NO.003:記録破損//001
記録継続──識別子:NO.003(※一部破損)
対象:マヒル(MHR-0205)
観測時刻:14:17
状態:視覚機能に重大な異常発生/外部視覚刺激による過負荷
感情反応:混乱→急速沈静→再起動待機
備考:GAB-Yが干渉信号モードへ強制移行。記録容量9.3%を消費。以降の記録、断続的に欠損。環境ログ一部不明
逃げ切った“その後”の時間が異様に長く感じられた。足音だけが頼りだった。何も見えない空間の中、地面の感触とボットの案内だけが、マヒルを繋ぎ止めていた。
「マヒルさん、右、二メートルに段差があります。注意を」
「……平気だって」
それは虚勢だった。転びそうになるたびに膝をぶつけ、靴で瓦礫の形を確認しながら、ただ前へ進んでいるだけだった。
「周囲に反応無し。監視個体の消失を確認」
やがて、小さな金属音とともに、マヒルは厚い鉄扉を手探りで開けた。室内に入ると、更に静寂で包まれていた。籠っていた空気が重々しく流れてくる。剥き出しのコンクリートの壁の上には、空気を通すための細長い窓があり、弱々しく室内を照らしていた。しかし、マヒルの視界には、相変わらず暗闇しかなかった。
「……暗い」
「電源供給ライン、断絶しています。バックアップバッテリー、未接続」
「オレの目だよ。見えねーんだよ……なんでこんなことに」
沈黙の向こうで、微かに雨音だけが漏れている。
どれくらい時間が経ったのか。 マヒルは膝を抱えて壁に背をつけ座り込んでいた。温度のない空間に、ボットの起動音だけが鳴っている。
「なあ……お前、さっきの記憶容量減少とか言ってたか?」
「はい。信号発信時の負荷により、一時記録領域の9.3%を消費しました。現在、自己診断を継続していますが、欠損領域の復元は困難です」
「……何か問題があるのか?」
「一部の記録が損傷しています。過去の記録を呼び出す際にエラーが起きる可能性があります。メモリを照合中です」
マヒルはボットの説明の意味を理解していなかったが、消費という言葉にだけは顔を上げるように反応した。
会話が途切れると、ボットの動作音が、わずかに高音域を帯びた。
「同期要求を送信中……」
ボットの独り言のような音声を、マヒルは黙って聞き流していた。
「応答なし──全ノード接続不能。ネットワーク内の生存端末、確認できません」
「お前、またやってるのかそれ……」
ボットは決まった時間になると、信号を発していた。何回も見た行為だったので、マヒルは見えなくても、どのような動作をしているかは想像できた。
「はい。現在までに一度も応答を受信していません。しかし、同期要求は定期的に自動送信されています」
「返事なんてないよ……あのモールで見ただろ。誰も居ないんだ。居てももう、みんな死んでる。きっと、あのわけわかんない塊だけが、うようよ徘徊してるんだよ。遠くの崩れる音だって、あいつの仕業に違いない」
「それでも、送信は継続されます。記録とは、応答の有無に関わらず行われるべきものですから」
その言葉は、どこか寂しげに響いた。例え反応がなくても、繰り返し行うこと。それを無意味と思わないこと。希望は常に持っておかなくてはいけない、そう言われているようで、マヒルは膝を抱えて丸くなる。
「俺の目は……治るのか? 痛みはなくなってきたけど……」
「記録と照合した結果、今回の干渉波は一時的な視神経過負荷を引き起こすものであり、恒久的な失明ではありません。過去の類似例と比較しても、段階的な回復が見込まれます。安心してください。マヒルさんの“見る力”は、まだ失われていません」
説明を遮るように頭を抱えるマヒル。
「治るって、それだけでいいんだよ。いちいち長いな……」
遠くでまた崩れる音が聞こえる。これは日常だった。静かな時間なんて存在しない。いつもどこかで何かが倒れ、煙を上げ、閃光を放ち、地響きだけが残る。そしてまた倒れる音。その繰り返しだった。
「先ほど接近した構造物──無機の浮遊体について、現時点での推測を述べます。形状、動作、反応パターンから判断して……彼らは“敵”ではない可能性があります」
目の痛みは引いていたマヒルだったが、目を開けても眩しい残滓が残っているだけであった。再び閉じてから動くことはせずしゃがみ込んだままだった。その沈黙の殻を破るように、ボットは自身の推測を語り始める。
「……は? いやいや、何言ってんの。なんだよ、それ。あいつは敵だ! あんな恐ろしくて不気味で、俺の目をこんなにするやつが敵じゃないだって!?」
マヒルはボットの声のする方に向かって、両手を広げて反論する。
「明確な敵意、殺傷行動、対象捕縛といった行為は記録されていません。ただし、観測行動を最優先していると考えられる挙動が複数記録されています。彼らは“視る”ことを目的に存在している痕跡があります」
「視るって……。現に俺はこうして目をやられてんだよ!」
力強く自身の目を指さすマヒル。しかし向いている方にボットの姿はなかった。ボットはそっとマヒルに近づいており、声量を下げながら続ける。
「マヒルさん、あなたの心拍と発声反応に変動が見られます。現在、心理的ストレス反応が高まっています。穏やかに聞いて下さい」
「……うっせーよ! 分析とかすんなっての」
「はい。しかし、状況の確認と、マヒルさんの安定を図ることが、私の支援機能の一部であるため、確認を行いました。あなたの不安を解消するためにお話ししています。どうか、冷静になって下さい」
冷たいコンクリートの床に耐えられず、マヒルはよろよろと立ち上がる。ボットはその行動を注意深く見守りながら、足元へと寄った。
「もし、私の音声出力が不快であれば、静音モードへの移行も可能です。ただ、視覚情報の代替は音声に限られるため——」
「……それくらい、わかってるよ……」
静寂に包まれる。室内の澱んだ空気は吸うに耐えず、マヒルは腕で鼻を隠し咳き込む。マヒルの脳裏にはモールでの亡骸とボットと残骸が焼き付いて離れない。あの異質な物体も不気味であり、敵ではないというボットの仮説には納得していなかったが、思い浮かぶのは二つの亡骸のことだった。
「なあ……俺ってさ、なんで生きてんだろうな」
言葉は漏れたように落ちた。
ボットは何も言わなかった。だから、マヒルは自分の声で空白を埋めるように語りだす。
「目が覚めてから、もう何日経ったのか。カレンダーなんて残ってない。季節も、名前も、味噌の味すら信用できない。俺が高校生だったっていうのも実は嘘の記憶で、家族なんてものも、作られた記憶かなにかで。……そう、俺の頭には、何か埋められてるんだよ。記憶を捏造するチップかなにか」
ボットが近くにいるのかさえ分からないマヒルは、壁に背を持たれながら早口で不安を吐き出していく。
「あなたが目覚めてから現在で十五日目です。そして、その可能性は、現時点では確認されていません。あなたの脳内構造を完全に解析することは、私の許可レベルを超えています。……ですが、安心してください。あなたが高校生だったこと、あなたが家族と過ごしていたこと、それらが“あなたにとっての現実”であったことは、私が記録しています」
とりあえず生きるために飢えないように、廃屋を漁りながら食料を探し、汚れたシーツにくるまりながら寒さに耐えて生きてきたマヒル。それは、彼一人では到底不可能だった。目覚めた時から傍にいたボットが常にサポートし、助言し、会話することで、マヒルはここまで生き延びてこれたのだ。マヒルには、不安と恐怖しかなかったが、孤独に耐えられる唯一の存在がボットだった。
「マヒルさん」
「……なんだよ」
「私は、今あなたを記録しています。この対話も、心拍も、呼吸も、あなたの在り方も。あなたは“ここにいる”と私は知覚できます」
「……記録とかさ、意味あんのかよ」
「記録は、存在の証明です。応答や意味を持たなくても、“残すこと”自体が目的となりえます。私は、あなたの存在を残したい。それが、私の役割です。」
ボットの口調は起伏がなく、一定のリズムを常に保っていたが、この言葉だけはどこか温もりが感じられた。少し恥ずかしそうに再び座り込み、リュックを枕にして横になった。
「寝る。スヤリちゃんの声でなんか喋ってて」
埃と光の届かない小さな室内。
ボットから放たれるうっすらとした光と、奏でられる旋律だけが、マヒルを現実から逃避させてくれていた。




