第82話 前進
月曜日の早朝、俺はいつもよりだいぶ早く、具体的には始発の電車に間に合うように家に出て、電車に揺られている。
もちろん、目的は及川さんだ。話によればこの電車に乗っているとのこと。他の乗車客は少ないので探せばすぐに見つかるだろう。そう思いながら各車両を巡っていると、見慣れた制服を見つけた。
及川さんはがらんとした電車の中、長座席の真ん中に座って窓の外を眺めている。話を聞く限りならもう1か月も同じ景色を見ているだろう。けれど、その表情は柔らかく優し気。綺麗なものに見とれたような横顔が斜光に照らされている。
及川さんの横顔を見ていると、いつももっと見たいと思ってしまう。その場に立ち尽くして、ずっと眺めていたいと。体は少し熱くなるし、鼓動は少し早くなる。見かけたら俺から挨拶するって決めてたはずなのに、車両に入ったところで立ち止まってる。
このままずっと見ていたい。声を掛けたら見ていられなくなるし、気づかれても駄目だ。でも声をかけるつもりで来た。どうしたらいいか分からないで動けずにいると、及川さんがゆっくりとこちらを見た。
「あら? 乙崎さん?」
小首をかしげると、黒髪がふわりと揺れる。鳥の羽のように軽そうな動き。その合間を縫う光が、床にまだら模様を作る。電車の走る音だけが響き続ける中、浮かび上がる姿はそのまま絵にしてしまいたいほど。
本当なら見惚れていたかったけど、声をかけられた。無視するわけにもいかないし、惜しい気持ちを押し込んで口を開く。
「お、おはよう及川さん。奇遇ですね」
「おはようございます。こんなところでお会いできるとは思っていませんでした。何か急ぎの用事ですか?」
「いやいや、そんなんじゃないです。たまたま目が覚めちゃって」
「そうでしたか。よろしければ、お隣どうぞ」
「ありがとうございます」
な、何とか自然に話せた。
お誘いに従って及川さんの隣。と言っても広々としているので、1人分の隙間を開けて座る。
それからすぐ、及川さんが少し腰を浮かして座りなおす。こちらに近づいてきたような気がするけど、気のせいだろうか。
「及川さんはいつもこの時間ですか?」
「はい。以前お話ししたように、街を歩いて回っています。今日からちょうどお店を見て回るところなんです。この時間ですから空いているお店は少ないかもしれませんが、何のお店かくらいはわかります」
「もうそんなに出来たんですか。今度、見せてくださいよ」
「もちろん構いませんよ」
及川さんはそういって笑う。とても楽しそうに、嬉しそうに。
俺がこの笑顔を引き出したんだって思うと、胸が熱くなった。これ、勘違いってやつだ。頭の中では違うって分かってる。でも思ってしまうんだ。
この人は俺のことが好きなんじゃないか、って。
いろんな妄想を仕掛けて、思いとどまる。虚しいとは言わないけど、妄想したって何が変わるわけじゃない。それに、せっかくなら実際に経験したい。もっといろんな及川さんを知りたい。
「あ、もうすぐ着きますね」
「え?」
しまった。及川さんに見とれていたせいであんまり話す時間を作れなかった。まあでも、話せただけでも成長か。さて、授業までの時間をどうつぶそうか。全く考えてなかった。
電車を降りてホームを抜ける。これから及川さんはお散歩。このまま何もなく別れるしかないのだろうか。せめて俺から、また、って切り出して――
「その、乙崎さん」
「え? は、はい! なんでしょうか……?」
考え事をしているところに声をかけられて、少し変な反応になってしまった。おかしく思われていないかと思いながら及川さんを見ると、目線は下を向いていた。よかった、見られていなかったらしい。
及川さんは少し考えるような間の後、ゆっくり顔を上げた。
「よろしければ、ご一緒していただけませんか?」
「……え?」
どうしよう。結局変顔を見せてしまったかもしれない。




