無能の軍議、有能の暗号
聖都アークライトに滞在して数日。街は、勇者タナカの存在によって一時的な安堵に包まれていたが、その平穏は長くは続かなかった。
「緊急報告! 東の街道沿いにある監視塔より狼煙! 大規模な魔物の軍勢が、聖都に向かって進行中とのこと!」
伝令兵の切迫した声が、大聖堂の作戦会議室に響き渡った。集まっていたのは、田中、アルバス枢機卿、ガレス、エルミナ、そして騎士団の幹部たち。リリは、田中の強い言いつけで、大聖ードの奥にある安全な部屋で待機している。
「ついに来たか…」
ガレスが苦々しげに呟く。枢機卿は静かに目を閉じ、祈りを捧げている。会議室の空気は、一瞬にして鉛のように重くなった。
「敵の規模は?」
ガレスが問うと、伝令兵は震える声で答えた。
「オーク、ゴブリン、リザードマンの混成部隊…その数、およそ三千!」
「三千だと!?」
騎士たちがどよめく。聖都を守る兵力は、騎士団と神殿騎士を合わせても千に満たない。まともにぶつかれば、勝ち目はない。
すべての視線が、静かに座っている田中に注がれた。その視線は、期待と、わずかな不安が混じり合ったものだった。彼らは、預言の勇者が、この絶望的な状況を打破する奇跡の策を示してくれることを信じていた。
(いやいやいや、無理だって! 三千ってなんだよ、こっちの三倍じゃないか!)
田中は内心で悲鳴を上げていた。胃がキリキリと痛み、冷や汗が背中を伝う。会社で、到底不可能な納期と予算でプロジェクトを丸投げされた時の、あの絶望的な感覚が蘇る。
(どうする…どうすればいいんだ…何か言わないと、この空気をどうにかしないと…)
田中は必死で頭を回転させた。しかし、軍事的な知識など皆無だ。思いつくのは、会社で散々やらされた、中身のない会議を乗り切るためのビジネス用語だけだった。
「…まずは、落ち着いて現状を把握しましょう。敵の進軍ルートと速度、我々の戦力配置…現状の『ボトルネック』はどこにあるのか、明確にする必要があります」
田中が、さも深遠な考察をしているかのように、ゆっくりと口を開いた。ボトルネック。会社でプロジェクトが遅延した時に、原因究明の会議で必ず出てきた言葉だ。
その瞬間、ガレスが「はっ」と目を見開いた。
「『ボトルネック』…!なんと!勇者様は、敵の進軍経路の中で、最も隘路となっている場所、つまり、敵の力が最も発揮されにくい地点を突けと、そうおっしゃられているのか!」
(え? あ、いや、そういう意味じゃなくて、問題点というか、一番の課題はどこかっていう…)
田中が訂正しようとする前に、騎士団の幹部の一人が地図を指差した。
「ガレス様! それならば、東の街道が『嘆きの谷』を抜ける地点がそれに当たります!あそこならば、大軍も横に広がれず、我々の少数でも対抗できるやもしれません!」
「うむ!勇者様のご慧眼、恐れ入る!そこが我々の防衛線だ!」
ガレスたちは、勝手に盛り上がっている。田中は、話がとんでもない方向に進んでいるのを感じながらも、口を挟むタイミングを完全に失っていた。
「そして…作戦を実行するにあたり、各部隊との『コンセンサス』が重要になります。情報の共有を密にし、認識の齟齬がないように。これは『PDCAサイクル』を意識して、常に計画、実行、評価、改善を繰り返していく必要があります」
コンセンサス。PDCA。会社で、形骸化した会議の度に聞かされた、耳にタコの出来た言葉だ。田中にとっては、中身のない会議をそれっぽく見せるための呪文でしかなかった。
しかし、エルミナは感銘を受けたように、深く頷いた。
「『コンセンサス』…『PDCA』…!なんと不可思議な響き…しかし、その音の連なりから、我々の取るべき行動の本質が示されているようです!『コンセンサス』とは、全部隊の意志統一と連携の重要性!そして『PDCA』…これは、P(Plan/計画)、D(Do/実行)、C(Check/確認)、A(Act/改善)という、戦術運用の循環を示唆する、高度な軍略の暗号に違いありません!」
エルミナの解説に、騎士たちは「おお…!」と感嘆の声を上げる。
(暗号!? いや、ただのアルファベットの頭文字なんだけど…!ていうか、何でこの人、初見で意味まで当ててるんだ!?)
田中は、エルミナの異常なまでの解読能力に、もはや恐怖すら感じていた。
「素晴らしい!勇者様は、我々に具体的な戦術の指針までお示しくださった!よし、皆の者、作戦は決まった!嘆きの谷に防衛線を張り、勇者様がお示しくださった『PDCA』の軍略に基づき、敵を迎え撃つ!全部隊に通達せよ!」
「「「はっ!!」」」
騎士たちは、勇者から授けられた(と彼らが思い込んでいる)奇跡の策に士気を高め、足早に会議室を出ていく。後に残されたのは、呆然とする田中と、満足げに頷くアルバス枢機卿だけだった。
「勇者様。貴方様の『異界の知恵』、まさに預言の通りでございますな。我々には計り知れぬそのお言葉が、兵たちにこれほどの希望を与えるとは…」
枢機卿の言葉は、もはや田中の耳には入っていなかった。
(どうしよう…俺のテキトーな発言で、本当に戦争が始まっちまう…もし失敗したら…もし、みんな死んだら…)
それは、会社のミスで数百万の損失を出した時とは比べ物にならない、本物の「責任」の重さだった。田中は、ただ震える膝を必死で抑えることしかできなかった。
数時間後、聖都の城壁の上から、田中は出陣していく騎士団を見送っていた。ガレスは、田中に向かって力強く敬礼し、「勇者様のご期待に、必ずや応えてみせます!」と叫んだ。その純粋な信頼が、田中の胸を締め付ける。
隣には、リリが心配そうに立っていた。
「タナカ…顔色が悪いよ。大丈夫?」
「ああ…大丈夫だ」
田中は、力なく笑った。リリは、田中の袖をそっと握りしめた。その小さな温もりが、唯一の救いだった。
戦いは、翌日の昼過ぎに始まった。「嘆きの谷」に布陣したエルドリア軍と、魔王軍の先鋒が激突したのだ。遠見の魔法で映し出された戦況を、田中たちは大聖堂の作戦室で固唾をのんで見守っていた。
ガレスの指揮は見事だった。隘路という地形を最大限に活かし、騎士たちは次々と押し寄せる魔物を食い止めている。エルミナの解説した「PDCAサイクル」に基づき、部隊は定期的に後方と交代し、負傷者を下げ、常に前線の戦力を維持していた。
「すごい…ガレスさん、本当に俺の言った通りに…」
田中は、自分の口から出たビジネス用語が、本物の軍略として機能している光景に、信じられない思いでいた。
しかし、敵の数は圧倒的だ。徐々にエルドリア軍の陣形は崩され始め、負傷者が増えていく。
「まずい…このままでは、突破されるのも時間の問題だ…」
作戦室に、再び絶望的な空気が漂い始めた。
「勇者様…何か…何か次の一手を…!」
騎士の一人が、懇願するように田中に助けを求めた。
(次の一手なんて、あるわけないだろ…!)
田中はパニックになった。もう、知っているビジネス用語は使い果たしてしまった。頭の中は真っ白だ。
「え、ええと…その…『ホウ・レン・ソウ』が大事だ…報告・連絡・相談を、もっと密に…」
それは、新入社員研修で最初に叩き込まれる、社会人の基本中の基本だった。もはや、軍略でも何でもない。
しかし、その言葉を聞いたエルミナは、再び「はっ」と目を見開いた。
「『ホウ・レン・ソウ』…!なんと!それは、我らが食する『ほうれん草』のこと!勇者様は、食料…つまり『兵站』の重要性を示唆しておられるのです!そして、報告・連絡・相談…それは、前線と後方、そして各部隊間の情報伝達網を再確認し、強化せよとのお言葉!」
(そう来たか…! もう何でもありだな、この解釈…!)
エルミナの言葉に、後方に控えていた部隊の指揮官が叫んだ。
「そうだ!前線の兵たちは、もう半日以上戦い続けている!食料も水も尽きかけているはずだ!今こそ、我々が支援物資を届ける時!」
「伝令兵を増やすんだ!負傷者の情報を正確に把握し、救護班を効率的に動かせ!」
後方部隊が、田中の言葉(とエルミナの超解釈)によって、活気を取り戻していく。
田中は、目の前で起こっていることが、もはや現実とは思えなかった。自分の無責任な発言が、人々の命を左右している。偶然が偶然を呼び、勘違いが勘違いを重ねて、戦況が動いていく。
それは、まるで悪夢のようであり、同時に、奇妙な全能感をもたらす、甘美な劇薬でもあった。