雪解けの約束
その日は、春の気配がほんの少しだけ街に混じっていた。
アスファルトの隙間から顔を出した水たまりが、午後の光を受けて揺れている。冬の終わり。私はコートのポケットに手を突っ込み、ゆっくりと駅へ向かって歩いていた。
「今日、会えないかな。」
そうメッセージを送ったのは昨日の夜だった。返信はなかった。
だけど私は、なぜか確信していた。彼は来る、と。
改札を抜けると、構内に漂うコーヒーの香りが鼻をかすめた。あの冬の日、彼と初めて会ったのもこの駅だった。雪が強くて、傘を忘れた私に彼が差し出したのは、使い古した灰色のマフラーだった。
「風邪ひくよ。貸す。」
そう言って笑った顔が、あまりに自然で、私は一瞬で恋に落ちた。
それから三年。私たちは季節ごとに会って、少しずつ距離を縮めていった。けれど、去年の春、彼は突然いなくなった。転勤先の連絡もくれず、SNSも消えて。残ったのは、あのマフラーだけ。
「また春に会おう。」
最後に言った言葉が、今も胸の奥で息をしている。
駅の時計が午後三時を指したとき、ホームに冷たい風が吹き抜けた。私はマフラーを首に巻き直す。少し毛羽立って、手触りが柔らかくなっていた。
そのとき、不意に背後から声がした。
「……それ、まだ持ってたんだ。」
振り向くと、そこに彼がいた。黒のコート、少し伸びた髪、変わらない優しい目。
心臓が跳ねる。何か言おうとしたけれど、声が出なかった。
「ずっと返そうと思ってたの。」
やっとのことで言葉を絞り出す。彼は笑って首を振った。
「返すつもりで渡したんじゃない。……似合ってたから。」
私は息を呑んだ。あの日と同じように、世界が少しだけ静かになった気がした。
「ごめん。突然いなくなって。」
彼の声は少し掠れていた。「母が倒れて、実家の方に戻ってた。気持ちの整理がつくまで、誰にも連絡できなかった。」
その言葉に、胸の奥の氷が少しずつ溶けていくのを感じた。
「……そうだったんだ。」
涙が出そうになる。だけど、泣くのは違う気がした。
「もう、大丈夫なの?」
「うん。母も元気になったし、今はまたこっちに配属された。」
「そっか。」
言葉はそれだけだったけれど、心の中では何百もの感情がぶつかり合っていた。
ホームのスピーカーから、電車の到着を告げるアナウンスが流れた。
彼が私の方に一歩近づく。
「また、春に会おうって言ったよね。」
「うん、覚えてる。」
「じゃあ——今年の春、もう一度やり直せる?」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……いいの? 私、あの時、何もできなかったのに。」
「だから、もう一度。今度は、ちゃんと隣にいたい。」
電車がホームに滑り込む音が響く。ドアが開く瞬間、彼は私の手をそっと握った。
冷たいはずの指先が、驚くほど温かい。
「ほら、乗ろう。行き先、同じでしょ?」
私は笑ってうなずいた。
車内の窓から見える街並みに、まだ少しだけ雪が残っている。
それでも、太陽の光がやわらかく差し込んで、雪を透かして輝かせていた。
彼が隣で、小さくつぶやく。
「冬、終わったね。」
「うん。でも、また始まる季節もある。」
彼の手を握り返す。心の奥に残っていた冷たい記憶が、静かに溶けていった。
窓の外で、雪が最後の光を放ちながら舞い落ちていく。
その光景を見つめながら、私は思った。
——この春が、きっと新しい約束の始まりになる。




