無能の偶像、有能の奇跡
「ホウ・レン・ソウ」という田中の苦し紛れの一言は、エルミナの超絶解釈によって「兵站と情報網の強化」という具体的な軍事行動へと変換された。後方部隊が食料や矢、そして回復薬を前線へと運び、負傷兵の救護体制も強化されたことで、崩壊寸前だったエルドリア軍の戦線は、奇跡的に持ち直した。
しかし、それはあくまで一時しのぎに過ぎなかった。魔王軍の物量は、依然としてエルドリア軍を圧倒している。日が傾き始め、兵士たちの疲労が色濃くなってきた頃、ついに魔王軍本隊が動き出した。
「報告! 敵後方より、巨大な影! おそらく、軍団長クラスの大型魔物です!」
遠見の魔法の水晶に、巨大なサイクロプスのような姿が映し出された。その手には、大木をそのまま引き抜いたような巨大な棍棒が握られている。
「軍団長『隻眼のゴルゴス』…!奴が出てきたか…!」
ガレスが苦々しく呟く。その巨体から繰り出される一撃は、城壁すら砕くと言われている。嘆きの谷の防衛線など、ひとたまりもないだろう。
「もはや、これまでか…」
作戦室にいる誰もが、敗北を覚悟した。その絶望的な空気の中、アルバス枢機卿が静かに立ち上がり、田中の前に進み出た。
「勇者タナカ様」
枢機卿は、恭しく一つの包みを田中に差し出した。
「これを、お召しください」
包みを解くと、中から出てきたのは、田中の元の世界のスーツによく似た、しかし遥かに上質で、ところどころに金の刺繍が施された豪奢な衣服だった。
「これは…?」
「聖画に描かれし、勇者様の『聖衣』の写しでございます。この聖都の職人たちが、預言の日を信じ、代々技術を受け継ぎながら作り上げてきたものでございます」
枢機卿は、有無を言わさぬ口調で続けた。
「勇者様。今こそ、預言の姿を民に示す時。貴方様がこの聖衣をまとい、民の前に立つことで、我々の祈りは一つとなり、光の神の奇跡を呼び起こすでしょう」
(まさか… 俺に、あの絵の偶像になれってことか!)
田中は、その重圧に押しつぶされそうになった。しかし、作戦室にいる全員の、懇願するような、最後の希望を託すような視線に、彼は「嫌だ」とは言えなかった。会社で、誰もやりたがらない厄介な仕事を「君しかいないんだ」と押し付けられた時と、状況はよく似ていた。
半ば無理やり聖衣に着替えさせられた田中は、枢機卿に導かれるまま、大聖堂のバルコニーへと連れて行かれた。眼下には、聖都の広場を埋め尽くす、おびただしい数の民衆がいた。彼らは、戦況が絶望的であることを知り、最後の望みを託してここに集まっていたのだ。
「皆の者! 聞きなさい!」
枢機卿が魔法で増幅された声で叫ぶ。
「我らが預言は、今こそ成就せり! 見よ! あれぞ、我らを救うために異界より降臨なされた、勇者タナカ様のお姿である!」
枢機卿が指差した先、バルコニーに立つ田中の姿に、民衆からどよめきが起こった。金の刺繍が施されたスーツ(聖衣)は、夕陽を浴びてキラキラと輝き、まるで後光が差しているかのようだ。その姿は、彼らが幼い頃から教会で見てきた、聖画の勇者そのものだった。
「おお…勇者様…!」
「預言は、真であったのだ…!」
民衆は、次々とその場にひざまずき、祈りを捧げ始めた。広場全体が、巨大な信仰心という名のエネルギーの渦に飲み込まれていく。その狂信的な雰囲気に、田中は恐怖と、奇妙な高揚感を同時に感じていた。
「勇者様! どうか、我らに奇跡を!」
枢機卿が、田中の背中をそっと押した。田中は、無意識に一歩前に出る。何をすればいいのか分からない。ただ、この場を収めるために、何かをしなければならない。
田中は、会社で重要なプレゼンの冒頭、緊張をほぐすためにいつもやっていた、深呼吸をして腕を軽く広げる、という動作を、ほとんど無意識に行った。
その瞬間だった。
民衆の祈りが最高潮に達し、大聖堂の尖塔に備え付けられた巨大な魔晶石が、眩いばかりの光を放った! 光は、天高く伸び上がり、戦場となっている「嘆きの谷」の上空で巨大な光のドームを形成した。
「な、なんだ、あの光は!?」
戦場で、巨大な棍棒を振りかぶろうとしていた軍団長ゴルゴスは、突如として空に現れた巨大な光のドームに驚き、動きを止めた。その巨大な一つ目は、光の中心――聖都アークライトの方向を睨みつけた。
遠見の魔法を通して、ゴルゴスは見た。聖都のバルコニーに立つ、一体の人影を。
金の刺繍が施された、奇妙な黒い衣服。
その姿を見た瞬間、ゴルゴスの巨大な一つ目が見開かれ、恐怖に歪んだ。
(あ、あの姿は…! 間違いない…! かつて、我らが魔王様を屈服させ、魔族を弄んだ、あの『悪魔』どもと、同じ姿…!)
ゴルゴスは、スーツ姿の人間によって仲間たちが一方的に蹂躙された、忌まわしい記憶がフラッシュバックした。トラウマが、彼の巨大な体を支配する。
「ヒィィィィッ! で、出たぁぁぁ! 『背広の悪魔』だぁぁぁ!」
巨大な軍団長は、赤子のような悲鳴を上げると、持っていた棍棒を放り出し、味方の軍勢を踏み潰しながら、一目散に逃走を始めた。
その異様な光景に、魔王軍の兵士たちは完全に混乱した。指揮官である軍団長が錯乱して逃げ出したのだ。統制は完全に失われ、彼らもまた、我先にと逃げ惑い始めた。
「今だ! 敵は混乱している! 一気に押し返すぞ!!」
ガレスの号令が響き渡る。士気を取り戻したエルドリア軍は、総反撃に転じた。戦いの趨勢は、この一瞬で、完全に決した。
聖都のバルコニーでは、何が起こったのか分からず、呆然と立ち尽くす田中がいた。民衆は、眼前の奇跡に熱狂し、「勇者様万歳!」「光の神よ!」と叫び続けている。
「見ましたか、勇者様! 貴方様の御力と、我々の祈りが、奇跡を呼び起こしたのです!」
枢機卿が、感極まった様子で田中の手を握る。
「貴方様こそが、預言を成就させた、まことの救国の英雄でございます!」
英雄。その言葉の響きに、田中はめまいがした。
俺は、ただ深呼吸をして腕を広げただけだ。
それなのに、敵の軍団長はなぜか錯乱し、軍は崩壊した。
(俺が…奇跡を起こした…?)
自分の意思とは全く関係なく、ただそこに立ち、それらしい格好をしただけで、世界が動いていく。その事実に、田中はもはや、現実感を失いかけていた。
彼は、自分が「勇者」という巨大な偶像になってしまったことを、はっきりと自覚した。そして、その偶像は、もはや彼一人の手には負えないほどに、巨大で、そして輝きを増していた。
その夜、聖都アークライトは勝利の祝賀に沸いた。人々は田中の名を讃え、彼の「聖衣」姿を模した旗を掲げた。田中は、その狂騒の中心で、ただ無表情に、人々の熱狂を眺めていることしかできなかった。