無能の重圧、有能の影
聖都防衛戦の勝利から数日。アークライトの街は、熱狂と興奮に包まれていた。英雄となった田中は、どこへ行っても人々の称賛と祈りの対象となった。
大聖堂には、田中の「聖衣」姿を描いた新しいタペストリーが飾られ、市場では、田中の横顔を彫った木彫りの小さな偶像が飛ぶように売れていた。それは、田中が会社員時代に夢見た「認められたい」「評価されたい」という欲求が、歪んだ形で、そして彼の想像を遥かに超える規模で実現した姿だった。
しかし、当の田中は、その熱狂の中心で、日に日に憔悴していった。
「タナカ様、またお食事が喉を通らないのですか?」
大聖堂の一室で、リリア姫が心配そうに声をかける。豪華な食事が並んだテーブルに、田中はほとんど手をつけていなかった。
「いえ…少し、食傷気味なだけです」
田中は力なく答えた。もちろん、食事に飽きたわけではない。人々の過剰な期待と信仰が、鉛のように彼の胃に溜まり、食欲を奪っていたのだ。歩けば道を空けられ、咳をすれば「勇者様がお風邪を召された!」と神官が飛んでくる。リリでさえ、どこか遠慮がちに接するようになっていた。
「タナカ、元気ないね」
隣に座っていたリリが、ぽつりと言った。彼女だけが、偶像としての「勇者様」ではなく、一人の人間としての「タナカ」の変調に気づいているようだった。
「…そう見えるか?」
「うん。なんか、ずっと遠くを見てるみたい。それに、前よりため息が増えた」
リリのストレートな指摘に、田中は苦笑するしかなかった。この少女の前では、取り繕うことも難しい。
その日の午後、田中は少しでも息抜きをしようと、城壁の外れにある小さな庭園を散策していた。もちろん、彼の護衛をしたいという騎士たちの申し出を、半ば強引に断ってのことだ。庭園は手入れが行き届いているものの、訪れる人も少なく、静かだった。
(俺は、ただの偶像だ…張りぼての英雄だ…)
いつ、このメッキが剥がれるか。いつ、人々の期待を裏切ることになるか。その恐怖が、常に彼の心にまとわりついていた。会社で、自分の能力以上の仕事を任され、失敗する恐怖に怯えながら徹夜で資料を作っていた頃の悪夢が蘇る。
そんな自己嫌悪に沈んでいた時、ふと、視界の隅に見慣れない人影が入った。
庭園の隅にある古い井戸のそばに、一人の男が立っていた。旅人のような服装だが、その佇まいはどこか異質だった。鋭い目つきで、大聖堂の構造や城壁の警備の配置を、まるで何かを値踏みするように観察している。
(なんだ、あの男は…)
田中が訝しんでいると、男は田中の視線に気づいたのか、こちらを一瞥した。目が合った瞬間、田中は背筋に冷たいものが走るのを感じた。男の瞳には、尊敬も信仰も、ましてや敵意すらなかった。そこにあるのは、無機質な好奇心と、品定めをするような冷徹な光だけだった。
男は、田中が「勇者タナカ」であることに気づいているようだったが、特に何の反応も示さなかった。ただ、フッと鼻で笑うと、興味を失ったように視線を外し、何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとした。その動きには一切の無駄がなく、明らかにただの旅人ではなかった。
(待て…あの男、何かおかしい…)
田中は、声をかけようか迷った。あの男は危険だ、と本能が警告している。ガレスに報告すべきか? しかし、何を根拠に? 「目つきがおかしかったから」? 「雰囲気が異質だったから」?
そんな曖昧な理由で報告すれば、また周りは「さすがは勇者様!我々が見抜けぬ邪気を感じ取られたのですね!」と大騒ぎを始めるに違いない。街中をひっくり返して、結局何も出てこなかったら? ただの勘違いだったら?
(考えすぎか…俺も、少し神経質になっているのかもしれない…)
会社で、些細な懸念点を指摘しては「君はいつもネガティブなことばかり言うな。もっと建設的な意見はないのかね」と上司に一蹴された経験が、彼の行動を躊躇させた。波風を立てたくない。面倒なことに関わりたくない。その長年染み付いたサラリーマン根性が、本能の警告を鈍らせた。
「…まあ、いいか」
田中は、小さくため息をつくと、男が見えなくなった方角から目をそらした。見過ごしてしまおう。きっと、気のせいだ。そう自分に言い聞かせ、重い足取りで大聖堂へと戻っていった。
その頃、街の雑踏に紛れた男――敵対国家「ヴァンス皇国」から潜入した密偵は、静かに口の端を吊り上げていた。
「なるほど…あれがエルドリアの『預言の勇者』か。確かに、我らが召喚した『異界の傭兵』どもと同じような服を着てはいるが…」
密偵の目は、冷徹に田中を分析していた。
「醸し出す雰囲気がまるで違う。覇気もなければ、威圧感もない。ただの人の良さそうなおっさんだ。あの軍団長ゴルゴスを退けたという報告も、眉唾ものだな。何か別の要因があったと考えるべきか…」
彼は、聖都で集めた情報を頭の中で整理する。人々が熱狂的に語る「勇者の奇跡」の数々。ビジネス用語を超解聞した軍略、偶然が重なっただけの戦闘。そのどれもが、彼らヴァンス皇国が持つ合理的で冷徹な価値観からすれば、滑稽な作り話にしか聞こえなかった。
「教会のプロパガンダと、民衆の集団ヒステリー…そして、いくつかの幸運が重なっただけ、か。大方、そんなところだろう」
密偵は、小さく息を吐いた。彼は、先ほどの庭園での出来事を思い返す。田中はこちらの存在に気づき、一瞬、警戒の色を見せた。しかし、結局何も行動を起こさなかった。
「危機察知能力は多少あるようだが、行動に移すだけの決断力がない。やはり、ただの小市民か。せいぜい、今のうちに英雄気取りを楽しんでおくことだ。お前のその『聖衣』が、いずれお前を縊り殺す死に装束になることも知らずに…」
密偵はそう呟くと、人混みの中に完全に姿を消した。彼の存在に気づき、そして見過ごしてしまった田中以外、誰もその危険な影を認識していなかった。
田中は、自室に戻っても、あの男の冷たい視線が頭から離れなかった。報告しなかったことへの、小さな罪悪感が胸の隅にチクリと刺さる。しかし、彼はその小さな棘を、日々の重圧と疲労の奥へと押し込めてしまった。