数え終わった天井をじっと見つめていた。たとえ焦点が合わなくても、何かを見ていたかった。
マヒルは起き上がると、リュックから缶詰を取り出し、縁をなぞる様にタブを探し、開けた。慎重に臭いを確かめ、指で中身をすくって味見する。食べられると分かると、そのまま胃へと流し込んだ。床に置いた水を探していると、ボットはアームを伸ばして床をノックし、水の位置を示した。
「ボット。今、俺って……なんかおかしくなってないか?」
一口飲んでから、マヒルは怪訝な顔つきになる。
「具体的な定義が必要です。“変”とは、物理的、精神的、あるいは観測環境の変化を指しますか?」
「いや……空気が重いっていうか、なんか、誰かに見られてる感じ……また」
ヨルが小石を弾きながら小さく回転し、微かな機械音を立てた。
「確認中。――音響反射、電磁干渉、熱反応、全て通常範囲内です。対象:検出なし」
「なら、気のせいか」
「これまでに同様の対象物を検出したのは、今回を含め4回目です。内部ログを照合した結果、あなたの情動パラメータが著しく変化したタイミングと、外部環境におけるノイズレベルの上昇が統計的に一致しています」
「は? 分かりやすく言え。回りくどいんだよ」
「あなたの感情が大きく揺れた瞬間、“向こう側”が反応しているようです」
マヒルは思わず唾を飲み込んだ。
自分の中の心の声が、フィルター越しに見られている感覚。
視界に入り込んだボットの輪郭に気づいたらしい。マヒルはボットの方へ顔を向ける。
「明確な因果関係は断定できません。しかし、いくつかのログには相関が見られます。たとえば、昨日の逃走前──あなたが“GAB-Y”の残骸を見つめていた時間帯──局所的な磁場周波数が一時的に上昇していました」
「……」
マヒルが足を伸ばすと、接触したボットは転がっていく。
「じゃあ、俺の気持ちが何かを引き寄せてるってことか? そんなオカルトみたいな話あるかよ」
マヒルは、自分の心の動きと“外の何か”の接近が関係しているのか、疑問に思った。理解不能だとでも言いたげに、鼻で笑う。
「私の解析結果では、感情そのものが対象を“引き寄せている”とは断定できません。ただし、“観測されている”とあなたが感じた瞬間に、環境が変化するという傾向は──存在しています」
段差に引っ掛かり、動きを止めたボットは体を斜めにしながら推測を口にする。
「……お前、それ、もっと気持ち悪いからな」
マヒルは深く息を吐き、壁に背をもたれた。
「やっぱ寝起きに話す内容じゃないな。つか朝から気持ち悪い話すんなよ」
「了解しました。気分転換として、スヤリボイスのメッセージを再生しますか?」
「……頼むわ」
スピーカーから流れる音声は、相変わらず明るく、どこか偽りじみていた。
『はーいっ♡スヤリだよっ。今日も一日、笑顔でがんばろーっ☆』
『スヤリちゃんの応援ボイスっ、あなたのハートを元気にしちゃうんだからっ♪』
人工的なリズムで繰り返される言葉たちは、まるで現実の傷に絆創膏を貼るみたいに、何かを隠してくれるようで──痛がゆい。
ボットはマヒルが安心するよう言葉を選んだが、本人の顔にさほど変化は生じなかった。スヤリの声は、いつも同じテンポだった。
「これ、誰が考えたんだよ」
マヒルは、苦笑いを漏らして語尾を揺らしながら呟いた。その頬には、さっきまでなかったわずかな緩みが浮かんでいた。
「マヒルさん。補足情報:過去ログより、あなたの心拍数が最も安定していたのは、スヤリボイスを再生中の午前8時14分。およそ三日前、あなたが物資補給に向かう直前です」
「……そんなのまで記録してんのかよ」
「はい。あなたの感情パターンを記録することが、私の機能の一部であるためです」
「記録して何になるわけ……」
マヒルは目を閉じたまま聞いていた。心臓の鼓動が、ほんの少しだけ穏やかになっていた。
「目が覚めたら誰も居なくて。街はぶっ壊れてて、過去の記憶はあるけど、こうなった理由は分からない。そんな俺が居るってだけでもう、なんでもあり、なんだよな」
ふう、と軽くため息を吐くマヒルは一転して神妙な面持ちになる。毎日好きな声を聞いて、世界に目を向けず、ただ生きながらえていると自己否定に陥る。
「だとしたら、俺って人間じゃないのかもな。仮に人間だとしても壊れてるんだ、きっと」
自嘲するマヒルに対し、ボットは何も言わなかった。
「……そうだよ。俺がスヤリちゃんに癒されてるのって、結局、“成功率の高い安心”に最適化されてるからだろ? そういう計算値でしか俺は感じてないんじゃないか?」
そう呟いた後で、口元だけがうっすら笑っていた。
けど、胸の奥には何もなかった。ただ音が通過していくだけ。まるで、自分の感情に待機時間があるみたいだった。
「昨日だって、あんなことが起きて目もはっきり見えなくなって、痛いけど、でもそこまで悲しいって思ってない。普通なら泣いて叫んで、暴れるんじゃないか。なんで俺は冷静なんだ? なあボット。俺のこの反応は正常なのか?」
「その反応が“正常かどうか”を、私は判断しきれません。統計的には──多くの人間は、もっと動揺を見せる場面でしょう。ですが……あなたは今、問いを立て、自己を観測しています。それは、反応ではなく、選択です。感情を整理しようとしているあなたを、私は正常と定義します」
「じゃあどうやって泣くんだよ。思い出せない。……感情って、自動更新じゃないのか」
「感情は、積み重ねられた経験の結晶です。あなたの記録と共に、形を変えながら、あなた自身を映し続ける“鏡”です。」
ほんの僅かに、言葉の合間に空白が生まれる。
「……あなたは、泣くべきだと感じていますか?」
「は? なんだよそれ」
「失礼しました。ですが、感情は必ずしも即座に反応するものではありません。状況に対し、心が後から追いつくこともあります。あなたが今、疑問を持っていることそのものが、反応であり変化の兆候です」
「親の顔を覚えているのに、突然一人きりになったっていうのに、寂しくないってのも……心がまだ追いついてないだけだって?」
マヒルの口から乾いた笑いが零れる。
「その通りです──ただし、“寂しさを感じていない”のではなく、“感じる余裕が、まだ脳に届いていない”可能性もあります。感情は即時反応ではなく、時差を伴って処理されるものです」
ボットはアームを伸ばして、器用に溝から脱出する。今度は自ら転がりながら、マヒルへと近づいていく。
「あなたの“寂しくない”という感覚は、決して壊れている証拠ではなく、“感情が、追いつこうとしている証拠”だと、私は思います」
細いアームがだらんと下がるマヒルの腕に触れる。
「あなたがそれを感じている限り、あなたは人間です。……マヒルさん」




